| 【幕府山事件】捕虜数の推移 総目次 |
| 1. はじめに 2. 検証のポイント 3. 先行研究の紹介 4.Ⓐ投降者捕獲数 5.Ⓑ非戦闘員の解放 6.Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡 7.Ⓓ捕虜殺害数 8. まとめ 9.参考資料 |
Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡
12月13日~15日にかけて幕府山で大量の投降兵を捕獲した山田支隊は、上元門付近の建物に捕虜を収容し監視にあたったが、12月16日の正午すぎ、捕虜収容所で火災が発生しその対応に追われる。『郷土部隊戦記』では、この火災は捕虜による計画的な放火であり、火災の混乱にともない半数の捕虜が逃亡したという。
『郷土部隊戦記』p.111
ところがその夜(K-K註:12月15日)九時すぎ、捕虜たちが夕食の炊事中に火事を起こし、混乱に乗じて約半数が逃亡してしまった。捕虜の警戒には田山第一大隊から出た四、五人の兵がその周囲を監視していただけなので、直ちに連隊から一箇中隊が出動して制止したが、多勢に無勢、逃亡は彼らの思うままだった。火事そのものが逃亡するための彼らの計画的放火に違いなかったのである。だが連隊幹部は今後の捕虜の給養などを考えて内心「少なくなってホッとした」と思ったことは事実であり、連隊長は上司にも報告しなかったし、捕虜に対して火事の責任も追及しなかった。
同じ場面について両角業作大佐の手記は次のように書かれている。
両角業作大佐 歩兵第65連隊 連隊長
『南京戦史資料集2』p.339-341
(手記)
当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。
両者の違いとしては、火災発生の日時を『郷土部隊戦記』は12月15日夜に発生したとするが、両角手記では発生日時の記述はない。ただし、両角手記では「暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので」と書いていることから、火災発生時刻が夜だったことが分かる。なお実際の火災発生時刻が12月16日正午すぎだったことは、当時の日記によって明らかになっている(宮本日記、遠藤(高)日記等)。
それ以外だと、「炊事中の火災」、「警戒兵(4-5人、5-6人)」、「連隊から1中隊を派遣して消火」、「計画的な放火」、「少なくなってホッとした」(少なくなったことを却って幸いぐらいに思って)など類似の内容となっている。
収容所の火災については多くの資料で言及されるものの、その際に捕虜の逃亡があり捕虜数が半減したとする資料は少ない。本項では、この逃亡による捕虜数が半減したという見解について検証する。
関連資料
収容所火災に関連する資料は下記の通りとなる。便宜上、収容所火災による捕虜逃亡に言及した資料と、捕虜逃亡に言及していない資料と分けて紹介する。
収容所火災による捕虜逃亡に言及した資料
平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊長
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199
大量の捕虜を収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません。
『南京事件の総括』(1987年)pp.187-189
③二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホットした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。
角田栄一中尉 歩65第5中隊
『南京の氷雨』(1989年) p.85-87
火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。
関係者 歩65第12中隊
『ふくしま 戦争と人間』p.122
警戒もそれほど厳重にしていなかったのが仇になり、いっぺんに二むねが全焼し、半分ほどの兵隊に逃亡されてしまった。けれど私たちは、本音をいえば”これで安心”と思ったのです
収容所火災による捕虜逃亡に言及してない資料
菅野嘉雄一等兵 歩65連隊砲中隊
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309
(12月16日付日記)
正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す
佐藤一郎一等兵 歩65
『南京の氷雨』p.22-26,114
(12月16日付日記)
昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。
荒海清衛上等兵 第1大隊本部
(12月16日付日記)
今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
『南京戦史資料集2』p.345
[手記]
十二月十六日捕虜の宿舎が焼けて大騒ぎした。
『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 p.26-43
宮本省吾少尉 歩65第4中隊
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134
(12月16日付日記)
しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す
遠藤高明少尉 歩65第8中隊
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220
(12月16日付日記)
午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す
近藤栄四郎伍長 山砲兵19連隊第8中隊
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.325-326
(12月16日付日記)
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く
E氏 山砲兵第19連隊
『実録・日中戦争の断面』(私家版)(『南京大虐殺の研究』p.140-114より)
(手記)
兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。
研究者の見解
研究者の見解を紹介する。なお、『郷土部隊戦記』の記述は上掲の通りである。
『戦史叢書』
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』(1975年)p.437
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。
『南京戦史 増補改訂版』
『南京戦史 増補改訂版』(1993年)p.324-325
十二月十四日、山田支隊(長山田栴二歩兵第百三旅団長、歩兵第六十五聯隊基幹)は幕府山砲台付近で約一万四千人の投降集団を収容した。…
旧説(略)は「一日・一カ所」説で、このうち非戦闘員約六千を釈放、残りの約八千を捕虜としたが、十五日夜収容所の火災にまぎれて約半数が逃亡したため約四千が残った。…
小野賢二氏
小野賢二「第13師団山田支隊の南京大虐殺」(『南京事件を同みるか』藤原彰編 青木書店 1998年)pp.51-53
①(K-K註:菅野嘉雄日記、遠藤高明日記に基づき、収容所火災の日時は14日夜ではなく16日昼食頃だったとして)だが、捕虜が収容所から逃亡したという記述は他の陣中日記を読んでも出てこない。
②しかも、捕虜収容所前に整然と坐り込んだ捕虜の一部が写し出された写真が三枚ほど残されている。この捕虜は火災で焼け出された棟の捕虜である可能性が強い。撮影された時間帯も、日本兵の影のかたむきで昼以降ではないかと現地調査で判明した。一六日の虐殺にはこれらの写真に写し出された捕虜の人々が連行された可能性が強い。
このような状況なら”自衛発砲説”のいう捕虜の逃亡はありえない。
③証言によれば捕虜収容所は厳重な警備体制がしかれていた。”自衛発砲説”では火事のとき銃撃したことになっているが、不思議なことに日本兵の死者、傷者の記録など出てこない。もちろん捕虜の逃亡者の記録もない。あえていうなら、厳重な警備体制だったがゆえに捕虜が逃亡を企てることはできず、厳重な警備体制だったがゆえに銃撃などできなかった。
※K-K註:①②③は引用者が付した
渡辺寛氏
p.86-88
[要約]
①両角手記において火災を放火と断定した根拠が示されていない。
②両角手記では炊事における火気管理は捕虜側に委ねていたとするが、その場合、失火の可能性は否定できないはず。その責任は捕虜側ではなく日本軍側にあった可能性もある。
③16日まで現場にいた新聞記者がこの火災について記事にしていない。
「 以上の点を踏えると、火災の規模は「大規模なものではなく、ごく一部の限られた数の捕虜が騒いだ程度のもの」だったか、大規模でもあっても捕虜の逃亡の意思は薄く単なる火災であったことになる。これが事実とすれば、「全体の半数もの大量の捕虜が逃亡したことと矛盾する。放火の可能性が薄らぎ、「残り半数」の四〇〇〇人もの大量の捕虜の逃亡がなかったとすれば、『ふくしま』(K-K註:『ふくしま 戦争と人間』)のストーリーは出発点において成り立たなくなる。」p.218
渡辺寛『南京虐殺と日本軍』 明石書店 1997年
(K-K註:火災が昼食の炊事による失火の可能性があることを指摘した上で)ここまで考えれば『ふくしま』がこの火災を捕虜による放火と決めつけたことが間違いであることが分かるだろうし、その発生の時刻が夜であるとしていることも間違っていることがはっきりする。火災の発生が日中であれば、逃亡を目的としているとは考えられないからである。したがって、四〇〇〇人もの大量の捕虜が逃亡したことも間違っており、正史が事実を伝えていないことが分かる。
板倉由明氏
板倉由明「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」(『ゼンボウ 昭和60年4月号』全貌社 1985年4月 p.40)
十七日の『朝日新聞』によればその数一万四千七百七十七とあるが、戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』(朝雲新聞社)及び『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社)では非戦闘員を釈放して約八千、さらにその夜半数が逃亡したという。
東中野修道氏
東中野修道『再現・南京戦』2007年 pp.163-164
十二月十六日、やがて炊事が始まった午後十二時半ごろ、一棟から火が出た。煙はもうもうと上がり、大混乱となった。捕虜の計画的な放火だった。これを消火するため会津若松六十五連隊が走るなか、捕虜は次々と逃亡した。両角業作連隊長は「少なくとも四千人」が逃亡した見た。
秦郁彦氏
秦郁彦『南京事件 増補改訂版』 2007年 p.316
犠牲者数については、当初の一万四七七七人(魯甦証言の五万七四一八人に該当か)のうち民間人をすぐに釈放して半減、十六日の火事に紛れて逃亡する者もいたとされるが、十六日に残った捕虜(敗残兵が主体)の約三分の一、十七日に三分の二(合計して畦本は二千、板倉は四千、秦は八千人と推定)が殺害された。
研究者の見解をまとめると、収容所火災による捕虜逃亡を事実として認めるのは『郷土部隊戦記』、『戦史叢書』、『南京戦史』、板倉氏、東中野氏となり、事実として認めないのは小野氏と渡辺氏となる。
秦氏は捕虜のうち「逃亡する者もいたとされるが」と述べるが、その後の捕虜殺害総数を8000名と推定していることから、当初の捕虜数1万4777名から非戦闘員の解放による半減のみを認め、火災による捕虜逃亡は無かったか、あったとしても捕虜数に大きな影響を及ぼさない程度のものと判断しているようだ。
収容所火災による捕虜逃亡の検討
火災による捕虜逃亡を事実として認めている見解は、この問題に関して具体的な検討をした形跡は見られない。おそらくは史料批判をすることなく『郷土部隊戦記』や両角手記等に依拠したのだろう。
火災による捕虜逃亡を事実として認めない見解は、一般化された「事実と認める」という見解に反論する立場上、論拠の提示は必要となる。上掲の通り、小野氏、渡辺氏はその論拠を具体的に述べているが、秦氏の論旨・論拠は不明確である。
まずは、具体的な論拠が示されている小野氏、渡辺氏の見解を検討してみたい。
小野氏の見解について
収容所火災による捕虜逃亡に関する小野氏の見解には論点が3つある。そのうちの①「捕虜が収容所から逃亡したという記述は他の陣中日記を読んでも出てこない」には特に異論はない。残りの2つの論点について検討してみたい。
「整然と坐り込んだ捕虜」について
小野氏は所有している3枚の「捕虜収容所前に整然と坐り込んだ捕虜の一部が写し出された写真」に基づき、この写真に写されているのは「火災で焼け出された棟の捕虜である」とし、その写真に写っている捕虜の態様から「”自衛発砲説”のいう捕虜の逃亡はありえない」とする(②の主張)。
残念ながら筆者の調べた限りではこの3枚の写真がどの様なものか確認することは出来なかった。実際の写真を見ていないので断定は避けるが、仮に小野氏の描写するような写真だったとして、それが捕虜の逃亡を否定する根拠になり得るかは疑問がある。
一般的に言うならば、写真が写す場面は非常に断片的なものだ。仮に火災前と火災後で捕虜全体を比較できるような写真があれば、逃亡の有無を確認することは可能かもしれない。しかし「整然と坐り込んだ捕虜の一部が写し出された」というのであれば、数を比較するような描写でない以上、大規模な捕虜逃亡がなかった根拠にするのは難しいのではないだろうか。
また、仮に大規模な逃亡があったとしても、残った捕虜は最終的に「整然と」させてから殺害現場へ連行することになるわけだから、「整然と坐り込んだ」状況の写真では火災時の状況を把握するのは難しいと思われる。
日本軍の発砲の有無
③の論旨は、火災発生時に日本軍が捕虜に対して発砲して制止したという両角手記の趣旨に対する反論のように見える。つまり、厳重な警備体制が布かれていたことにより、捕虜は逃亡を企てることすら出来なかったこと、そして実際に日本軍側に死傷者が出てないこと、この2点を理由として発砲して制止するような事実はなかったいうことだろう。
捕虜収容所の警備体制について言及のある資料は少ない。警備体制が緩かった述べる史料は両角大佐、平林少尉、第12中隊関係者の3名である。これらはいずれも戦後の証言であり、全てが捕虜の大量逃亡の原因の一つとして述べられていることから(捕虜の大量逃亡という事実が無かったことは下記で論じる)、史料価値は低いと判断する。一方、第4中隊宮本少尉は日記で、12月14日「中隊にて八ケ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず」、12月16日「警戒の厳重は益々加はり」と記述し、一定の警備体制をとっていたことを記録している。
また、小野氏が指摘するように、日本軍側の死傷者が出たという資料は存在しない。
ただし、火災時の捕虜逃亡、日本軍の発砲による制止に関しては、当時、捕虜となっていた唐光譜が次のように述べている。
唐光譜「私が経験した日本軍の南京大虐殺」(帆刈浩之訳、『南京保衛戦』より)
『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.250-253
(抜粋)
五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。
唐光譜氏は、本多勝一「日中二人の生き証人」(『南京事件を考える』所収)の証言者・唐広普氏、阿部輝郎『南京の氷雨』で引用されている証言者・唐府普とおそらくは同一人物と思われる。
ここで言及している収容所への放火、逃亡に関しては前二つの証言では言及されていないため、証明力は若干低いと判断する。
その上で仮に唐光譜氏の証言が事実だとすると、ここで述べられている収容所での放火や逃亡企図、銃撃は事実だったことになる。
ただしこの唐証言にも気になる点がある。
日本側で記録されている収容所火災は正午すぎだったが、唐氏は火災を「その日の夜」としており発生時刻が異なっている。もしかすると、一般に言われる12月16日正午すぎの収容所火災とは別の火災が発生していた可能性はある。
また、唐氏が証言する内容と両角大佐の手記の内容が、火災の時刻、捕虜の逃亡企図、銃撃という点で一致している。仮に12月16日昼の火災とは別に唐氏が証言した火災があったとすると、両角大佐は、唐氏が述べている火災についての記憶があったのかも知れない。
いずれにせよ唐氏が述べた収容所からの逃走は「絶壁」に阻まれて失敗しているので、捕虜数が半減するような逃走ではなかったと見るべきだろう。
小野氏による見解③を検証してきたが、この小野氏の指摘では、自衛発砲説(=両角手記)における捕虜逃亡の企図がなかったことや、捕虜逃亡の際に発砲がなかったことを証明するというには難しいように思える。唐氏の証言を加味し、事実関係を精査する必要性を感じる。
小括
小野氏の収容所火災時の逃亡による捕虜数半減に関する見解を検証した。小野氏の見解の中で、火災を原因とする大規模な捕虜逃亡を示す史料は存在しないという見解に関しては、異論の無い事実である。一方、小野氏が所持しているという火災後の「整然と坐り込んだ」捕虜の写真をもって、「捕虜の逃亡はありえない」というのは、写真特有の証明力の問題から考えて難しいと感じた。また、捕虜逃亡の際に銃撃による日本軍の制止はなく、したがって捕虜の逃亡もあり得ないとする見解も、既存の史料(唐光譜証言)との整合性を図る必要があると思われる。
渡辺氏の見解について
渡辺氏の見解を要約すると、以下の通りとなる。
- 両角手記やそれに基づく『郷土部隊戦記』『ふくしま戦争と人間』では、火災の原因を放火だと断定的に述べられているが、その根拠は不十分な上、捕虜側もしくは日本軍側の失火である可能性がある(もしくは高い)
- 火災発生時刻が日中であることは、逃亡を目的とした放火とは考えられない。
- したがって、4000名に及ぶ捕虜逃亡の事実はなかった。
渡辺氏の主張は、両角手記等に見られる放火説に着目し、放火説を否定することに注力している。実際、当時の日記を見ても誰も放火とする者はおらず、両角大佐が何を根拠に放火説を述べたのか分からない。一方、歩65第1大隊本部 荒海清衛上等兵は、日記で「捕虜の廠舎失火す」と明記している。荒海上等兵が所属していた第1大隊は捕虜管理の主要な部隊であること、荒海上等兵は大隊本部勤務であり部隊の情報を得ることができる立場だったことを考えると、情報の信憑性は低くはないと思われる。ただし、これだけをもって放火ではなく失火だったと断定するのも、資料的には若干弱いと思われる。
放火か失火かの判断は留保するとして、火災発生時刻が日中であったことが、逃亡を目的とした放火ではない根拠と言えるだろうか。逃亡を計画するならば渡辺氏が述べる通り、夜間に実行するのが理屈としては妥当だとは言える。ただし、火災が突発的に発生した失火だった場合でも、その混乱に紛れて捕虜の逃亡があったとしても不思議ではない。火災発生時刻が日中だったことから放火ではなかった可能性はあるが、その事をもって捕虜逃亡の有無を判断することは根拠が薄いと思う。
以上、渡辺氏の見解を検討してみたが、仮に収容所火災が失火であったとしても、火災発生時に捕虜逃亡がなかったことの証明としては論理的に弱いように思える。
資料状況の検討
資料状況を見ると、火災による捕虜逃亡を述べる資料は、両角大佐の手記、平林少尉の証言、角田中尉の証言、第12中隊関係者の証言で、戦後の証言しか存在しない。一方、火災には言及しているものの捕虜逃亡に言及していない資料は7人の日記である。これは、前項で論じた非戦闘員の解放とよく似た状況となっている。
さらに、非戦闘員の解放と似ているのは、平林少尉の証言の変遷だ。
先に引用した通り、平林少尉は『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)では、火災が発生した時には「捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません」と述べている。
また、引用はしていないが『世界日報』(1984年)での証言では、投降兵の総数を「総数は一万五千人」、そのうち「非戦闘員約七千人は直ちに解放」し、最終的に捕虜としたのは「八千人」だとする。そして火災による捕虜逃亡に触れず、「十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった」と証言しており、捕虜連行の総数は8000名だったことになる。これは、非戦闘員の解放で捕虜数が8000名となって以降に捕虜数に変化が無かった、つまり火災による捕虜逃亡はなかったことを意味する。
上記二つの証言では、火災による捕虜逃亡は記憶になく、捕虜逃亡を認識していないと証言したにも関わらず、『南京事件の総括』(1987年)では「二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホッとした」と証言を翻しており、平林少尉の証言は信憑性に欠ける。
日記における捕虜殺害数の認識
投降兵を捕獲して捕虜収容所に収容し、その後に火災が発生し半数の捕虜が逃亡したならば、当初の投降者捕獲数とその後の捕虜殺害数(連行数)とに大きな差が出ていることになる。そこで、収容所火災に関して言及している日記から、当初の投降者捕獲数と最終的な捕虜殺害数に言及している部分を抽出する。
菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊 編成 一等兵
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309
(日記抜粋)
〔十二、〕十五
今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
〔十二、〕十六
夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
〔十二、〕十七
捕虜残部一万数千を銃殺に附す。
荒海清衛 歩兵第65連隊第1大隊 本部 上等兵
『南京戦史資料集Ⅱ』p.345
(日記抜粋)
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
◇十二月十六日
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
◇十二月十七日
俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。
宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134
(日記抜粋)
〔十二月〕十四日
夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、
〔十二月〕十六日
捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、
〔十二月〕十七日
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊 少尉 第3次補充
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.219-220
(日記抜粋)
十二月十六日 晴
午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
十二月十七日 晴
夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。
近藤栄四郎 山砲兵第19連隊第8中隊 伍長 編成
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.325-326
(日記抜粋)
〔十二月〕十四日
前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて三千名に達せん、
〔十二月〕十六日
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
以上の資料では投降兵の捕獲数を「三千名」~「約弐万」とし、捕虜殺害数を「一万数千」~「二万以上」と認識している。捕獲数のうち「三千名」(近藤日記)はおそらく自身の部隊が捕えた投降兵の数と思われるので除外するとして、それ以外では概ね捕獲した投降兵に近い人数の捕虜が殺害された認識していることが分かる。したがって、これらの日記の記述者は、火災発生時の逃亡による捕虜数の半減を認識していないと判断できる。
消火活動を行った者の認識
上掲の資料のうち、遠藤少尉と近藤伍長はいずれも消火活動に参加している。つまり、両者は火災発生の最中にその場にいたわけだから、この時に半数に及ぶ捕虜逃亡があったと認識すれば捕虜数の減少を殺害数に反映させたはずだろう。しかし、遠藤少尉は投降者捕獲数を「一万七千二十五名」、捕虜殺害数を「三分の一」「残余一万余」、近藤伍長は投降者捕獲数は「三千名」、殺害直前捕虜数を「二万」と日記に記しており、いずれも半数に及ぶような捕虜の減少については認識を示していない。
宮本省吾少尉の日記
非戦闘員解放の検証でも指摘した通り、歩65第4中隊の宮本省吾少尉は、投降兵の捕獲、武装解除、捕虜連行、収容、警備、管理という捕虜に関する一連の行動と密接に関わっていたが、収容所の火災から捕虜殺害に至る経緯にも深い関わりが見られる。
宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134
(日記抜粋)
〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。
宮本少尉の行動をまとめると、12月16日午前10時まで捕虜の警備を担当し、以降は第2中隊に警備を引き継いだ。その直後の午後0時すぎに火災が発生する。火災の間にどの様な行動をとったのか分からないが、午後3時に捕虜殺害が決定され、捕虜の連行および殺害の部隊行動に参加する。
以上のように、宮本少尉は収容所火災の直前まで捕虜の警備を担当し、火災時の消火活動をしたか分からないが、直後に捕虜の殺害にも参加している。火災の途中で捕虜逃亡を目撃したか否かの記述はないが、火災前後で捕虜数を確認できる立場にいたと言えるだろう。その宮本少尉が捕虜数の減少について言及がなく、投降兵捕獲数と捕虜殺害数が一致する数字を述べている以上、宮本少尉は火災時の捕虜逃亡は無かったと認識していることになる。
まとめ
収容所火災時の逃亡により捕虜数が半減したという見解について、関連資料と研究者の見解を紹介し、資料の検討してきた。
およそこの見解を事実と受けとめる研究者は、両角手記や『郷土部隊戦記』の記述を史料批判することなく受け入れているようだ。これに対し、この見解を事実として認めない研究者は、事実と認める研究を乗り越えるために一定の検証過程を示している。
実際に資料状況を検討すると、前項で検討した非戦闘員解放と資料状況が似ていることが分かる。つまり、火災による捕虜数半減に言及する資料は戦後の証言に限られる一方で、当時の日記にはその様な捕虜数の減少に関して言及が一つもない。しかも、捕虜逃亡を言及する4人の戦後証言の中の1人である平林少尉の証言は、内容が変遷しており信憑性に欠ける。
火災について言及している日記を検証すると、当初の投降兵捕獲数と最終的な捕虜殺害数をほぼ等しい人数と認識しており、火災時の逃亡により捕虜数が半減したとは認識していないことが分かった。
火災の消火活動に参加した遠藤少尉・近藤伍長は、その当時、捕虜逃亡の現場に最も近くに居たことになり、捕虜逃亡を実際に認識しえる立場にあったが、両者の認識している捕虜殺害数は投降者捕獲数と比較して減少を示しておらず、大規模な捕虜逃亡を認識していない。
宮本少尉は、火災の前後で捕虜に接していたが、その前後で捕虜数が半減するような変化があったことは認識していない。
以上の諸点から考えて、12月16日正午に捕虜収容所で火災発生したことは事実と認められるが、その際に捕虜が逃亡し総数が半減したという事実はなかったと考えられる。
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