【幕府山事件】船の用意[02]先行研究

【幕府山事件】船の用意 第13師団
【幕府山事件】船の用意
【幕府山事件】船の用意 総目次
1. はじめに
2. 先行研究
3. 資料
4. 実態の検証
5. 南京付近の船の存在
6. まとめ
7. 参考史料

先行研究

 これまでの研究で、船の準備に関してどの様に述べられてきたか紹介する。

『郷土部隊戦記 第1』福島民友新聞社

『郷土部隊戦記 第1』p.112
 十七日は晴れの入城式である。軍司令部と対立している山田旅団長の胸中を察した両角連隊長は、入城式に出発する前、ひそかに田山大隊長を招いて指示した。逃げ残った捕虜を全員、今夜暗やみに乗じて揚子江対岸に解放しろ、というもので、付近の村落から舟とこぎ手の徴集、警戒のために二箇大隊分の機関銃の配属を命じたのである。軍命令を蹴って連隊長の独断専行である。こうして山田旅団長、両角連隊長らは入城式に参加して夕刻帰営、両角連隊長は田山大隊長から、予定どおり江岸に捕虜の終結を終わった旨の報告を受けた。
 しかし思わぬ事態が発生した。夜十二時ころ、十数隻の小舟にのって一回目に渡河した二、三百人が中流までいったところ、対岸の中国軍が日本軍の渡河と見誤ってにわかに発砲してきたのだ。

 『郷土部隊戦記』は最初に自衛発砲説を唱えたが、その内容は概ね両角業作大佐(歩兵第65連隊長)の戦後の手記と一致する。ここに引用した文章もまた、両角手記とほぼ一致する内容と言っていいだろう。
 ただし、船の用意という観点で見ると、若干異なる部分が見られる。本記事では捕虜を渡河させるのに使用した船を「十数隻」とするが、両角手記では「数隻」もしくは単に「軽舟艇」としている(後掲)。発表されている資料を全て見渡しても、この時、捕虜の渡航に使用した船の数を「十数隻」としたものはなく、最も多い隻数で箭内准尉証言の「十隻前後」である。「十数隻」とした根拠は分からない。

渡辺寛『南京虐殺と日本軍』

 渡辺氏は、捕虜を渡航させる船に関して多くの紙数を割い考察をしており、いずれも興味深い記述が多い。

『南京虐殺と日本軍』pp.90-91
(K-K註:『ふくしま 戦争と人間』の記述の批判として)
 八、この捕虜解放と関連して連隊長は田山大隊長に揚子江を解放場所として指定し対岸に渡すための船と中国人のこぎ手を集めるように指示している。連隊長は指示通りに船やこぎ手を直ぐに集められると考えたのだろうか。日本軍が上海から南京に向かって攻撃進路をとれば、烏龍山や幕府山の近辺が進撃路の一つになることは地図を見れば誰にも分かることであり、隣接する揚子江を日本の海軍が遡ってくることを住民が知らぬはずはない。まして烏龍山にしても幕府山にしても砲台があるのだから、日本軍の攻撃対象になることぐらい簡単に想像がつく。まして後出の山田日記の一二月一三日の条に周囲の家は焼かれていたとあり、一四日の条には「近郊の文化住宅、村落等敵のため焼かれたり」とあるところを見ると中国軍が清野作戦で退却中に放火したのかもしれない。それらを考えると住民が戦火から避難し疎開するのは当然であろう。また揚子江には実際日本海軍が掃海しており、船もこぎ手も簡単に集められるとは考えられない。
 事実海軍は敗走兵が船を使って揚子江を逃げるのを防ぐためにこの辺一帯の箱舟やジャンクを取り除いているから、支隊が舟を徴発しようとしても既に江には舟はなかったはずである。まして大量の捕虜を搬送するに必要な大量の舟や大型の船などあるはずがなかった。この辺りは随分無理な説明のような気がする。

 両角大佐(歩65長)から田山少佐(第1大隊長)へ、船とその漕ぎ手を集めるよう命令を出したことに対し、渡辺氏は当時の状況から、船とその漕ぎ手の両者とも簡単に集めることは出来ないはずとして疑問を呈している。

 漕ぎ手を集めることが出来ない理由は、幕府山近辺は日本軍の侵攻ルートと想定され、幕府山周辺の家屋が焼かれていることから、住民が既に避難や疎開をしていたと主張する。
 確かに渡辺氏の言う通り、避難・疎開した住民が多く居たであろうことは想像できるが、一方で残留した住民も一定程度は居たのではないだろうか。実際、幕府山西麓の永清寺には6名程度は残っていたと記されており(鈕先銘『還俗記』)、民間人である史栄禄は笆斗山鎮で山田支隊に捕まり捕虜収容所へ収容されている。また作業員の徴集であれば宝塔橋街(和記公司付近)に難民避難所があり(土井申二中佐(比良艦長)証言(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』)、もしくは城内でも徴集は可能だったはずだ。漕ぎ手が調達できなかったというには、もう少し具体的根拠が必要ではないだろうか。

 船を集めることが難しかった理由は、日本海軍による掃海作業で船等が撤去されたことを挙げている。
 確かに海軍が長江を掃海したことは事実であり、『南京戦史』(p.259-)には海軍第十一戦隊の行動概要として、「同夜(K-K註:12月12日夜)午後十一時三十分頃、諸岡安一少佐指揮の工作隊が閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し箱舟やジャンクを取り除き、約三時間後に幅三百メートルの水路を開いた」(p.259)とある。しかし、これは日本軍の軍艦による南京侵攻を妨害するために船等を使って河を塞き止めていた物(閉塞線)を除去したという意味であり、沿岸にある「箱舟やジャンク」を撤去したという意味ではない。渡辺氏がどの様な根拠をもって「舟はなかった」と言っているのか不明瞭である。
 ただし渡辺氏の挙げた根拠とは違うものの、当時の長江南岸(南京側沿岸)に船等が少なかったと筆者も考えている。この点については後述したい。

『南京虐殺と日本軍』pp.99-101
 (K-K註:偕行社「証言による「南京戦史」」、『南京戦史』の記述に対する検証として)
 続いて捕虜の暴動の現場の成り行きについて次のような証言を引用している。
「問題の核心は、どのような状況で『撃て』と命令されたかであるが、平林貞治(連隊砲中隊小隊長)は次のように証言した(『世界日報』59・7・17)。”船が来ていない。ワァー”という声があがり、続いて”パンパン”という音がして捕虜の暴動が起きた。将校の一人が軍刀を奪われて斬りかかられた。これは大変だと発砲した」。(K-K註:「証言による「南京戦史」」(11)『偕行』1985年2月号 p.8)
 この説明は『ふくしま』が引用した連隊長の回想記や関係者の証言と基本的に変わらない。暴動が起きたタイミングとしては二者の中間とでもいえよう。つまり連隊長は第一陣の船が沖に出てから暴動が起きたといい、関係者の一人は中州に着く前に起きたと説明していた。その点この平林証言は捕虜が中州に到着し船のいないことがわかってから暴動が起きたと証言している。中州に到着する前かあ、到着してからか、到着してなお第一陣の船が沖に向かってこぎ出してからかの違いがあるが、基本的に大きなずれはない。
 しかし、この平林証言は両角連隊長の回想記の肝心なことを根底から否定している。つまり連隊長は船を用意しその第一陣が沖にこぎ出したと回想記に記している。これは指示を受けた田山大隊長が連隊長の指示通り船と中国人の漕ぎ手を集めていたことを意味する。集めていなければ第一陣であっても漕ぎ出せないからである。その点前の『ふくしま』の疑問点の第一一項で紹介した阿部氏の引いた田山大隊長の回想では七隻か八隻集めたことになっている。それに対して平林証言は暴動の原因が「船が来ていない」と捕虜が騒いだことがきっかけになっているというのである。
 阿部氏の引いた田山大隊長の回想が事実であれば、捕虜は七、八隻もある船を見なかったことになる。一、二隻でも確認しようとすれば確認できるのに七、八隻とはそれより大量の船である。それを見ないことがあろうか。平林氏は連隊長の回想記や田山元大隊長が阿部氏に語った回想を否定して船は用意されていなかったと捕虜の行動を通して証言したのである。連隊長は田山大隊長に捕虜の解放を命令した時、船とこぎ手の準備を合わせて指示している。もし船の準備ができていないとすれば、当然こぎ手も必要ないことになり、連隊長の指示は守られていないことを意味する。平林証言が正しければ支隊には捕虜を解放する意図がなかったことを意味する。連隊長の人道的処置はこの時点で崩れることになる。山田支隊が幕府山近辺で戦闘している時には船や漕ぎ手を集めるのは困難であると指摘したが、平林証言はそれを氷解させてくれることになる。
 『ふくしま』の疑問点の一つは氷解したとしても『偕行』の説明も旅団長、連隊長共に捕虜を中州へ解放しようとしていたことになっている点が逆に問題になる。つまり平林証言が事実であるとすれば、船を用意しないでどうやって捕虜を対岸に搬送するつもりだったのだろうか。新たな疑問が湧いてくる。元々対岸に捕虜を解放する計画などなかったからだと考えれば筋が通るのだが、この『偕行』の企画は何としても旅団長、連隊長共に捕虜を中州へ解放するつもりだとしたいらしい。それにしてもこの証言では明記されていないが、船を用意しないで中州に捕虜を解放することはできない。腑に落ちない処置である。それとも平林氏は虚偽の証言をしたのだろうか。それにしては、後出するが、山田支隊の将兵の中で七、八隻もの大量の搬送用の船が江に浮いていたとは誰も証言していない。阿部氏の引いた田山大隊長の回想談だけである。これらのことから平林証言のように船は江に浮かんでいなかったと考えざるをえない。

 渡辺氏の主張を要約するならば、平林貞治少尉(歩65連隊砲中隊小隊長)の証言と、両角大佐・田山少佐の証言との間にある矛盾だ。その矛盾とは、平林は江岸に船が来ていないと述べるが、両角・田山は船と漕ぎ手を準備し、船に捕虜を乗せて運搬した述べていることだ。
 渡辺氏はこの矛盾について、両角・田山は虚偽を述べており、平林証言は真実だと判断した。判断の根拠は以下の3点となる。

  • 両角・田山の「船や漕ぎ手を集め」たとする証言は当時の状況として「困難」であること
  • 連行先の江岸に「船が来ていない」と平林が証言していること
  • 山田支隊の中で両角・田山以外は「大量」の船が用意されていたと証言していないこと

 この渡辺氏の判断に対しては次の点で疑問に感じる。

  • 先述の説明の通り、「船や漕ぎ手を集めるのは困難である」とする渡辺氏の指摘は論拠に問題があること
  • 渡辺氏の挙げる論拠の中で平林証言を主要な論拠とするが、平林証言は全体として証言にブレが多く見られ信憑性に欠くこと
  • 後に出てくる栗原証言の「わずかな船」「二、三隻の船」によって、平林証言の「船が来ていない」は否定されること(渡辺氏自身も言及している)
  • 船の用意に関して言及があるのは、両角・田山以外では以下の資料がある。この中で箭内准尉の証言は「大量」の船に該当する。
    山田栴二少将(旅団長・支隊長)「数隻」、箭内享三郎准尉(歩65第1機関銃中隊)「十隻前後」「六隻か七隻」、角田栄一中尉(歩65第5中隊長)「五隻」(ただし12月16日)、栗原利一伍長(歩65第2中隊)「二隻ほど」「二、三隻」、唐広普(教導総隊二団三営)「二艘」「二隻」

 渡辺氏はここで主要な根拠とした平林証言の内容を後に否定するが、この様な論証スタイルには疑問を感じる。

平林貞治証言 証言による「南京戦史」の引用方法

 なお、渡辺氏が引用している「証言による「南京戦史」」は若干原文と異なる引用をしているので指摘しておきたい。
 渡辺氏の引用では「船が来ていない。ワァーという声があがり、続いて”パンパン”という音がして・・・」(赤字はK-Kによる)となっており、「船が来ていない。ワァー」の部分は実際にはダブルクォーテーションで囲われておらず、この部分を平林が現地で聞いた文言のように表現している。しかし、平林証言を比較すると分かるが、この「船が来ていない」というのは、平林が現地で感じたことであり、捕虜の言葉ではない。渡辺氏はこの誤ったダブルクォーテーションに引きづられて「「船が来ていない」と捕虜が騒いだ」と理解しているが、これは誤った見解と言えるだろう。
 なお、この問題に関連する「証言による「南京戦史」」第11回(偕行)とその引用元である「南京大虐殺はなかった・攻略戦参戦者の証言」第3回(世界日報)の文面を左に示す。「証言による「南京戦史」」の引用方法もまた杜撰であることが分かる。

『南京虐殺と日本軍』pp.152-153
(K-K註:栗原証言に基づき正史=『郷土部隊戦記』の記述の信憑性を検討するとして)
四、船の役割(『ふくしま』の疑問点の第八項目、第一一項目に該当)
 捕虜を解放するのではなく射殺するのであれば、捕虜を対岸に搬送する船は不要である。連隊長が田山大隊長に船や中国人の漕ぎ手を集めるように指示したとの説明も意味をなさなくなる。この連隊長の指示が簡単に実現するとは考えられないとの疑問は既に『ふくしま』を検討した際に疑問点として明記しておいたが、山田支隊が虐殺を方針としていたのであれば、船や漕ぎ手を徴発できるかどうかを考える必要はなくなる。連隊長の指示内容について現実性がなさすぎると指摘したが、それは幕府山に近い江岸近辺で船や中国人の漕ぎ手を集められる状況でなかったからである。それは無理をして捕虜を解放しようとしていた状況設定そのものに大きな原因がある。捕虜を搬送するための船も漕ぎ手もはじめから必要なかったのである。殺害目的を解放目的にわざわざ変えたことが、状況設定に無理を生じさせたことになったのである。まして児島氏の描くような舟を漕ぐ日本兵の不安をともなう複雑な表情は現実には全くありえなかったのである。この捕虜解放説はことが終ってからの後知恵のような気がしてならない。
 すでに引用している栗原氏のスケッチ・3のメモには「船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理した」とあるのを思い出していただきたい。何故船を遠ざけてから一斉攻撃をしたのか。発砲が突発事故なら、船が遠ざかるのはこの記述と反対に一斉攻撃が始まってからでなければならない。船の行動は順序が逆である。一斉攻撃が始まる時間に合わせたかどうかは分からないが、船が遠ざかったのは一斉攻撃が始まるのを知っていたからであろう。あるいは初めは到着を知らせるために江岸に近づいてたとしても、遠ざかったのは、計画通りの配置に就くためではなかっただろうか。
 このような手順の流れを考慮すると、支隊の計画はかなり綿密であり、船の役割は江上から逃亡を図る捕虜を監視するためではなかったかと想像される。少なくとも捕虜を対岸に搬送するのではなかったことは確実である。こうした想像から船には武装兵が搭乗しており、あるいは機関銃なども搭載していたのではないかとも想像される。

 この記述の前提として、渡辺氏は次のように論じる。

(K-K註:栗原利一伍長(歩65第2中隊)証言『これは「虐殺」ではなく「戦闘」として行なったもので、その時は「戦友の仇討ち」という気持ちであり、我が方も九名が戦死した』(『南京戦史資料集1』pp.659-660)に基づいて)
 栗原氏は一万三五〇〇人の捕虜を戦闘として、あるいは作戦として全て殺害したと証言したのである。これは命令によって行ったもので善意の、人道的な解放の途中の偶発的に起こった事故によって射殺したものではないことを意味する。このことは従来のいわゆる自衛発砲説を否定したことになる。

『南京虐殺と日本軍』p.136

 つまり、『南京戦史資料集1』の栗原証言の「「戦闘」として行なった」と述べたことに基づいて、自衛発砲説=捕虜解放説は否定されたと、渡辺氏は判断する。しかし、この「戦闘」という文言は、捕虜の暴動に対する正当な制圧行為と読むべきであり、最初から殺害するつもりだったと解釈するには飛躍がある。
 この栗原証言に基づく「捕虜解放説の否定」を基点として、再度「船や漕ぎ手を集めるのは困難である」こと論じ、「船や漕ぎ手を集め」たとする両角・田山証言を引いては捕虜解放説は「ことが終ってからの後知恵」と主張する。しかし、既に述べた通り、栗原証言の「捕虜解放説の否定」を基点とすることには問題がある。

 後段は、栗原スケッチに描かれている「船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理した」という文章から、捕虜が攻撃されることを船は事前に知っており、支隊による「緻密」な「計画」だったとし、ここで用意された船は「捕虜を対岸に搬送するのではなかったことは確実」だという。
 しかし、このスケッチの文言を「船は遠ざけ(た)」後に「攻撃して処理した」と理解するのは、栗原証言の主旨にあっていない。「船は遠ざけ(た)」ことと「攻撃して処理した」ことは、同時に起きた出来事を表現していると解釈する方が、証言との主旨に合致すると思われる。

『南京虐殺と日本軍』p.156
(K-K註:『南京戦史』の記述と栗原証言・スケッチとの整合性についての検討として)
二、船の役割(偕行の戦史の疑問点の第三項目に該当)
 江岸に連行された捕虜が騒いだきっかけは捕虜を解放するための船とは用意されていないことが分かったからであった。『ふくしま』が中州に解放するための船と漕ぎ手を準備し、実際に漕ぎ出したら中州から発砲されて騒ぎが起こったとの説明に比べればより事実に近いのではないかと想像できる。しかし栗原氏のスケッチ・3には船が二隻描かれており、インタビュー記事によると「川には二、三隻見えた」とあるから、わずかな船であったが川に船が用意されていたことは事実であろう。ただ二、三隻の船では捕虜が騒いだように対岸に捕虜を搬送できる数ではない。二、三隻の船では、捕虜が騒いだように「船がない」のと同じである。船を二、三隻集めたのは明らかに他に目的があったと推定される。栗原氏のインタビュー記事では捕虜が集められた場所には「周囲には警戒の機関銃が据えられてあり」とあるから、射撃を目的に捕虜を江岸に連行したことは確実であり、その意味から推察すると船にも機関銃が据えられていたかもしれない。射殺しようとすれば捕虜は逃亡を始めるに違いないし、逃亡の経路として陸地を東西と南の方向に取るに違いないが、北側の揚子江を経路にする者もいるに違いない。そうした捕虜のために船は江に浮かんでいたのではないだろうか。この船の存在によって陸地の三方と重ねて四方から捕虜を包囲したことになる。南京を包囲殲滅戦とする戦術と規模は違うが全く同じ方法が一層完全な形で取られたことになる。

 渡辺氏はここまでの検証で、両角や田山が証言するような船と漕ぎ手を用意したという事実はなかったと結論付けていたが、ここに至って、栗原証言・スケッチにより船は2~3隻は用意されていたと結論を変更した。しかし、2~3隻では捕虜を搬送するという意味では「ない」に同じであり、結論の主旨は変わらないとする。その上で、船が2~3隻用意された理由として、捕虜が長江側(北側)へ逃亡することを阻止するためで、捕虜の包囲を「一層完全な形」としたという。

 以上、渡辺氏の見解をまとめると、
①両角・田山証言の船・漕ぎ手を用意したとする内容の実現可能性への疑問
②船・漕ぎ手を用意したという両角・田山証言と、連行場所に船はなかったとする平林証言との矛盾
③両角・田山証言以外に7~8隻もの船の存在に言及する資料がないこと
④栗原証言から、捕虜の連行目的が殺害だったこと、船は2~3隻と少数だったことへの言及
⑤栗原スケッチより、捕虜攻撃を船は事前に知っていた
 以上の根拠より、両角・田山が証言する船・漕ぎ手の収集という事実、引いては捕虜解放説は虚偽だと結論付けた。この渡辺氏の見解に対する私の見解を列挙すると、①の論拠は不十分である、②の評価には疑問が残る、④の栗原証言の解釈に問題がある、⑤のスケッチ文言の解釈に疑問がある。このように渡辺氏の見解には首肯できない部分が多い。

 船の用意に関する見解をまとめると、江岸に船は用意されていたもののその数は「わずか」「二、三隻」であり、「対岸に捕虜を搬送できる数ではない」数量だったとする。また数は少ないが船が用意された理由として、捕虜の逃走を監視するため、もしくは逃走を阻止するためだったと推測している。

阿部輝郎氏

 阿部氏は『南京の氷雨』(1989年)で、両角手記「軽舟数隻」、箭内証言「六隻か七隻」、田山証言「舟は四隻――いや七隻か八隻」という資料を引用するものの、これらの隻数の違いについて言及はない。

東中野修道氏

 東中野氏は、『「南京虐殺」の徹底検証』(1998年)、『再現 南京戦』(2007年)では、船の用意に関しては両角手記(『南京戦史資料集Ⅱ』)を引用するが、関連する見解は述べていない。

小野賢二氏

 小野氏の著作である「幕府山の捕虜集団虐殺」(本多勝一氏との共著、『南京大虐殺の研究』1992年)、「第一三師団山田支隊の南京大虐殺」(『南京事件をどうみるか』1998年)、「虐殺か解放か――山田支隊捕虜約二万の行方」(『南京大虐殺否定論13のウソ』1999年)では、船の用意に関して小野氏の見解を述べる部分はない。

小括

 船の用意に関するこれまでの研究状況を確認したが、渡辺寛氏以外では特段注目される論点ではないことが分かる。これは、自衛発砲説では船の用意は所与の条件として語られており、それを特別に疑うことがなかったからである。しかし、渡辺氏の見解に見られるように、船の用意は作戦の成否を決定付ける重要な要素であり、自衛発砲説であっても(だからこそ)その実態を検証すべきであろう。
 渡辺氏の着眼点に関しては筆者も意見を同じくするが、一方でその論証過程について肯んじ得ない部分が多いのは本項で論じた通りである。

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