【幕府山事件】捕虜数の推移[05]Ⓑ非戦闘員の解放

【幕府山事件】捕虜数の推移 総目次
1. はじめに
2. 検証のポイント
3. 先行研究の紹介
4.Ⓐ投降者捕獲数
5.Ⓑ非戦闘員の解放
6.Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡
7.Ⓓ捕虜殺害数
8. まとめ
9.参考資料

Ⓑ非戦闘員の解放

 両角手記によると、山田支隊は幕府山で投降兵を捕虜とした後、その捕虜の中から非戦闘員を選り分けて解放し、結果として捕虜数は半減したという。研究者によっては、この非戦闘員の解放は事実ではないとも主張されている。

資料紹介

 まずは非戦闘員を解放したとする資料を紹介する。

山田栴二少将 歩兵第104旅団長・山田支隊長

山田証言
山田氏の話では、学校に竹矢来をめぐらしている場所があり、そこに(K-K註:捕虜を)入れたという。そこに入れる時、両角部隊長と二人で、たしかに軍人かどうか、一人一人確認して入れたのを記憶している。

『「南京大虐殺」のまぼろし』p.192

 これは山田少将の生の証言ではなく、鈴木明氏が証言を要約したものである。興味深いのは、非戦闘員を解放したことと共に、その解放を山田支隊のトップである部隊長二人が直々に実行したと証言していることだ。
 既に指摘したように、部隊長が二人揃って非戦闘員の選別を行うことは、捕虜収容所が複数個所あったという事実と矛盾する上、一定時間を要するこの様な作業に部隊のトップが専属して関わる必然性がない。それに加え、山田少将自身が当時の日記に1万4777名を捕虜収容所へ収容した旨(12月14日付)が書かれており、当時の自分の認識とも矛盾している。以上の点から考え、この山田少将の証言は事実とは考えられない。

山田栴二日記
(日記12月14日抜粋)
捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり

『南京戦史資料集2』pp.330-333

両角業作大佐 歩兵第65連隊長

両角手記
 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。

『南京戦史資料集Ⅱ』p.339-341

 両角手記は三つの書籍で引用されているが、いずれの文面にも若干の異同が見られるため留意が必要である。本項では『南京戦史資料集Ⅱ』から引用した。
 この手記を最初に引用したのは福島民友新聞の連載「ふくしま戦争と人間」(後に書籍化された『ふくしま戦争と人間』(1982年))だが、連載に携わった阿部輝郎氏によると、両角大佐の日記・手記を入手したのは1961年~1962年、「郷土部隊戦記」の取材の際だったというが(※1)、その「郷土部隊戦記」内では両角大佐の日記・手記について一切触れられることは無かった。ただし、内容の類似性から考えて、「郷土部隊戦記」の南京事件に関する項は、両角手記に強い影響を受けていることは明らかである。
 この手記とは別の両角大佐の日記には、非戦闘員の解放についての言及はない。
※1 『南京の氷雨』p.65および『南京戦史資料集2』p.341注記

平林貞治少尉 歩兵第65連隊連隊砲中隊小隊長

平林証言
「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年) 
確かに捕虜が投降してきた当初の総数は一万五千人くらいと推定されます。しかし、非戦闘員約七千人は直ちに解放したので、最終的に捕捉したのは八千人ほどでした

『南京事件の総括』(1987年)p.187-189
②上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦員(※K-K註:ママ)と思われる者約半数をその場で釈放した。

 平林少尉は、幕府山事件に関する証言を戦後にいくつか残している。確認できたものでは『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)、『ふくしま戦争と人間』(1982年)、『世界日報』(1984年)、『南京事件の総括』(1987年)、『南京の氷雨』(1987年)だ。その中で非戦闘員の解放について言及しているのは上記に示した『世界日報』(1984年)と『南京事件の総括』(1987年)のみである。

 平林証言で興味深いのは、非戦闘員の解放に関しては上記2点の証言を残している一方で、これらの証言より以前には次のように証言していることだ。

平林証言
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。

 この記述を見る限り、収容所に入れて管理していた捕虜数は1万名はいたことになる。それを裏付けるように、同書では次のようにも証言している。

平林証言
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
向こうは素手といえども十倍以上の人数です。そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。

 この証言は、捕虜を長江岸へ連行する際の心象を証言したものだが、平林少尉の認識では、連行された捕虜は連行した兵力の「十倍以上」だったという。平林少尉は、歩65の兵力を「出発時の約三分の一の一、五〇〇足らず」(『南京事件の総括』)だったと認識していることから、連行された捕虜数は1万名以上はいたことになるだろう。
 つまり、1973年の証言では投降者捕獲数について言及はなく、管理していた捕虜数を1万名としていたのに対し、1984年以降では投降者捕獲数を1万5000名、その中から非戦闘員を解放し、管理した捕虜は7500名~8000名とするようになった。平林少尉の証言は時期によって内容が一致しておらず信憑性に欠ける。

 なお、1973年証言の1万名は、見様によっては非戦闘員を解放して1万名となったとも言えなくも無い。しかし、後に検証する収容所火災時の捕虜逃亡について、1973年証言では「憶えていません」と述べているのに対し、1987年証言では「火事があり…半数が逃亡」と証言を翻していること、長江岸への連行数も1万名だったものを4000名とする等、1973年証言と1984年以降の証言では、語っている捕虜数の推移は異質である。1973年証言の1万名に非戦闘員解放が含まれているとする見方は妥当性が低いと判断する。

関係者 歩兵第65連隊第12中隊

関係者証言
「(略)警戒もそれほど厳重にしていなかったのが仇になり、いっぺんに二むねが全焼し、半分ほどの兵隊に逃亡されてしまった。けれど私たちは、本音をいえば”これで安心”と思ったのです」
「なぜかというと、八千人もいたのでは、地下倉庫から出してきた食糧など、気休めぐらいの少量しかない。彼らは何日か絶食していたらしく、その少量の食糧を奪い合って食うほど飢えていた。そして私たち自身、彼らに食わせるため食糧さがしに血まなこでかけずり回ったほどだったのですから……。それに空腹のあまり暴動でも発生したら、私たちの連隊だけでは抑えきれなくなる心配すらあったからです」

『ふくしま 戦争と人間』p.122

 この証言の中では直接的に非戦闘員を解放した旨は述べていないが、火災が発生する以前の収容者数を8000名としていることから、投降者捕獲数1万5000~6000名と非戦闘員解放による捕虜数半減を前提にしたものと判断できる。

研究者の見解

 非戦闘員の解放に対して、研究者の見解を見ていこう。

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』(1975年)
p.437
山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。

『南京戦史 増補改訂版』(1993年)
p.324-325
 十二月十四日、山田支隊(長山田栴二歩兵第百三旅団長、歩兵第六十五聯隊基幹)は幕府山砲台付近で約一万四千人の投降集団を収容した。…
 旧説(略)は「一日・一カ所」説で、このうち非戦闘員約六千を釈放、残りの約八千を捕虜としたが、十五日夜収容所の火災にまぎれて約半数が逃亡したため約四千が残った。

小野賢二「第一三師団山田支隊の南京大虐殺」(『南京事件をどうみるか』藤原彰編 1998年)
pp.51-52
(K-K註:菅野嘉雄日記、近藤栄四郎日記、黒須忠信日記を引用した上で)
しかも、”自衛発砲説”が主張する非戦闘員の解放はやはり実施されていなかった。

渡辺寛『南京虐殺と日本軍』(1997年)
p.199
 毎日のように記録し続けた兵士の日記の中に捕虜の解放を示唆する記述が発見されないのは実際に解放などしなかったからでなかろうか。前述したが、非戦闘員をより分けて解放することは「皇軍の仁愛」を世界に示す格好の材料である。それにもかかわらず記録がないことを考えると、その様な事実はなかったと考えざるを得ない。

板倉由明「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」『ゼンボウ  昭和60年4月号』全貌社 1985年4月 p.40
十七日の『朝日新聞』によればその数一万四千七百七十七とあるが、戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』(朝雲新聞社)及び『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社)では非戦闘員を釈放して約八千、さらにその夜半数が逃亡したという。
板倉由明『本当はこうだった南京事件』p.136
捕虜の中に老幼婦女子がいれば釈放されているはずである。それは日本軍自身が食糧に困り、捕虜にまで手が回らない状況下で、捕虜になる資格のない者まで苦労して養うことはないからである。

東中野修道『再現・南京戦』(2007年)
p.163-164
 十二月十四日に投降してきた一万五千名は、非戦闘員などが解放されて、「約八千人」が残った。

秦郁彦『南京事件 増補改訂版』(2007年)
p.316
犠牲者数については、当初の一万四七七七人(魯甦証言の五万七四一八人に該当か)のうち民間人をすぐに釈放して半減、…

 以上をまとめると、非戦闘員の解放を事実と認めるのは『戦史叢書』、『南京戦史』、板倉氏、東中野氏、秦氏、非戦闘員の解放を事実と認めないのは小野氏、渡辺氏となっている。
 特徴的なのは、非戦闘員の解放を事実と認める研究は、その事実の当否について特に検証を行った形跡がほぼ見られない。
 その中で唯一、板倉氏は『本当はこうだった南京事件』で理由を述べているが、資料に基づかない推測しか述べられていない。しかも、板倉氏の主張に反し、収容所に収容された捕虜の中に民間人がいたことは、収容された中国人の証言でも多く存在する。

魯甦 東京裁判供述書
 敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四、五箇村に閉込め、飲食を断絶す。

『日中戦争史資料8 南京事件1』 p.141

陳万禄 東京裁判証言
死体は川面を漂い、血が大なる江流を染めた。このうち兵士は三万、他は民間人二万余である。

『南京の氷雨』 pp.150-151

唐府普 教導総隊所属(『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載)
そこには約二万人の私と同じ運命の人々がいた。大部分は兵士だったが、民間人も含まれていた。

『南京の氷雨』 p.156-158

史栄禄 民間人(『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載)
  私は南京に日本軍が攻めてきたとき、笆斗山鎮にいたが、日本軍に捕えられ、老虎山の下に収容された。

『南京の氷雨』 p.159

段有余 東京裁判における証言(『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載)
段 私は胡という姓の家に押し込められましたが、全部で九千人いました。そこには老農など民間人も含まれていました。

『南京の氷雨』 p.160-161

 板倉氏の主張は以上の資料と明らかに矛盾するものであり、その矛盾に対して何らの説明もない。残念ながら、およそ科学的態度とは言えないだろう。

 一方、事実と認める小野氏・渡辺氏は日記等の資料状況を検証した結果として、「記録がない」(渡辺氏)ことを根拠とする。

非戦闘員解放の事実の存否

 実際に非戦闘員の解放の事実は存在したのか、存在しなかったのか。事実の存否についてを検証する。

資料状況

 非戦闘員解放に言及する資料は、先に挙げた山田、両角、平林、第12中隊関係者の4名の手記・証言である。このうち山田、平林の証言は信憑性が低いことは先述の通りである。
 一方、現在確認できる山田支隊の将兵の資料は40名を超えるものがあり、その中で公開されている日記は、『南京戦史資料集』に4本、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』に19本ある。このうち歩65第7中隊 大寺隆上等兵の日記は両書で重複して掲載されているので、合計22本ということになる。
 また、小野氏が入手した資料は「証言総数約二〇〇、陣中日記二〇冊(南京攻略戦の箇所が欠落させられえいるのを含めると二四冊ほど)」だという(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.380)。
 仮に非戦闘員の解放が事実とするならば、それは捕虜をカウントする以上に労力のかかる作業であり、多くの将兵がその作業に携わったはずだ。にも関わらず、存在する資料は4名の戦後証言しかなく、現在公表されている22人の日記に一つも記述されなかった。資料状況がアンバランスであることは否めない。
 これは渡辺氏が指摘する通り「実際に解放などしなかった」「その様な事実はなかった」ことの根拠の一つとなるだろう。

軍司令部への報告

 12月14日午前中に旅団本部による調査が行われ、その結果として1万4777名という捕虜数が確認されている。この調査以降も捕虜が増加したことは、小野氏・渡辺氏の研究で明らかになっている。山田支隊が捕獲した捕虜に関しては、12月15日に上海派遣軍司令部まで報告が上がっている。

飯沼守少将 上海派遣軍参謀長
(日記12月15日 抜粋)
山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

『南京戦史資料集Ⅰ』pp.157-158

 上海派遣軍司令部には山田支隊が12月15日(いつの時点か分からないが)に1万5000~6000名の捕虜を捕えたことが報告されている。その上で上海派遣軍司令部は、捕獲した捕虜は第16師団へ接収させる=管理させるように指示を出している。ここでも非戦闘員解放による捕虜数の半減は見られない。

 なお、日本軍の戦果報告は誇大に報告されることが多いと主張し、この飯沼日記の記述も山田支隊が過大な戦果報告をした可能性があるとも言われる。
 しかし、上海派遣軍司令部は、山田支隊が捕獲した捕虜を第16師団に移管することを指示している。第16師団に「接収」された時点で、2倍もの水増しした戦果が露見してしまうことは確実である。仮に痕跡が残りにくい撃滅数の戦果報告であればいくらでも虚偽報告は可能だろうが、今回のケースのように確実に露見するような虚偽の報告は、現役の軍事官僚の行為としてはあり得ないだろう。
 また、捕虜数は撃滅数とは違いその後の管理として、収容先の確保や警備、給養が必要である以上、まったく実態と異なる報告をするということは実務上考え難い。

宮本省吾日記

 幕府山での投降兵捕獲や捕虜管理の状況を知るには、歩65第4中隊所属の宮本省吾少尉の日記が重要な資料となる。宮本少尉の12月14日~15日の行動を、日記から摘出してみたい。

宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉
【12月14日】
「午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚(蕩)すべく出発す」(幕府山付近の掃討戦の実施)
「攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る」(投降兵の捕獲)
「次々と一兵に血ぬ らずして武装を解除し何千に達す」(投降兵の武装解除の実施)
「夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す」(捕虜収容所へ収容する)
「直ちに警備につく、中隊にて八ケ所の歩哨を立哨 せしめ警戒に任ず」(収容所の警備)
「唯水と食料の不足で、全く平公(閉口)した様である」(捕虜の管理)

【12月15日】
「一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。」(収容所の警備)
「夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮(虜)兵の給食は勿論容易なるものでない。」(捕虜の管理)
凡例:「」は日記の本文、()は筆者の注釈

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

 宮本少尉の行動を要約すると、投降兵の捕獲、武装解除、収容所への連行、収容所の警備、捕虜の管理を行っている。このことから宮本少尉は捕虜に関する一連の行動に絶えることなく携わっていたことが分かる。ところが、その宮本少尉は捕虜が半減するに及ぶような非戦闘員の解放を日記に記すことはなかった。
 これは、非戦闘員の解放が行われたものの、偶然日記に書かなかったというわけではない。宮本少尉が非戦闘員の解放による捕虜数の半減という事実を認識していないことは、その後の捕虜殺害数の認識で分かる。

宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 第3次補充 少尉
【12月16日】
「捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」
【12月17日】
「二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。」

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

 宮本少尉は、投降者捕獲数は「無慮万以上に達す」(12月14日付)としており正確な人数は不明確であるが、捕虜殺害数を12月16日は3000名、12月17日は2万名以上、合計2万3000名以上と認識している。このことから、宮本少尉は捕虜数が半減するような非戦闘員の解放がなかったと認識していることが分かる。
 捕獲から管理まで絶えることなく捕虜と接していた宮本少尉が、非戦闘員の解放を認識していないということは、その様な事実は存在しないことを証明している。
 宮本少尉以外の複数の日記で、投降者捕獲数と捕虜連行数・殺害数に大きな差が見られず、宮本少尉と同様の認識だったことが分かる。この点に関しては後に検証する。

まとめ

 非戦闘員の解放を事実として認める見解には裏付ける研究が存在しないため、その理由を検証することは出来ない。おそらくは『郷土部隊戦記』の記述や戦後の証言をそのまま受け入れたものと思われる。
 一方、非戦闘員の解放の事実を否定する小野氏・渡辺寛氏は、将兵の日記にその事実が書かれていないことをその根拠として挙げている。

 非戦闘員解放の実態の検証として、次のような史料批判を行った。
 非戦闘員の解放の実態を探る上で資料状況は一つの指標となる。この出来事に言及する資料は4人の戦後証言しかなく、そのうち山田少将、平林少尉の証言には信憑性を欠くものだった。一方で、公刊された22本の日記には一つも存在しないだけではなく、小野氏が取得した多数の証言等にも非戦闘員解放の事実は存在しないという。非戦闘員を解放したという主張は裏付ける一次史料を欠くものであり、資料状況はアンバランスである。
 山田少将自身も当時の日記(12月14日付)には1万4777名を収容したと書いており、翌日、上海派遣軍司令部に行われた状況報告でも捕虜数を1万5000名~1万6000名としている(飯沼少将日記)。
 歩65第4中隊 宮本省吾少尉は、捕獲から収容・管理まで捕虜と絶えることなく密着して行動していたにも関わらず、非戦闘員の解放についての記述がないのみならず、その認識さえもしていない。
 以上の史料検証の結果から、非戦闘員を解放して捕虜数が半減したという事実は存在しなかったと考えるべきである。

04 Ⓐ投降者捕獲数[前ページ]05 Ⓑ非戦闘員の解放[次ページ]06 Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡

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