| 【幕府山事件】捕虜数の推移 総目次 |
| 1. はじめに 2. 検証のポイント 3. 先行研究の紹介 4.Ⓐ投降者捕獲数 5.Ⓑ非戦闘員の解放 6.Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡 7.Ⓓ捕虜殺害数 8. まとめ 9.参考資料 |
先行研究の紹介
幕府山事件で捕虜数の推移について言及している研究を紹介する。併せて先に示した検証のポイントを抽出する。
『郷土部隊戦記 第1』
p.111
連隊は十五日に幕府山砲台ふきんで多数の捕虜を得たが、その実数は一万四千七百七十七人(山田旅団長の陣中メモによる)である。うち非戦闘員をただちに釈放して、残った約八千人の捕虜を幕府山砲台の付属建て物に収容し、砲台地下室にあった中国軍の食糧(小麦粉、野菜、かん詰めなど)をもって自分たちで給養するよう指示した。pp.111-112
ところがその夜九時すぎ(K-K註:12月15日の夜)、捕虜たちが夕食の炊事中に火事を起こし、混乱に乗じて約半数が逃亡してしまった。捕虜の警戒には田山第一大隊から出た四、五人の兵がその周囲を監視していただけなので、直ちに連隊から一箇中隊が出動して制止したが、多勢に無勢、逃亡は彼らの思うままだった。火事そのものが逃亡するための彼らの計画的放火に違いなかったのである。p.112
『郷土部隊戦記 第1』(1964年)
(K-K註:12月17日夜12時頃の出来事として、長江岸から対岸へ捕虜を解放しよう小舟に載せたところ、途中で対岸の中国軍より発砲を受け、捕虜が暴動を起した)約四千人近い大集団が死に物ぐるいで一度に、いきり立ったのだからたまらない。いくら制止しても聞かず、恐怖を感じた兵は発砲するほかない。部隊でも将校一人、兵六人が捕虜の群れにひきずり込まれて死亡した。
翌朝、江岸には不幸な捕虜の死体が残った。しかしその数は千人を上回った程度で、ほとんどは身のたけはゆうにある江岸のアシを利用し、あるいは江上にとび込んで逃亡したのである。
本書は、福島民友新聞紙上で1961年12月中旬から1962年12月下旬連載された「郷土部隊戦記」をまとめたものである。
連載の取材執筆に携わった阿部輝郎氏によると、取材の過程で両角手記を入手したこと言う。内容が両角手記と類似している部分が多いことから考えて、両角手記の影響を色濃く受けているみられる。
『郷土部隊戦記』で述べられているストーリーは、その後の『戦史叢書』や南京事件否定論に利用されることになる。
資料発掘や研究が進むにつれ、本書で述べられている虐殺の日時・回数(12月17日、1回)、火災の時期等に誤りがあることが判明している。
本書における捕虜数の推移は次のようになる。
Ⓐ投降者捕獲数
「山田旅団長の陣中メモ」に基づき、12月15日に1万4777名とする。
Ⓑ非戦闘員の解放
投降者を捕獲直後に非戦闘員を釈放し、残った約8000名を捕虜として収容した。
Ⓒ収容所火災時の逃亡
12月15日の夜(実際には16日正午頃)、収容所が捕虜により放火され、混乱に乗じて約半数が逃亡した。残った捕虜は4000名となる。
Ⓓ捕虜殺害数
12月17日に捕虜を江岸に連行し解放する予定だったが、途中で捕虜の暴動が発生し、その制圧により4000名のうち1000名強が死亡、残りは逃亡した。
福島民友新聞は、幕府山事件に関して1978年から1982年に連載された「ふくしま戦争と人間」でも言及があり、後に『ふくしま戦争と人間』として刊行されている。幕府山事件に関する記述は『郷土部隊戦記』と似た内容となっているが、新たに両角手記や参戦者の証言が引用され、叙述の裏付けとしている。
捕虜数の推移で『郷土部隊戦記 第1』と違う点は、捕虜殺害数を連行数4000名のうち1割(400名)としている点である。丹治善一上等兵の証言に基づいているようだ。
両角業作手記
両角業作手記
『南京戦史資料集Ⅱ』p.339-341
「 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。」
「 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。」
「 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。」
「 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。」
山田支隊の基幹部隊で、歩兵第65連隊の連隊長だった両角業作大佐の手記である。ここで引用した両角手記は『南京戦史資料集Ⅱ』に掲載されたものだが、他にも『ふくしま 戦争と人間』、阿部輝郎『南京の氷雨』で掲載されているが、いずれの内容にも若干の異同が見られるため注意が必要である。
ここで語られている捕虜数の推移は『郷土部隊戦記 第1』の内容と一致する部分が多い。
違う点を挙げるならば、投降者捕獲数について『郷土部隊戦記 第1』は山田栴二少将の「陣中メモ」から1万4777名としたが、両角手記では1万5300余名としている。
捕虜を「解放」する際、対岸へ渡すため舟に乗せた捕虜数を200名~300名、岸に残った捕虜数を2000名としており、連行した捕虜数と舟・江岸の捕虜数一致していない。『郷土部隊戦記第1』では、舟に乗せた捕虜数は同じだが、江岸に残った捕虜数を約4000名としている。
暴動鎮圧のために銃撃した結果として、一部を殺害、大部分は逃亡とするが、具体的数字は挙げていない。一方、『郷土部隊戦記 第1』は殺害1000名、逃亡3000名とする。
捕虜数の推移は下記の通りとなる。
Ⓐ投降者捕獲数
1万5300余名
Ⓑ非戦闘員の解放
婦女子、老人、非戦闘員をより分けて解放し残りは約8000名となる
Ⓒ収容所火災時の逃亡
火災発生の日付は書かれていないが「暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので」と表現していることから夜間の出来事であることが分かる。この火事で半数の4000名が逃亡し、残数は4000名となる。
Ⓓ捕虜殺害数
12月17日の夜の出来事として、捕虜を解放する為に長江岸へ連行し、舟に乗せて対岸へ向かっている最中に対岸より銃撃を受け捕虜の暴動が発生し、自衛のため捕虜を攻撃、大部分は逃亡、一部を殺害したとする。捕虜連行数、殺害数、逃亡数の人数に関する言及は無い。
『戦史叢書』
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』(1975年)p.437
『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』は1975年に刊行されたこともあり、未だ資料発見が進んでいない状況での見解という制約がある。本書脚注の中(pp.508-509)には『郷土部隊戦記1』、洞富雄『南京事件』、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』が挙げられており、これら資料を参考にしていることが窺える。
内容はに若干の異同があるものの概ね『郷土部隊戦記第1』に沿った内容となっている。
Ⓐ投降者捕獲数
「一万四千余」
Ⓑ非戦闘員の解放
非戦闘員の解放し「約八千余を収容した」
Ⓒ収容所火災時の逃亡
火災に言及はないものの「(捕虜の)半数が逃亡した」(=残数約4000名)。
Ⓓ捕虜殺害数
捕虜連行数の記述はなく、殺害数を「約一、〇〇〇名」、「他は逃亡」したという。単純計算すると連行した捕虜数4000名のうち殺害数約1000名、逃亡数約3000名となる。
『南京戦史』
p.324-325
十二月十四日、山田支隊(長山田栴二歩兵第百三旅団長、歩兵第六十五聯隊基幹)は幕府山砲台付近で約一万四千人の投降集団を収容した。…
旧説(略)は「一日・一カ所」説で、このうち非戦闘員約六千を釈放、残りの約八千を捕虜としたが、十五日夜収容所の火災にまぎれて約半数が逃亡したため約四千が残った。…p.325
『南京戦史 増補改訂版』(1993年)
十二月十六日夕、歩六五第二大隊は捕虜五百~二千人を中国海軍碼頭(魚雷営?上元門上流約一キロ)付近に連行(目的は釈放のためといわれているが判然とせず)したところ、騒乱状態となり、日本軍護送兵一名が殺されるという状態になったので、第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって同日夜、暴動集団の主力を制圧した。射殺死体は同夜中に護送部隊のみで江中に投棄できる程度の数だったという。
翌十七日午後、入城式参加部隊を除く歩六五の主力をもって、残りの捕虜(約五千人程度か)を中洲(八卦洲・草鞋洲)に釈放する目的で上元門下流約三キロの江岸い連行したところ再び暴動状態となり、我が方にも将校一、兵五の犧牲を出すに至ったので、機関銃八挺をもって同日夕から深夜にかけて暴動集団の主力を制圧し残余は逃走した。状況より判断して射殺数は二千ないし三千人程度と思われるが、確認した記録はない。
『南京戦史』は、阿部輝郎氏の新説「二日・二カ所」説(『南京の氷雨』)を踏まえ、捕虜殺害の状況を、12月16日に中国海軍碼頭(魚雷営)へ捕虜500名~2000名を連行、12月17日に上元門下流約3キロ地点に約5000名を連行したが、両日ともに捕虜が途中で騒乱・暴動状態となり、制圧のために銃撃を行い鎮圧。結果、殺害数は2000名~3000名とする。
『南京戦史』における捕虜数の推移は以下の通りとなる。
Ⓐ投降者捕獲数
「約一万四千人」
Ⓑ非戦闘員の解放
「非戦闘員約六千を釈放、残りの約八千を捕虜とした」
Ⓒ収容所火災時の逃亡
「十五日夜収容所の火災にまぎれて約半数が逃亡したため約四千が残った」
Ⓓ捕虜殺害数
12月16日の連行数500名~2000名、12月17日の連行数約5000名、合計殺害数2000名~3000名
Ⓐ~Ⓒに関しては旧説を基にしており、Ⓓのみ阿部新説も加味した新しい判断となっている。
興味を引かれるのは、12月16日に実施された捕虜連行数を「五百~二千人」としていることだ。この下限の「五百」というのは人数が記載されている資料は、第5中隊 角田中尉「七百人」「千人」(※1)、もしくは第9中隊I伍長証言「四〇〇~五〇〇人」(※2)だが、いずれも証言であり信憑性が低い上、「五百」と表記するには一致しない。また上限の「二千人」も資料で2000名と言及するものはなく、近い人数を言及しているのは荒海上等兵「二千五百名殺す」(※3)だろうか。下限・上限のいずれも根拠不明確な人数と言わざるを得ない。
また、12月15日に収容所で火災が発生し、捕虜の残数は4000名となったとしながら、捕虜の連行数が12月16日500-2000名、17日5000名というのは数字が一致しない。この説明は、旧説と新説の間の矛盾を解消せず、投降者捕獲から収容所火災にいたるまでの捕虜逃亡による人数の変化にも言及せず、あえて捕虜殺害数のみに論点を絞ったように見える。しかし、それまでの捕虜数の推移が判明してはじめて捕虜殺害数(連行数)が割り出せるわけだから、この『南京戦史』の説明は論理性が乏しいと言わざるを得ない。
まとめると、捕虜数の推移に関しては旧説を提示しながらその是非を論じず、旧説における捕虜数の推移とは矛盾した新説を打ち立てたということになる。おそらく捕虜数の推移を論理的に説明してしまうと、結論として見立てた捕虜殺害数に矛盾が出ることを厭った苦肉の策ということではないだろうか。
※1「結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。」『南京の氷雨』 p.85-87
※2「一日目の捕虜連行数は四〇〇~五〇〇人だった。」『南京大虐殺の証明』(1986年)p.139
※3「今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。」『南京戦史資料集2』p.345
小野賢二氏
小野賢二氏は、幕府山事件に関連する元日本軍将兵の日記等や証言を多数収集し、同事件の実態解明に大きな貢献された研究者である。小野氏は山田支隊将兵の日記をまとめた資料集である『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店)の編者であるほか、幕府山事件に関する研究を『南京大虐殺の研究』(晩聲社)、『南京事件をどうみるか』(青木書店)、『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)で発表している。
本稿では『南京事件をどうみるか』より研究を紹介したい。当該部分を全て引用すると冗長となるので、検証ポイントに沿って内容を要約しながら紹介する。
Ⓐ投降者捕獲数
小野氏によると、連隊本部 斉藤日記12月14日付の記述に基づき、12月14日の捕虜数1万4777名を基数とする。そして、その後にも捕虜数が増えた可能性があるとして遠藤日記、菅野日記を引用して裏付けとし、その上で次のように述べる。
「では、山田支隊が捕えた捕虜の総数はいくらだったのか。一万四七七七人以上であることは確かだ。[遠藤高明]少尉の陣中日記の一六日には端数まで入った「捕虜総数一万七千二十五名」と記録されている。推定だが、一万七千から一万八千人が捕虜の総数だったのではないかと考えられる。多くの当事者が語った「捕虜は二万人だった」というのは正しいのではないだろうか」
『南京事件をどうみるか』pp.49-50
Ⓑ非戦闘員の解放
(K-K註:菅野嘉雄日記、近藤栄四郎日記、黒須忠信日記を引用した上で)
「しかも、”自衛発砲説”が主張する非戦闘員の解放はやはり実施されていなかった。」
同上pp.51-52
Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡
菅野嘉雄日記、遠藤高明日記に基づき、収容所火災の日時は14日夜ではなく16日昼食頃だったとし、「だが、捕虜が収容所から逃亡したという記述は他の陣中日記を読んでも出てこない」。
この時に焼け出された捕虜が「捕虜収容所前に整然と坐り込んだ」ものと推測される3枚の写真が存在するとして、「この様な状況なら”自衛発砲説”のいう捕虜の逃亡はありえない。」
捕虜収容所の警備が厳重だったとする証言、火災時の捕虜制圧時に日本軍側の損害の記録がない点、捕虜の逃亡の記録がない点により、「厳重な警備体制だったがゆえに捕虜が逃亡を企てることはできず、厳重な警備体制だったがゆえに銃撃などできなかった」とする。
同上pp.52-53
Ⓓ捕虜殺害数
12月16日の捕虜殺害については「連行された捕虜は、陣中日記や証言から約二千~三千人だったのではないだろうか」(同上p.51)と推測する。
12月17日は、「残っていた捕虜全員を揚子江岸大湾子に連行し虐殺する(証言によると、捕虜の一部を前夜と同じ魚雷営にも連行、皆殺しにした可能性がある)」(同上p.53)とする。
また「山田支隊の捕えた一万七千から一万八千人の捕虜虐殺は、一二月一六日、一七日と二日間にわたり実施された。その後、捕虜を収容した兵舎を警備したという証言や記録もないことから捕虜全員が虐殺に連行された、と、みていいだろう」(同上p.58)
一方で12月16日と17日の捕虜殺害とは別に「未解明」としながらも、12月18日にも捕虜殺害が行われた可能性も論じている(同上pp.58-61)。これは目黒福治日記12月18日の「午後五時残敵一万三千程銃殺ス」という記述を起点に、小野氏が集めた証言にも近似の内容があることが根拠となっている。ただし、最終的に「断定はさけたい」としているので、本稿での考察対象から外すことにする。
渡辺寛氏
Ⓐ投降者数
p.207
これらを見ると幕府山では一四日に一万七、八千名の捕虜を捕捉したが、一五日にも方々でかなりの捕虜を捕捉していることが分かる。この一五日だけでどのくらいの捕虜を捕捉したかは不明であるが、菅野日記のプラス五〇〇〇名を見ると、それまでの捕虜が一万七、八千人と推測されるから、一五日までに支隊合計で二万ニ、三〇〇〇名の捕虜を収容したことになる。
pp.208-209
この二万五、六〇〇〇名(K-K註:歩65第7中隊 新妻富雄上等兵 日記12月15日記述)が正確であるかどうかは即断できないが、少なくとも一四日の一万七、八〇〇〇名にかなりの捕虜が新たに加わったのであろう。可能性としては新妻日記の二万五、六〇〇〇名も安易に否定できない。Ⓑ非戦闘員の解放
p.199
正史ではこの時戦闘員をより分けて解放したことになっている。阿部氏の筆写した両角回想記を『ふくしま』から引用すると捕虜数を一万五三〇〇人としあがらもこの中には「婦女子や老人など非戦闘員(南京より落ちのびたる市民)もまじっていたため、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった」(3)といわゆる非戦闘員解放説を主張しているが、万を超える捕虜群に婦人を含む非戦闘員が未だに残っていたことは前に引用した目黒日記でも明らかである。 毎日のように記録し続けた兵士の日記の中に捕虜の解放を示唆する記述が発見されないのは実際に解放などしなかったからでなかろうか。前述したが、非戦闘員をより分けて解放することは「皇軍の仁愛」を世界に示す格好の材料である。それにもかかわらず記録がないことを考えると、その様な事実はなかったと考えざるを得ない。Ⓒ収容所火災による逃亡
p.87
これらが事実であれば、全体の半数もの大量の捕虜が逃亡したことと矛盾する。放火の可能性が薄らぎ、「残り半数」の四〇〇〇人もの大量の捕虜の逃亡がなかったとすれば、『ふくしま』(K-K註:『ふくしま 戦争と人間』)のストーリーは出発点において成り立たなくなる。
p.218
ここまで考えれば『ふくしま』がこの火災を捕虜による放火と決めつけたことが間違いであることが分かるだろうし、その発生の時刻が夜であるとしていることも間違っていることがはっきりする。火災の発生が日中であれば、逃亡を目的としているとは考えられないからである。したがって、四〇〇〇人もの大量の捕虜が逃亡したことも間違っており、正史が事実を伝えていないことが分かる。Ⓓ捕虜殺害数
渡辺寛『南京虐殺と日本軍』(1997年)
p.229
捕虜殺害に参加したこれらの将兵の日記を見ると、この日(K-K註:12月17日)射殺した捕虜の数は一万三〇〇〇人から二万人以上とかなりの幅のあることが分かる。これらのうちのどれが正確かは安易に断言できない。それは一六日の場合も同様である。その意味では中野一等兵の「幾名とも知れず」が正確なのであろうが、それでは規模そのものがはっきりしない。そこでおおよその推定として一六日にはほぼ一万人が殺害されたと推定した。それから計算するとこの日は一万数千人が虐殺されたと考えられる。
一四日に一万七〇〇〇~一万八〇〇〇人が捕虜として収容され、一五日には数千人が新たに収容されたことは既に検討した通りである。したがって一五日の深夜あるいは一六日の早朝には山田支隊は二万人以上二万五〇〇〇人くらいまでの捕虜を収容していたことになる。目黒日記に「各部隊の捕虜は全部銃殺するものの如し」とあるから、この日残る一万数千人が全て殺害されたと考えてよいであろう。
この推定から考えると、荒海日記や本間日記の一万五〇〇〇名も、遠藤日記の一万数千、目黒日記の一万三〇〇〇もほぼその範囲内であることが分かる。その意味で宮本日記の合計二万以上の意味が連結する。一七日には一万数千人、そして一六日の一万人と合わせて二万数千人が二日間で射殺されたと考えて大きな間違いはないであろう。栗原証言の一万三五〇〇人はこの一七日に殺害された捕虜の数である。栗原証言のメモが極めて正確であることが分かる。栗原証言で足りなかったのは一六日の殺害である。これがメモされていたらほぼ完全にこの事件を証言することができたのである。一六日の一万人の殺害が明らかになることによって、栗原証言の限界の一つが埋められたことになる。
本書は幕府山事件に焦点を合わせた南京事件の研究書である。その為、幕府山事件に関してはどの著書よりも深い考察が為されている。渡辺氏の論証の特徴は、参戦者の日記の記述の整合性を図ることに論点を集中している点である。
捕虜数の推移に関しては若干の揺らぎが見えるようだが、確定的な部分は下記の通りとなる。
Ⓐ投降者捕獲数
投降者捕獲数は、12月14日に1万7000名~1万8000名を捕獲し、12月15日にもさらに追加の捕獲があったことで、総計2万2000名~2万3000名となった。新妻日記2万5000名~2万6000名も「安易に否定できない」。
Ⓑ非戦闘員の解放
日記の記述が一つも存在しないことから、非戦闘員の解放はなかったと判断している。
Ⓒ収容所火災による逃亡
12月16日の収容所火災による捕虜の逃亡については、この火災の発生時刻を「正史」(福島民友新聞の見解=両角手記)は夜としたが実際には日中であったことから、逃亡を動機とした放火とは考えられず、多量の捕虜逃亡があったという主張は間違っているとする。
Ⓓ捕虜殺害数
捕虜連行数は、12月16日は約1万名、12月17日が1万数千名とし、その全てが殺害されたする。
板倉由明氏
したがって捕虜の総数は可能性として一万四千程度、「両角手記」(註44)に記されているように、実数は降伏当初においても六千から八千程度であろう。
『本当はこうだった南京事件』(1999年)p.142十七日の『朝日新聞』によればその数一万四千七百七十七とあるが、戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』(朝雲新聞社)及び『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社)では非戦闘員を釈放して約八千、さらにその夜半数が逃亡したという。
板倉由明「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」『ゼンボウ 昭和60年4月号』全貌社 1985年4月 p.40十七日か十八日午後、(中略:第1大隊による捕虜連行、暴動、機関銃の一斉射撃)捕虜のほとんどが殺された。その数は三千ないし五千、日本側死者九であった。…ともあれ私としてはこの数を四千人と計上しておく。
板倉由明「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」『ゼンボウ 昭和60年4月号』全貌社 1985年4月 p.40
『本当はこうだった南京事件』では、投降者捕獲数として資料に残されている1万4777名前後という数字を否定し、12月17日の捕虜連行数が1万を超えるものではないという主張に費やされており、具体的な人数に関して論じる部分は少なかった。
そこで古い記述となるが、1985年の『ゼンボウ』誌の記事より引用した。ただし、この『ゼンボウ』誌の記事は、捕虜の殺害回数を12月17日・1回という認識で書かれている。12月16日・17日・2回という説が有力となった後、板倉氏の見解にどの様な変化したのかは示されていない。
Ⓐ投降者捕獲数
1985年時点の見解によれば、1万4777名を肯定的に捉えている。しかし、1999年の見解では、この人数をカウントするだけの兵力がなかったこと(『本当はこうだった』p.136)、幕府山付近で捕虜となり得る中国軍数の上限が1万4000名程度だったこと(前同p.142)を理由として「六千から八千程度」としている。
Ⓑ非戦闘員の解放/Ⓒ収容所火災による逃亡
ⒷⒸに関しては『戦史叢書』『郷土部隊戦記 第1』に基づく形で「非戦闘員の釈放」、「その夜(火災後)半数が逃亡」を述べている。これが単なる情報の紹介なのか、自身の見解として踏襲するのか判断しづらい。
Ⓓ捕虜殺害数
「ともあれ私としてはこの数を四千人と計上しておく」
初期の『ゼンボウ』(1985年)の見解では、1万4777名→非戦闘員解放→火災による逃亡→4000名としており、両角手記や『郷土部隊戦記』を踏襲していることが分かる。
一方で、『本当はこうだった』(1999年)では、投降者捕獲数を6000名~8000名としたが根拠資料は示されず、Ⓑ~Ⓓについても言及がない。
東中野修道氏
pp.154-155
…歩兵第百三旅団の前に、莫大な数の中国兵が「白旗」を掲げて投降してきたのである。数えてみれば、日が暮れる午後五時ごろまでに一万四千七百七十七名が投降していた。彼らは下関方面から、幕府山を通って紫金山北麓方面に逃げようとしていた逃走兵集団であったが、力が尽きたのか、その途中の幕府山で投降してきたのであった。
敵軍およそ一万五千が捕虜になるとは前代未聞のことで、「大殊勲」であったのであろう。早速、『大阪朝日新聞』が「両角部隊大殊勲 敵軍一万五千余を捕虜 南京にて横田特派員十五日発」という見出しの記事を掲載している。…p.156
この大量の投降兵集団のなかには、南京から逃げてきたという非戦闘員もいた。老兵もいた。女性兵士もいた。少年兵というにはあまりに幼い、十二歳の少年もいた。そこで非戦闘員などはどんどん解放されて、両角連隊長の「回想」では、捕虜約「八千名」が残った。pp.163-164
十二月十四日に投降してきた一万五千名は、非戦闘員などが解放されて、「約八千人」が残った。…
十二月十六日、やがて炊事が始まった午後十二時半ごろ、一棟から火が出た。煙はもうもうと上がり、大混乱となった。捕虜の計画的な放火だった。これを消火するため会津若松六十五連隊が走るなか、捕虜は次々と逃亡した。両角業作連隊長は「少なくとも四千人」が逃亡したと見た。残るは四千人となったが…
第一大隊の宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが、ともかく十二月十六日の夕刻に、捕虜の放火にたいする「最後のとるべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった。pp.167-168
「私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」、両角連隊長は十二月十七日夜、捕虜を対岸の草鞋洲(略)へ舟で送って解放せよと、第一大隊の田山芳雄大隊長に指示した。(中略)そう考えた両角連隊長は苦肉の策として、夜陰に乗じて舟で捕虜を北岸に送って解放することにした。 すでに述べたように、そのとき約二千人の捕虜は幕府山要塞の兵舎にいた。pp.171-172
東中野修道『再現・南京戦』(2007年)
つまり「暗闇」のなか、突然「北岸」の中国兵が攻撃してきた銃弾が、会津若松連隊の捕虜処刑と勘違いされ、捕虜が騒然となり、騒ぎが大きくなって、予想外の逃亡となり、ついに会津若松連隊の逃亡制止目的の発砲となり、それが暗闇のなか、友軍に当たってしまった、というよりほかない。
東中野氏が捕虜数の根拠としているのは、この文面からすると『大阪朝日新聞』、「両角連隊長の「回想」」⇒両角手記、「宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが」⇒歩65第4中隊 宮本省吾少尉及び同第8中隊高明少尉の各日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』所収)であることが分かる。しかし、なぜこれらの資料に根拠としての妥当性を見出したのか言及はない。
捕虜数の推移に関する東中野氏の見解は下記の通りとなる。
Ⓐ投降者捕獲数
「一万五千名」
Ⓑ非戦闘員の解放
「非戦闘員などが解放されて、「約八千人」が残った」
Ⓒ収容所火災による逃亡
12月16日「午後十二時半」(K-K註:午後0時30分)火災が発生、捕虜4000名が逃亡し、「残るは四千人となった」
Ⓓ捕虜殺害数
12月16日夕方残数4000名のうち約3000名もしくは1/3を「処罰」として銃殺、残数が約2000名となった。翌12月17日に関しては両角手記を引用する形で、残りの捕虜の解放および捕虜の暴動とその殺害の実施した旨が記述されている。
東中野氏の見解で特徴的なのは、12月16日の捕虜殺害は「処罰」であり、12月17日は解放しようとして失敗し殺害に至ったと推測している点だ。つまり、16日は罪に対する処罰という適法行為として説明し、17日は捕虜の解放の最中に捕虜側が起した暴動であり、制圧のための自衛行為だったと解釈する。両日ともに日本軍の行動に違法性を認めない見解で、東中野氏の強い意志を感じる内容だ。
また、12月16日の殺害数を、捕虜総数4000名のうち3000名もしくは1/3としながら捕虜の残り数を2000名としており、計算の合わない推測している点も特徴的と言えるだろう。
東中野氏の見解を概観すると、捕虜数の推移に関してはおおよそ両角手記に基いているが、12月16日の捕虜殺害数のみ宮本日記、遠藤日記を利用している。これは、両角手記には12月16日の捕虜殺害について触れられていないためだろう。
しかし、この宮本・遠藤日記の利用には問題がある。東中野氏はこれら日記に基づいて12月16日の捕虜殺害数を「約三千」もしくは「三分ノ一」だったとする。しかしこれらの日記の12月16日の捕虜殺害数は、宮本日記では「無慮万以上」のうちの「約三千」、遠藤日記では「捕虜総数一万七千二十五名」のうちの「三分ノ一」という認識であり、その結果として、12月17日の捕虜殺害数を宮本は「二万以上」(同日記12/17付)とし、遠藤は「一万余」(同日記12/17付)としているのである。つまり、これらの日記では捕虜の全体数に関して、東中野氏の見解とはまったく違う捉え方をしている以上、12月16日の記述だけを利用することは、資料の意図に反していると言わざるを得ず、不適当な引用方法である。
小野賢二氏や渡辺寛氏の研究で、両角手記における捕虜数の推移には事実とは違う部分がある旨の指摘がなされているにも関わらず、これら先行研究に対して何らの反論を行わずに両角手記に依拠するのは、およそ学術的な態度とは言えないだろう。
秦郁彦氏
p.316
秦郁彦『南京事件 増補改訂版』(2007年)
犠牲者数については、当初の一万四七七七人(魯甦証言の五万七四一八人に該当か)のうち民間人をすぐに釈放して半減、十六日の火事に紛れて逃亡する者もいたとされるが、十六日に残った捕虜(敗残兵が主体)の約三分の一、十七日に三分の二(合計して畝本は二千、板倉は四千、秦は八千人と推定)が殺害された。
本書の初版は1986年だが、ここで引用したのは2007年に増補改訂したもので、その際に追加された第9章・第10章「南京事件論争史 上・下」の中から引用した。
引用文で要点がまとめられているが、改めて捕虜数の推移を抽出する。
①投降者捕獲数
1万4777名
②非戦闘員の解放
「民間人をすぐに釈放して半減」
③収容所火災による逃亡
12月16日の火事発生時に「逃亡する者もいたとされる」
④捕虜殺害数
12月16日は全体の三分の一、12月17日は残り三分の二、全体数は8000名
捕虜殺害の日付・回数は『南京戦史』「新説」と同様に二日・二回説となっており、捕虜数の推移も『南京戦史』に近い内容となっている。『南京戦史』との違いとしては、12月16日の火事の際に逃亡した捕虜がいたか否かの判断をしていないこと、2回の捕虜殺害の人数割合を三分の一・三分の二としていること、殺害捕虜数の合計を8000名と推計していることだろう。
東中野氏同様に小野氏や渡辺氏の先行研究を考慮した様子は見られない。
小括

研究者の見解を表にまとめ小括とする。なお表中の表現には若干統一感に欠ける部分があるが、原文の表現に寄せたものと理解して欲しい。
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