【幕府山事件】大湾子の探索[04]検証

【幕府山事件】大湾子の探索 第13師団
【幕府山事件】大湾子の探索
【幕府山事件】大湾子の探索 総目次
1. はじめに
2. 先行研究
3. 資料
4. 検証
5. まとめ
6. 参考文献

地図

 最初に書いたように、大湾子を探る手掛かりは史料と地図とする。前項で検証したとおり、史料からは、捕虜収容所から4~6km、永清寺から下流1~2kmに位置すると判断した。そこで本項では、この史料上の位置を地図に当てはめて検証したい。

 本項の目的に沿う地図というのはかなり限定される。そのため、縮尺や年代、描写範囲を考慮し、実質的に使用可能な以下の3つの地図を用いる。

1.南京附近一万分一地形図(中華民国 参謀本部陸地測量総局 1932年航空測量 1933年4月製版 1934年1月印刷)
 本図は1万分の1の地形図とあって詳細な地形が判別できるが、測量時期が南京戦のあった1937年12月から5年前の1932年であり、南京戦当時の地形を知る上では若干古い地図と言える。
 国会図書館にはこのシリーズの地図の中で16枚が収蔵されているが、八卦洲が描かれている部分は収蔵されていない。その為め本項では、インターネット上で閲覧できる同シリーズの地図と組み合わせて使用する。

2.南京附近近傍図(2万5000分1、旧日本陸軍参謀本部陸地測量部 1937年8月製版・印刷)
 本図は旧陸軍参謀本部の陸地測量部で発行したもので、時期的に見ても、日中戦争が開始した盧溝橋事件以降に、軍事作戦で使用するために発行したものと思われる。
 アジア歴史資料センターで分割して所収されているものを復元した。
 他の地図と比較して、長江の河岸線のうち、南岸の草鞋街から旗守衛(幕府山西側)が河側へせり出しているのが特徴的である。陸地測量部1932年発行の南京五万分一図も同様の特徴が見られることから、本図の地形は発行時期より古い可能性がある。

3.天河口至南京 支那 揚子江(2万5000分1、旧日本海軍水路部 1938年6月)
 本図は第日本帝国海軍の水路部が昭和13年(1938年)6月30日に発行したもので、縮尺は2万5000分の1となっている。船舶航行に用いる水路図であり、詳細な水深が記されているのが特徴である。
 本図は国会図書館に所蔵されているが、同じタイトルの地図が、本図1938年以外に1936年と1925年のものがある。旧海軍が継続して水路図を作製していたことがわかる。

検証

 以上紹介した3つの地図を用いて大湾子の場所を検証する。検証方法は、上元門と永清寺をそれぞれ中心とする同心円を描き、距離を測定するという方法を取る。
 なお、これらの地図の中で、永清寺が描かれているのは、南京附近一万分一地形図しかない。そこで、最初に同図で上元門から永清寺間の距離を測定し、他の地図はこの距離に基づいて永清寺の位置を仮定する。
 また、資料による大湾子の位置として、捕虜収容所から4~6km、永清寺から下流1~2kmと判断したが、このうち捕虜収容所からの距離は、捕虜収容所の位置が不明確であるため使用は出来ない。したがって検証では、永清寺からの距離に基づいて大湾子の位置を判断する。

南京附近一万分一地形図

南京附近一万分一地形図 中華民国参謀本部陸地測量総局
南京附近一万分一地形図 中華民国参謀本部陸地測量総局

 赤い同心円は上元門を中心として1000mごとに、青い同心円は永清寺を中心に500mごとに描いている。
 上元門―永清寺間の距離はおよそ1300mであることがわかる。
 永清寺から下流1km~2kmの江岸には、ちょうど湿地と思われる場所が見られる(図中に緑色で付した部分)。この場所が大湾子だったのかもしれない。

 長江は増水期と渇水期では水位が大きく変化し、1905年のイギリス軍艦カドマス(Cadmus)の測量では最大の水位差は約5.5m(18ft)程度あったという(※1)。1905年の南京水標における月平均水位は右表の通りだが、南京戦があった12月は水位が下がる過渡期であり、12月の水位は増水期である10月と比較して2.5m程度は水位が低かったようだ。そうすると、この場所は乾上っていた可能性はあるだろう。

 また、箭内の証言によれば(※2)、12月17日の朝から、捕虜を集結させるための整備として、大湾子の「木や枯れたススキを切り払」う作業を実施したという。この時に出た木の枝などを放置していた為、捕虜の暴動が発生した際、捕虜の武器となったと述べている。この証言からは、大湾子に雑木が生えていたことに注目できる。
 地図を見ると、大湾子と思しき湿地(緑色にマークした地点)以外は、ほぼ田畑か果樹園の地図記号が描かれている。田畑や果樹園は一定程度の整備が行われているはずであり、箭内証言にあるような雑木が生えているとは考え難い。
 耕作がされていない湿地帯であれば雑木が生えていたと考えられること、永清寺からの距離とを併せて考えると、この湿地帯が大湾子だったと見做すことが出来る。

※1 水路部 編『揚子江水路誌』第1巻,水路部,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10304429 pp.140-141
※2 箭内享三郎准尉 第65連隊第1機関銃中隊
「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶となるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。」

南京市街近傍図(2万5000分1)

南京市街近傍図 25000分1 大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部
南京市街近傍図 25000分1 大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部

 本図には永清寺の位置が描かれていないため、先に示した南京附近一万分一地形図に基づいて、位置を仮定した。また、地図の縦横比が若干ずれていた為、修正を行っている。大湾子の場所(緑色に付した部分)は、先の図に準じて割り出している。
 この地図を見る限り、永清寺から下流1km~2kmの江岸は、江岸沿いに土手があり、多数の捕虜を集結することは難しいように見える。永清寺下流1200m~0mの地帯には、一定程度の平地があるように見えるが、詳細は判らない。

天河口至南京 2万5000分1

天河口至南京 2万5000分1 大日本帝国海軍水路部
天河口至南京 2万5000分1 大日本帝国海軍水路部

 本図には、先の南京市街近傍図と同様に永清寺は描かれていないので、上元門から1300mの距離に位置を決定した。先の二つの地図と比較すると河岸線がかなり異なっている。
 大湾子の位置は、永清寺下流1km~2kmの江岸と割り出した。
 本図は主な目的は船舶航行に供するものであり、水深や航行の目印となる地物を中心に描かれているので、道路や建物の描写の正確性は低いと思われる。

ヘッダ・モリソン

 ヘッダ・モリソンは、ドイツのシュトゥットガルド出身で、1933年から中国で写真店や観光写真の撮影・販売などの職に就く傍ら、中国国内を撮影した写真家だった。モリソン氏の写真は、現在、ハーバード大学図書館のサイトで閲覧することが出来る(※1)。
 モリソン氏の写真の中で、「Nanking」というタイトルの写真がかなりの数ある(検索では941枚ヒットする)。その中のいくつかは長江を写した思しき写真があり、さらに幕府山から撮影した可能性のあるものも複数ある(Xアカウント@ZF_phantomのブログより示唆を受けた)。

 下図に示す写真もその中の一枚だが(※2)、地図と照合するとかなり部分で地形が一致することが判明した。興味深いことに、先の検証で推定した大湾子の一部が写されている。下図には、写真と地形図と照合した結果のうち主要な一致点を示した。
 この写真自体は、何かを証明するような要素は少ないが、当時の長江岸の田園風景が如何なるものかをイメージする資料と言えるだろう。

ヘッダ・モリソン 写真「南京」と南京附近一万分一地形図の照合
ヘッダ・モリソン 写真「南京」と南京附近一万分一地形図の照合

※1 HARVARD LIBRARY HOLLIS https://hollis.harvard.edu/primo-explore/search?vid=HVD2&lang=en_US
※2 https://images.hollis.harvard.edu/permalink/f/100kie6/HVD_VIAolvwork604160

小括

 前項で明らかになった史料上の大湾子の位置である、捕虜収容所から4km~6km、永清寺下流から1km~2kmを、三つの地図に照合させて大湾子の位置の探索した。この三つの地図は、それぞれ河岸線や地物がかなり異なる描かれ方をしているが、それでも大湾子のおおよその位置は掴めたと思う。なかでも南京近傍一万分一地形図で明らかにした大湾子の位置(緑色に付した湿地帯)は、箭内証言の大湾子の状況とも一致する部分があり、有望ではないかと思われる。

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