先行研究
これまでの研究や言説において、大湾子の位置についてどの様に述べられてきたかを確認する。
本多勝一氏
本多勝一氏は、『朝日ジャーナル』での連載「南京への道」の第21回「大殲滅戦展開さる その5」(1984年9月7日)、第22回「大殲滅戦展開さる その6」(1984年9月14日)で幕府山事件について取り上げている。
その中で、右に示す略図を用いて大湾子(図中では「捕虜の処理現場」)の位置を示している。この地図で示した大湾子の位置の根拠は、栗原利一伍長(歩65第2中隊)の証言とスケッチだという。
栗原証言によれば、大湾子までの道程を「廠舎(K-K註:捕虜収容所)を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、四キロか五キロ、長くても六キロ以下の道のりを歩いた」と述べている。
捕虜収容所の位置は「幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さんは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている」とする。このスケッチ自体は掲載されなかったものの、スケッチに基づいて描かれたイラストが掲載された(右図参照)
以上をまとめると、本多氏が大湾子の位置を特定した根拠は栗原伍長の証言とスケッチで、捕虜収容所は幕府山の南麓、殺害現場となった大湾子は幕府山の北麓側の長江沿い、連行ルートは幕府山を西周りに迂廻した場所で、連行距離は4km~6kmだったということになる。
未だ資料が出揃う前の見解であり、大湾子の場所を特定するという意味では正確性に欠けると思われる。本多氏が示した大湾子の場所は、かなり上元門に寄っているように見える。
ただし、ここで示された略図は、南京城や幕府山、捕虜殺害現場の位置関係を視覚化することが目的なのだろうから、この様な大雑把な略図に対して厳密な正確性を求めることが的外れと言えるだろう。
板倉由明氏
板倉由明氏は、大湾子と捕虜収容所の位置に関して、本多氏、洞富雄氏、和多田進氏と壮絶な論戦を展開した。論戦の内容については本稿で触れないが、議論の結果として、板倉氏は大湾子の位置についての見解を変えることになった。
板倉氏と本多・洞・和多田三氏との議論のきっかけとなったのは、板倉氏の「松井石根日記の改竄について」(『文藝春秋』1986年1月号)という文章で、先の本多氏が示した大湾子の位置が「まったく間違っている」と評したことだ。板倉氏がこの際に示したのが右図となる。
左右二つある略図のうち、左側は先に示した本多氏の「南京への道」の中で示した図で、右側は板倉氏の主張する大湾子の位置となる。本多氏が示した位置と比較すると、かなり東側に大湾子があったと主張してる。この判断の根拠は、前出の栗原証言「(捕虜収容所から大湾子は)四キロか、五キロ、長くても六キロ以下の道のり」だという。
『月曜評論』1987年1月19日・2月2日では、板倉氏が作成した「南京北部」図を示して、詳細を説明している。(右図参照)
板倉氏はこの略図について「五万分の一の地図を必要部分だけ判り易く直したもの」と説明している。また、図中のアルファベットについては「A付近=本多氏主張の捕虜処理現場、B付近=板倉主張の現場、P=長江側にまわりこむ地点、S=廠舎(収容所)があったと推定される場所」(板倉由明「本多勝一記者批判(その2)」『月曜評論』昭和62年2月2日)と説明する。
板倉氏は図中右上にある観音門の西側のB地点を捕虜殺害場所とし、一方で、その直ぐ西側の地域(B´点線)を大湾子の位置と主張している。つまり、捕虜殺害現場と大湾子は一致していないというのが特徴的だ。

さらに『月曜評論』1987年1月19日号の記事では、自説の裏付けとして鈕先銘『還俗記』を挙げ、次のように述べている。
この本には光華門守備の工兵大隊長だった鈕氏が、南京脱出後坊主に化けて観音門(上元門は誤り)永清寺に潜伏中実見した、寺の西、上流約一キロの「大湾子」(「南京北部」のB´)での日本軍の捕虜虐殺と死体処理の話があり、戦後の出版だが資料価値がある
板倉由明「本多勝一記者批判(その1)」『月曜評論』1987年1月19日号
鈕先銘が目撃した事件は山田支隊による捕虜殺害であり、大湾子は鈕が潜伏していた永清寺の「西、上流約一キロ」の地点B´という。これらは板倉氏の主張を裏付けているというわけだ。
『月曜評論』1987年11月3日号の「本多勝一記者批判(その4)」では、板倉氏作製「南京北部」図で示した永清寺の位置を裏付ける根拠を提示している。(右図参照)
かなり不鮮明な地図ではあるが、引用した地図は「南京市街近傍図 1/25000」の一部で、観音門付近を拡大したものだ。この図の中に「永清寺」と付記している吹き出し先に「永清寺」と描かれているというのが板倉氏の主張である。
以上、板倉氏の主張をまとめると、銃撃現場となった大湾子が「南京北部」図のB地点である根拠は、以下の3点となる。
- 栗原証言=大湾子は捕虜収容所から「四キロか、五キロ、長くても六キロ以下の道のり」
- 鈕先銘『還俗記』=捕虜殺害現場である大湾子は永清寺の西、長江上流1キロ地点
- 南京市街近傍図=永清寺の位置
しかし、板倉氏の主張にはかなり問題があることが、洞富雄氏・和多田進氏によって指摘されている。以下、洞富雄・和多田進「改竄したのはだれか・板倉氏批判」(『南京大虐殺の現場へ』)の第4章「捕虜処刑現地の確認――板倉氏の永清寺燕子磯所在説の破綻――」から紹介する。
板倉説の中でもっとも致命的なのは、南京市街近傍図で示した永清寺の位置だ。
板倉氏はかなり不鮮明な地図によって、観音門西方にある寺名を「永清寺」と読んだ。しかし、画像で示したように、永清寺のうち「永」と「寺」の字が読み取れるが、間の「清」は字がつぶれて判読が難しい。
ところが、洞氏らは、板倉氏が根拠とした「南京市街近傍図」の鮮明な画像を基に、板倉氏が「永清寺」と読んだ寺名が、実際には「永済寺」であることを証明したのである。なお、右に示すのは現在閲覧可能な南京市街近傍図の観音門付近を切り抜いた図だが、観音門西方にある寺は「永済寺」であることに間違いがない。
また、洞氏らは別の地図(南京附近一万分一地形図)をもって永清寺の本当の位置を特定した。それは、上元門―観音門道の上元門から約1200mほど進んだ幕府山側に位置していた。
つまり、板倉氏の主張する大湾子の位置の根拠が明白な形で否定されたのである。
さらに、板倉氏が根拠とした鈕先銘の記述にもかなり致命的な問題があることを、洞氏らは指摘している。この点に関しては、後の資料紹介の際に説明したい。
洞富雄氏
洞富雄氏・和多田進氏の見解はシンプルである。
まず、村上桂山氏所蔵の一万分一図より、永清寺の位置を割り出す。
その永清寺の位置を、「首都〔南京〕附近軍要図」(右図)に当てはめ、鈕先銘「南京大屠殺目撃記」(『百姓』誌1986年7月1日号掲載、『還俗記』の記述を約半分の量に削除再編したもの)にある大湾子の説明文「長江河流的灣曲部份」と一致する場所を見繕い、図中の④の位置が大湾子と推定している(洞富雄・和多田進「改竄したのはだれか・板倉氏批判」『南京大虐殺の現場へ』pp.153-154)。
言及はないものの、鈕先銘が書いた「永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある」(『還俗記』)も考慮されていると思われる。
なお、村上桂山氏所蔵の一万分一図について、洞氏は次のように説明している。
この地図は縮尺一万分の一の切り図一六枚を南京市街を中心に貼りあわせた多色刷りの精巧な地形図である。製作年代は明確ではないが、本地図の所蔵者村上桂山氏は「昭和七年から一二年の間に作製されたと考える」と言われている
洞富雄・和多田進「改竄したのはだれか・板倉氏批判」『南京大虐殺の現場へ』p.153
この説明からすると、この地図は現在、国会図書館に所蔵してある参謀本部陸地測量総局発行の南京附近一万分一図と同種のものと思われる。ただし「切り図」「貼りあわせた」と表現していることから、16枚の地図の枠を切り取り、地図面を貼り合わせて一枚の大判に改造したもののようだ。地図タイトルや製作時期、発行者名が記されていないのは、切り取られた枠にそれらが書かれている為に見ることが出来なかったのかもしれない。
阿部輝郎氏
阿部輝郎氏の検証過程を示すと次のようになる。

A)阿部氏は一万分一図(洞氏提示の同種と思われる)より永清寺の場所を測定し、それを基に現地調査で永清寺跡を突き止めた。さらに永済寺跡付近の現地市民へ取材し、「永清寺から一キロほど下流の河川敷の一角」を指し大湾子かもしれないと聞く。
この取材結果に基づいて「さまざまな証言からみて、恐らくここであろう。上元門から歩いて四キロほどの道のりであり、広い河川敷である。おあつらい向きに砂洲もある」と述べる。
さらにその場所で釣りをしていた林氏より、「このあたりから人骨が出た」、「観音門――ほら、あのあたりで川が湾曲しているんで、あのあたりが多かったらしい」と聞き、「銃撃事件はこの河川敷だったと私は確信らしいものを持った」とも述べている。(『南京の氷雨』pp.132-134)
B)「永清寺か永済寺か――。現地を歩いてみてわかるのは、本多氏のいう永清寺は確かに存在するが、残念ながら十七日の虐殺現場はそこでないように思う。そして板倉氏のいう永済寺もそうではない。(略)
私が歩いてみて感じたのは、永清寺と永済寺のほぼ中間――ということである。そしてそこが「大湾子」の砂洲である。」(『南京の氷雨』p.146)
C)「板倉氏は同じく田中証言(註:栗原証言)や鈕先銘指摘の結果から、永済寺説に傾き、観音門(燕子磯)の五万人虐殺に引きずられたように思う。ただ板倉氏は観音門に寄った江岸が大湾子としており、ほぼ正確だと思う。」(『南京の氷雨』p.147)
以上をまとめると、阿部氏は、永清寺の位置は一万分一図を根拠にし、殺害現場となった大湾子の位置は現地住民からの取材に基づき推定している。
しかし、この阿部氏の説明には疑問点がある。
- Aの説明では、大湾子の場所は「永清寺から一キロ下流の河川敷」であり、「上元門から…四キロほどの道のり」だというが、この前者と後者で示す場所には1.7キロほど距離があり整合性がとれていない。また、地図で示された阿部氏推定の大湾子の場所は、両者のいずれもからズレているように見える。
- Bの説明で「永清寺と永済寺のほぼ中間」に大湾子が位置すると述べているが、地図で示された阿部氏推定の大湾子は中間地点とは言えない。距離を割合で示すならば、おおよそ永清寺8:永済寺2ぐらいに見える。
- Cの説明では、「板倉氏は観音門に寄った江岸が大湾子としており、ほぼ正確だと思う」と述べているが、板倉氏は「永清寺」と「永済寺」を取り違えて論じていたことが明らかになっており、その板倉氏の見解が「ほぼ正確だと思う」というのは論理的におかしい。
南京戦史
『南京戦史』の説明には、初版1989年と増補改訂版1993年で違いが見られる。以下、比較してみよう。
『南京戦史』(初版)1989年
「この約四千を釈放するため十七日夕観音門付近に連行したが、何らかのはずみでパニックを惹起し、我が方に将校一、兵六名の犠牲者を生じたので、護送部隊は自衛のため機関銃をもって暴動捕虜群を制圧、約千名を射殺したが、その他は逃亡した。」pp.324-325
『南京戦史』増補改訂版1993年
「この約四千を揚子江対岸に釈放するため十七日夕江岸に連行したが、何らかのはずみでパニックを惹起し、護送部隊は自衛のため機関銃をもって暴動捕虜群を制圧、約千名を射殺したが、その他は逃亡した。」p.325
「翌十七日午後、入城式参加部隊を除く歩六五の主力をもって、残りの捕虜(約五千人程度か)を中洲(八卦洲・草鞋洲)に釈放する目的で上元門下流約三キロの江岸に連行したところ再び暴動状態となり、我が方にも将校一、兵五の犧牲を出すに至ったので、機関銃八挺をもって同日夕方から深夜にかけて暴動集団の主力を制圧し残余は逃走した。」p.325
幕府山事件の見解で、初版と増補改訂版で根本的に違うは捕虜連行の回数だ。捕虜連行に関して、当初は12月17日の1回のみと考えられていたが、後に資料発見と研究が進み、12月16日と17日の2回とするのが主流となった。これは否定論・肯定論ともに見られる見解の変化と言えるだろう。
一方、大湾子に関しては、初版は「観音門付近に連行した」と述べているが、増補改訂版は「上元門下流約三キロの江岸に連行した」と述べている。
初版の「観音門付近」というのは、先に示した板倉説に準じた説明であるが、これが間違いであることは既に説明した通りである。そのこともあってか、増補改訂版では「上元門下流約三キロの江岸」と変更したものと推察する。南京戦史編集委員会に板倉氏も参加していることを考えると、この部分の説明は板倉氏の見解が強く反映されているものと思われる。
なお、以下に示す『南京戦史資料集』に掲載された「幕府山近傍図」では、永清寺と永済寺の場所は、初版から正確な位置が記されており、『南京戦史』の説明と矛盾する内容となっている。
資料集(初版・増補改訂版共に)の栗原証言・スケッチを紹介する節に掲げられた「幕府山近傍図」は、板倉氏が作製した「南京北部」図とかなりに似ている。この図もまた、板倉氏の見解が反映されていると見るべきだろう。
その「幕府山近傍図」の中でⅡとⅢと付されている場所があり、図中の説明書きには、「Ⅱ 大湾子?」、「Ⅲ 大渦子?」と書かれている。初版の「Ⅲ 大渦子?」の下に「(阿部説)」と書かれているのが、増補改訂版で削除されているという違いが見られる。(下図参照)
なぜこの様な修正に至ったか推察してみたい。
初版と阿部『南京の氷雨』の発行年は1989年で同じ時期の発行となっており、初版執筆時に『南京の氷雨』は発行されていなかった。それでも「阿部説」と書くことが出来たのは、初版執筆時に阿部氏から大湾子の位置に関する見解の説明を受けたからだろう。しかし、その時の意思疎通に問題があり、阿部氏が大渦子を殺害現場と考えていると誤解してしまい、「Ⅲ 大渦子?」の下に「(阿部説)」と図に書いてしまった。その為、増補改訂版では修正したのだと思われる。
実際、『南京の氷雨』を読む限り阿部氏は17日の捕虜連行先を「大湾子」としており、大渦子は大湾子より東の観音門附近としている。大湾子の位置は「南京北部の幕府山一帯関係図」(同書p.34、上掲)を見る限り、Ⅲで示された位置より西側を示している。
東中野修道氏
『再現 南京戦』
すでに述べたように、そのとき約二千人の捕虜は幕府山要塞の兵舎にいた。天野三郎(仮名)少尉が十二月十七日午後四時半に書いた軍事郵便によれば、彼らは幕府山の「砲台下支那軍廠舎」(二五二頁)に収容されていた。捕虜の集結地点は「幕府山北側の揚子江南岸」であったから、幕府山砲台下の中国軍兵舎を出発した会津若松六十五連隊第一大隊は捕虜を護送しながら約一キロ北上して、「揚子江南岸」に出た。そこは揚子江南岸の「上元門」であった。
一五三頁の地図を見ると、そこには対岸の草鞋洲とを結ぶ船着き場が二カ所ある。その船着き場は、両角連隊の本部となっていた「支那海軍の海兵団」(三七頁)ないしは「支那軍の水雷学校」(一六六頁)、すなわち地図上の「水魚雷営」(Chinese Naval Depot)から見ると、東に三〇〇メートルの地点であった。船着き場は、「砲台下支那軍廠舎」(二五二頁)の捕虜収容所からは北に直線距離で七〇〇メートルの地点であった。※K-K註:括弧内のページ数は、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店 1998年3月14日)のページに対応している。
p.168
本稿主題に沿って東中野氏の見解をまとめるならば、大湾子の位置は略図p.153の丸部分、つまり水魚雷営から下流「三〇〇メートル」の地点ということになる。なぜ、この場所と判断したのか具体的な説明はない。文中にある「船着き場」が根拠と推測される。
しかし、この東中野氏の見解はかなり問題がある。
既に見てきた通り、大湾子の位置に関しては、捕虜収容所から4~6kmの距離とする証言や永清寺から下流1~2kmとする史料があり、いくつも先行研究が発表されている。これらを全て無視する形で論理を展開するというのは、学者として如何なものだろうか。
捕虜収容所と殺害現場の位置関係も疑問がある。
収容所と殺害現場の距離は、道程として「約一キロ北上」、直線距離は「北に…七〇〇メートル」だったという。ところが、東中野氏は捕虜収容所を位置を特定していないため、ここで示された距離はまったく検証することが出来ない。
p.153の地図も疑問がある。
この中の上図は南京城と八卦洲を含む広範囲の地図であり、その中の拡大図が下図「幕府山砲台」となっている。
上図は、おそらく旧日本軍参謀本部が作製したものと思われる。
一方、下図「幕府山砲台」の南岸側(煤炭港~幕府山側)の地形は中華民国参謀本部陸地測量総局作製の南京附近一万分一地形図とかなりの部分で一致する。また私の知る限り、東中野氏が主張する位置に渡船航路を描いたものは同図しかない。しかし、北側の八卦洲の河岸線は一万分一図の八卦洲の河岸線と一致しない。おそらく、別の地図から持ってきたのものと思われる。
なぜ、この様に地図を合成しているのかはおおよそ見当がつく。国会図書館に所蔵されている一万分一図には、南岸部分までしか所蔵されていないからだ。私は別ルートで同図の八卦洲や北岸の河岸線を確認できるのでこの指摘ができた。
問題なのは、殺害現場であると判断した根拠を地図中の「船着き場」としているにも関わらず、地図の素性を明らかにしていないことだ。この様に検証可能性をつぶすような手法は、科学的とは言えるはずもない。
小括
先行研究として6例を紹介した。
その内の本多氏の見解は、そもそも大湾子の位置と特定する目的で描かれたものではない為、参考とはならない。
板倉氏は、洞氏・和多田氏との論争でその見解の決定的な誤り指摘されており、参考とはならない。
東中野氏は、先行研究や資料を無視した見解であり、かつその根拠もかなり薄弱であることから、参考とすべきではない。
残るは、阿部氏、南京戦史、洞氏の各見解となる。洞・和多田「幕府山の捕虜処刑に関する「新説」批判――さようなら板倉氏」『南京大虐殺の研究』p.156の第5図に、三者の主張する大湾子の位置を地図上にまとめられているので以下に示す。

『南京大虐殺の研究』洞富雄・藤原彰・本多勝一 晩聲社 1992年 p.156
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