【幕府山事件】大湾子の探索[03]資料

【幕府山事件】大湾子の探索 第13師団
【幕府山事件】大湾子の探索
【幕府山事件】大湾子の探索 総目次
1. はじめに
2. 先行研究
3. 資料
4. 検証
5. まとめ
6. 参考文献

資料

 12月17日の捕虜殺害場所となった大湾子、その位置に関連する資料を紹介する。

平林貞治少尉 第65連隊連隊砲中隊
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199
出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。

『南京の氷雨』(1989年)p.108-109
私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。

箭内享三郎准尉 第65連隊第1機関銃中隊
私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです

『南京の氷雨』 p.98-100

栗原利一伍長 第65連隊第2中隊
『毎日新聞』1984年8月7日
 栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。

本多勝一『南京への道』pp.307-318
廠舎を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、四キロか五キロ、長くても六キロ以下の道のりを歩いた。

『南京戦史資料集1』pp.659-660
二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。

鈕先銘『還俗記』
「永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。
 当然、あの機関銃の音がした日から一〇日以上たってからであるが、我々はようやく、鬼子兵が大湾子で機関銃を用いて我らが同胞の俘虜兵二万以上を虐殺したことを知ったのだ。」

「永清寺から大湾子までは約一キロ余りの道のりである。」

「永清寺から長江の上流にあたる虐殺地点まで一キロ余り離れているので、冬の西北風が東南に向って吹いてもそこまで臭うことはなかったが、途中まで行くと臭いが鼻をついて耐えられなかった。」

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.238-244

唐光譜「私が経験した日本軍の南京大虐殺」
 六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。その後敵は銃剣でこの群衆を整列させ老虎山に向かって歩かせた。そのとき人々は腹が空いて気力もなくなっていた。敵は隊列の両側で、歩くのが遅い人を見るとその人を銃剣で刺した。十数里歩くともう暗くなった。敵は道を変えて私たちを上燕門の河の湿地から遠くない空き地に連れていった。六日六晩食物を与えられず、たくさんの道を歩いたので、一度脚を止めるともう動けなくなって地面に座り込んで立ち上がれなかった。一時間の間、その場には数えきれないほどの人が座っていた。

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.250-253

鈕先銘手記について

 鈕先銘手記については、板倉氏と洞氏・和多田氏の間でも論点となっていた。ここでは、論戦については言及しないが、大湾子の位置に関する主要な論点のみ紹介する。なお、本項の記述は、洞富雄・和多田進「改竄したのはだれか・板倉氏批判」(『南京大虐殺の現場へ』)第3章を参考としている。

 まず、前提として鈕先銘手記の出版の時系列について紹介する。洞氏・和多田氏の説明を要約すると次のようになものとなる。
 『還俗記』は1973年に台北市の中外図書出版社から発行された。その後、「編集者が原本(K-K註:『還俗記』)の記述を約半分の量に削除再編したもの」を「南京大屠殺目撃記」(以下、目撃記とする)と題し、『中外雑誌』1982年11月号(台湾)、『百姓』1986年7月1日号(香港)に掲載され、さらに『日本在華暴行録』(国史館編印、1985年10月、台湾)に転載された。

 『還俗記』と「目撃記」には、大湾子の位置に関して二点異なる記述をしている。

 一つは大湾子と永清寺の位置関係だ。
 『還俗記』では「在(二)永清寺下游一両公里的沿岸(一)、有(下)一個叫倣(二)大湾子(一)的地方(上)」(永清寺から下流約1~2キロの江岸沿いに、大湾子と呼ぶ場所がある)とする。
 これが「目撃記」では「在距離寺廟上游一公里多的江辺、有一塊地名叫倣大湾子」(寺廟から1キロ以上上流の江沿いに、大湾子と呼ばれる土地がある)とする。
 つまり、永清寺から見て大湾子の位置は、長江の上流にある(目撃記)か、下流にある(還俗記)かで記述が分かれている。ただし、『還俗記』の中の別所には「上流」と記述する部分もあるので、若干、議論が複雑となっている。

 二つ目は、捕虜が江岸へ連行される際に永清寺前を通過したが、その時の捕虜の進行方向である。『還俗記』では「由(レ)西而東」(西から東へ)とし、「目撃記」では「由(レ)東而西」(東から西へ)とし、真逆の表現となっている。

 『還俗記』と「目撃記」の記述のどちらが正確なのか?

 二つ目の捕虜の進行方向については位置関係としては明瞭で、捕虜連行の列は、上元門を通って東(長江下流)へ進行し、途中の永清寺の前を通過したのだから、永清寺の前は西から東へ捕虜が通ったことになる。したがって、『還俗記』記述が正しい。

永清寺前の捕虜の進行方向
永清寺前の捕虜の進行方向

 一つ目の大湾子の位置が永清寺の上流か下流かという問題。
 内容をもう少し整理すると、『還俗記』では下流とする記述、上流とする記述の両方があり、「目撃記」では「上流」とする記述がある。この資料状況だけを見ると、大湾子は永清寺の下流にあった考える方が妥当の様にも見える。
 ただし、先に述べた通り、捕虜連行の列は永清寺の前を通過したと述べられている。そうすると、仮に大湾子が永清寺から見て長江上流にあった場合、永清寺の前を捕虜の列が通過することはありえない(右図)。したがって、大湾子は永清寺から見て下流に位置していたことになる。

大湾子が永清寺上流にあった場合
大湾子が永清寺上流にあった場合

小括

 12月17日の捕虜連行場所である大湾子の場所の資料を見てきた。
 捕虜収容所から大湾子の距離は、平林2km、4km、箭内4~5km、栗原4~6km、唐広普「十数里(1里=500m)」で、おおよそ4~6kmとするのが妥当だろう。
 また、鈕先銘手記より、永清寺の下流1~2kmことも分かった。
 鈕先銘は、大湾子へ行ったのは1回だけで、若干、信憑性に疑問がないことはないが、2ヶ月以上は現地に滞在しており、その間、地域住民とも交流があったようである。したがて、数日しか幕府山にいなかった山田支隊の将兵よりは地理に明るかったと判断できる。

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