【幕府山事件】銃撃時の捕虜逃亡

銃撃時の捕虜逃亡 第13師団
銃撃時の捕虜逃亡

はじめに

 幕府山事件とは、南京事件における捕虜殺害事件の一つで、日本軍の第13師団の部隊で編成された山田支隊が、南京北東に位置する幕府山付近で捕虜とした中国軍将兵を、臨時の捕虜収容所へ収容し管理した後、長江岸へ連行し殺害した事件である。
 基本文献である『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社、1964年)によれば、山田支隊が12月17日に長江岸の大湾子へ連行した状況を次のようには述べている。捕虜を解放するため約4000名の捕虜を江岸へ連行したが、不慮の暴動が発生し、日本軍は暴動鎮圧のために銃撃をした結果、約1000名が死亡し、残りは逃亡した。つまり銃撃で殺害した捕虜は25%に止まり、残りの75%は逃亡したというのである。
 ところが、銃撃時の捕虜の動向を示す資料の中には、捕虜の逃亡が無かったと述べるものや、その数は少なかったとするものがある。また、逃亡が多くあったとする資料に関しては、史料批判が不十分な状況が見受けられる。
 捕虜逃亡数の多寡は裏返すと捕虜殺害数に直接影響を与えるものであり、延いては事件規模や、日本軍の捕虜へ強い殺意や殺害への積極性を裏付ける一つの根拠にもなり得るものであり、一定程度、事件の性質を左右する材料と言えるだろう。

先行研究の紹介

 まずは銃撃時の捕虜逃亡について、研究者がこれまでどの様に論じてきたのかを紹介する。

『郷土部隊戦記』(1964年)

 翌朝、江岸には不幸な捕虜の死体が残った。しかしその数は千人を上回った程度で、ほとんどは身のたけはゆうにある江岸のアシを利用し、あるいは江上にとび込んで逃亡したのである。
※K-K註:捕虜連行数は「約四千人」(p.112)としている

『郷土部隊戦記 第1』p.112

 本書は自衛発砲説が初めて述べられた文献であり、後続の見解に大きな影響を与えている。直接引用はされていないものの、そのストーリーは両角業作大佐(歩兵第65連隊長)の残した手記と概ね一致する。しかし、両角手記では捕虜の殺害数を「僅少の数」「少数」とするが、本書で示した「千人を上回った程度」という具体的な数字には言及しておらず、本書の記述と異なっている。
 本書によると、捕虜を連行したのは12月17日の1回で、その時の連行数を約4000名とし、銃撃の結果、「不幸な捕虜の死体…は千人を上回った程度」というので、約3000名は銃撃の際に逃走したという認識になる。

戦史叢書(1975年)

これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
※K-K註:捕虜連行数は4000名としている(p.437「非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。」)

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』(1975年)p.437

 『戦史叢書』は防衛庁防衛研修所戦史室(当時)で編纂された戦史である。
 本書の記述は概ね『郷土部隊戦記』の内容を踏襲しており、捕虜連行は12月17日の1回、連行数は約4000名、銃撃の結果「捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡」したとする。

『ふくしま 戦争と人間』(1982年)

 いずれにしても四千人前後の捕虜のうち、暗夜の騒動で大半は逃亡したが、一割前後は銃弾に倒れたといえる。

『ふくしま 戦争と人間』(1982年)p.129

 本書は福島民友新聞の連載をまとめたもので、南京事件に関する記述は先に紹介した『郷土部隊戦記』と類似する内容となっている。ただし、捕虜逃亡に関して若干異なる記述となっている。
 両書ともに捕虜連行数を約4000名としながら、殺害数については『郷土部隊戦記』では「約一、〇〇〇名」(逃亡3000名)とするが、本書では「一割前後」(殺害400名:逃亡3600名)とする。この見解の変更について説明はない。

板倉由明氏(1985年)

十七日か十八日午後、(中略:第1大隊による捕虜連行、暴動、機関銃の一斉射撃)捕虜のほとんどが殺された。その数は三千ないし五千、日本側死者九であった。…ともあれ私としてはこの数を四千人と計上しておく。
※K-K註:捕虜連行数は4000名としている(『郷土部隊戦記』『戦史叢書』に基づく)

板倉由明「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」『ゼンボウ  昭和60年4月号』全貌社 1985年4月 p.40

 ここで紹介する板倉氏の見解は捕虜の殺害回数が1日1回説だった時のもので、その後、2日2回説が主流となって以降、見解の変化があったかの記述は見当たらない。同氏は『南京戦史』(後述)の編集委員会に加わっていることから、『南京戦史』と一致する見解へ変化した可能性はある。
 引用した記述によれば、銃撃時の捕虜逃亡に関しては「捕虜のほとんどが殺された」としている。

小野賢二氏(1992年)

逃亡は、虐殺時に仮にあったとしても数十人から多くても数百人まで。何千人も逃亡したとは考えられない。

本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」(『南京大虐殺の研究』1992年)p.132

 小野氏は逃亡数を「数十人から多くても数百人」と述べているが、「仮にあったとしても」という前置きをしているので、基本的には逃亡はなかったものと考えていることが読み取れる。しかし、これらの主張の根拠は明示しおらず、自身で収集した「証言や資料をまとめた結果」として述べている。上掲の見解をどのように導き出したのかは言及がないが、「証言や資料」の中に銃撃時に捕虜が逃亡したとするものがほぼ無かったということだろう。

『南京戦史』(1993年)

 十二月十六日夕、歩六五第二大隊は捕虜五百~二千人を中国海軍碼頭(魚雷営?上元門上流約一キロ)付近に連行(目的は釈放のためといわれているが判然とせず)したところ、騒乱状態となり、日本軍護送兵一名が殺されるという状態になったので、第二大隊は暴動鎮圧のため機関銃四挺をもって同日夜、暴動集団の主力を制圧した。射殺死体は同夜中に護送部隊のみで江中に投棄できる程度の数だったという。
 翌十七日午後、入城式参加部隊を除く歩六五の主力をもって、残りの捕虜(約五千人程度か)を中洲(八卦洲・草鞋洲)に釈放する目的で上元門下流約三キロの江岸い連行したところ再び暴動状態となり、我が方にも将校一、兵五の犧牲を出すに至ったので、機関銃八挺をもって同日夕から深夜にかけて暴動集団の主力を制圧し残余は逃走した。状況より判断して射殺数は二千ないし三千人程度と思われるが、確認した記録はない。

『南京戦史 増補改訂版』(1993年)p.325

 本書は「旧説」である捕虜連行1日1回説と(戦史叢書、ふくしま戦争と人間、鈴木明『まぼろし』)、「新説」である捕虜連行2日2回説(阿部輝郎『氷雨』)を紹介した上で、これらの説を「総合して判断」したものと説明している。

 その内容は、12月16日の魚雷営への連行では捕虜数を「五百~二千人」とし、殺害数を「射殺死体は同夜中に護送部隊(K-K註:第2大隊)のみで江中に投棄できる程度の数だった」とするが、逃亡の有無に関して言及がない。

 「射殺死体」の数に関する記述は意図が不明瞭だ。仮に連行してきた捕虜をすべて殺害したならば連行数=死体数となるが、本書では死体数は「護送部隊」が「江中に投棄できる程度の数だった」と曖昧な記述になっている。連行数が分からない(もしくは見積もりに幅がある)からこの様な表現をとったのか、連行数と死体数に開きがある、つまり一定数の逃亡があったことを示唆しているのか。本来、謎を解くべき文章のはずが、謎を謎を掛けるような文章を書くのは如何なものかと思う。

 この時に捕虜を連行した部隊を「第二大隊」とするが、この見解には首肯しかねる。確かに、第2大隊の角田栄一少尉(第2大隊第5中隊長代理)は16日の捕虜連行を主導した旨の証言を行なっている(※1)。一方で、第2大隊の中ではこの日に角田以外で捕虜連行に関わったと述べる者はいない。当時、捕虜の管理は第1大隊が主力だったと考えられ(※2)、12月16日の日記を見ると、遠藤高明少尉(第8中隊)は「Ⅰ(K-K註:第1大隊)に於て射殺す」(※3)、宮本省吾少尉(第4中隊)は「大隊(K-K註:第1大隊)は最後の取るべき手段を決し、捕慮…を射殺す」(※4)、荒海清衛上等兵(第1大隊本部)は「捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す」(※5)と書いている。これらの資料からすれば、捕虜連行の主要部隊は第1大隊だったと考えるべきだろう。

 12月17日の大湾子への捕虜連行については、捕虜数を「約五千人程度」とし、殺害数を「二千ないし三千人程度」とするので、逃亡数は2000名~3000名ということになる。
 17日の殺害数(射殺数)について「確認した記録はない」と述べているが、それは16日の連行数や殺害数、17日の連行数に関しても同様である。にも関わらず、17日の「射殺数」についてのみこのような言及をするのは、2000名~3000名という殺害数は不確定であり、これよりも少ない可能性があることを暗示し、延いては相当数の逃亡があったことを印象付ける意味があるのかもしれない。

 『南京戦史』は、16日の捕虜連行数は「捕虜五百~二千人」とし殺害数には言及がなく、17日の連行数は「約五千人程度か」とし、殺害は「二千ないし三千人程度」とする。しかし、これらの数字を裏付ける資料は示されていないばかりか、すべての資料をあたっても該当するような数字は見当たらない。
 16日と17日の捕虜連行数を合計すると5500名~7000名となり、旧説による収容所火災後に残った捕虜数「約四千」を大きく超える数字となっている点についても説明がない。

 『南京戦史』の見解は、資料に基づかない判断や矛盾する説明となっており、全体として論理性の乏しい見解と言わざるを得ないだろう。

※1 「火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか—-。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」」『南京の氷雨』 p.85-87
※2 山田日記12月16日「捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり」『南京戦史資料集2』pp.330-333
※3 遠藤高明日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220
※4 宮本省吾日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134
※5 荒海清衛日記 『南京戦史資料集2』p.345

東中野修道氏(1998年・2007年)

『「南京虐殺」の徹底検証』(1998年)
(六)揚子江岸の投降兵は暗闇の銃声を処刑の銃声と即断し、狂ったように逃亡した。逃亡する投降兵は射殺してもよかったから、日本軍は撃ちまくったが、暗闇のことゆえ相当数が逃げおおせた。

『再現 南京戦』(2007年)
(K-K註:両角手記を引用し)
 いよいよ揚子江北岸(草鞋洲)への解放計画が実行された。暗闇のなか連行された約二千人の捕虜は、草鞋洲にいた中国軍の発砲した銃声を、日本軍の銃声と勘違いした。これから処刑されるのかと疑心暗鬼になったのであろう、一斉に暴れ出し、逃走し始めた。第一大隊は「やむなく銃火をもって」その制止に努めたが、すべて後の祭りであった。

 銃撃時の捕虜逃亡に関しては、「相当数が逃げおおせた」とするが具体的数字については言及がない。東中野氏の見解は両角手記に沿うものであるが、両角手記の記述を史料批判した形跡はみられない。

小括

 銃撃時の捕虜逃亡について言及している研究を確認したが、多数の捕虜逃亡があったとするのは『郷土部隊戦記』、『戦史叢書』、『南京戦史』、東中野氏であり、捕虜逃亡はほとんどないとするのは板倉氏、小野氏だった。
 これらの見解の中で、多数の捕虜逃亡があったとする根拠は概ね両角手記と考えられる。捕虜逃亡は少数だったとする見解のうち、板倉氏は何を根拠としたか示しておらず、小野氏は同氏が収集した史料群と思われる。

資料の検証

 銃撃時の捕虜逃亡について言及する資料を検証する。検証の便宜上、適宜グループ分けをして資料を紹介する。

逃亡があったとする資料

 山田支隊の将兵で、逃亡があったとする資料を紹介する。

両角業作大佐 歩兵第65連隊 連隊長

[手記]
…我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。

『南京戦史資料集2』p.339-341

 両角大佐は歩兵第65連隊の連隊長であり、捕虜を管理する部隊の隊長という立場だった。長江岸へ捕虜を連行する作戦を部隊に実行させたが、自分自身は現場にいたわけではなく(両角手記)、おそらくは田山少佐(第1大隊長)より報告を受けたと推測する。引用した記述にもあるように、銃撃の翌朝(18日朝)に現地の状況を直接確認をしており、その結果と思われるが死体数は「僅少」だったと述べている。
 「僅少」の具体的な数値は述べられていないが、『郷土部隊戦記 第1』では「捕虜の死体」を「千人を上回った程度」と述べていることから、逃亡者数は3000名ということになる。この『郷土部隊戦記』の数字が何を根拠としたものか判然としないが、両角大佐への取材の際に手記の写しを入手しているので(※1)、取材の受け答えだった可能性はある。

 両角のこの証言には問題がある。当時の山田支隊の総兵力は約3500名~4400名と見積もられる(※2)。この兵力をもって銃撃直後の17日夜(※3)から19日午後4時(※4)までのおよそ2日間近くも死体処理を行っている。しかも、この作業の遅延により、山田支隊は12月19日に予定していた下関から浦口への渡江を変更している(※5)。処理作業が難航していたこと、延いては作業のために部隊の能力を傾注していたことを覗わせる。仮に2000名の兵力で死体処理にあたり、兵士1名につき1日あたり4体の処理能力があるとしても、まる二日間はかかっているので1万6000体程度の処理は可能だった計算となる。両角の証言は、死体数を過小評価していると考えるべきだろう。

※1 「昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた。「日記は簡単な記述なので、これを基礎にしながら戦後になって激戦の思い出を書きとめたものですよ。人に見せるつもりで書いたものではないが……」とのことだったが、戦術の反省なども含め、詳細に書きとめてある。日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は持っている。」『南京の氷雨』 p.65
※2 山田支隊の兵力推計
※3 斉藤次郎日記12/18 「午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る」『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.36-39
※4 宮本省吾日記12/19「昨日に引き続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。」『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134
※5 山田栴二日記12/19「捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ」『南京戦史資料集2』p.330-333

平林貞治少尉 第65連隊 連隊砲中隊

[証言]
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199
「殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。」
「我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の真の目的が、日本軍を”殺す”ことではなく、”逃げる”ことだったからでしょうね。向うの死体の数ですか?さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」

「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)
「捕虜の中には逃げ出したり運よく弾が当たらなかった者もいて、結局、死んだのは約三千です」

『南京事件の総括』(1987年)[証言]p.187-189
「⑨その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終ったと記憶する。中国側の死者一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらいといわれ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。
わが軍の被害が少なかったのは、彼らは逃亡が目的だったからと思う。」

『南京の氷雨』(1989年) [証言]p.108-109
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千—-いくら多くても四千人を超えることはない。」

 平林少尉は連隊砲中隊の小隊長だった。連隊砲中隊は携帯火器をほとんど持たなく(乙連隊(駄馬)の歩兵砲中隊の標準装備は騎銃1、拳銃18、軍刀2、銃剣138で小銃の配備は騎銃1のみだった)(※1)、捕虜監視や連行といった作戦には不向きであるため、捕虜連行に参加しているとはいえ作戦で主要な位置にあったとは考え難い。

 平林の証言には捕虜殺害数で若干のブレが見られる。いずれの証言でも銃撃の際に捕虜逃亡があった点では一致しているが、銃撃後の死体の数は「三千ぐらい」「約三千」「一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらい」「三千—-いくら多くても四千人を超えることはない」と一定しない。
 これらの中で「一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらい」(『南京事件の総括』)の下限である「一、〇〇〇」は、ほかの証言と比較しても突出している。その上、「千なんてものじゃなかった」(『「南京大虐殺」のまぼろし』)と否定している数字を下限にもってきている点を考えると、この「一、〇〇〇」という数字の信憑性は極めて低いと考えられる。平林少尉の証言というよりは、インタビュアーの田中正明氏の願望ではないだろうか。

 信憑性の低い数字は留保するとして、平林少尉の証言における死体数は3000~4000体だったと一定させることが出来る。ところが、この様に死体数を一定させたとしても、平林証言には問題が残る。何が問題かというと、それぞれの平林証言では、殺害現場へ連行した捕虜数に大きな違いがあることだ。
 これをそれぞれの証言における連行数:殺害数:逃亡数を比較すると次のようになる。

連行数殺害数逃亡数
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)1万名3000名7000名
『世界日報』(1984年)8000名3000名5000名
『南京事件の総括』(1987年)4000名1000~3000名1000~3000名
『南京の氷雨』(1989年)4000~5000名3000~4000名0~2000名(1000名)

 証言の変遷を見ると、当初(1973年)の証言では『郷土部隊戦記』や両角手記の記述に近く、殺害は僅少で大部分が逃げたとしているが、その割合は時を経るごとに逆転していき、最後には殺害が大部分で逃げた者は僅少だったことになっている。

 平林の証言の中でもう一つ注目するのは、『南京事件の総括』で述べられた「葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった」という証言である。これは、別稿で検証する銃撃で倒れた捕虜へトドメを刺す行為とはまるで正反対の対応である(※2)。

 平林の証言を見る限り、多数の捕虜の連行および銃撃に参加し(立会い)、多数の死体を見たのは事実だと思われるが、連行数・死体数や逃亡の有無などの詳細な部分でブレが多く、記憶していない部分が多いのではないかと思われる。だからこそ、詳細な部分は証言するごとに変化するのだろう。また、逃亡する捕虜を見かけても「とがめたり射つ者はいなかった」というが、これは当時の資料に反する証言である。本論点に関する平林の証言は信憑性が低いと言わざるを得ない。

※1 昭和十二年度陸軍動員計画令>昭和十二年度陸軍動員計画令細則附録(甲)>上 兵器表>第十四 歩兵(乙)連隊
※2 例えば栗原利一証言「その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。」『南京戦史資料集1』pp.659-660

丹治善一上等兵 第65連隊 第四次補充兵

[証言]
死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり……。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです

『ふくしま 戦争と人間』 p.128 

 丹治は第4次補充兵で、歩兵第65連隊に合流したのは12月17日夜だったことから(※1)、捕虜の連行や銃撃には参加していない。銃撃翌日の18日朝から行った死体処理作業について証言をしている。
 証言では死体数は400名ということなので、仮に両角手記の通りに捕虜連行数が約4000名だった場合、銃撃で殺害された者は1割、逃亡した者は9割だったことになる。これは両角手記の表現である「我が銃火により倒れたる者は…僅少の数に止まっていた」と近い状況と言えるだろう。
 丹治が死体処理作業に加わったのは銃撃の翌日18日朝であり、死体処理作業は銃撃直後から夜通し行われていることから(※2)、丹治が作業に参加した時には既に死体の一部は長江へ流されていたと推測される。したがって、丹治が作業に参加した時点では、一定数の死体が処理された後だったとは言えるだろう。とはいえ、死体処理は19日午後4時まで掛かったのだから(※3)、丹治が作業を始めたのは作業の序盤であり、作業の全てを認識できなかったとしても大要は認識できたとは言える。その結果、実際に処理死体は400名だというのである。
 しかし既に述べた通り、山田支隊の総兵力数と作業日程を考慮すると、死体数が400体というのは考えがたい。丹治証言の信憑性は低いと判断する。

※1 「この十八日には、第四次補充の兵隊たちが南京に到清、上元門で部隊に配属された。この新参兵も、そのまま死体の後始末へと動員された」『南京の氷雨』p.115
※2 斉藤次郎日記12/18 「午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る」『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.36-39
※3 宮本省吾日記12/19「昨日に引き続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。」『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134

捕虜逃亡が無かったとする資料

 次に、捕虜の逃亡がなかった、もしくは少なかったとする資料を検討する。 

栗原利一 第65連隊第2中隊 伍長

スケッチ
「4方から一斉に攻撃して処理したのである。
この時撃たれまいと人から人へと登り集るさま。
既ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。」

証言(本多勝一『南京への道』pp.307-318
捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。…
半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な〝人柱〟である。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中さんは想像する。そんな〝人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。
(中略)
 この「作戦」で、皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」と田中さんは語る。前後の状況からしてとてもそれは無理なことだったと。

証言(『南京戦史資料集1』pp.659-660)
うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。

栗原利一 スケッチ
栗原利一 スケッチ

 栗原は幕府山事件があった約1年後、武漢作戦で負傷し入院した際に書いた資料に基いて、戦後にスケッチを作製し、証言をしている(※1)。スケッチには殺害時の捕虜逃亡について直接言及するものはないが、そのスケッチが記憶の裏打ちとなっているのであれば、証言に一定の信憑性があると判断することが出来る。

 栗原の証言をまとめると、12月17日の銃撃の様子は、四方から銃撃を受けた捕虜が逃げ場を失い中央に集まり、さらに銃撃を避ける為に上方へ逃れようとして「人柱」を形成したという。
 スケッチには銃撃状況の略図が書かれている。これは略図であり、位置関係を正確に表記することを目的としたものではないものの、この略図によるならば河岸に捕虜を集め、取り囲むように銃器(機関銃か?)を配備している様子が書かれており、捕虜が逃げ出すのは難しいように見える。栗原の説明する銃撃の状況からは逃亡者が一人もいないと断言する理由が窺える。

 ただし、後に紹介する中国人側の証言を考え合わせれば、逃亡が一人もいなかったわけではない。「一人もいないと断言できます」するが、これは栗原の視点においてそうだったということに過ぎない。

※1 栗原利一資料集 トップページ
「父のスケッチ帳は、スケッチ帳に記載のあるように、昭和13年に支那事変で負傷した左大腿部の盲管銃創による銃弾を、昭和36年になって飯田橋の警察病院で摘出手術を受けた際に、それまで保管して来た資料を基にまとめたものが主だったものと思われます。
スケッチ帳にはそれ以前の資料も綴じられていますし、それ以降に書き加えられたような部分も散見されます。」

(403エラーの為、アーカイブ参照)https://web.archive.org/web/20241114082350/http://www.kuriharariichi.com/

H氏(西白河郡) 歩兵第65連隊第3機関銃中隊 下士官

H氏証言
集団での逃亡もなかった。しかし、虐殺時に少数の逃亡者はみた。

本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」『南京大虐殺の研究』pp.138-139

 H氏は3日間の捕虜殺害に参加したと述べたが、後に2日間に訂正していることから(※1)、若干、信頼性に欠けるように思える。
 また、語っているのは16日水魚雷営での捕虜殺害の状況のようであり、17日大湾子に関しては言及が無い。記憶が残っているのは、16日水魚雷営の銃撃状況しかなかったのかもしれない。
 証言の内容としては、16日水魚雷営の捕虜殺害においても逃亡者は少数だったということが分かる。

※1 「以上のことをのちにH氏は二日間の出来事と訂正」本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」

捕虜逃亡について言及のない資料

 ここまで捕虜連行作戦に関係した者で、銃撃時の捕虜逃亡に関して言及のある資料を検証してきたが、次に検証するのは、捕虜連行作戦に参加したが銃撃時の捕虜逃亡について言及がない資料である。
 捕虜逃亡について言及がないということは三つの可能性が考えられる。第一はその様な事実が無かった、第二はその樣な事実はあったものの印象が薄く資料として残す動機とならなかった、第三はその樣な事実あり、一定程度の印象は受けたが偶然資料として残らなかった。
 当然ではあるが、人が受ける印象や偶然性というもの計るすべはないが、その傾向や法則があるのも事実であろう。通常とは異なる出来事と遭遇した場合に強い印象を受けるだろうし、その異常の度合いが強いほど強い印象となる。また偶然性を計ることは出来ないが、観察対象のサンプルが多いほど偶然性を解消する傾向に向うことが出来る。
 捕虜を殺害する目的で連行したが不慮の暴動が発生し多数の逃亡者を出したという事態は、端的にいって作戦の失敗を意味し、一定程度の印象を残す条件と言える。それが両角手記や平林証言に見られるように、逃亡数が75%(『郷土部隊戦記』)、90%(『ふくしま戦争と人間』)に及ぶというのであれば重大な失敗を意味する。この事態に直面したならば少なくない数の将兵が強い印象を受けたであろうし、その中の何人かが日記として記録していたとしても不思議ではない状況といえる。しかし、すでに明らかな通り、捕虜連行作戦に参加した者の中で、銃撃時の捕虜逃亡について日記に記したものはいなかった。

 次に偶然性を検討するために、どの程度のサンプル数があるのかその規模感を確認してみたい。

捕虜連行の目的を殺害だと認識している資料 【 計13名 】
斎藤(歩65連隊本部)、▲菅野(歩65連隊砲中隊)、■佐藤(歩65)、▲遠藤(歩65Ⅰ本部)、■荒海(歩65Ⅰ本部)、▲伊藤(歩65第1中隊)、▲中野(歩65第1中隊)、■宮本(歩65第4中隊)、柳沼(歩65第7中隊)、■遠藤(歩65第8中隊)、■目黒(山砲19Ⅲ段列)、■黒須(山砲19Ⅲ段列)、■近藤(山砲19Ⅲ第8中隊)
以上13名のうち作戦に参加したことが確認できる者 【計 5名 】 ※■を付した
■荒海(歩65Ⅰ本部)、■宮本(歩65第4中隊)、■遠藤(歩65第8中隊)、■目黒(山砲19Ⅲ段列)、■黒須(山砲19Ⅲ段列)、■近藤(山砲19Ⅲ第8中隊)
作戦に参加した可能性のある者 【 計4名 】 ※▲を付した
▲菅野(歩65連隊砲中隊)、▲遠藤(歩65Ⅰ本部)、▲伊藤(歩65第1中隊)、▲中野(歩65第1中隊)

 残された資料の中で、殺害する目的で捕虜を連行したと認識していた将兵は13名おり、その中で殺害作戦に参加したものは可能性のあるものを含めて9名を確認することが出来た。つまり、重大な作戦失敗の当事者9名が資料を残しているが、そのうちの誰一人として作戦の失敗に言及していないのである。

 当然のことではあるが、日記に何を記述するかは記述者の自由な選択によるため、日記に記述されていないことが、即、出来事の不存在を示す証明とはならない。しかし、自身が参加した作戦、もしくは自部隊が参加した作戦で重大な失敗を犯しながら、当時の日記でまったく言及されていないというのは不自然であり、9本というサンプル数を考慮すると「偶然記述しなかった」という偶然性は一定程度解消されると考えられる。

捕虜捕獲数と殺害数の比較

 捕虜の捕獲数と殺害数に言及している資料で、両者の数値が一致もしくは近似値を示しているもの、捕獲数の言及はないものの想定される捕獲数と比較して殺害数一致もしくは近似値を示すものなどは、銃撃時においても逃亡が無かったという認識ということになるだろう。

菅野嘉雄一等兵 歩兵第65連隊連隊砲中隊 日記抜粋
(12月15日)今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
(12月16日)夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
(12月17日)捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

荒海清衛上等兵 歩兵第65連隊第1大隊 本部 日記抜粋
(12月14日)三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
(12月15日)今日一日捕虜多く来たり
(12月16日)二千五百名殺す。
(12月17日)俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。

『南京戦史資料集2』p.345

伊藤喜八上等兵 歩兵第65連隊第1中隊 日記抜粋
(12月17日)その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.105

宮本省吾少尉 歩兵第65連隊第4中隊 日記抜粋
(12月14日)夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す
(12月16日)捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す
(12月17日)夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134

大寺隆上等兵 歩兵第65連隊第7中隊 日記抜粋
(12月18日)昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ

『南京戦史資料集2』p.348-350

遠藤高明少尉 歩兵第65連隊第8中隊 日記抜粋
(12月16日)捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
(12月17日)夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す
(12月18日)午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.219-220

本間正勝二等兵 歩兵第65連隊第9中隊 日記抜粋
(12月14日)聯隊では二万人余も捕慮(虜)とした。
(12月16日)捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
(12月17日)中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.239-240

高橋光夫上等兵 歩兵第65連隊第11中隊 日記抜粋
(12月18日)午後にわ(は)聯隊の捕りょ(捕虜)二万五千近くの殺したものをかたつけた。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.289

目黒福治伍長 山砲兵第19連隊第3大隊 段列 日記抜粋
(12月13日)途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事
(12月16日)午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す
(12月17日)午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。
(12月18日)午後五時残敵一万三千程銃殺す。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.373

 以上の資料が、捕虜捕獲数と殺害数から銃撃中の捕虜逃亡が無かったと考えられる資料である。なお、目黒福治日記に関しては、捕虜捕獲の日付がずれている点、17日と18日で捕虜殺害数「一万三千」を重複して記述している点で不備が見られる。

 一方、上掲資料とは趣が異なるものもある。

柳沼和也上等兵 歩兵第65連隊第7中隊 日記抜粋
(12月14日)明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる
(12月17日)夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.166-167

 柳沼和也日記によれば、捕虜捕獲数は「一万七八千」、殺害に関しては、12月16日の記述は無く、12月17日に「一団七千余人」と書かれている。これらを単純に読むならば、捕獲数は1万7000~1万8000人、殺害数は7000人となり、結果として1万~1万1000人について言及がなく、逃亡となる可能性がある。
 しかし、この読み方は不自然ではないだろうか。殺害するために連行して、その結果として半数以上が逃亡したにも関わらず、逃亡について何の言及もない。この様な場合、これだけ多数の逃亡を許した理由の方が興味深く、記述を残す対象となるように思える。
 一方で、「一団七千余人」の「一団」を「一万」の書き間違いと読むと、捕獲数「一万七八千」と殺害数「一【万】七千余人」でとなり、ほぼ一致した数字となる。この解釈の方が、自然な解釈のように思える。

 以上、捕虜捕獲数と殺害数の比較より、銃撃時の捕虜逃亡の有無を検討してみた。その結果、捕虜逃亡が無かったことを示す資料は9本確認することが出来た。最後に検討した柳沼日記は、記述をそのまま読むことは不自然であり、検討対象から除外すべきだろう。それ以外の資料で、捕獲数と殺害数の比較で逃亡があったことを示す資料は存在しなかった。

上海派遣軍司令部参謀の日記

 銃撃時の捕虜逃亡に関しては、山田支隊の将兵以外に、上部組織である上海派遣軍司令部の中でも言及がある。

飯沼守少将 上海派遣軍 参謀長
(日記抜粋 12月21日)
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

『南京戦史資料集1』p.164

上村利道大佐 上海派遣軍 参謀副長
(日記抜粋12月21日)
N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

『南京戦史資料集2』pp.268-269

西原一策大佐 上海派遣軍参謀第1課長 
(日記抜粋 12月18日)
山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか(昨夜より本日にかけ)その中に我方将一、兵一を俘虜と共にMGにて殺されたりと、蓋し俘虜の一団か抵抗し逃亡を企てたるための混乱の犠牲となりしものなり

作戦日誌 12.8.11-13.2.18 上海派遣軍幕僚 西原一策

 いずれの記述も内容が類似しており、外形的に見ても情報源が同じであることが伺わされる。その情報源は、上村によると「N大佐」=西原大佐であり、日記の日付から察するに、12月18日に西原が得た情報を、12月21日に西原から飯沼、上村両名へ伝達したものと見られる。飯沼「噂あり」、上村「模様」と表現されていることから、両名が聞いた話は正式な報告ではなかったと推測する。すこし踏み込んで言うならば、捕虜殺害直後に西原へ(おそらくは山田支隊から)報告が上がっていることを考えると、山田支隊の作戦に西原が事前に関与していた可能性がある。

 日記の内容で共通している部分をまとめると、山田支隊で捕虜(1万五千名)を殺害しようとして抵抗に遭い、部隊に損害を出したうえ、捕虜の逃亡があったという。
 情報源である西原は、逃亡に関して「蓋し俘虜の一団か抵抗し逃亡を企てたるための混乱の犠牲となりしものなり」と述べているが、「蓋し」と述べていることから、この部分は西原の推測とのなる。また、「俘虜の一団抵抗し逃亡を企てたるため」と述べていることから、捕虜の暴動の原因として「逃亡を企てたる」ことを挙げているものの、実際に逃亡した捕虜があったとは述べていない。ただし、西原から話を聞いた飯沼、上村は、ともに捕虜の逃亡があったと記していることを考えると、西原からその様な趣旨の話があった可能性もある。

 問題となる捕虜逃亡の規模だが「相当数」(飯沼)、「可なり有る」(上村)と書かれており、一定規模の捕虜逃亡があったことを認識している。この記述からするば、場合によっては『郷土部隊戦記』等で書かれているような、連行数の75%に及ぶような大規模な捕虜逃亡だった可能性も考えられる。
 一方、「捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処」(飯村)、「俘虜の始末」(上村)、「一万五千の俘虜を処分せしか」(西原)とあるように、山田支隊が捕獲した捕虜を全て殺害する方針だったと飯沼らは認識していた。であるならば、一人も残さず全ての捕虜を殺害することを目的とし、逃亡者の存在を認める余地のない作戦だったとも言える。その様な中で、例えば100名や200名程度の逃亡があったとしても「相当数」「可なり有る」と表現したとしても不思議ではない(※)。
 この時期は、南京およびその周辺で敗残兵の掃討戦の最中だったのだから、両角手記が言うような大規模に逃亡したというのは掃討作戦に逆行するような事態であり、何らかの対応が必要にもなるだろうが、飯沼らにはその様な認識は見られない。掃討作戦にはさほど影響が出ない程度の逃亡規模だったと推測できる。
 以上のことを考察するに、飯沼らの日記の記述のみでは、大規模な捕虜の逃亡があったか否かを判断することは難しいだろう。

※例えていうならば、1日2万個の製品を製造する製造ラインで、通常、50個前後の不良品が検出されるとする。この製造ラインで1日に100個の不良品が検出された場合、「相当数」「可なり有る」と表現するだろう。

捕虜側の資料

 先に示した栗原伍長の証言では「逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」」と語っていたたが、実際に一定数の逃亡があったのは事実である。これは、幕府山で実際に捕虜となった者やその状況を目撃した者が、戦後に当時の様子を証言していることで証明されている。

魯甦供述書(東京裁判)
 此の大虐殺中(下関・草鞋峡での虐殺)に在つて教導総隊馮班長及び保安警察隊の郭某は縛を解きて逃亡し、佯つて地上に仆れ屍を以て自分の身を覆ひ難を免るを得たり。

『日中戦争史資料8 南京事件1』 p.141

唐府普 教導総隊所属(『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載)
 私は折り重なった死体の下から這い出し、流れに沿って逃げた。民家のあるところまできて、誰もいない家で衣服を見つけて着替え、稲穂を見つけて飢えをしのいだ。結局は再び燕子磯で難民の老人や子供たちにまじり、小舟を見つけ、川中島(八卦洲)へと逃げ、さらに江北へと渡った。

※唐広普 (『南京事件を考える』pp.46-54)、唐光譜(『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.250-253)は同一人物と思われる。

『南京の氷雨』 p.156-158

晋洪亮(揚子江要塞部隊 軍医所所属 『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載
銃撃が終わると、日本兵は今度は銃剣で刺しにきた。私は腹を刺され、刀で足に切りつけられた。しかし私は死んだふりをして横たわっていた。やがて日本兵は去った。私は死体の川から這い出して逃げた。

『南京の氷雨』 p.158-159

史栄禄(民間人 『侵華日軍南京大屠殺史稿』掲載)
ある夜、私たちは江岸に引き出され、二挺の機関銃で掃射された。みんな死んで倒れたが、日本兵は一応は死体を銃剣で刺して歩いたものの、私は運よく死なずに逃げることができた。

『南京の氷雨』 p.159

段有余
『証言・南京大虐殺 戦争とはなにか』pp.17-22
「十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです」

『侵華日軍南京大屠殺史稿』pp19-20
(K-K註:南京戦犯裁判の検察官丁承網による尋問の一部)
問:これらの人々はどこへ連れて行かれましたか?
答:一緒に魚雷営へ連れて行かれました。
問:魚雷営へ連行された後、何をされましたか?
答:日本兵は4挺の機関銃で発砲しました。死ななかったのはわずか9人で、私もその1人でした。

 魯甦以外は自身の体験を語っており、幕府山で捕虜となり殺害されかけて逃亡したという点に関しては信憑性は高いと言えるだろう。
 これらの証言で共通しているのは、銃撃を受けた後、倒れている死体に紛れて助かったということだ。連行された捕虜たちは、銃撃を避けることが出来なかったことが窺える。そうすると、両角証言の「暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡」という様な捕虜が集団で逃亡できる状況ではなく、撃ち洩らし、さらにトドメを刺し洩らした者が、多数の死体にまぎて奇跡的に生き残ったというのが実態と言えるだろう。また、その状況は栗原スケッチで描かれている捕虜殺害状況(包囲下での銃撃、逃げ場を失った捕虜が人柱を形成)と一致する。この様な状況であれば捕虜逃亡が少なかったか、少なくとも集団での逃亡するようなことはなかったと判断できる。

大規模な捕虜逃亡の検証

捕虜逃亡の有無を直接示す資料

 資料には、捕虜の逃亡があったとする資料や逆に無かったとする資料がある。それぞれの資料を検証すると次のようになる。
 銃撃、捕虜の大規模な逃亡があったとする資料は、両角、平林、丹治、飯沼、上村、西原の6名あった。このうち両角(手記)、平林(証言)、丹治(証言)は戦後資料であり、その内容としても信憑性が低いものだった。飯沼、上村、西原は日記であるが、「相当数」「可なり有る」という定性的表現で比較対象のない表現であるため、大規模な捕虜逃亡の有無どちらの可能性も持っていると評価せざるを得ないものである。
 捕虜逃亡が無かったとする資料は、栗原(証言)、H氏(証言)の2名だった。いずれも戦後資料であり、内容も自身の体験に基づいた限定的なものか、信憑性が欠けるものだった。
 これらの捕虜逃亡の有無について直接言及する資料からは、大規模な逃亡の有無を判断することは難しい。

殺害作戦に参加したが「逃亡」に言及がない将兵

 作戦目的が捕虜の殺害だったと仮定した場合、作戦中に捕虜の逃亡を許すというのは作戦結果の成否に関わる問題である。多数の逃亡を許した場合は作戦失敗と評価され、作戦参加者に一定の心象を残すものと予想される。
 そこで、すべての資料の中から、作戦目的を捕虜殺害と認識していた日記を抽出すると13名分あり、そのうち9名は作戦に直接参加したと見られるものである。しかし、これらの資料の中には誰一人として、捕虜逃亡に関して言及がなかった。
 このことは、捕虜の逃亡が無かったか、印象に残らない程度に規模が少なかったことを示唆している。

捕獲数と殺害数の認識

 捕虜逃亡の有無について直接言及していない資料のうち、捕獲数と殺害数の認識を比較し、両者の差によって大規模な逃亡の有無について認識していたかの判定を試みた。
 その結果、大規模な逃亡が無かったことを示している資料は9名、有ったことを示す資料は0名、どちらとも判定できないものは1名だった。
 これらの資料からは、捕獲された捕虜はほとんど殺害され、大規模な逃亡は無かったと、多くの将兵が認識していたことが分る。

銃撃時の状況

 捕虜連行の第1日目、12月16日、水魚雷営への連行については、増子音重手記(山砲兵第19連隊)に詳しく書かれている(※1)。手記によれば、長江岸の二階建ての建物へ連行し、「全部捕虜たちを(その建物の)庭に座らせ」た後、銃撃が始まったという。被害者である殷有余は、連行途中に銃撃が始まったとする証言、連行後に銃撃がはじまったとする証言をしており、証言内容に若干のブレがあるが、銃撃後に生き残った者は9人しかいなかったと述べていることから、仮に連行途中途中だとしても、概ね日本軍の包囲下で銃撃を受けたと解すべきだろう。集団で逃亡できる様な状況ではなかったと判断できる。

 12月17日、大湾子への連行については上掲の栗原証言が詳しいが、荒海精鋭手記(※2)とも合わせて状況を再現するならば、江岸へ捕虜を連行し軍の包囲下においた後、暴動が発生、銃撃が始まったという。栗原証言にある銃撃時に捕虜が人柱を形成したというのは、逃げ場を失った様子を意味しているのだろう。(※3)

 実際、中国人被害者の証言で共通しているのは、銃撃を受けて周囲の者と共に倒され、その後の着火や生き残りへの刺殺から偶然生き残ることが出来たというもので、集団的に逃亡を計るような状況ではなかったことが分る。生き残ることが出来た要因を挙げるならば、一つは銃撃以降の作業が夜間となり視認性が低下したこと、もう一つは作業量(死体数)が多く確実性を担保できなかったと考えられる。

 資料から確認できる状況から考えても、銃撃時における集団的な逃亡、多数におよぶ逃亡は不可能だったと判断できる。

捕虜逃亡数について

 実際に逃亡することができた中国人被害者がいることから、一定数の逃亡があったことは事実だろう。ただし、具体的な数字についてはそのことを示す資料がないので判断は難しい。小野賢二氏は「数十人から多くても数百人まで」と推測しているが、その根拠は示されていない。
 参考となる資料としては、捕虜銃撃後の12月18日以降で山田支隊の隊員が4名~12名程度の小グループで活動していたことが日記に記されている。とすると、仮に逃亡した捕虜と遭遇したとしても、その人数の兵士で対応できる程度の逃亡数だと、日本軍としても考えていたのかもしれない。
 であれば、小野氏の推測はある程度、的を射ているのかもしれない。

※1 E氏(増子音重)『実録・日中戦争の断面』
「…兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。我々はそこいらにある布切れを引き裂いて紐を作った。 そして命令どおり中から出て来る捕虜たちを後ろ手に縛り、二人一組につないで表の広場に立たせた。…
…我が若松両角部隊の捕虜はここだけで二万人いたと言われ、いくら縛っても一ぺんには縛ることが出来ず、しまいには縛るものがなくなり捕虜のゲートルをほどいて縛るようになって来た。半日もかかって五千人位は縛ったことであろう。もう表は暗くなり月の光だけが照って人の見さかい位がようやくつく時間となって来たが、夕食など食う余裕はなかった。
 兵隊たちの銃には皆着剣をして捕虜の両側に二米おき位に警戒にあたりながら、捕虜をいづこか分らぬ闇の中へと歩かせたのである。…
 約一時間位かかって揚子江岸の、とある建物のあるところに着いた。川幅は夜目でも広く見えた。建物は二階建であり、庭の前方は二十尺もあろうかと思われる石垣が積まれ川まで少しの砂原があった。その広い庭に捕虜たちは次から次へと座らせられたのである。入口があるだけで庭の向こうは高い山であり、逃げることが出来ないところであった。 全部捕虜たちを庭に座らせたので、今度は支那兵を連れて来て首を切ったり、銃剣で刺し殺したりする者もあった。…
 そうこうしているうちに「ワァー」という歓声が上がったと思うまもなく、機関銃の音が闇をつんざくように一斉に何十丁も発射されたのであった。…しかし、全部に弾はあたって居るわけではありませんので、今度は着剣して死人の上を渡り歩き△△△ざくりざくりと刺して歩いたのであるが、中には死にきれず銃をおさえる者もあった。おそらく三十人以上は突いたであろう。明日になって腕が上がらぬ位に痛かった。」
本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」『南京大虐殺の研究』pp.141-144

※2 荒海清衛手記(白虎六光奉友会編『戦友の絆』1980年より)
「ついたのは夕方になって居たと思う。江岸の窪地に集結させた。機関銃はすえられ、何時でも発射出来る様準備されて居た。
  何かがあると直感したのだろう、捕虜の集団からざわめきが起った。事態は急転した。ニケ大隊の機関銃は一斉に火をふいた。けたたましい重機の音とざわめき惨状は見るに忍びない。事はすでに終ったが、まだまだ生き残った者が死体の下に居た。それを銃剣で刺した。」
小野賢二「目撃・南京大虐殺――歩兵第六五連隊と中国人捕虜」(『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 pp.26-43)

※3 なお、12月17日の捕虜連行の状況に関しては、角田栄一少尉(歩65第5中隊長代理)の証言をめぐって議論がある。詳細は次のページを参照してほしい。【幕府山事件】ZFブログの検証 No.6「角田中尉はどこにいた?」

おわりに

 銃撃時の捕虜逃亡に関して検証してきたが、実態の検証で明らかにしたとおり、大規模な捕虜の逃亡はなかったと考えるべきであり、実態としては少数の逃亡があったものの、連行された捕虜のほとんどは殺害されたと見られる。

 では、多数の捕虜逃亡を述べた両角や平林は、どの様な理由で存在しないストーリーを述べるに至ったのだろうか。
 両角は銃撃時は現場におらず、銃撃や捕虜逃亡の実態を直接目撃したわけではない。銃撃の状況については、作戦を指揮していた田山少佐から報告を受けたと推測される。したがって、大規模な捕虜逃亡という誤った事実は、田山少佐からの報告だったの可能性がある。しかし、両角大佐は、翌日に自身で死体の状況を見ているのだから、そこからどの程度の逃亡があったかは十分に判断できただろう。つまり、両角は一定の事実(大量の死体の存在=逃亡者は少数だった)を知っており、その上で意図的に虚偽の事実(死体数は僅少=多数の逃亡)を手記に残したと考えられる。
 平林は現地で作戦に参加していたことから、捕虜逃亡が少なかったであろうことを知り得る状況にあった。しかし、平林の証言は一定せず、証言する毎に内容が変化することを考えると、捕虜の連行数、殺害数、逃亡数についての記憶はかなり曖昧だったと推測される。曖昧な記憶を埋めるために、『郷土部隊戦記』などの文献を参考にしていたのだろうが、この記憶の穴埋めも中途半端で、証言するたびに内容が変化してしまう程度のものだった。記憶が曖昧な上、記憶の穴埋めも曖昧であり、およそ信憑性が低い証言と言わざるを得ない。もちろん、相当な時間を経た過去の事柄である以上、当時の記録も無く記憶のみで詳細に答えることなど無理だとは言えるだろう。ただし、意図的に虚偽を述べたり、口裏を合わせようとしていた可能性も捨てきれない。
 いずれにしても、銃撃時に大量の捕虜逃亡があったというストーリーは、事件規模を小さく見せること、捕虜連行の目的が解放だったことを裏付け、引いては所属部隊の名誉を維持することに寄与するものである。彼らにとっては、仮に虚偽の証言をしたとしても、そのリスクに見合う結果を得るものだったと推測できる。

 彼らが仮に虚偽の証言をしていた場合を考えると、そのことは道義的に正しいこととは言えないかもしれないが、自身が身命を賭して戦ってきた部隊や戦闘の汚点を隠したいという心情は一定の理解することは出来る。問題なのは、この様な心情が働き、資料の内容が不正確となるであろうことが十分予測できたにも関わらず、まともな史料批判を行わず、かつ、史料批判が行わなれていない資料に依存して立論をした研究者の態度である。自衛発砲説に与する研究者、とくに相当程度資料が出揃った時点でもなお史料批判を怠った板倉氏や東中野氏は猛省すべきだろう。

 本稿で明らかにした事実は、直接的には捕虜の連行目的の解明に繋がらないものの、連行の目的を解放だと印象付ける一端を担っていた根拠を否定できたことで、間接的にでも連行目的の解明に繋がるものと考えている。連行目的の解明については、本稿の結論を加味した上で別稿をもって明らかにしていきたい。

参考文献

  • 作戦日誌 12.8.11-13.2.18 上海派遣軍幕僚 西原一策
  • 『郷土部隊戦記 第1』福島民友新聞社 1964年
  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明 文藝春秋 1973年3月
  • 『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 1 (昭和十三年一月まで)』防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社 1975年
  • 『ふくしま 戦争と人間』福島民友新聞社編 福島民友新聞社 1982年10月
  • 「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年7月17日)
  • 「追跡!「南京事件」南京事件の数字的研究③南京でいったい何があったのか」板倉由明『ゼンボウ  昭和60年4月号』全貌社 1985年4月
  • 『南京事件の総括』田中正明 謙光社 1987年年3月7日
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎 教育書籍 1989年12月20日
  • 『南京への道』本多勝一 朝日新聞社 1989年
  • 「幕府山の捕虜集団虐殺」本多勝一・小野賢二 『南京大虐殺の研究』洞富雄・藤原彰・本多勝一編 晩聲社 1992年5月1日
  • 『南京戦史』南京戦史編集委員会 初版1989年11月3日 増補改訂版1993年12月8日
  • 『南京戦史資料集Ⅰ』南京戦史編集委員会 初版1989年11月3日 増補改訂版1993年12月8日
  • 『南京戦史資料集Ⅱ』南京戦史編集委員会 初版1989年11月3日 増補改訂版1993年12月8日
  • 『週刊金曜日』1994年2月4日第12号
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二・藤原彰・本多勝一編 大月書店 1998年3月14日
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道 展転社 1998年8月5日
  • 『再現 南京戦』東中野修道 草思社 2007年8月
  • 『栗原利一資料集』

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