【幕府山事件】捕虜数の推移[08]まとめ

【幕府山事件】捕虜数の推移 総目次
1. はじめに
2. 検証のポイント
3. 先行研究の紹介
4.Ⓐ投降者捕獲数
5.Ⓑ非戦闘員の解放
6.Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡
7.Ⓓ捕虜殺害数
8. まとめ
9.参考資料

捕虜数推移のまとめ

 幕府山事件における捕虜数の推移について検証してきた。

研究者の見解

 捕虜数の推移に関する研究者の見解は、大きく分けると二通りの見解に分かれる。
 一つは、山田支隊が幕府山で投降者を捕獲した直後、非戦闘員を解放して捕虜数が半減し、その後、捕虜収容所の火災による逃亡で捕虜数がさらに半減したとして、長江岸連行時には当初の捕虜数の四分の一程度に減少したという見解だ。この様な見解に与するのは、板倉氏、東中野氏、『戦史叢書』、『南京戦史』である。
 もう一つの見解は、幕府山で投降者を捕獲したが、非戦闘員の解放、火災による捕虜逃亡という二回に渡る捕虜数の半減は発生していないという見解だ。この様な見解に与するのは、小野氏、渡辺氏だ。
 秦氏は、非戦闘員の解放を認めるが、収容所火災による捕虜逃亡は認めておらず、その結果、捕虜殺害数を8000名と見積もっている。前二者を折衷した様な考え方と言えるだろう。

Ⓐ投降者捕獲数

 捕虜数の推移を検証する際にもっとも基本的な数値は投降者捕獲数である。山田支隊が中国軍投降者を捕獲したのは12月13日~15日だった。
 上記二つの見解の間では投降者捕獲数から意見が異なる。板倉氏らの見解では、山田少将や両角大佐、栗原伍長の資料に基づいてその数を概ね1万4777名前後と判断した。他方、小野氏らの見解では、1万4777名を捕獲した後にも捕虜の捕獲は続き、最終的には1万7000名~2万5000名程度の投降者の捕獲があったという。
 資料を検証すると、板倉氏らが依拠する1万4777名(前後)という捕虜数は、12月14日午前中に行われた旅団調査で判明した人数であり、捕虜の増加はこの調査以降も続いた。つまり、12月14日午後と12月15日に増加した捕虜数が確実にあったことになる。この増加した捕虜数を資料から判断すると、最終的な捕獲数はおよそ1万7000名~2万2000名と見積もられる。

Ⓑ非戦闘員の解放

 山田支隊は投降者を捕獲し武装解除の後、捕虜を上元門付近の建物へ収容した。
 板倉氏らの見解によれば、収容所へ収容する前に投降者の中に混在していた非戦闘員を解放したという。この事実に言及する資料は、山田少将、両角大佐、平林少尉、第12中隊関係者の証言だ。これらの証言の中で、山田少将の証言は自身の日記の記述と矛盾し、平林少尉の証言は証言内容が変遷しており、いずれも信憑性に欠く。
 一方、現在公表されている当時の日記22名の中で、非戦闘員の解放に言及したものは存在しない。相当規模の兵力を必要としたはずの捕虜選別作業にも関わらず、日記に残した者がいないのは不自然である。
 その中でも特に注目すべきは、投降者の捕獲から武装解除、収容、管理、殺害まで実行した宮本少尉の日記で、宮本日記には非戦闘員の解放に関して言及がない上に、投降者捕獲数と捕虜殺害数に有意な差が見られず、非戦闘員解放を認識していないことを示している。
 また、翌日(12月15日)に行われた山田支隊から上海派遣軍司令部への報告では「一万五、六千あり 尚増加の見込」(飯沼日記)としており、非戦闘員の解放の事実がないことを示している。
 以上の資料状況を評価するならば、非戦闘員解放を認める資料群は戦後の証言しかなく、その数・質ともに脆弱である。一方、公開されている22名の日記には非戦闘員解放を記すものはない。非戦闘員解放を否定する資料としては、宮本日記という有力な一次史料のほか、山田少将、飯沼少将という一次史料によって裏付けられている。史料価値や実証性を考慮して、非戦闘員の解放は存在しなかったと判断する。

Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡

 捕虜を収容所へ収容した後、12月16日正午頃に収容所で火災が発生した。この火災に関しては多くの資料が残されている。
 板倉氏らの見解によれば、この時にも捕虜が逃亡し人数が半減したという。捕虜逃亡について言及している資料は、両角大佐、角田中尉、平林少尉、第12中隊関係者であり、非戦闘員解放と同じくいずれも戦後の証言だけである。このうち、平林少尉の証言は、1973年・1984年の証言では捕虜逃亡がないという認識を示していたにも関わらず、1987年になって半数の捕虜が逃亡したと証言を翻しており、信憑性を欠いている。
 一方、捕虜収容所火災に言及しながら捕虜の逃亡に言及のない日記は7名あり、そのうち4名は捕虜殺害数を1万3000~2万名以上としており、捕虜逃亡を認識を示していない。
 収容所火災で消火活動に参加した遠藤高明少尉と近藤伍長の日記では、消火の際に捕虜が逃亡したという記述がなく、捕虜殺害数(連行数)を1万7025名、2万名としていることから、捕虜の逃亡について認識していないことが判明している。
 宮本少尉は、火災直前まで捕虜警備を担当し、火災直後に捕虜の連行・殺害を実行していたが、日記では捕虜逃亡に関する記述がないばかりか、捕虜殺害数を2万3000名以上と認識していることから、捕虜逃亡について認識していないことが判明している。
 以上の通り、収容所火災時の捕虜逃亡に関しては、これを事実とする史料群は4名の戦後証言だがそのうち1名は信憑性を欠いており、一次史料の裏付けがなく証明力に欠ける。一方で、火災発生を記したにも関わらず捕虜逃亡を書かなかった日記は7名あり、そのうち4名は捕虜殺害数から捕虜逃亡がなかったことが判明している。その中で、火災現場にいた遠藤、近藤、火災前後に捕虜との関わりがあった宮本は、史料価値・証明力がともに高いと評価できる。したがって、収容所火災時に捕虜逃亡はなかった(少なかった)と判断する。

Ⓓ捕虜殺害数

 捕虜殺害数(連行数)の認識を検証すると、捕虜殺害数に言及した資料は22名あり、そのうち捕虜の大幅な減少を認識しているものは2名、その可能性があるものは4名、認識していないものは9名、検証資料として不適格なものは7名だった。
 ただし、捕虜数の大幅な減少を認識している者のうち、平林少尉の証言は信憑性に欠けている。また、その可能性を示した4名はいずれも捕虜減少に関する言及は一つもなく、誤記や誤差である可能性を否定できないものだった。
 つまり、捕虜殺害数(連行数)から見ると、捕虜の大幅な減少を示してる資料で確実なものは両角手記しかなく、多くの将兵が捕虜殺害数について投降者捕獲数と同等かそれに近い認識を示しており、捕獲から殺害に至る間に大幅な捕虜数の変化がないと認識していたのである。非戦闘員解放や火災による捕虜逃亡による捕虜数半減の事実を認識していないことを裏付けていると言えるだろう

結論

 二つの対立する事実を示す資料がある。一つは、投降者を捕獲して以降、非戦闘員を解放し、捕虜収容所火災による逃亡によって捕虜数が四分の三に減少したというものであり、もう一つは、投降者を捕獲し、収容し、殺害するに至るまで捕虜減少はなかった(もしくは少なかった)とするものである。
 前者の捕虜減少を積極的に示す資料は、山田、両角、平林、角田、第12中隊関係者の5名による戦後の証言だ。しかし、このうちの山田、平林の証言は信憑性が乏しく証明力に欠けるものだった。したがって、残されたものは両角、角田、第12中隊関係者の3名の戦後証言に限られることになる。
 一方、後者の事実を示す資料は多岐に渡る。非戦闘員解放に関しては飯沼、山田、宮本、収容所火災に伴う捕虜逃亡に関しては宮本、遠藤、近藤の各日記が証明力の高い資料だった。
 捕虜殺害数から見ると荒海、栗原、遠藤(高)、本間、菅野、宮本、伊藤、大寺、高橋、近藤の10名が捕虜数減少を否定する資料だった。このうちの栗原を除く9名は一次史料である日記であり、戦後証言と比較して証明力が高い。また、遠藤と近藤は収容所火災時に消火活動に参加していること、宮本は投降者捕獲から捕虜殺害まで一貫して捕虜に携わっていることから、証明力の高い資料と判断できる。
 以上の検証結果から、投降者捕獲から捕虜殺害に至る過程において大幅な捕虜減少はなかったと考えべきである。

虚偽の史実の経緯

 そうなると問題となるのは、存在しない事実を語った資料の存在である。すでに平林少尉の証言でも明らかな通り、存在しな事実を語った証言の多くは、1964年に刊行された『郷土部隊戦記』の記述、引いてはその根拠となった両角大佐の手記に沿って証言されたと考えるべきだろう。では両角大佐は何を契機に存在しない事実を語ることになったのだろうか。
 そのことに関連する興味深い記述が『郷土部隊戦記』にはある。同書p.110から始まる「三、南京虐殺事件の真相」の冒頭には「両角部隊は虐殺に関係なし」として南京事件の内容を振り返りつつ、両角部隊と南京事件との関わりに言及している。

「三、南京虐殺事件の真相」
p.110
世上、わが両角部隊もまたこの暴挙に加わったのではないかと流布されている。しかし事実は両角部隊は南京事件とはなんの関係もなかったのである。」

p.111
「両角部隊の奮戦をえがいた「白虎部隊」(昭和十四年六日(K-K註:ママ)刊、改造社)の著者、秦賢助氏は昭和三十二年二月二十五日号の日本週報に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する文章を執筆し「白虎部隊は南京入城に際して約二万の捕虜をおみやげにつれてきた」と書いているが、これは全く事実と違う。だいいち両角部隊は南京に入城していないし、十七日の入城式には山田旅団長と、軍旗を奉じた両角連隊長に軍旗護衛の一個中隊が参加したにすぎない。秦氏自身も上海上陸から南京を経て徐州、漢口にいたる期間は両角部隊に従軍していないし、事件のときに南京にはいなかった。」

『郷土部隊戦記』

 この記述で注目するのは、両角部隊が南京事件の暴挙に加わったと「世上」「流布されている」と述べている部分だ。その「流布されている」具体的事例が引用後段の『日本週報』の秦賢助氏の記事である。
 だが「世上…流布されている」というものの、『郷土部隊戦記』(1964年刊)以前に山田支隊・両角部隊の虐殺行為に言及しているのは、『日本週報』秦記事を除くとほとんど存在しない。わずかな事例としては、東京裁判に提出された「南京地方院検察処敵人罪行調査報告」や魯甦、陳万禄、段有余の証言だ。これらには幕府山、草鞋峡、上元門で捕虜・民間人が集団殺害されたことが言及されている。しかし、いずれも実行した日本軍の部隊名には言及がなく、山田支隊・両角部隊の暴挙として世上に流布されたと表現するには隔たりがある。
 そうすると両角部隊の虐殺行為が「世上」「流布されている」と言いながら、その実態としては秦賢助氏の記事しか存在しないことになる。よって『郷土部隊戦記』「三 南京虐殺事件の真相」は、実質的には秦記事に対する反論と見ることが出来る。

 そして、『日本週報』秦記事への反論だったというのは『郷土部隊戦記』独自の見解ではなく、その基礎となった両角手記にも言える。

両角業作手記(抜粋)
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

『南京戦史資料集2』p.339-341

 この両角手記は、阿部輝郎氏が1962年1月下旬に両角宅へ取材に訪れ筆写したと言われている。つまり、1964年に刊行された『郷土部隊戦記』より前の時点で、両角大佐は「表面に出た」「宣伝、誇張が多過ぎる」ものを読んだ上で手記を執筆したことになる。
 ではその「表面に出た」ものとは何か。先に示したようにそれは秦賢助氏の記事しかない。両角大佐が秦記事を目標において、「宣伝、誇張が多過ぎる」ことを否定する目的で手記の執筆をしたというわけである。

 以上のことを時系列にまとめると次のようになる。
 1957年『日本週報』秦賢助氏の記事において両角部隊による幕府山での捕虜殺害事件が取り上げられる。この秦記事を見た両角大佐は手記を執筆する(もしくは手記自体は別目的の執筆だったとしても、南京事件の項はこの記事が契機となった)。
 1962年1月、阿部氏が新聞連載「郷土部隊戦記」の取材で両角大佐宅を訪れ、手記・日記の写しを入手する。
 1964年、新聞連載をまとめた『郷土部隊戦記』が刊行される。
 1972年、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』で山田少将、平林少尉らが証言。山田少将は非戦闘員解放を証言するが、収容所火災による捕虜逃亡は言及せず、平林少尉は非戦闘員解放には言及せず、火災による捕虜逃亡は記憶がないと証言する。南京事件に関して議論が盛んとなったのは本多勝一氏の朝日新聞の連載「中国の旅」以降の1971年以降だ。山田少将や平林少尉は鈴木氏がインタビューした時点で『郷土部隊戦記』の内容を詳細には理解しておらず、『郷土部隊戦記』の内容とズレた内容となった。
 その後、本多氏をはじめ洞富雄氏、藤原彰氏、田中正明氏、山本七平氏、板倉由明氏によって南京事件事件の議論は継続的に行われた。
 1982年、福島民友新聞で連載された「ふくしま戦争と人間」が書籍にまとめられ刊行される。そこには、両角大佐の手記がはじめて引用されるほか、第12中隊関係者の証言として収容所火災による捕虜逃亡説が紹介される。
 その後の捕虜減少説を裏付ける資料は、1984年『世界日報』記事で平林少尉の証言、1987年田中正明『南京虐殺の総括』で平林証言、1989年阿部輝郎『南京の氷雨』で第5中隊長 角田栄一中尉の証言が全てとなる。これらの証言は、いずれも『郷土部隊戦記』や両角手記の記述に基づいて述べたものと推測する。

 捕虜の減少を述べる資料は戦後の証言しか存在せず、当時の資料(日記等)には存在しないのは、両角手記を嚆矢とし、その手記に基づいて書かれた『郷土部隊戦記』、それに沿って証言した山田、平林、角田、第12中隊関係者という順序で、虚偽の事実が継承されて証言されたと推測できる。一方で、戦後になってからと思われるが、歩65第1大隊長 田山少佐が事件の口止めをしていたとの証言も残っている(※1)。ここでは詳細には立ち入らないが、戦後の証言の形成には複数の原因があったとも考えられる。
 また、両角以外の者がどの程度の意図をもって虚偽の証言をしたのか判断することは難しい。単に自身の記憶のない部分を補う程度の意図だった可能性も否定できない。しかし、実質的に虚偽の事実を創作した両角は、相当な意図をもって手記に残したと考えるべきだ。
 以上のような事実が明らかになった以上は、両角をはじめ山田、平林、角田、第12中隊関係者の証言を資料として利用する際には、軍に不利となる事実を隠蔽する意図を持っている可能性を考慮する必要があるだろう。

※1 第4中隊 少尉[証言]
「内地に帰ってから大隊長から あれだけはしゃべらないでくれと 箝口令がありました  田山大隊長ね」
「NNNドキュメント’19 南京事件Ⅱ」日本テレビ、2018年5月13日24:55放送

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