| 【幕府山事件】捕虜数の推移 総目次 |
| 1. はじめに 2. 検証のポイント 3. 先行研究の紹介 4.Ⓐ投降者捕獲数 5.Ⓑ非戦闘員の解放 6.Ⓒ収容所火災による捕虜逃亡 7.Ⓓ捕虜殺害数 8. まとめ 9.参考資料 |
Ⓓ捕虜殺害数
ここまで幕府山事件における捕虜数の推移でポイントとなる投降者捕獲数、非戦闘員解放による捕虜数半減、火災時の逃亡による捕虜数半減について検証してきた。その結果として非戦闘員解放と火災時の逃亡で、それぞれ捕虜数が半減したという事実とは認められなかった。
本項では上記の結論を裏付ける意味で、山田支隊将兵の捕虜殺害数に関する認識を網羅的に確認してみたい。既に検証してきた通り、投降者捕獲数は1万7000名~2万2000名程度あったと見られることから、捕虜殺害数がこの数値に近い場合は非戦闘員解放や火災による捕虜逃亡により捕虜数が1/2(半減)~3/4(2回の半減)となるような認識がなかったことになる。その為、可能なケースでは投降者捕獲数と捕虜殺害数も比較検討する。
捕虜殺害数に関する資料の紹介と検討
捕虜数に言及している資料の一覧は下記の通りとなる。

捕虜殺害数を記述していない資料
捕虜数に言及のある資料のうち、殺害数に言及のない山田、斎藤、堀越、丹羽、佐藤、遠藤(重)、中野、新妻、杉内、I、関係者(第12中隊)は今回の検証対象とはならない。
捕虜殺害数の概況
捕虜殺害数(連行数)の概況は次の通りとなる。捕虜殺害数に言及のある人物全22人中、最小は「四百人前後」(丹羽証言)、最大は「二万五千」(高橋日記)である。捕虜殺害数の分布は、1万人未満が9人、1万以上2万人未満が7人、2万人以上6人となっている。
捕虜殺害数1万人未満
捕虜殺害数を1万人未満としているのは、両角、平林、丹羽、角田、柳沼、I氏、黒須、近藤、E氏となる。
両角業作大佐 歩兵第65連隊 連隊長
両角手記(抜粋)
『南京戦史資料集2』p.339-341
「 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。」
「某棟が火事になった。…我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。」
「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。」
両角大佐の手記では、投降者捕獲数1万5300名、非戦闘員逃亡により残数8000名、収容所火災時の逃亡により捕虜数半減を経て、捕虜を殺害現場へ連行した数は4000名、暴動が起き殺害した物は僅少、その他は逃亡したとする。
平林貞治少尉 第65連隊 連隊砲中隊
平林証言(抜粋)
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199 [証言]
「それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。」
「殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。」
「向うの死体の数ですか?さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」
「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)
「確かに捕虜が投降してきた当初の総数は一万五千人くらいと推定されます。しかし、非戦闘員約七千人は直ちに解放したので、最終的に捕捉したのは八千人ほどでした」
「十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった。」
「捕虜の中には逃げ出したり運よく弾が当たらなかった者もいて、結局、死んだのは約三千です」
『南京事件の総括』(1987年)p.187-189
「しかるに自分たちの十倍近い一万四、〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。」
「山田旅団長命令で非戦員(※K-K註:ママ)と思われる者約半数をその場で釈放した。」
「二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホッとした。」
「捕虜は約四千」
「中国側の死者一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらいといわれ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。」
『南京の氷雨』(1989年) [証言]p.108-109
「連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。 四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。」
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千—-いくら多くても四千人を超えることはない。」
平林少尉の証言における捕虜殺害数は資料間で若干のバラつきが見られるものの、概ね3000名前後している。しかし平林少尉の証言には変遷が多く、殺害の前提となる投降者捕獲数や非戦闘員逃亡・火災による逃亡による1/2~3/4の減少に関して証言が一定しない。その為、殺害現場まで連行した人数が証言によって1万名、8000名、4000名と変化しているにも関わらず、捕虜殺害数が3000名前後と一定することで、証言によって連行数と殺害数の比率が一定しない。
おそらく、平林少尉には多数の殺害死体があったという記憶があるものの、具体的な人数に関する記憶はないのだろう。また、これらまでの検証で明らかにしてきた通り、投降者捕獲数、非戦闘員の逃亡、火災による逃亡のに関する記憶はなく、両角手記や『郷土部隊戦記』の記述に依拠して証言したものと思われる。
丹治善一上等兵 第65連隊 第四次補充兵
丹治証言(抜粋)
『ふくしま 戦争と人間』 p.128 [証言]
「あの記憶は鮮烈ですね。なにしろ初めて戦場を目撃したのですから。しかもあの無数の死者……。私たち新参の補充要員は十八日朝、いきなり江岸のその現場に連れ出され、戦争の残酷場面を見せつけられたのです。死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり……。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」
丹治上等兵について『ふくしま戦争と人間』p.128では「第三次補充」となっているが、『南京の氷雨』p.115では「第四次補充」と書かれている。12月17日前後に部隊に合流していることから第四次補充が正確と見るべきだろう。
山田支隊は、12月17日夜の捕虜殺害直後から死体整理を行っている。したがって、丹治上等兵が12月18日朝に見た死体というのは、二日に渡って行われた捕虜殺害のうちの一日分の殺害であり、かつ死体整理が一部終了した状態だったことになる。丹治上等兵がいう「四百人前後」という死体数は捕虜殺害の一部分でしかないことは明らかであることから、捕虜数の推移を検証する資料としては不十分と判断する。
角田栄一中尉 歩兵第65連隊第5中隊 中隊長
角田証言(抜粋)
『南京の氷雨』 p.85-87
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか—-。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」
角田中尉の証言のうち、捕虜数について言及しているのは上記の部分だけで、これは12月16日 魚雷営で行われた捕虜殺害の証言である。戦後の証言ということもあり人数が不正確であることは否めず、また、一日だけの捕虜連行数であるため、捕虜数の推移を検証する資料としては不十分と判断する。
柳沼和也上等兵 歩兵第65連隊第7中隊
柳沼日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.166-167
十二月十四日
明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる
十二月十七日 晴
夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。
柳沼上等兵の陣中日記は、投降兵捕獲数は「およそ一万七八千と数へる」(12月14日付)とし、12月14日~16日の間には非戦闘員の解放や収容所火災による捕虜逃亡について言及がない。また、12月16日の捕虜殺害についても言及がない。
12月16日の行動は朝から小隊長と共に南京城見学に行き、夕方より下士哨の任務だった。12月17日は四交代の歩哨で、日中の単哨、夜間の複哨があったという。
捕虜殺害に言及しているのは12月17日分しかなく、16日は言及がないことから、「一団七千余人」という捕虜殺害数が、一日のみの殺害数か全体の殺害数かを判断することは出来ない。また、「一団」という表現も不自然である。
参考までに同じ第7中隊の大寺隆上等兵の殺害数の認識を確認する。大寺上等兵は12月18日付日記で「昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」と記している。大寺上等兵は第四次補充兵で12月17日午後5時に連隊本部に到着し、翌日、第7中隊指揮班に配属されている為、投降兵の捕獲、捕虜の管理、殺害には関わりがないことから、大寺上等兵の記述は中隊内で聞いた話となる。
この大寺上等兵と柳沼上等兵の捕虜殺害数の記述を比較すると、認識に大きな差があることが分かる。そうすると、柳沼上等兵の「一団七千余人」という記述は捕虜殺害数の一部分(一日分)、もしくは誤記(例えば「一団七千余人」→「一万七千余人」の誤記)と見た方が妥当かもしれない。
以上のことから、捕虜殺害数は7000名と記しているものの、捕虜数の推移を検証する資料としては留意をする必要がある。
I伍長(伊達郡) 歩兵第65連隊第9中隊
I伍長証言(抜粋)
『南京大虐殺の証明』p.139
何日か収容した後、捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方、五人ずつジュズつなぎにして、二日間にわたって同じ場所に連行した。捕虜収容所から虐殺現場までは二~三キロメートルで、一日目の捕虜連行数は四〇〇~五〇〇人だった。
I伍長の証言は、捕虜殺害1日目の連行数に言及があるだけなので、捕虜数の推移を検証する資料としては不十分である。
黒須忠信上等兵 山砲兵第19連隊第3大隊段列
黒須日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.350-351
拾二月拾四日 晴◎
途中敗残兵を六五にて一千八百名以上捕慮(虜)にして其の他沢山の正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮(虜)にした
拾二月拾六日 晴
二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す
黒須上等兵の日記では、投降者捕獲数は5000名としており、捕虜殺害数は16日を「一部五千名」としているが、17日の記述はない。16日の捕虜殺害数5000名を「一部」と表現していることから、投降者捕獲数は5000名より多かったと判断できる。
黒須日記は投降者捕獲数も捕虜殺害数も一部分の数値でしかなく、捕虜数の推移を検証する資料としては不十分である。
近藤栄四郎伍長 山砲兵第19連隊第8中隊
近藤日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.325-326
〔十二月〕十四日
前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて三千名に達せん
〔十二月〕十六日
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
近藤伍長の日記では、投降者捕獲数は12月14日に3000名としているが、16日の火災後の捕虜数を2万名としていることから、投降者捕獲数は最終的に2万名となったことが分かる。捕虜殺害については16日しか言及がなく、その数は2万名の1/3で7000名としている。
近藤日記は捕虜殺害数は16日分しか記述しておりず、16日・17日両日の捕虜殺害数をどう認識したかは分からない。しかし、16日の捕虜殺害時点での捕虜総数を2万名と判断していることから、投降者捕獲から捕虜殺害の間に捕虜数が半減するような減少がなかったと認識していることになる。
E氏 山砲兵第19連隊所属
E氏手記『実録・日中戦争の断面』(私家版)(抜粋)
『南京大虐殺の研究』pp.140-114
「我が若松両角部隊の捕虜はここだけで二万人いたと言われ、」
「兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。…そして命令どおり中から出て来る捕虜たちを後ろ手に縛り、二人一組につないで表の広場に立たせた。…半日もかかって五千人位は縛ったことであろう。」
本資料は戦後の手記である。手記によれば投降者捕獲数は2万名であり、初日の捕虜殺害についてのみ言及がある。連行数・殺害数は5000名となっている。
手記での捕虜殺害数は16日分しか言及がなく、捕虜数の推移を検証する資料としては不十分と判断する。
小括
捕虜殺害数1万名未満とする資料を検討した結果は次の通りとなる。
両角は3/4の捕虜減少を証言している。平林は3/4に近い捕虜減少を証言している場合もあれば、まったく捕虜減少を証言していない場合もあり、証言内容が一定せず信憑性に欠ける。柳沼は捕虜減少を認識していた可能性はあるが、書かれている内容が一部分だったか誤記の可能性がある。黒須、E、丹羽、角田、Iは、殺害数の全体を述べたものではないため検討資料として不適格である。近藤の記述には殺害の総数は書かれていないものの、殺害時点での捕虜総数を2万と認識しており、半減するような捕虜数減少は認識していない。
捕虜殺害数1万名以上2万名未満
捕虜殺害数を1万名以上2万名未満とするのは、荒海、栗原、遠藤(高)、本間、G、天野、Hの7名である。このうちH以外は全て投降者捕獲数にも言及があるので、併せて投降者捕獲数と捕虜殺害数も比較検討する。
荒海清衛上等兵 歩兵第65連隊第1大隊 本部
荒海日記(抜粋)
『南京戦史資料集Ⅱ』p.345
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
◇十二月十五日
今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。
◇十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
◇十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。
荒海上等兵は、投降者捕獲数を12月14日に1万5000名とし、12月15日にも続けて捕獲があったというが、その数は書いていない。捕虜殺害数は、12月16日に2500名、12月17日に1万5000名としている。
12月15日の投降者捕獲の人数が書かれていないので、投降者捕獲数の全体数は分からないものの、捕虜殺害数が1万7500名であり、想定される捕虜捕獲数2万名前後と捕虜殺害数は近似値を示している。
栗原利一伍長 第65連隊第2中隊
栗原証言(抜粋)
本多勝一『南京への道』pp.307-318
「(漢口攻略戦で入院中に描いたスケッチに)捕虜の数は約一万三五〇〇人となっている。」
「この「作戦」で、皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」と田中さんは語る。」『南京戦史資料集Ⅰ』pp.659-660
「 十五日から十六日、第一大隊(一三五名)はこの一三、五〇〇人と公称された捕虜の大群を、幕府山南麓の学校か兵舎のような藁葺きの十数棟の建物に収容し三日間管理した(スケッチ2)。」
「うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。」
「当時日本軍の戦果は私たちの一三五〇〇を含めて七万といわれていたが、現在中国で言うような三〇万、四〇万という「大虐殺」などとても考えられない。」

栗原伍長の証言はいくつかの媒体に残されているが、ここでは本多勝一氏と南京戦史によるインタビューから抜粋した。栗原伍長の証言は、南京戦のおよそ1年後に書かれたというスケッチに基づいている。
証言によれば投降者捕獲数は1万3500名としている。捕虜殺害は12月17日の一日のみの言及となっており、捕虜殺害数については証言としては言及はない。しかし、スケッチには包囲した捕虜の部分に「13500」と描いていることから、1万3500名の捕虜を長江岸へ連行したと認識していることが分かる。証言では「皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」」と述べていることから、1万3500名を全て殺害したと認識している。
以上の経緯から考えて、栗原伍長は投降者捕獲数を1万3500名と聞き、自身が参加した12月17日の捕虜殺害作戦でその全員を殺害したと認識している。これは実態(捕虜殺害は16日・17日の二日間)とは若干違う認識と言える。しかし、投降兵を捕獲してから捕虜殺害に至るまでの間に捕虜の減少を認識はしてないことは確認できる。
遠藤高明少尉 歩兵第65連隊第8中隊
遠藤(高)日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.219-220
十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
十二月十七日 晴
夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、
十二月十八日
午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ。
遠藤少尉は、捕虜総数を1万7025名とし、捕虜殺害数は16日に「三分の一」、17日に「一万余」と表現している。捕虜殺害直前の捕虜数を1万7025名としていることから考えて、投降者捕獲以降で捕虜の大幅な減少は認識していなかったと判断できる。
なお、投降者捕獲数に関しては、14日に「四百五十名」と「四百余」、15日に「三百六名」と記しているが、これは第8中隊か所属小隊で捉えた人数のようで捕獲数の一部分の数値と考えられることから、捕虜数推移の資料としては利用しない。
本間正勝二等兵 歩兵第65連隊第9中隊
本間日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.239-240
十二月十四日
聯隊では二万人余も捕慮(虜)とした。
十二月十六日
捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す
十二月十七日
中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる。
本間二等兵は、投降者捕獲数を2万余名とし、捕虜殺害数は16日3000名、17日1万5000名、合計1万8000名とする。
投降者捕獲数を2万余名、捕虜殺害数を1万8000名とし、およそ2000名の差が出ているが、非戦闘員解放による半減、収容所火災時の逃亡による半減といった減少ではないようで、誤差と考えるの妥当だろう。
G上等兵 歩兵第65連隊第9中隊
G証言(抜粋)
『南京大虐殺の証明』p.139-140
「私は謝家橋鎮でマラリアにかかり、南京で城内見学に行く途中発病してしまった。だから、宿舎にいて暇だった。発病する前に一度だけ捕虜収容所の警備をやった。収容所は一〇棟あったが、捕虜は鮨詰め状態だった。この時、一万人といわれていた。」
「私は捕虜が連行されて行くのを見ただけだが、連行は二日間にわたって行われた。初日は三〇〇〇人連行。『収容所が焼けて入れる所がないので』との理由だった。二日目は七〇〇〇人、『前日と同じ場所に連行した』と聞いた。」
G上等兵の証言によれば、収容所へ収容したのは1万名、捕虜連行数は初日3000名、二日目7000名としている。
戦後の証言であるため正確性には疑問がある。自身はマラリアのため隊内で療養しており、捕虜を実際に見たのは収容所の警備についた時の一度だけで、それ以外は伝聞情報のようだ。
収容者数と(殺害のための)捕虜連行数が一致するのは、両者に当時の記憶があるというよりは、数値に矛盾がないように証言している可能性はある。ただし、捕虜数が2度も半減したという証言はない。
一方、収容者数1万名という人数は、想定される投降者捕獲数が2万名前後であったことを考慮すると、非戦闘員解放後の捕虜数として1万名と認識していた可能性は否定できないが、一方で戦後の証言ということで、単に1万4777名などを1万名と切り捨てて記憶していた可能性もあり、いずれかを判断することは出来ない。
天野三郎少尉 歩兵第65連隊第9中隊
天野郵便(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.250、p.252、pp.257-258
「今までの捕虜は歩六五のみで約二万に上り目下砲台下の支那軍廠舎に収容中にて」(12月17日付、宛先不明、郵便物)
「十四日払暁占領其の附近にて敗残兵約二万を得之を砲台下支那軍廠舎に収容目下之を監視中なり。」(12月17日付、父宛、郵便物)
「午前八時太陽の昇る頃同砲台約一里手前にて敵と遭遇僅少なる損害にて約一万五千の敵を死傷せしめロ獲兵器多数を得たり。」(12月29日付、天野竜治郎宛、郵便物)
天野少尉の資料はいずれも郵便物である。投降者捕獲数を約2万名としている。最後の記述は、12月29日の郵便物で、幕府山砲台で約1万5000名の敵を死傷させたと述べていることから、捕虜殺害数と判断した。
投降者捕獲数2万名と捕虜殺害数1万5000名には5000名の差があるが、この差が何に由来しているか判断できない。ただし、非戦闘員の解放による半減、収容所火災時の逃亡による半減があったとは認められない。
本資料では、投降者捕獲数と捕虜殺害数に5000名の差があることから、捕虜数の減少を認識した可能性は否定できないが、その原因は判断できない。
H氏(西白河郡)下士官 歩兵第65連隊第3機関銃中隊
H証言(抜粋)
『南京大虐殺の研究』p.138-139
「だが、この捕虜がどこから連行されて来たのかは私は知らない。一回の連行が五〇〇〇人位 で、三日間続いた。ピーッと鳴ったら撃てと命令が出ていた。三日間とも日が落ちるか落ちないかの時刻で、連行されてきた捕虜はあきらめがいいのか、虐殺現場での騒ぎはなかった。集団での逃亡もなかった。しかし、虐殺時に少数の逃亡者はみた。」
「(以上のことをのちにH氏は二日間の出来事と訂正)」
H氏の証言は戦後のものであり内容には不確かな部分が多い。ただし、数十年も前の出来事を素の記憶だけで証言しているならば、この程度でも不思議ではないだろう。
H氏は捕虜の管理に関係していなかったようで、捕虜の収容先について「知らない」と述べている(失念しただけかも知れない)。殺害現場や機関銃での銃撃の様子を述べており、1回5000名の捕虜を連行し3日間続いたと述べているが、後に日数を2日間に訂正している。
捕虜殺害の状況には信憑性はあるものの、その人数に関しては証言にブレがあり信憑性が低い。したがって捕虜数の推移を検証する資料としては不十分と判断する。
小括
捕虜殺害数1万名以上2万名未満とする資料を検証した。
荒海、栗原、遠藤(高)、本間は投降者捕獲数と捕虜殺害数に有意な差は見られず、捕虜殺害数も1万3500名~1万8000名であり、1/2~3/4の捕虜数減少の認識はない。
天野は捕獲数2万名、殺害数1万5000名とし、5000名の開きが見られるが、捕虜減少を認識していたか否かは判断できない。ただし、殺害数から考えて半数を超えるような捕虜数の減少を認識していないのは明らかだ。
Gは、収容数と連行数を共に1万名としている。人数から考えると収容以前の非戦闘員解放を認識していた可能性は否定できないが、戦後の証言である点、病気療養のため捕虜との関わりが少なかった点を考慮する必要がある。
Hの証言は、捕虜数に関しては信憑性が低く、検討資料としては不適当である。
以上をまとめると、荒海、栗原、遠藤(高)、本間は投降者捕獲から捕虜殺害の間に捕虜の減少は認識しておらず、Gは非戦闘員解放による捕虜数1/2減少を認識していた可能性があるが信憑性は低い、天野は捕虜数減少を認識した可能性あるものの1/2~3/4の捕虜数減少という大幅なものでない、Hは判断する資料として不適当だった。
捕虜殺害数2万名以上
捕虜殺害数2万名以上とする資料は、菅野、伊藤、宮本、大寺、高橋、目黒の6名となる。このうち菅野、宮本、目黒は投降者捕獲数にも言及があるので、捕虜殺害数とあわせて比較検討する。
菅野嘉雄一等兵 歩兵第65連隊連隊砲中隊
菅野日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309
〔十二、〕十五
今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
〔十二、〕十六
夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
〔十二、〕十七
捕虜残部一万数千を銃殺に附す。
菅野一等兵は、投降者捕獲数を約2万名とし、捕虜殺害は16日に「一部」、17日に「一万数千」としている。捕虜殺害数は不明瞭であるが、投降者捕獲数と捕虜殺害数は近似値を示していると判断できる。
宮本省吾少尉 歩兵第65連隊第4中隊
宮本日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134
〔十二月〕十四日
攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す
〔十二月〕十六日
捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す
〔十二月〕十七日
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
宮本少尉は、投降者捕獲数を「無慮万以上」とし、捕虜殺害数は16日に3000名、17日に2万名以上としている。
投降者捕獲数は不明瞭ではあるが、捕虜殺害数が合計2万3000名以上となっていることから、投降者捕獲から捕虜殺害までに捕虜の減少は無かったと判断する。
目黒福治伍長 山砲兵第19連隊第3大隊段列
目黒日記(抜粋)
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.373
十二月十三日 晴天
途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位 迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の(と)投降す
十二月十六日 晴天 南京城外
午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる
十二月十七日 晴天 南京城外
午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。
十二月十八日 晴天 南京城外
休養、午後五時残敵一万三千程銃殺す。
目黒伍長の日記では、投降者捕獲数を1万3000名としているが、「残兵尚続々の(と)投降す」としてその後にも増加していることが分かる。捕虜殺害数は、12月16日に7000名、12月17日に13000名、合計2万名としている。
12月18日にも1万3000名を殺害している旨が書かれているが、他の資料と比較すると12月18日に捕虜殺害を実行したとは考えらない。前日に殺害した捕虜の死体処理について書こうとしたのではないだろうか。
投降者捕獲数1万3000名と捕虜殺害数2万名には7000名の差が見られるが、これは当初の投降者捕獲数1万3000名の以後に投降者を捕獲したと考えるのが妥当だろう。
本資料では捕虜殺害数が2万名ということで、捕虜数の1/2~3/4減といった認識は示していない。
伊藤上等兵(歩65第1中隊)・大寺上等兵(歩65第7中隊)・高橋上等兵(歩65第11中隊)
伊藤喜八 歩兵第65連隊第1中隊 編成 上等兵
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.105
(日記抜粋)
拾二月拾七日
その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。
大寺隆 歩兵第65連隊第7中隊 上等兵 第4次補充
『南京戦史資料集2』pp.348-350
(日記抜粋)
十二月十八日
午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へって来ない。
高橋光夫 歩兵第65連隊第11中隊 上等兵 第4次補充
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.289
(日記抜粋)
〔十二月〕十八日 雪 寒し
午後にわ(は)聯隊の捕りょ(捕虜)二万五千近くの殺したものをかたつけた。
伊藤、大寺、高橋の日記は上掲の通りで、いずれも捕虜殺害数を2万名~2万5000名としており、投降者捕獲から捕虜殺害までの間の捕虜減少について認識を示していない。
小括
捕虜殺害数2万名以上の資料を検証した。
菅野、宮本は投降者捕獲数と捕虜殺害数が一致・近似値を示しており、その捕虜殺害数も1万数千名以上・2万3000名だった。目黒は捕獲数は1万3000名以上、殺害数は2万名となっている。伊藤、大寺、高橋は捕獲数は書いていないが、殺害数はいずれも2万名以上だった。捕虜殺害数2万名以上の資料は全てにおいて、投降者捕獲から捕虜殺害の間に捕虜の減少を認識していない。
まとめ
幕府山事件における捕虜殺害数を検証してきた。当初の投降者捕獲数が1万7000名~2万2000名とされる中で、最終的な捕虜殺害数(連行数)に1/2~3/4というような大幅な減少が見られる場合、そこに非戦闘員解放や火災による捕虜逃亡があったと認識していたことになる。
投降者捕獲から捕虜殺害に至る間に非戦闘員解放による半減、収容所火災時の逃亡による半減という様な大幅な捕虜数の減少があったことを示すのは、両角大佐と平林少尉だけである。このうち平林少尉は、証言をするたびに捕虜数の推移の内容を変えており信憑性がない。
一定の捕虜数の減少が確認できるのは、柳沼上等兵「およそ一万七八千」→「一団七千余人」、天野少尉「約二万」→「約一万五千」である。柳沼上等兵のケースは、半減に近い捕虜数の減少を認識していた可能性も、誤記等の可能性も否定できない。天野少尉のケースは殺害数が1万5000名であることから、1/2~3/4という大幅な減少を示したものではない。
また、G上等兵のケースは収容者数を1万名と証言しているが、この人数を収容したとすると収容前に非戦闘員を解放して半減した可能性は否定できないが、一方で戦後の証言ということもあり1万4777名などを1万名として記憶していただけかも知れず、確たる判断はできない。
柳沼、天野、Gのケースは、一定の捕虜減少を認識していた可能性を示すものの、資料内で大幅な捕虜減少が存在したことには言及しておらず、また周辺資料を加味すると誤差、誤記である可能性も否定できない。
荒海、栗原、遠藤(高)、本間、菅野、宮本は投降者捕獲数と捕虜殺害数が一致もしくは近似値を示している。伊藤、大寺、高橋は捕虜殺害数が2万名以上ということで、大幅な捕虜の減少を認識していないと判断する。近藤は、捕虜殺害数は16日分しか書いていないが、その際に捕虜総数を「二万」としていることから、捕虜減少を認識していないことが分かる。
黒須、E、丹羽、角田、Iは一部の捕虜殺害数を言及したものであり、Hは内容の信憑性が低いため、いずれも検証するのには不適格な資料だった。
以上をまとめると、捕虜殺害数から見ると、捕虜の大幅な減少を認める資料は2名あったが、そのうち1名は信憑性に欠けるものだった。一定数の減少が認められる資料は3名あったが、そのうち2名は錯誤の可能性も否定できず、1名は半数以上に及ぶような現象ではない。一方、捕虜の減少が認められない資料は10名あった。
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