【経歴】山田栴二

【経歴】山田栴二 第13師団
【経歴】山田栴二

略歴

 1887年8月17日誕生。名古屋陸軍地方幼年学校(第4期生)、陸軍中央幼年学校(第4期生)、陸軍士官学校(第18期)、歩兵第29連隊、仙台陸軍地方幼年学校生徒監、第2師団副官、陸軍歩兵学校(中隊長、教官、研究部員)、第16師団参謀、豊橋陸軍教導学校(学生隊長)、陸軍士官学校(予科生徒隊長、学生部長)、仙台陸軍教導学校(校長)、歩兵第103旅団長(上海、南京、徐州、武漢を転戦)、第3独立守備隊司令官(ノモンハン事件直前まで)、東部軍司令部、新京第一中学校校長、仙台陸軍幼年学校(校長)。最終階級 陸軍中将。1977年11月逝去、没年90歳。

家族

父、山田揆一(元一関藩士、元仙台市長)。母、山田さく。

肖像

歩兵第103旅団長 山田栴二少将『我殱滅譜 中支那軍記会』小野寺誠毅編刊 1940年
我殱滅譜 中支那軍記会』小野寺誠毅編刊 1940年
わが青春の満洲 : 新京第一中学校開校50周年史』新京第一中学校第一陣会編刊 1984年

経歴

1887年8月17日 山田揆一(元一関藩士、元仙台市長)、山田さくの次男として宮城県仙台市にて誕生(長男は勝郎1884年生)※1
1900年9月1日 13歳 名古屋陸軍地方幼年学校入学 第4期生 ※35
1903年6月29日 15歳 同校卒業 ※35
1904年11月28日 17歳 陸軍中央幼年学校卒業 第4期生 ※36
1904年11月30日 士官候補生 ※36
1904年12月1日 陸軍士官学校入校を受命 ※36
1905年11月25日 18歳 陸軍士官学校第18期卒業 ※2
1906年6月26日 18歳 歩兵第29連隊附(被仰付) ※3、陸軍少尉 ※4
1906年8月8日 (補)歩兵第29連隊附 ※5
1908年12月21日 21歳 歩兵中尉 ※6
1910年4月8日~1912年5月9日 歩兵第29連隊朝鮮駐箚 ※7
1912年5月1日 24歳 仙台陸軍地方幼年学校生徒監 ※8
1915年12月26日 28歳 歩兵第29連隊附 ※9
1916年5月2日 歩兵大尉 ※10、歩兵第29連隊中隊長 ※11
(年月日不明 歩兵第29連隊中隊長→第2師団副官)
1918年9月1日 31歳 (現在)第2師団副官 ※12
1919年4月15日 陸軍歩兵学校教官 ※13
(年月日不明 陸軍歩兵学校教官→同校教導聯隊中隊長兼同校教官同校研究部々員)
1920年9月1日 33歳 (現在)陸軍歩兵学校教導聯隊中隊長兼同校教官同校研究部々員 ※14
1922年2月8日 34歳 参謀本部附 ※15
1922年8月15日 第16師団参謀 ※16
1923年3月17日 35歳 陸軍少佐 ※17
1924年11月28日 37歳 第16師団司令部附 ※18
1925年12月2日 38歳 陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員 ※19 ※20
1927年7月26日 39歳 陸軍中佐 ※21
1929年3月16日 41歳 豊橋陸軍教導学校学生隊長 ※22
1932年4月11日 44歳 陸軍歩兵大佐・陸軍士官学校予科生徒隊長 ※28
1934年8月1日 46歳 陸軍士官学校学生部長 ※25
1935年1月22日 47歳 陸軍士官学校附 ※26※27(官報では1月21日付だが、これは誤記している可能性がある)
1936年3月28日 48歳 仙台陸軍教導学校長 ※28
1936年8月1日 陸軍少将 ※29
1937年9月10日 50歳 歩兵第103旅団長(上海派遣軍・第13師団) ※30
(上海戦、南京戦、徐州戦、武漢戦)
1938年11月17日 51歳 第3独立守備隊司令官 ※31
1939年3月9日 陸軍中将 ※32
1939年8月1日 東部軍司令部附 ※31
1939年8月30日 52歳 待命 ※31
1939年9月3日 予備役編入 ※31
1941年 54歳(満州国)新京第一中学校 校長 (1944年まで) ※37
1944年11月27日 57歳 再召集、仙台陸軍幼年学校長 ※31
1947年11月28日 60歳 公職追放仮指定 ※33
1977年11月13日 90歳 逝去 ※34

※1『人事興信録 3版(明44.4刊)く之部―す之部』人事興信所 1911年 pp.や67-68
※2「○生徒卒業 陸軍士官学校第十八期生徒安井藤治以下九百十九人は同校教則卒業の上去月二十五日退校せり其兵科、氏名左ノ如し…二九 山田栴二」官報第6727号 1905年12月1日 pp.29-30
※3 「○明治三十九年六月二十六日…陸軍歩兵少尉 山田栴二…歩兵第二十九聯隊附被仰付」官報第6897号 1906年6月27日 pp.828-829
※4 「○明治三十九年六月二十六日…任陸軍歩兵少尉 山田栴二」官報第6897号 1906年6月27日 p.816
※5 「○明治三十九年八月八日…陸軍歩兵少尉 山田栴二…補歩兵第二十九聯隊附」官報第6934号 1906年8月9日 p.244
※6 「○明治四十一年十二月二十一日…任陸軍歩兵中尉 陸軍歩兵少尉正八位 山田栴二」官報第7648号 1908年12月22日 p.557
※7「明治四十三年四月より向ふ二年間、第二師団は朝鮮守備を命ぜられ、聯隊は同月八日より逐次屯営を出発して渡韓し、同月十七日迄に各守備に就いた。…四十五年四月に至り其任期終了し、守備を第八師団に譲つて、帰還の途に上り、五月九日を以て全部屯営に帰つた。」『歩兵第二十九聯隊史 : 附・下士優遇及其志願心得 3版』帝国聯隊史刊行会編刊 1926年 pp.135-136
※8 「○明治四十五年五月一日…免本職補仙台陸軍地方幼年学校生徒監 歩兵第二十九聯隊附陸軍歩兵中尉 山田栴二」官報第8658号 1912年5月2日 p.37
※9 「○大正四年十二月二十六日…免本職補歩兵第二十九聯隊附 仙台陸軍地方幼年学校生徒監陸軍歩兵中尉 山田栴二」官報第1022号 1915年12月27日 p.674
※10「○大正五年五月二日…任陸軍歩兵大尉 陸軍歩兵中尉正七位 山田栴二」官報第1124号 1916年5月3日 p.78
※11「○大正五年五月二日…免本職補歩兵第二十九聯隊中隊長 歩兵第二十九聯隊附陸軍歩兵大尉 山田栴二」官報第1124号 1916年5月3日 p.88
※12「歩兵大尉」「(現官の実役停年)二、四、〇(列次)1844(任官の年月日)明治三九、六、二六少尉/同四一、一二、二一中尉/大正五、五、二大尉(職名)第二師団副官(本邦位、勲、功、爵、学位/外国勲章)正七(道、府、縣、族籍/氏名/年齢)宮城、士/山田栴二/三一、〇」『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正7年9月1日調』陸軍省編 陸軍省等 p.314
※13 「◎大正八年四月十五日…第二師団副官陸軍歩兵大尉 山田栴二/免本職補陸軍歩兵学校教官」官報第2008号 1919年4月16日 p.401
※14 「(職名)陸軍歩兵学校教導聯隊中隊長兼同校教官同校研究部々員」『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』陸軍省編 陸軍省等 p.298
※15 「◎大正十一年二月八日…陸軍歩兵学校教導聯隊中隊長兼同校教官同校研究部部員陸軍歩兵大尉 山田栴二/免本職竝兼職補参謀本部附」官報第2855号 1922年2月9日 p.215
※16 「◎大正十一年八月十五日…参謀本部附陸軍歩兵大尉 山田栴二/免本職補第十六師団参謀」官報第3013号 1922年8月16日 p.449
※17「◎大正十二年三月十七日…陸軍歩兵大尉従六位勲六等 山田栴二…任陸軍歩兵少佐」官報第3188号 1923年3月19日 p.452
※18「◎大正十三年十一月二十八日…第十六師団参謀陸軍歩兵少佐 山田栴二/免本職第十六師団司令部附被仰付」官報第3682号 1924年11月29日 p.732
※19「◎大正十四年十二月二日…陸軍歩兵少佐 山田栴二/第十六師団司令部附被免/補陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員」官報第3983号 1925年12月3日 p.87
※20「◎大正十四年十二月二日…陸軍歩兵少佐 山田栴二/第十六師団司令部附被免/補陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員」官報第3983号 1925年12月3日 p.87
※21「◎昭和二年七月二十六日…陸軍歩兵少佐正六位勲五等 山田栴二…任陸軍歩兵中佐」官報第173号 1927年7月27日 p.697
※22「陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員 陸軍歩兵中佐 山田栴二/補豊橋陸軍教導学校学生隊長」官報第663号 1929年3月18日 p.467
※23「◎昭和七年四月十一日…陸軍歩兵中佐 従五位勲四等 山田栴二/任陸軍歩兵大佐」官報第1583号 1932年4月12日 p.357
※24「歩兵大佐」「(現官実役停年)一、四、二一 (任官年月日)(現官)昭七、四、一一(前官)昭二、七、二六 (初任)明三九、六、二六 (列次)253 (職名、命課の年月日)陸軍士官学校予科生徒隊長/七、四、一一(位、勲、功)正五、瑞四 (学位、爵/氏名/出生年月日)山田栴二/明二〇、八、一七 (出身期別)18」『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 : 索引付 昭和8年9月1日調』陸軍省編 偕行社 1933年p.91
※25「◎昭和九年八月一日…陸軍士官学校予科生徒隊長陸軍 歩兵大佐 山田栴二/補陸軍士官学校学生部長」官報第2276号 1934年8月2日 p.67
※26 「歩兵大佐」「(現官実役停年)四、一、一 (任官年月日)(現官)昭六、八、一(前官)大一五、八、六 (初任)明三九、六、二六 (列次)71 (職名、命課の年月日)陸軍士官学校附 一〇、一、二二 (位、勲、功)正五、瑞四 (府縣、族稱、学位/爵 氏名/出生年月日)宮城県/山田栴二/明二〇、八、一七 (出身期別)18」『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和10年9月1日調』陸軍省編 偕行社 1935年 p.79
※27「◎昭和十年一月二十一日…陸軍士官学校学生部長陸軍歩兵大佐 山田栴二/陸軍士官学校附被仰付」官報第2415号 1935年1月23日 p.467
※28「◎昭和十一年三月二十八日…陸軍士官学校附陸軍歩兵大佐 山田栴二/補仙台陸軍教導学校長」官報第2770号 1936年3月30日 p.741
※29「◎昭和十一年八月一日…陸軍歩兵大佐正五位勲四等 山田栴二…任陸軍少将」官報第2876号 1936年8月3日 p.28
※30 「沼田少将と共に参謀長の代理にて補職の伝達を受く(補第103旅団長という形式なり)」山田栴二日記1937年9月10日付 『南京戦史資料集Ⅱ』南京戦史編集委員会 偕行社 1993年p.285
※31『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』外山操編 芙蓉書房出版 1993年 p.232
※32「◎昭和十四年三月九日…陸軍少将正五位勲三等 山田栴二/任陸軍中将」官報第3652号 1939年3月10日 p.363
※33『公職追放に関する覚書該当者名簿』総理庁官房監査課編 日比谷政経会 1949年 p.193
※34『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (322);12月号』陸修偕行社 1977年12月 p.100
※35「第四期卒業生徒(四十四名)…(府縣)宮城 (族籍)士 (氏名)山田栴二」『名古屋陸軍地方幼年学校一覧 大正3年4月調』名古屋陸軍地方幼年学校編刊 p.34 註:「第一 沿革略」(p.1-7)に第1期生入学から第14回卒業までの年月日記載あり
※36「○士官候補生配賦 陸軍中央幼年学校本科卒業生徒二百六十五人に去月三十日士官候補生を命し左の如く各兵隊に配賦し昨一日陸軍士官学校へ入校を命せり(陸軍省)…歩兵…第二十九 山田栴二」p.52
「○生徒卒業 陸軍中央幼年学校に於て去月二十八日(地方幼年学校出身者)第四期生徒卒業証書授与式を挙行せり当日行幸御模様竝に式の次第及卒業者の氏名等左の如し(陸軍省)…宮城 山田栴二」p.53
官報第6428号 1904年12月2日
※37 「昭和八年の建学から昭和一六年に至る草創発展期の初代矢沢邦彦先生、暗雲低迷の昭和一六年より一九年に至る二代山田栴二先生、そして、自らの手で学舎を閉じなければならなかった悲運の校長三代本多篤先生、これらの各校長先生の在任された時代区分は、昭和史の激動の歩みと符節を合している。」『わが青春の満洲 新京第一中学校開校50周年史』新京第一中学校第一陣会編刊 1984年 p.25

人物像

 ここで紹介するのは、山田栴二が新京第一中学校(旧:満州国新京市、現長春市)で学校長を務めていた時期に生徒だった人々の記憶である。当時の旧制中学校の修業年齢は12歳~17歳であり現在の中学・高校生に当たる年齢となる。未だ子供時分の記憶ということもあり、人物像を知るにしてもかなり偏りがあるかもしれないが、人物像の一側面として紹介する。

新京第一中学校第一陣会編集委員会『わが青春の満洲 : 新京第一中学校開校50周年史』

引用:『わが青春の満洲 : 新京第一中学校開校50周年史』新京第一中学校第一陣会編集委員会 新京第一中学校第一陣会 1984年

pp.30-34
二代校長 山田栴二先生(宮城県出身)
明治三八年一一月陸軍士官学校卒
田代部隊・諸角部隊旅団長
昭和五二年一一月一三日歿

〔五期”過ぎし歳月の思い″より〕
――陸軍中将山田栴二校長(事務取扱)が着任されたのは、四年生の頃か。あの一二月八日も忘れられない。ラジオ放送の臨時ニュースを聞いて、学校にすっ飛んで行った。
 あの日一日の異常な興奮は、当時の事だから仕方あるまい。一六歳の少年に、社会科学の知識はなかったのだから。
 山田校長は軍人であった。しかし、現時点で思い返してみても、温和でしかも謹厳な、武人というよりはやはり教育者としての印象の方が強かったようである。

〔七期座談会より”山田校長観戦激励す”〕
――俺ね、あの紀元節か何かだったな。新京商業じゃないんだよ。中国人と一緒の学校に入っていた日本人がいったでしょ。
――ああ、あの城内の方にあった、工業か何か。
――そう、そこの生徒、大したことないんだけどオーバーにね、一中の金ボタンつけてたんだよ。俺、因縁つけるの好きだったからコラアッていってさ……、ところがそいつおとりだったんだな……うしろに強そうなのがいっぱいいる。それで、興安橋か白菊町か電車の停留所のあたりからケンカになってさ、横丁へ入って、雪の中で二人で取っ組み合いさ……。そこへ山田校長が馬に乗って来たんだ。紀元節か何か式の日だったんだな。高い所から校長が、俺の名前知ってたんだよな。”小久保頑張れ!”二人とももう血だらけだよな。あの頃、あまり物持たなかった。素手でやり合った。で、大したケガもなかったけど、鼻血ぐらい出したのかな、結局勝負なしみたいな恰好で別れちゃった。それで何もなしさ、明くる日も何も云われなかったよ。
――へえ、偉いものだね。
――あの頃はそのくらい大した事じゃなかったんだよね。
――それ、何年のとき?
――五年の時だったかな、集団的じゃないからね、一対一のケンカだから……。
――元気あってヨロシ……なんてね。
――今じゃ大変だね。
――救急車だよ、もう。
 七期あたりからあとの人達にとって、山田校長の人柄は特に印象深いものであったと思われる。

〔一〇期座談会より〕
司会 ではこの辺で、最後に山田校長先生についての印象を語って下さい。
――一中に入学した時、これが中将閣下かと思ったね。なにしろ気品のある人だったから、素晴らしい学校に入ったものだと嬉しかった事を覚えている。
――ウチの校長はスゴイだろう……と自慢したくなるような、やはり一種のエリート意識みたいなものがあったことは事実だろうね。
――校長は僕等生徒に対して「諸子は」という言葉をよく使われたが、これは軍隊用語なんだろうね。ところが最初は知らんものだから、「諸氏は」と勘違いして、僕等も一人前に扱われているのだ、と思ったものだ。冬寒い時でも、朝礼の際、答礼するのに必ず手袋を片方脱いでおられたね。
――山崎先生も前に書いておられたが、挨拶は小さなメモを見ながら、極めて簡潔だったね。あの辺はやはり軍人だという気がしたね。
――校長は陸軍の中でも、教育畑を永く歩いて来られた人であっただけに、中学校の校長としても、全然違和感はなかったと思う。
 いわゆる武骨一点張りの、武人派といわれる人達とは対極にあったと思うね。
――上級学校進学には、随分気をつかっておられたようだね。六期だったか七期だったか全滿のラグビー大会で優勝して、日本に行けると張り切っていたのに、受験勉強に差支えるからと校長が許可してくれないとコボしていたのを覚えている。
――新京商業がアイスホッケーで優勝して、神宮競技場のどこかに、今でも校名を刻んだプレートが埋めこんであるというから、ウチだってラグビーで優勝していれば、神宮のどこかに名前が残っていたのにね……。
――山田校長が現役復帰して、仙台の陸軍幼年学校長として転任されたのは、昭和一九年の一二月だったと思う。吹雪の荒れ狂う寒い日だった。
――昭和二〇年の一月に、奉天一中から本多校長が来られたんだが、終戦までの短い、しか勤労動員に出ている期間だったため、申し訳ないけどほとんど印象にないね。
――満洲で一番古い奉天一中から転任して来られたんだから、きっと立派な校長だったんだろうけどね……。

〔一一、一二期合同座談会より〕
――われわれにとっては山田校長の印象が非常に強い。教練査閲の時は礼装で来られて査閲官が直立不動の姿勢で敬礼していた。
――祭日の時は必ず礼服で来られて、自動車には将官旗が立てられていたし、大体は馬に乗って来られていたね。
――大体、ラッパから違っていたよ。
――中間試験が終わった日に行軍があった。あの当時は、みな真面目に勉強してきていたから、気がゆるんだこともあったのだろうが、中庭に集合している閧に、何人か倒れた。珍らしく配属将校が気にして校長にお伺いを立てた。体調が悪いものは申し出ろといわれてもあの当時のことだ、誰も申し出る者はいないよね。校長の、皆連れていけの一声で全員出発した。ところが校長は、すぐ荷馬車を手配し、われわれに判らないように後をつけさせ、落伍した者をすぐ収容できるようにしたそうだ。あとで聞いた話だが、厳しい中でも十分配慮していたのだなあと思った。
――山田校長を新京駅に送ったとき、一一期の人もいたのですか……。
――二年の暮、確か二学期の終わり頃じゃなかったかな……。

 以上が、各期の座談会で語られた校長像である。本多校長先生については、その任期の短かさと、最も混乱を極めた時期であったことから、話題に乏しいうらみがあるが、新京一中の歴史を閉じる日、あるいは満洲滅亡の歴史的事件に立会った悲運の校長ということで、永く記録にとどめられる名前であろう。

前田忠廣『国の大義の名のもとに』

引用:前田忠廣『国の大義の名のもとに』前田京子 1997年2月23日

pp.6-8
[24]山田栴二中将
 山田校長について、馬島勲氏(白菊5期・新京一中8期生)から次のような挿話が紹介された。
 昭和十九年の秋、関東軍の報道部長であった長谷川宇一氏が学校に来て、威勢の良い時局講演をぶったとき、二~三日後に校長が講堂でソ連や欧州戦局について訂正講演をされ、全校シュンとしたことを思い出します。戦局が容易なものではないことを、あの時期全生徒に語ったことを、後で思いあわせれば、「よくぞ話してくれました!」と今でも思っています。嘘のない人でした。尊敬に値する恩師でした。
 私は昭和十九年に入学したのに時局講演の件は二つともまったく記憶にない。四、五年生は九月末から奉天市文官屯の南満造兵廠に動員された。馬島氏に確認したところ動員直前とのことであったから二学期が始って早々だったろう。長谷川大佐は『遺稿――シベリヤに虜われて』の物静かな筆致からも、けっして人を煽動するような人柄ではないように思えるが役目柄致し方なかったのではないか。馬島氏の話では「校長は怒っていた」とのことだ。
(略)
 中庭での朝礼のとき、一年一組(小隊・中隊というようになったのは二年生から)は最前列で、朝礼台の右手に二列横隊に整列した。私は背が高い方で最右翼から四、五番目の前列にいたから校長の慈愛に溢れる眼眸をまさに”咫尺の間”に仰いだのであった。

pp.195-200
[24]山田栴二中将
 新京一中の校長は山田栴二予備役陸軍中将だった。陸軍中将が校長になったのは軍国主義教育の強化が原因であったかどうかは知らない。山田中将が予備役になった理由として「ノモンハンで負けたから」とか「南京事件に関係して」と生徒のあいだではうわさされていた。
 私が入学したときすでに新京一中は軍国主義そのものの学校になっていたが、それは山田中将の教育方針というよりは、軍人校長に対する先生たちのおもねりがもたらしたもののように思う。
 朝礼では「校長閣下に敬礼!」の号令で将官に対する敬礼のラッパが鳴り響く。山田校長のあとの本多校長は文官でしかも勅任官ではなかったから、号令は「学校長殿に敬礼!」となり、ラッパの旋律も変ったことに、なんとなく新京一中が格下げになったように感じたものだ。ラッパが鳴っているあいだ、低学年は木銃で、高学年は三八式歩兵銃で”捧げ銃”をする。山田校長はゆっくりとしかし臂をしっかり横に張った正しい挙手の礼でそれに答える。中将は当時の私たちからみれば老人だったが、背筋を伸ばした直立不動の姿勢は美しいとさえいえた。
 何に一度、関東軍の兵事部長が来校する査閲というのがあった。ブラスバンドが奏でる《抜刀隊の歌》(神宮外苑競技場の学徒出陣壮行会でも演奏された)に歩調を揃えて全校生徒が勇壮に分列行進をする。「かしらぁー、右!」の号令に、中央の査閲台に立つガニ股の大佐ドノがサルのように腕を曲げて答礼する。それにひきかえ、この日ばかりはわきの一段低い台に立ち、ふだんとちがって陸軍中将の襟章をつけ略綬を佩びた山田校長のきちんとした挙手の礼が誇らしかった。
 毎月八日の大詔奉戴日に第一陣神社の前で山田校長が読上げる開戦の詔勅は、小学校時代に講堂で校長が儀式ばった手続きをふんで”奉読”([36]参照)したのより形式は簡素だったが、荘重さは比べものにならなかった。あらたまったときの訓話では生徒たちに「諸子は……」と呼びかけたが、くだけた訓話では「お前たちはナ……」と語りかけるのだった。そういうときの中将の眼鏡の奥の象のような目は慈愛に溢れていたのを、ついこのあいだのように思い出すことができる。訓話の具体的内容で憶えているのは一つもないが、軍国主義にこりかたまったような、生徒たちを煽るようなファナチックな話は一つもなかった、とだけは断言できる。
(略)
 いよいよ日本の敗色が濃くなった一九四四年十二月初旬、山田中将は現役に復帰、仙台陸軍幼年学校の校長として帰国することになった。米軍はフィリピンのレイテ島に上陸、神風特別攻撃隊の体当り攻撃が始っていた。離任にさいし講堂に全校生徒(四、五年生は勤務動員で不在のはずだが、私の記憶では全校生徒のような気がする。校長送別のため特別に帰校を許されていたかもしれない)を集めて、山田校長は太平洋の地図を差し示しながら最後の講和をした。「敵の補給線は東太平洋から西太平洋までと伸びきっている。この機にもっと引きつけて叩くのがわが軍の作戦」という、客観的軍事的な内容で、極端な精神論はまったくなかった。負けつづけている日本軍の実力が解る中将には、もちろんそんな可能性は万一にもないことを承知の上での話だったろうが、戦の真相を知らされていなかった中学生には説得力のあるものだった。そのあと中将は「校長閣下!行かないで下さい!」という全員の絶叫と嗚咽をあとに新京一中を去った。
 敗戦の日、陸相だった阿南大将は自刃し、フィリピン派遣軍(第一四方面軍)司令官だった山下大将は戦犯裁判にかけられ、翌年二月、刑場の露と消えた。阿南将軍五十八歳、山下将軍六十歳だった。山田将軍は敗戦まで仙台陸幼校長の職にあり、戦後長寿を保って一九七七年、仙台で亡くなった。享年九十歳。
 狂信的軍国主義が横行し、「軍人(とくに陸軍軍人)に非ざれば人に非ず」といわんばかりに大きな顔をしたエセ軍人が肩で風を切って闊歩していたあの時代に、私が「これぞ真の将軍」として敬慕の念とともにすがすがしく思い起す唯一の軍人こそ山田栴二陸軍中将である。

史料

  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明 文藝春秋社 1973年 ※日記・証言
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎 教育書籍 1989年 ※日記・証言
  • 『南京戦史資料集Ⅱ』南京戦史編集委員会 偕行社 1993年 ※日記1937年9月9日~同年12月31日 pp.283-338
  • 『山田栴二・18期・陣中日記・日支事変12.9-13.12月』山田栴二著・長沢政輝編 長沢政輝発行 1995年 ※日記1937年9月9日~1938年12月、偕行文庫所蔵

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