【幕府山事件】自衛発砲説の実現可能性

【経歴】自衛発砲説の実現可能性 第13師団
【経歴】自衛発砲説の実現可能性

はじめに

 幕府山事件における自衛発砲説では、捕虜を長江岸へ連行した目的を「解放」だったと主張している。解放の方法は、長江岸である大湾子へ捕虜を連行し、対岸である八卦洲へ船で輸送して解放するというものだ。
 大量の捕虜を船で輸送するという作戦は、輸送手段となる船の数に制限があること、乗船・降船に時間をとられることから、陸上で解放することと比較すれば時間や物資、人員を必要とする作戦である。実際に作戦を担当した者さえも、用意できた船の数が少なかったと吐露している。

 この作戦は上層部や他部隊には秘密とされる作戦だったと言われており、また、設備のない河原に大量の捕虜を集結させておくことの安全性・必然性を考慮すると、河原で長時間・大量の捕虜を滞留させることは非合理的である。したがって、作戦全体の想定時間は一晩程度(夜明けまで)とすべきであり、連行する捕虜もこの時間で渡河できる人数を連行するのが定石だろう。

 ところが自衛発砲説では、12月17日の捕虜連行で残っていた捕虜を一度にすべて連行した。そうすると、山田支隊としては一晩ですべての捕虜の輸送が可能だったと考えていたことになる。しかし、これまでの研究では、12月17日に残っていた捕虜は1万名を超えるものであり、はたしてこの数の捕虜を船で輸送して解放することが実行可能だったのか疑問が生じるのである。

 そこで、これまでの研究を踏まえつつ、自衛発砲説で主張される渡河輸送作戦が実現可能だったかを検証しようと思う。検証方法としては、渡河に関係する要素を抽出し、すべての捕虜が渡河する時間を算出する方法をとる。

捕虜解放作戦の経緯

 捕虜解放作戦の経緯を、自衛発砲説に沿って説明すると次のようになる。

幕府山事件 概略図

 山田支隊は捕虜を収容した後、その取り扱いについて上層部へ指示を仰いだところ、上層部からは殺害するように命令を受けた(※1)。しかし、山田支隊の上級指揮官(旅団長 山田栴二少将、連隊長 両角業作大佐)はこの命令に背き、独断で解放することに決した(※2)。捕虜解放は他の部隊や上層部に秘匿する必要があり、そのため作戦は夜間に実行することが求められた(※3)。
 12月17日は南京城内で入城式が行われたが、山田支隊は集成一個中隊を編成し入城式に参加させる一方で、残った隊員は捕虜連行の作業に従事した(※4)。箭内准尉(歩65第1機関銃中隊)によれば、捕虜を集結させる長江岸=大湾子の整備の実施や捕虜を輸送する為の船を捜索したと言い(※5)、栗原伍長(歩65第2中隊)は朝から捕虜連行の作業を始め、捕虜の移動が始まったのは午後になっていたと証言している(※6)。この時、捕虜連行にあたった平林少尉(歩65連隊砲中隊)は、多数の捕虜に対して警備する日本兵が少数だったことから、反抗や暴動が発生した場合に抑制できるか不安だったと述べている(※7)。
 捕虜が大湾子へ集結したのは日没前だった(※8)。
 捕虜は、大湾子へ集結させた後、船に乗せ八卦洲へ輸送する予定であり、両角手記や田山証言では、実際に捕虜を船に乗せて輸送した旨を証言している(※9)。
 しかし、大湾子で集結していた捕虜の暴動が発生し、その鎮圧のため銃撃が開始された(※10)。この暴動発生の時間は、大湾子に集結直後とするものと、終結後、船で捕虜を輸送中の時とするものと、資料によって見解が分かれている(※8 ※11)。
 銃撃の結果、捕虜の大部分は逃亡し、一部は殺害された(※12)。

 以上が自衛発砲説の主要なストーリーである。この中で、作戦実行上でボトルネックとなるのは、捕虜を船で輸送する部分だろう。船の数が十分に集まらなかったことは、現場指揮官だった田山自身も証言している(※7)。
 両角によれば一往復当たりの輸送能力は200~300名と述べている。また、大湾子へ連行した捕虜数は約4000名としているので、13~20回程度は船を往復させる必要があった計算となる(※13)。

※1 山田栴二(歩兵第103旅団長 山田支隊長 少将)日記12/15「捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す/皆殺せとのことなり」『南京戦史資料集2』pp.330-333
両角業作(歩兵第65連隊長 大佐)手記「軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。…しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。」『南京戦史資料集2』pp.339-341
※2 山田栴二証言「結局、考えあぐねたすえが「両角連隊長とハラを合せたうえ、夜間、ひそかに解放することに決断した」とも語っていた。」『ふくしま戦争と人間1』p.125
両角手記「いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」―田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。/「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」『南京戦史資料集2』pp.339-341
※3 角田栄一(歩兵第65連隊 第5中隊長代理 中尉)証言「逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。/「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」『南京の氷雨』 pp.85-87
※4 箭内享三郎(第65連隊第1機関銃中隊 准尉)証言「確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」『南京の氷雨』 pp.98-100
※5 箭内証言「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。」『南京の氷雨』 pp.98-100
※6 栗原利一(歩兵第65連隊第2中隊 伍長)証言「多分十七日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。」『南京戦史資料集1』pp.659-660
※7 田山芳雄(歩兵第65連隊第1大隊長 少佐)証言「舟は四隻—-いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。」『南京の氷雨』 p.103
平林貞治(歩兵第65連隊連隊砲中隊 少尉)証言「途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れ出したら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。」『南京の氷雨』(1989年)pp.108-109
※8 平林証言「この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ-」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。予想さえしなかった捕虜の暴動が起きたのです。」「「南京大虐殺」はなかった 第3回」(『世界日報』昭和59年7月17日)
栗原証言「 うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。」『南京戦史資料集1』pp.659-660
※9 両角手記「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので…」『南京戦史資料集2』pp.339-341
田山証言「でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。」「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ」『南京の氷雨』 p.103
※10 両角手記「ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。」『南京戦史資料集2』pp.339-341
平林証言「一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。」『南京の氷雨』pp.108-109
※11 両角手記「ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。」「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、」『南京戦史資料集2』pp.339-341
田山証言「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。」『南京の氷雨』 p.103
※12 両角手記「二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。」『南京戦史資料集2』pp.339-341
※13 両角手記 連行した捕虜数について直接言及はないが、投降兵1万4000名、非戦闘員を解放して8000名、収容所火災で4000名が逃亡したと述べている 「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ…」『南京戦史資料集2』pp.339-341

検証の方法

 本稿では、捕虜解放作戦の中でボトルネックとなる船舶輸送に着目し、作業所要時間を算出することで、輸送能力が充足していたかを検証する。この検証に必要な要素としては、輸送する総捕虜数、輸送能力、一往復にかかる時間であり、それぞれを算出・推定する。
 なお、一往復にかかる時間を算出するには、乗船・降船にかかる時間、輸送する速度・時間を判断する必要がある。しかし、これらは実際に実行してみないと分からないものであり、参考になるような資料も見つからなかった。その為、大湾子⇔八卦洲の距離を計測し、その距離と捕虜の乗船・降船の時間を考慮して推定することにした。

捕虜数

 捕虜数については別稿で検証しているので、ここではその概要を紹介する。
[参考]【幕府山事件】捕虜数の推移

自衛発砲説における捕虜数

 自衛発砲説(『郷土部隊戦記第1』、両角手記)では捕虜数の推移を次のように述べている。12月15日に「一万四千七百七十七人」の捕虜を捕獲し、直後に「非戦闘員をただちに釈放して、残った約八千人」を収容した。12月15日21時過ぎに収容所で火災が発生し「混乱に乗じて約半数が逃亡し」た。したがって最終的に残った捕虜は4000名となる。『郷土部隊戦記第1』や両角手記では、江岸へ捕虜を連行したのは12月17日の1回のみとしているので、この4000名が12月17日大湾子への捕虜連行数となる。
 しかし、この自衛発砲説における捕虜数についてはかなり問題がある。

投降兵捕獲数

 自衛発砲説では、当初、捕獲した投降兵の人数を1万4777名とし、その根拠として山田日記を挙げている。
 しかし、その後発見された将兵の日記を精査すると、1万4777名という数字は12月14日の午前中に行われた旅団調査で判明したものであり、その後も12月15日まで断続的に増え続けていることが分かる。各部隊の捕獲数を集計すると捕虜の数は約1万7000名~2万2000名となる。

非戦闘員の釈放

 自衛発砲説では、捕獲した投降兵の中から非戦闘員を釈放したので、収容した捕虜数はおよそ半数(8000名)となったとする。しかし、当時の日記からは非戦闘員を釈放したとするものは見つからず、この釈放説を裏付けるのは戦後の証言・手記に限られている。
 将兵の日記の中でこの間の事情を示す史料として、宮本省吾日記(歩兵第65連隊第4中隊 少尉 小隊長と思われる)を挙げることができる。日記から読み取れる宮本少尉の行動を見ると、投降兵の捕獲から、収容所への連行、その後の管理まで、連続し途絶えることなく捕虜に関して従事している。12月16日の捕虜収容所の火災発生直前に一時的に捕虜の管理から離れたが、火災発生直後には現場へ赴き、そのまま第1日目の捕虜殺害に従事することになる。つまり、宮本少尉は捕獲から殺害に至る間、絶え間なく捕虜管理に従事していたのである。その様な宮本少尉が非戦闘員の釈放について言及がないということは、非戦闘員の釈放という事実が無かったことを強く示唆していると言えるだろう。
 また、宮本少尉は、投降兵捕獲数を「無慮(およそ)万以上に達す」(日記12/14)とし、捕虜殺害数を「約三千」(日記12/16)、「二万以上」(日記12/17)と書いている。つまり、捕虜の捕獲数と殺害数とを比較すると、そこに大きな減少は見られない。したがって、宮本少尉は投降兵捕獲から捕虜殺害に至る間、捕虜数の減少が無かったと認識しており、ひいては戦闘員解放により捕虜数が半減したとは認識していないことが分かる。

収容所火災による逃亡

 自衛発砲説では、捕虜を収容した後に収容所で火災が発生し、その混乱に乗じて半数の捕虜が逃亡し、結果、総数が約4000名に減少したという。
 しかし、非戦闘員の釈放と同様に、この様な大規模な捕虜の逃亡があったとするのは戦後資料しかない。この収容所火災について言及する日記は5名あり、そのうち2名は消火活動にも参加しているが、いずれも大規模な捕虜逃亡に言及するものはない。

捕獲収容数と殺害数の認識

 史料の中には、一人の人物が、当初捕獲し収容した捕虜数と最終的に殺害した捕虜数(もしくは連行した捕虜数)について、それぞれ言及するものがある。一人の人物の認識として、捕獲数と殺害数(連行数)が同数や近似値を示しているならば、捕獲から殺害(連行)までの間に大規模な捕虜数の変動がなかったことになる。したがってこの様な資料は、自衛発砲説で唱えられるような非戦闘員の釈放による半減、火災による逃亡による半減が無いという認識を示していることになる。
 史料を精査すると、この条件に合致するものが10名あり、そのうち9名の史料は一次史料だった。これらの資料は、捕獲から殺害(連行)に至る間に、捕虜の逃亡がなかったという認識を示している。
 一方、捕虜の大幅な減少を述べている史料は4本ある。しかし、その全てが戦後史料である。
 捕虜数減少を示す史料群と示さない史料群を比較すると、捕虜数減少を示す史料=自衛発砲説を裏付け宇史料が、質・量ともに著しく証明力が劣っていることは明白である。自衛発砲説の言う捕虜数の「四分の一」減少説は戦後の偽証であると考えられる。

捕虜総数

 以上の検証結果より、山田支隊が当初捕獲した投降兵の数は約1万7000名~2万2000名、捕獲直後に行われたとする非戦闘員の解放、12月16日の収容所火災での逃亡という事実が存在しないことを証明した。よって殺害された捕虜数は、投降兵捕獲数と同数の約1万7000名~2万2000名ということになる。本試算では便宜的に2万名と仮定したい。

12月17日の捕虜数

 自衛発砲説では捕虜連行は12月17日の一日のみとされており、すべての捕虜(4000名)が17日に連行されたとする。しかし、実際には、12月16日と17日の二日間において捕虜は連行されている。本稿ではその中の17日大湾子への連行だけを検証対象とする為、17日の連行人数を算定する必要がある。
 そこで、両日の殺害数を示す史料を確認してみると以下の通りなる。

12月16日12月17日備考
荒海清衛2500名1万5000名
宮本省吾3000名2万名以上
遠藤高明三分の一残余一万余全体1万7025
本間正勝3000名1万5000名
目黒福治7000名1万3000名18日1万3000名の記載あり

 この資料を大別すると二つのグループに分けることができる。一つは荒海・宮本・本間のグループで、16日の連行数を2500名~3000名とし、17日は残余を連行したとする。もう一つは遠藤・目黒で、16日の連行数は全体の三分の一、17日は残りの三分の二とする。
 この二つのグループのうちどちらが実態を正確に示しているか判断することは難しい。そこで本検証では、船での輸送の実行可能性の限界値を探るという検証目的を考慮して後者と仮定する。つまり、12月17日の連行数は、捕虜全体数約2万名の三分の一で、約1万4000名とする。

輸送能力

 輸送能力は、用意した船の隻数に、一隻当たりの搭乗者数を掛けた数となるが、この点に関しては既に別稿にて検討したので、本稿ではその中から概要のみを紹介する。
[参考]【幕府山事件】船の用意

船の数

 用意した船の隻数について言及する資料は戦後証言しかない。言及される隻数は2隻~10隻と幅がある数字となっている。
 これらの証言の中で、2隻~3隻と証言するものは、現場(大湾子)で自身の目視した範囲の数を述べただけで、用意された船の全体ではない可能性がある。残余の資料でも未だ6隻~10隻の幅があるが、いずれの証言にもブレが見られる。
 この様に証言自体に大きな幅があり、いずれの数値が正確かを判断することは難しい。そこで本稿の検証目的から鑑みて最大数の10隻と仮定する。

搭乗能力

 一隻当たりの搭乗者数については、定性的な表現として「大きい舟」と「小船」「小さい船」という対立する資料がある。ただし、両角手記には第1回目の捕虜輸送が200~300名と述べられていること、当時の南京の写真の中で見られる船影から考えて、一隻当たり30名程度が搭乗限度と思われる。

実務上の制約

 船に関しては、事前に「支那人の漕ぎ手」(中国人市民)を準備するよう命令したと両角は述べている。これは、多数の捕虜が乗る船に、少数の日本兵が漕ぎ手として同乗するのでは危険だからだろう。もちろん、市民を徴用しなくとも捕虜に漕がせても問題はない。
 しかし、捕虜や市民だけで全ての船の運航を任せれば、航行の途中で逸脱したり、八卦洲へ向かった後に戻らないケースも想定される。したがって捕虜を乗せる船とは別に、警戒や先導に日本兵だけが乗った船が必要となる。先導用の船、警戒する船を各1隻程度は最低でも必要だっただろう。
 用意した船を最大10隻と見積もったが、輸送の実務を考えると捕虜運搬に使用できたのは、その内の8隻程度だったと考えられる。

小括

 輸送能力をまとめると、用意できた船の数は10隻、その内の2隻を日本兵の警備用として使用するので、捕虜輸送用に使用できたものは8隻、一隻当たりの輸送能力は30名だった。したがって、一往復における輸送能力は240名となる。

大湾子⇔八卦洲の船舶輸送

 ここまでに捕虜解放説の実行可能性を検証する為、連行された捕虜数、船の輸送能力について検討してきた。次に検討すべきは、大湾子から八卦洲間を船舶輸送する際にかかる時間である。一往復にかかる輸送時間を割り出し、輸送能力と掛け合わせることで、全体の輸送時間を測ろうというのが主眼である。
 ただし、当時の大湾子⇔八卦洲間の一往復にかかった時間を示す資料は見つかっていない。そこで本稿では、一往復にかかった時間を割り出すために、大湾子⇔八卦洲間の距離を測定し、距離から一往復にかかった時間を推定しようと思う。

大湾子・八卦洲を示す地図

 長江はかなり氾濫の多い河川だったと言われており、現在では河川改修が進み、南京戦当時と比較するとかなり河岸の形状が変化している。その状況は左図を見ても明らかだが、戦前は八卦洲の北側が主要河道だったが、現在では南側が主要河道となっており、河川の形状自体が変化しているとも言える。したがって、直接現地へ赴いて距離を測定したり、googlemap等の現在の地図で距離を測定することは不可能である。
 そのため本稿では、南京戦当時の大湾子―八卦洲間の距離を計測する方法として、当時の地図に基いて図上より計測する。

 使用する地図は、別稿「【幕府山事件】大湾子の探索」で用いた次の三つの地図とする。
①中華民国 陸地測量総局1万分1図(1935年)
②旧日本陸軍 陸地測量部2万5000分1図(1937年)
③旧日本海軍 水路部2万5000分1図(1938年)

 渡河の出発地点となる大湾子の位置については「大湾子の探索」で検証しているので、概要のみ説明する。渡河の出発点に関する資料はいくつかあるが、その中でも鈕先銘『還俗記』の「永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある」が正確性が最も高いと判断した。上掲3つの地図のうち、永清寺の場所が描かれているのは①1万1図だけなので、この地図に基いて、他の地図に永清寺の位置を同定し、その永清寺の位置より長江下流1~2kmを場所を測定して大湾子と判断した。
 ただし、「永清寺の下流一~二キロの沿岸」というのも1㎞も幅のある場所となるので、本稿では便宜上、中間地点である永清寺下流1.5kmの地点を渡河出発地点と仮定する。

 八卦洲の到着地点は、出発地点から最も近い位置と仮定した。実務的なことを考えると、到着地点として考慮すべきポイントには距離が最も近いというだけではなく、船の接岸が容易であること、降船した捕虜が滞留できるスペースがあることなども考慮すべきだろう。しかし、現状、八卦洲の状況を示す資料が見当たらない為、距離だけで到着地点を選定する。

中華民国 陸地測量総局1万分1図(1935年)

 本図は中華民国の参謀本部陸地測量総局が発行したもので、民国22年(1933年)に航空撮影測量を実施、同23年(1934年)5月に製版、同24年(1935年)に印刷されたものである。この地図で示された地形は測量が行われた1933年時点のものとなり、南京戦が行われた1937年12月の4年前の地形ということになる。

 地図上で大湾子―八卦洲間の距離を測ると約500mだった。

 

 

旧日本陸軍 陸地測量部2万5000分1図(1937年)

 本図は大日本帝国陸軍の参謀本部陸地測量部から発行されたもので、昭和12年(1937年)8月製版・発行となっている。時期的に考えて、盧溝橋事件の発生により戦場で使用するために発行されたものと思われる。本図には測量時期が書かれておらず、ここで示された地形が発行時期の1937年当時のものを示しているか否かは判断できない。

 地図上で大湾子―八卦洲間の距離を測ると約260mだった。

 

 

旧日本海軍 水路部2万5000分1図(1938年)

 本図は大日本帝国海軍水路部が昭和13年(1938年)6月30日に発行したもので、縮尺は2万5000分の1となっている。船舶航行に用いる水路図であり、詳細な水深が記されているのが特徴である。
 本図左上の図名の下部に「昭和13年3月我が海軍の測量/立体書の水深は1932年迄の中華民国の測量」、中央左側には「注意/赤断線内は昭和13年3月我が海軍の測量なり 其の水深基準面は南京に於ける略最低水期の最低潮面にして安宅桟橋内側発電給水所の水標063(0.63)米に相當す」と記されている。
 この説明中の「赤断線」は、原図では、上流を南京港、下流を天河口の間で、かつ八卦洲の南側を流れる南京捷路を結ぶ地域であり、左図はその地域内に位置している。説明によれば、赤断線の地域内の水深は1938年3月に行われた測量が反映していると述べられているが、水深以外の地形・地物の情報が更新されているかは不明である。

 地図上で大湾子―八卦洲間の距離を測ると約500mである。

小括

 南京戦の時期に近い地図を用いて、大湾子―八卦洲の距離を計測した。地図によって距離の違いがあり、260m~500mという結果となった。河岸線の形状も地図毎にかなり違いが見られるので、距離にな大きな違いが出ても不思議ではないものの、なぜ、この様な違いが発生するのかは分からない。

一往復にかかる時間

 大湾子⇔八卦洲間の距離を計測したことから、この距離を船舶輸送で一往復するために必要な時間を推定したい。
 船舶輸送の作業工程に数値を当てはめると、次の通りとなる。
①約240名の捕虜を8隻の船に乗船させる
②260m~500mを手漕ぎで航行する
③八卦洲で捕虜を降船させる
④空の船を大湾子へ引き返す
 この作業工程について、いずれの工程においても実際の作業時間を知るすべがないことは否めない。
 そこで本稿では、大湾子―八卦洲間が260m~500mという距離であること、捕虜の乗船・降船にかかる時間を考慮し、一回の往復に掛かる時間として最低30分、最高1時間かかると仮定する。

作戦全体にかかる時間

船の往復回数 

ここまで検証してきた結果として、以下の数値を算出・推定した。

  • 捕虜数 約1万4000名
  • 輸送能力 240名(8隻×30名)
  • 一往復にかかる時間 30分~1時間

 これらの数値に基づいて、すべての捕虜を輸送するのに必要な往復回数を計算すると、捕虜数1万4000名÷輸送能力240名=約58回となる。捕虜を船舶輸送する場合、およそ58回は船の往復が必要となる。

総輸送時間

 往復回数58回に、一往復にかかる輸送時間30分~1時間を掛けると次のようになる。

  • 往復回数58回 × 30分  = 29時間
  • 往復回数58回 × 1時間 = 58時間

 つまり、この条件下における作戦全体の所要時間は29時間(1日+5時間)~58時間(2日+10時間)となる。
 用意した船の輸送能力に対して、大湾子へ連行した捕虜数が過多だったことが明白だ。

夜間作業という条件

 角田少尉(歩65第5中隊長代理)が証言するように、夜間に密かに解放する作戦と仮定しよう。
 南京市の12月の日没は17時頃、日の出は7時前なので、夜間はおよそ14時間程度である。そうすると、一晩で大湾子―八卦洲間を往復できる回数は14回~28回となり(夜間14時間÷輸送時間30分~1時間)、夜間に輸送できた捕虜数は3360名~6720名となる。
 捕虜数約1万4000名を夜間に船舶輸送するならば、単純計算でも2~4日は掛かる計算だ。安全性を考慮するならば、3日~4日に分けて連行するべき作戦だろう。

小括

 以上の検証から分ることとして、本来、一晩で渡河が可能だった捕虜は最大でも6720名程度だったにも関わらず、12月17日は残っていた全ての捕虜約1万4000名を江岸へ連行していた。これは用意した船での輸送能力を遥かに超えるものである。捕虜の連行や江岸での監視は、捕虜数が増えるほどリスクが高まるにも関わらず、用意した船の輸送能力に見合わない大量の捕虜を江岸へ連行していたのは、大きな矛盾のあるストーリーだと言わざるを得ない。

結論

 本稿では、自衛発砲説で述べられている船舶輸送による捕虜解放という手法について、その実現可能性に着目して検証を行った。
 結論としては、一晩で行える船舶輸送能力(最上限6720名)と比較して、連行した捕虜数(1万4000名)は過剰であることが判明した。ここで見積もった船舶輸送能力は検証目的に沿って大きくなるような解釈を行ったが、それでも連行した捕虜数は能力の2倍を超えるもので、もはや誤差と言える余地はない。
 捕虜を船で輸送し八卦洲で解放するという主張は、用意した船の輸送能力に見合わない捕虜数を長江岸へ連行している事実によって、その実現可能性が否定される。

 今回の検証で明らかになった事実の中に、一晩(14時間)で船舶輸送できる捕虜数が3360名~6720名というものがあった。振り返ってみると、両角手記でいくつもの虚偽(非戦闘員の解放、火災による逃亡)を重ねた上で最終的な捕虜連行数を4000名としたわけだが、この捕虜数は一晩の船舶輸送能力3360名~6720名と附合することが興味深い。
 両角は、非戦闘員の釈放、火災による逃亡という存在しない事実を作出し、その結果、捕虜数が1万5千名から4000名へ減少したと主張した。これらの存在しない捕虜減少という事実の作出は、一晩の船舶輸送能力を念頭においたものではないだろうか。

 いずれにしても、自衛発砲説の主張する捕虜解放説は、理論上も成立しないことが明らかになった。既に小野賢二氏や渡辺寛氏が指摘するように、捕虜殺害説(殺害目的の捕虜連行)が立証されていることを鑑みれば、自衛発砲説が成立する余地はないと考えるべきである。
 また、戦後証言のいくつかは捕虜解放説を主張していたが、これらがいずれも虚偽の証言だったことなる。この事実に基づいて、改めて戦後の史料検証をする必要があると思われる。

参考文献

  • 南京附近一万分一地形図(中華民国 参謀本部陸地測量総局 1932年航空測量 1933年4月製版 1934年1月印刷) 国会図書館所収(一部)
  • 南京附近近傍図 2万5000分1 旧日本陸軍参謀本部陸地測量部 1937年8月製版・印刷 アジア歴史資料センター所収「附図 南京市街近傍図 (重要施設要図) 2万5千分の1」ref.C11112010600 https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112010600
  • 天河口至南京 支那 揚子江(2万5000分1、旧日本海軍水路部 1938年6月) 国会図書館所収
  • 『郷土部隊戦記 第1』福島民友新聞社 1964年
  • 「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年7月17日)
  • 『南京の氷雨』阿部輝郎 教育書籍 1989年12月20日
  • 『南京戦史資料集Ⅰ』南京戦史編集委員会 初版1989年11月3日 増補改訂版1993年12月8日
  • 『南京戦史資料集Ⅱ』南京戦史編集委員会 初版1989年11月3日 増補改訂版1993年12月8日
  • 『写真集南京大虐殺』「写真集・南京大虐殺」を刊行するキリスト者の会編 エルピス刊 1995年4月
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二・藤原彰・本多勝一編 大月書店 1998年3月14日
  • 【幕府山事件】捕虜数の推移
  • 【幕府山事件】船の用意
  • 【幕府山事件】大湾子の探索

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