◆ 栗原利一証言 ◆
証言に関する諸事情 ご子息である核心さんの証言

 
◎栗原利一伍長 第65連隊第1大隊所属

◎スケッチ

スケッチ 1
スケッチ 2
スケッチ 3
スケッチ 4

 
証言に関する諸事情(改訂)
---- ご子息である核心さんの証言 ----

1.証言が得られたいきさつ

 私は子供のころ、父の自慢話として、中国での戦いの様子をいくつか聞かされていました。
 南京での捕虜虐殺についての話を聞かされたのは10歳(昭和30年)の時です。
 揚子江河畔で捕虜の首をつぎからつぎへと切り、さすがの揚子江も真っ赤になったというような話でした。
 私は、最近までこの話を幕府山の捕虜虐殺と考えていたのですが、父に確認したところ別の話だということでした。

 私は、後ほど述べる個人的な理由から、南京での虐殺が「まぼろし化」されることを危惧していました。
 度重なる家永裁判を通じて、南京での虐殺を教科書から除去することが、文部省の明らかな方針であるように思えたからです。
 そのような中で、昭和48年には鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」も刊行されたわけです。

 昭和59年に至り、毎日新聞の記者の方から父にインタビューの申し込みがありました。
 父の話では、父がもっともよく知っているだろうとのことでインタビューを受けたとのことでした。
 私は、父の証言に関しては一貫して話すことを支持していて、そのことを父にも伝えてあります。
 私は永年、両親と同居し、いろいろな事情から頼りにされるところがあったものですから、インタビューの話を聞かされたときも「話した方がよい」と話すことを薦めました。
 上記のスケッチは、父が毎日新聞の記者の方と話すためにそのころ描いたものです。
(このことからも、父が積極的に自らの意志で取材に応じていたことがご理解いただけると思います。)

 毎日新聞に記事が載ったあと、すぐに本多勝一氏から父に取材の申込みがありました。
 父から、本多氏のインタビューを受けるべきかどうか事前に相談を受けたのですが、「歴史的なことなので正確に話ししておいた方がいい」と積極的に証言をすすめました。
 また、本多勝一氏の経歴等に関して私は熟知していたのですが、父には告げないでおいた方がより正確な証言が得られると考え、敢えて父には告げないでおきました。
 そして上記証言が得られたわけです。

 結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。
 両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。
 ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです。
 

2.中国兵が投降した理由

 銃弾の補充がきかず、銃弾がなくなったことが投降の理由だそうです。
 

3.虐殺現場等

 以下は、私が幕府山の捕虜虐殺について他の掲示板で質問を受けた際に、父に確認して回答した内容です。

  1. 幕府山の現場は、幕府山のふもとの川沿いの100m四方の凹地です。
     まわりに鉄条網はありません(父によると、そんなことしてあったら捕虜に感づかれてしまうとのことでした)。
     昼ころ、事前に探しておいた場所だそうです。

  2. 加害意思ですが、「何かあったら一斉に射撃しろ」との命令は事前に出ていたそうです。

  3. 「柳では弱くて死体など引きずれないだろう」との質問がありましたが、父に確認したところ「柳をかぎにして」の意味は、柳の枝の元の方の太い枝を1本残し、卜の字の下をのばしたような形状にして死体を引っ掛けて引きずったそうです。
     父によると、木の枝をこのようにして作業することは、農家で馬小屋のわらをかい出したりするのによく行われていたそうです。
     

4.婦女子の殺害

 これは最近聞いてわかったことですが、本多氏に対する証言では女性や子供は殺害していないようなことでしたが、実際には捕虜の中には家族持ちの捕虜が200人くらいて、その人達の奥さんや子供なども捕虜には含まれていたそうです。そのようなことから、虐殺後の死体の中にも女性や子供の死体があったそうです。
(父親が捕虜になれば、それを心配して母親も捕虜になっただろうし、子供も捕虜として一緒についてきたのだろうということです)
 

5.父の戦歴

 父は徴兵時に満州事変に派兵され、しばらく戦闘を経験しています。
(そのころすでに、捕虜の斬首は相当行っていたとのことです)
 それから警視庁に採用され、支那事変に召集されました。
 南京での戦闘の後の功績で金鵄勲章を授与されています。  
 その時の戦闘で銃弾を浴び、大腿部の盲管銃創で(他にも頭と大腿部付け根に弾傷があります)傷病兵として帰還しています。
 大腿部の銃弾は血管に近すぎて、戦後、相当のあいだ手術をして摘出することができませんでした。
 父が太平洋戦争で前線に配属されなかったのは、この戦傷のためだそうです。
 

6.将校等による事件の矮小化

 上記の毎日新聞の父の証言の後の記事は、以下のような内容です。

 昭和40年発行の「郷土部隊戦記」(福島県郷友会など共同出版)では、捕虜を殺せという軍命令はあったが、山田栴二旅団長が、捕虜を対岸に釈放することを決め、十数隻の船でこぎ出したところ、対岸から発砲され、岸に残っていた捕虜が騒ぎを起こし、警戒中の日本兵を襲ったため、発砲したとされ死者は千人となっている。
 鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」では、山田旅団長ら上級将校の証言をもとに同様の「自衛発砲」説を取り、防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」や、今年7月発行の児島襄氏の「日中戦争3」も同内容。
「自衛発砲説」について栗原さんは「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。
 虐殺は事実。はっきりさせた方がいい」という。

 また、田中正明氏の「南京事件の総括虐殺否定15の論拠」にも平林元少尉の証言が記載してありますが、詳細は鈴木氏の「南京大虐殺のまぼろし」と同じ内容の記述があるので父の証言と比較すると全く別物であり、虚偽の証言であることがわかります。
 従って、将校の間ではなんらかの計画的矮小化が話し合われたものと考えるのが自然かと思います。
 私の父は長年、小平市の関東管区警察学校や警視庁に勤め、証言当時、郷里の軍隊仲間とは密には連絡はとれておりませんでした。
 従って、上記将校の矮小化等を知らずにいたため、冒頭の証言を行うことが出来たのだと思います。
 

7.田中正明氏の「南京事件の総括虐殺否定15の論拠」と「ゼンボー」の畠中氏の記事の捏造

 両著作とも父の証言として「毎日新聞の記事を見てびっくりした。言ってないことが記事に出ており、30万人虐殺説に抗議して喋ったのが、一転して私自身が大虐殺の証人に仕立て上げられてしまった」とか「私が虐殺の張本人になっている」などと書いてあります。
 これらはすべて捏造記事です。
 なぜなら、父は現在でも(以前からは勿論)冒頭の記事と同様に、「回りからの機銃掃射により人が何度も塔のようになりまた何度の崩れた」と言ったような話をしていますし、虐殺を行ったことも何度も聞いています。
 

8.前述の個人的な事情

 私が父に積極的に証言を薦めた理由は、長兄(利弘)の悲惨な人生を風化させたくなかったからです。
 父のこれらの軍隊経験と、長兄(利弘)が父から受けた虐待との関連を、将来的に明らかに出来るかもしれないと考えたからです。
 長兄は、桐朋高校を卒業して中央大学法学部に在学中に、高校時代から交際していた恋人との交際が発覚し、父に反対され精神病院に強制入院させられるなどして、最終的に強度の精神分裂病を患うにいたってます。
 発病後は、入退院を繰り返し、約18年間にわたり父の虐待を受けつづけ、昭和51年に精神病院で縊死しています。
 私が父に証言を薦めたのは、長兄の受けつづけた虐待と、父の戦場での行為が父の精神面に与えた影響との関係が将来的に明かにできるかもしれない考え、父の戦場での行為を歴史的な事実としておきたかったからです。
(父の戦場での行為は、上記のような形で私が考えてた以上のものとして記録として残すことができている次第です)
 

9.このHPへの掲載の経緯

 昨年(平成14年)他の掲示板で南京大虐殺が否定的に話されていることを知り、父の証言を調べたところ重要な証言であることがわかり、このHPに掲載させていただいた次第です。

以上

作成年月 平成15年〈2003年〉12月