◆ 栗原利一証言 ◆
毎日新聞 昭和59年8月7日付け

 
◎栗原利一伍長 第65連隊第1大隊所属

◎スケッチ

スケッチ 1
スケッチ 2
スケッチ 3
スケッチ 4

 
毎日新聞 昭和59年8月7日
元陸軍伍長、スケッチで証言/南京捕虜1万余人虐殺
−「真実はきちんと後世に伝えたい」−

 南京大虐殺に加わった元陸軍伍長が、半世紀近い沈黙を破り、当時のスケッチ、メモ類をもとに中国兵捕虜1万余人の虐殺を詳細に証言した。
 問題の捕虜大量射殺事件はこれまで上級将校の証言などから「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛措置」とされてきた。
 今回の証言は、これを覆すものだ。
 上海から南京攻略、さらに徐州占領まで従軍、軍曹になって漢口攻略の途中、負傷して日本国内に送還された栗原さんは、昭和十三年暮れから療養生活中、従軍した戦闘の記録をスケッチブックにまとめた。
南京附近の戦闘に関するものは計六枚。
 昭和十二年十二月十三日紫金山東北の鳥龍山砲台を、翌十四日南京城北側の幕府山砲台を占領したところから始まっている。
 「第一大隊百三十五名で一万三千余捕虜を降し、敵を武装解除」。そして「島流し」と書かれたスケッチには虐殺の模様が詳述されている。
 「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って船を川の中ほどにおいて、船は遠ざけて四方から一斉に攻撃して処理したのである。
 その夜は片はしから突き殺して夜明けまで、その処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきずって、川の流れに流したのである。
 わが部隊(が殺したたの)は13500であった。
 今、考えても想像できないことである」
 栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。
 一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、突然「撃て」の命令が下った。
 約一時間一斉射撃が続いた。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げ惑うだけで、水平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり高さ三、四メートルの人柱ができた。
会津若松出身の第六十五連隊、両角部隊の捕虜収用は、占領当時、新聞で「大戦果」と報道され、総数は一万四千七百七十七人とされていた。
 その後、捕虜がどうなったかは報道がない。

※この記事は核心さんに提供して戴きました。