◆ 栗原利一証言 ◆
南京大虐殺研究札記

 
◎栗原利一伍長 第65連隊第1大隊所属

◎スケッチ

スケッチ 1
スケッチ 2
スケッチ 3
スケッチ 4

『南京大虐殺研究札記』
編集発行 日本軍侵略中国調査訪中団
連絡先 川村一之
1986年12月発行

※核心さんのコメント
南京大虐殺研究札記(1986年12月13日発行)の16頁に掲載された「証言で綴る南京大虐殺<PARTI 従軍兵士に聞く>戦争というのは、殺すか殺されるか、なんです。一兵士」は父(栗原利一)の証言です。

(以下、本文掲載)

戦争を起さぬために
「自分の部隊がやった(殺した)のは一万三五○○人。私自身数えたわけではないが、そう言われたし、新聞にもそう報道された。しかし、暴行・強姦なんてなかった。第一、捕虜のなかには、女なんて一人もいなかったしね」
「戦争っていうのは、殺すか殺されるかなんです。私があなたたちに話すのも、戦争というものを知ってもらいたいからです。中国人を三○万、四○万殺した、といわれるけれど、こっちも殺されているのです。そのこともいっしょに見ないと戦争っていうのはわからない」
「戦争というのは二度とやるものではない。二度と起こさないために、みんなで工夫しないといけない。それが問題なんだ」

やられたらやりかえす
「上海から南京へ、戦闘はつづくんですけど、まず上海での戦闘がすごかった。58人の1個小隊で、突撃につぐ突撃で残ったのは、たったの13人です。連隊長は殺される。連隊副長官も殺される。大隊長も、中隊長も殺されました。そういう激戦でした」
「私は分隊長(注)だったが、分隊11人の内、2人しか残らなかったこともある。じっとしていてもやられる。むこうは迫撃砲でねらってきますからね。2メートル移動して、2分もたたずに元いたところにタマが落ちる、ということもたびたびあった。もちろん、立っては歩けません。鉛筆1本かざしても、パッ、パッ、パッ、パーンと機関銃で撃ってきますからね」(注=6分隊で1小隊、3小隊で1中隊、4中隊で1大隊)
「やられたらやりかえす、というのはだれしもが持つ気持じゃないですか。中国人に対して、憎しみがわいてくるのも当然じゃないですか。それに、中国軍っていうのは汚いんですよ。見つかるとすぐ殺しにかかった。捕虜になってもこっちはすぐ殺されるわけです。従って、1人の兵隊も残さずに殺してしまおう、兵力をなくしてしまおうというのが、日本の兵隊の忠実な行動でした。今だからこそ、殺したというのは犯罪扱いめいていますが、当時は戦果、大手柄でした。日本の国のためにやっていたわけですからね」

殺すつもりはなかった
「私たちが幕府山で捕えた1万何千人という捕虜を、初めから、”殺してしまえ”ということではなかったんです。彼らを連行し、揚子江の中央の島に送るため、1ヶ所に集めた。船も用意されていたんです。もうすぐ日が暮れるという頃になって”何々少尉やられる”という声が聞こえたんです。その後”撃て”という命令がくだった」
「細かい点はわかりませんよ。そこに策略があったかどうかわかりませんが、トラブルが起れば”殺すしかない”という用意はあった。こっちは百何十人、あっちは1万数千人ですからね。彼らをとり囲んで、機関銃が構えていました。将校以下、7名が殺されたわけですから”やっちまえ”ということになった」
「私たちは、それまでに痛い経験を何度もしているんです。ちょっと気をぬいたばかりに手痛い被害を何度も受けてきた。あの時の同じように、捕虜を集めて、反乱された時もある。捕虜は逃げ、こっちは殺されることもあった。したがって”反乱したらやるしかない”という用意があったのも当然だったわけです」
「しかし、”捕虜取扱法”という赤十字条約があって、捕虜は殺しちゃいけないということは決まっていたけど、私たちは兵隊でしたから、そんなことは知らなかった。将校は知っていたかも知れませんが、私たちは”反乱したらやる”ということだった。それに、上官の”命令”は、そむくことのできぬ、天皇の命令でもあったわけですからね」

約1時間、一斉射撃
「約1時間、一斉射撃がつづきました。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げまどう。水平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり、高さ3〜4メートルの人柱ができた」
「その夜(12月17日から18日にかけて)は、片端から突き殺して夜明けまで、それに石油をかけて燃し、柳の枝をかぎにして一人ひとりひきずって、川に流した。今、考えたら想像もつかないことです」
「彼らが後ろ手にしばられていたのは事実です。こっちは百何人ですから、後ろ手にしばらないとやられてしまいますよ。連れてくるまでは、彼らとしても納得していたわけですよ。だけど、そこでトラブルが起きた。起こしたのか、起こさせたのか知りませんが、捕虜の中から”あの岸に行かせるなら早く行かせろ”ということで、将校の刀をとって、将校をやってしまった。それで”撃て”となって...。私は機関銃で撃たれるのを監視していました」
「機関銃で撃った人は、あっちこっちの部隊から選ばれていたわけですが、いくら探してもでてこない。かん口令がしかれたんですね」

内地の人を安堵させるため
「当時、1万3500人と聞いていたし、内地の新聞でもそのように書いたのだけど、ほんとうにそれほどいたのかどうか...。それは誇張で、連れてきたのは、せいぜい4、5千人から6千人ぐらいの間じゃなかったのかなあ。人間1万人というのを坐らせたら容易じゃないですよ。言われて聞いて、1万数千人ということであって、実際は...」
「他の部隊でも捕虜にし、殺した例もあります。紫金山のほうでは、4万5千人やったという話を聞いたりしています。全部で7万ぐらいを捕虜にしたのかなあ。内地でどういう報告をし、陸軍でどういう報道をしたのか知りませんが、やっぱり誇張もあったのではないですか。内地の人を安堵させるために、”これこれの戦果をおさめた”という書き方をしたのでしょう。どちらにしろ、30万とか40万とかいうのは誇張なんです。捕虜として、そんな数はいなかったわけですから」

消耗品だった
「私たちは上海上陸からたいへん苦戦しながら兵をすすめるんですが、戦争は後方がやられれば、ほんとうは終りなんです。昭和12年9月10日の大動員で刈りだされた者というのは、軍隊教練も何も知らない者が多かった。それで、上陸して最初の1週間はまず、演習をやったわけです。その連中が次から次と殺されていった」
「兵器も乙装備で、古いものでした。甲装備というのが、本来、現役兵用の新しい装備だったんですけどね。南京を陥落して、向うの武器を間近に見るのですが、大砲一つとってもまったく違っていた。自動的に弾が込められる。こっちは、声を掛け合って...ですからね。苦戦するのは当然といえば当然でした」
「内地に戻って、兵器廠に行ったことがあるんです。兵器がないんです。それでいて、太平洋戦争に突入するわけですから、結果は明らかですね。戦場に行く時、38式銃をもっていくわけですが、戦死すると、その銃はその時にぶんなげてくるんです。内地じゃ天皇陛下のように扱って、手入れしてもってきた銃を、どろんこにして、兵隊とともにぶんなげてくるんです。上海はそういう状態で、5千人死んだら5千丁の鉄砲はそこでなくなってしまった」
「師団長なり、上の者というのは、よほどの爆撃がないかぎり死ぬことはない。前線から遠く離れていますから。しかし、われわれのような”一線の兵士”というのは、消耗品でした。戦争というのはそういうものなのです」

処置に困った捕虜
「戦争継続するには兵隊は健康でなければならない。しかし、上海から南京にかけて、食べ物には困りました。今日食べたけれど、明日の食事がない、といった状態でした。毎日、部落を占領すると、食料を探しに徴発にでた。時には、生米、生麦をかじることもあるわけで、私なんか農業をやってましたから大丈夫でしたけれど、弱い人はそれでまいっちゃうわけです」
「兵隊が充分食っていなかったほどですから、1万5千人の捕虜の処置に、第一、食わせることに上官も困っていた。捕虜にしたその晩は結局食わせられず、鳥竜山に米があると聞いて、馬でとばし、翌日になってやっと食事を与えることができた。食事といっても、シナ茶碗、ちょうどラーメン茶碗の半分ぐらいのものに、おかゆをついでまわりました。しかし、腹が減っていたのでしょう。手まねでメシをもっとくれといってました」

戦争というのは侵略
「去年、中国に行きました。かって歩いた道をたどってみました。花輪がなかったものですから、線香を焚くだけにさせてもらいました」
「一緒に行った人が、南京駅で迷ってしまいましてね、逆の電車に乗ってしまった。中国語もわからず、右も左もわからない人でしたが、無事、その次の日におちあうことができたんです。本人、どれほど心細かったであろうと心配したのですが、意外と本人は平然としていました。まわりの中国人が心配してくれて、手厚くもてなしてくれたのでした。今の中国人は、ほんとうに日本人に対して親切です。われわれ日本人はこのことを忘れてはならないと思います」
「かっての戦争が侵攻だったとか侵略だったとかの議論があるようですが、はっきりいって、全部、侵略でした。戦争というのは侵略なんです。当時の人間だったら、侵略であることは否定できないと思います。それなのに日本人は忘れっぽいかどうか知りませんが...。人殺しというのが、戦争なんです」

(本文終り)