◆ 栗原利一証言 ◆
本多勝一『南京への道』

 
◎栗原利一伍長 第65連隊第1大隊所属

◎スケッチ

スケッチ 1
スケッチ 2
スケッチ 3
スケッチ 4

 
本多勝一『南京への旅』P307-318
栗 原 利 一 証 言

 この報道については写真もあり、それは同紙一九日付朝刊の写真ページと、『アサヒグラフ』一九三八年一月五日号とに、同じ現場ながら別の瞬間にとられた写真が出ている。新聞の方は「南京避難民区内に隠れてゐた敗残兵〔十七日河村=福岡電送〕」 の説明だが、『アサヒグラフ』の方は「両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(十二月十六日上野特派員撮影)」とされている。記事との整合性からすれば後者が正しい。新聞の方は写真説明を日本で勝手に想像してつけた可能性がある。
 ところが、この「一万四千七百七十七名」の捕虜の大群がその後どうなったかについて、続報は全くなかった。かれらはどこに消えたのだろうか。
 実は、この捕虜群がすべて殺されたらしいことについては、これまでにすでに間接的伝聞ながら記録がある〔注〕。だが生存者が一人もいなかったためか、中国側には直接的被害者の証言ほまだない。ごく最近になって、このとき捕虜を実際に処理した両角部隊の一人・旧陸軍下士官が真相を詳細に語った。この人が真相を語るにいたった動機は以下に述べるが、真意を理解せぬまま卑劣な匿名のいやがらせ電話や投書が集中する前例があるため、当人の希望によりここでは仮名を使うことにした。すなわち「田中三郎さん」(本名・栗原利一)(七三)としておくが、福島県出身で警視庁に長くつとめて引退した。剣道八段をはじめ、柔道・居合道・杖道などでも高段者で、書道の達人でもあるいわば「文武両道」の日本男子である。むろん思想的に「左」でもなければ反体制でもなく、そうした意味であればむしろ「右」であり、体制側でもあろう。
 その「田中さん」(栗原)は、まさに日本的武士道の見地からみて、南京陥落から四七年目の今日、ことの真相を遺しておく必要をさとり、当時描いておいたスケッチやメモの画帳を前にして語ったのであった。この画帳は南京陥落の翌年の漢口攻略戦で負傷して入院中に描いたもので、捕虜の数は約一万三五〇〇人となっている。田中(栗原)さんが真相を明らかにする気になったのは、およそ次
のような心境によるものであった。
<南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。中国側では「四〇万人が虐殺された」といっているらしいが〔注〕、それは果たしてどこまで具体的な資料をもとにしたものなのか。あと二〇年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。……>
 田中(栗原)さんは第一三師団(仙台)に属する山田旅団第六五連隊(会津若松=両角部隊)の第一大隊第二中隊にいた。現役入隊のころ「満州事変」(中国でいう「九・一八事変」)に参戦しているので、南京攻略戦に際して召集されたときは二四歳の下士官だった。
 一九三七年(昭和12)一〇月三日、上海近郊の呉漱に上陸。六キロばかり歩いたところで一週間ほど野営し、中国兵の死体が浮くクリークの水で炊事しながら小隊訓練・分隊訓練。このとき伍長の田中(栗原)さんは分隊長である。ここで大半の兵隊が下痢になった。部隊は一〇日の夜最前線へと移動し、一一日から攻撃にかかった。前面に老陸宅、左に孟家宅、右に三家村を見る位置で、三方から中国軍(国民党軍)精鋭部隊の猛射を受けながらの苦戦である。攻撃陣地としていた竹ヤプの竹が、敵弾のため一本のこらずなぎ倒されてしまうほどだった。この日から二週間のあいだに一個中隊一九八人のうち六五人もが戦死した。負傷して後方へ送られる兵はもっと多く、補充されては戦ったものの、最初からいた者で無事だったのは中隊のうちわずか二三人きりであった。中隊長も負傷して退き、将校の六人中三人が戦死している。「これほどひどくやられていました。すべて『お国のため』の戦死です。この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に一〇万殺そうと二〇万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、虐殺≠ニいうような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです」
 第一〇軍の杭州湾上陸は戦局を一変させた。いわゆる「日軍百万上陸」の報に猛スピードで逃げる蒋介石軍と猛追する日本軍。田中(栗原)さんの両角部隊の場合、鎮江でやや苦労したあとは大した会戦もなしに長江ぞいに南京へ接近した。途中に造りかけのトーチカがたくさんあり、これが完成していたら大変だったな、と田中(栗原)さんは思った。南京の北で長江が二つに分流し、広い方が大きく湾曲してから十数キロ東でまた合流するあたりに烏龍山という砲台の陣地があるが、ここへ進撃したときはもう組織的抵抗はなかった。さらに分流ぞいに幕府山の手前まできたとき、一挙に膨大な中国兵が投降してきた。各中隊はこれを大わらわで武装解除すると、着のみ着のままのほかは毛布一枚だけ所持を許し、中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列に収容した。これが前記の新聞報道と写真の捕虜群である。その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さ(栗原)んは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている。
 収容されてかちの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に、中華料理などで使われる小さな支那茶碗″に飯一杯だけ。水さえ支給されないので、廠舎のまわりの排水溝の小便に口をつけて飲む捕虜の姿も見た。
 上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の一七日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。大群の移動を警備すべく、約一個大隊の日本軍が配置についた。なにぶん大勢の移動なので小まわりがきかず、全員をうしろ手にしばって出発したときは午後になっていた。廠舎を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、四キロか五キロ、長くても六キロ以下の道のりを歩いた。あるいは銃殺の気配を察してか、あるいは渇きに耐えきれずか、行列から突然とびだしてクリーク(水路か沼)にとびこんだ者が、田中(栗原)さんの目にした範囲では二人いた。ただちに水面で射殺された。頭を割られて水面が血に染まるのを見て、以後は逃亡をこころみる者はいなかった。
 この護送中のこと、田中(栗原)さんは丘陵の中腹に不審な人影を見た。丘の頂上には日本軍がいたが、中腹に平服らしい人間がちらと認められたという。あるいは国際諜報機関の何かではないかと、なんとなく不安を感じたままになっていた。少なくとも目撃者はいたに違いないと田中(栗原)さんは思っている。
 捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
 捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中(栗原)さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、田中(栗原)さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。田中(栗原)さんの推測では、うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。危険を察知して破れかぶれになり、絶望的反抗をこころみた者がいたのであろうが、うしろ手にしばられた他の大群もそれに加われるというような状況ではなかった。
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中(栗原)さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な人柱≠ナある。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中(栗原)さんは想像する。そんな人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。
 ほとんど暗くなっていた。
 だが、このままではもちろんまだ生きている者がいるだろう。負傷しただけのもいれば、倒れて死んだふりの者もいるだろう。生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際間題になるから、一人でも生かしてはならない。田中(栗原)さんたちの大隊は、それから夜明けまでかかって徹夜で「完全処理」のための作業にとりかかった。死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動きだす。
 死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた。靴もゲートル(脚秤)も人間の脂と血でべとべとになっていた。こんなひどい「作業」も、「敵を多く殺すほど勝つのだ」「上海いらいの戦友の仇だ」「遺族へのはなむけだ」という心境であれば疑問など起こる余地もなかった。動く者を刺すときの脳裏には、「これで戦友も浮かばれる」と「生き残りに逃げられて証拠を残したくない」の二つの感情だけしかなかった。これも作戦であり、何よりも南京城内の軍司令部からの命令「捕虜は全員すみやかに処置すべし」であった。
 徹夜の「作戦」で、疲れたというような次元とは違って、何ともいいようのない、身も心もへとへとになった無我夢中の感情のまま、死体の脂と燃えかすの墨との惨憶たる格好で朝帰りすると、その日(一八日)は死んだように眠りこんだ。
 死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。これを長江に流すための作業がまた大変で、とても一八日のうちには終えることができない。ヤナギの枝などでカギ棒をつくり、重い死体をひっかけて川へ投げこむ作業が、あくる一九日の昼ごろまでつづいた。
 この「作戦」で、皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」と田中(栗原)さんは語る。前後の状況からしてとてもそれは無理なことだったと。
 摘虜の処理が終わったあと、両角部隊はあくる二〇日に長江を渡って浦口ヘ進み、さらに西方深く二週間ほどの追撃戦ののち、また浦口へもどってその警備についていた。
 このようにして南京で「始末」または「処理」された捕虜の数について、田中(栗原)さんのメモは七万人くらいと推定する。両角部隊の場合のほかに、とくに大量処分された場所は紫金山の麓だったと田中(栗原)さんはきいている。しかし少なくとも両角部隊に関するかぎり、捕虜以外の一般人の無差別虐殺は全くしなかったし、また市内にはいらなかったのだからそれは不可能な状況だったという。

※原文中の仮名「田中三郎」に、本名である「栗原利一」の名前を書き加えた入れた(栗原氏のご子息である核心さんの希望による)