捕虜の逃走について

以下、捕虜の逃走についての国際法解釈を、当時の国際法学者の文献よりそのまま提示する。なお、旧字・カタカナ表記は、適時読み易いように直してある。

信夫淳平 『 戦時国際法提要 』  立作太郎 『 戦時国際法 』

参考: 『 俘虜処罰法(昭和18年) 』
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 『 俘虜の処罰に関する件(明治37年) 』 
NEW 『 俘虜取扱規則(昭和18年) 』


信夫淳平 『 戦時国際法提要(上) 』 (照林堂書店、1944年) P442〜448

四〇二 俘虜の逃走に関しては、元来俘虜が逃走を企つるは自国軍の戦闘力を増加せんがためで、同じく祖国への忠勤の一発露とも見得るものであるから、逃走は必しも犯罪を以て目すべきものでない。或は逃走は俘虜として機会さへあらば当然試むべき一の義務なりとまで説く者もある(例えへばDavis, Elem. of Int.Law, p.315)。英国の陸戦法規にも『敵国の俘虜となりたる将校又は土卒にして陛下の軍務に復帰し得るの機会あるに拘らず復帰せざりし場合には之を懲役に処す。』との規定すらある(第五条第三項)。曩(さき)に述べたる万国国際法協会の一九二一年の海牙大会に於て俘虜取扱規則案の討議の際、西班牙の赤十字社の代表は『俘虜が逃走せんと企つるのは、啻(ただ)に彼の権利であるのみならず一の義務で、随つて論理上犯罪でも過失でもないと吾等は見る。故に俘虜がその義務たることを企図したことに対し之を処罰するが如きは勿論、叱責を加ふることすら吾等は正義の名に於て承認し難い。』と論じた(Int.Law,Assoc.,30th Report,vol.1,p.215)。

 逃走を義務といふは聊(いささ)か言ひ過ぎたものならんが、少なくとも俘虜たる者の自然の情とは云ひ得られる。けれども如何にそれが自然の情とはいへ、収容国から見れば、俘虜の逃走して再び本国の兵力に加はるの機会を之に与ふることになる。逃走を企図する俘虜をして之を遂行せしめたのでは、収容国はそれだけ敵の戦闘力を増さしむることになる。それでは作戦上不利となるから、之をしてその目的を達する前に捕へて之を懲罰に附するのは当然である。故を以て陸戦法規慣例規則には第八条に於て「逃走したる俘虜にして其の軍に達する前、又は之を捕へたる軍の占領したる地域を離るるに先ち、再び捕へられたる者は懲罰に付せらるべし。俘虜逃走を遂げたる後再び俘虜と為りたる者は、前の逃走に対しては何等の罰を受くることなし」と規定する。俘虜待遇条約も第五十条に於て同様に規定し、更に第五十一条の第一項に「逃走の企は再犯の場合と雖も、俘虜が該企中人又は財物に対して犯せる重罪又は軽罪に付裁判所に訴へられたる場合に於て、刑の加重情状として考慮せられざるべし。」としてある。然らばその懲罰としては如何なる処分が許されるべきか。


四〇三
 俘虜が逃走せんとするのを看守兵が発見したる場合には、之を捕ふるため先づ「止まれ」と命ずるのは普通の順序であらう。しかも俘虜が之を聴かずして逃走を遂行せんとする場合には、狙撃して之を銃殺するに妨げなきか。ブルッセル宣言案には「逃走を企つる俘虜に対しては止命後武器を使用することを得。」とあり、而して同会議の議事録には、一回の「止まれ」にて命を聴かざる場合にも射殺して可なりとの解釈が留められてある。陸戦法規慣例規則にはこの点に関して確たる明文は無い。けれども第八条第一項には前掲の如く「総て不従順の行為あるときは俘虜に対し必要なる厳重手段を施すことを得。」とある。単に逃走を企つるだけでは不従順の行為と称し難きも、「止まれ」と命ぜられて之を肯ぜず尚ほ逃走を継続すれば、そは明かに不従順の行為であるから、たとへ明文は無いにしても、一の必要なる厳重手段として之を射殺する理由は立つ。第一次大戦にも、独逸にて逃走を企てたる露兵の一俘虜が「止まれ」の命令を聴かざりしとて射殺された例があると云ふ(Garner,Int.Law & the W.W.,U,§354,p.48)。

 之を一二の国内法規に見るに、米国の「陸戦訓令」第七十七条第一項には「逃走する俘虜はその逃走中之を射殺し又は他方法にて殺すことを得。但し交戦法則が犯罪と見ざる所の単なる逃走の企図の故を以て之に殺害その他の処罰を加ふることを得ず、逃走未遂の俘虜に対しては一層厳重なる安全手段を加ふることを得。」とありて、即ち逃走中の俘虜を殺すことの適法を認めたると同時に、単に逃走の企図だけでは処罰を加ふるをえざることを明規してある。日露戦役に於ける我が俘虜取扱規則にも、第六条第二項に「俘虜逃走を図りたる場合に於ては兵力を以て防止し、必要の場合には之を殺傷することを得。」、又第七条に「俘虜逃走を遂げ又は遂げずして再び捕へられたるときは懲戒処分に附するの外、其の逃走の故を以て何等の刑罰を之に加ふることなし。」とある。この第七条に該当する前掲の陸戦法規慣例規則第八条第二項の末尾の「懲罰に付せらるべし」は死刑には処せずとの意味を逆に言表はせるものなること(及び同規定は後に述ぶる俘虜が共謀して逃走を企てたる場合には之を適用せざること)載せて第一回海牙平和会議の本条項に関する審査委員会の報告にある。

 要するに俘虜の逃走は、元々逃走それ自身が犯罪ではなく、ただ取締上から罪と云へば罪たるに過ぎず、法語のmalum in se ではなくしてmalum prohibitum たるものであるから、随つて之に対する懲罰も、謂ゆるpeines disciplinaires(disciprinary punishment)即ち規律取締上のそれに外ならない。その懲罰としては、「止まれ」の命に従はざる場合の殺傷は別とし、単に逃走を企てたるの故を以て之を死刑に処するを得ざることは、既に述べたる第一回海牙平和会議委員会の報告に於て既定の解釈となつてある。又逃走既遂者にして再び俘虜となつた場合にも、前の逃走に対しては之を問はず、何等の罰を課さないことは、学説の略々一致する所であるのみならず、陸戦法規慣例規則第八条第二項の明規する所で、畢竟は逃走を以て俘虜として自然の情に発する行動と為し、之を犯罪と看做させないのと、且俘虜にして一旦逃走を遂げた上は、恰も成功せる間諜や革命党のやうに、その前身の俘虜たりし資格は之に依りて消滅し、再び捕へられた者は新規蒔直しの俘虜となり、との理由に基くのである。尤も逃走をば犯罪を以て論ぜず、之に刑罰を課さないのは、専ら逃走そのものに関してのことで、随つて逃走に際し他の犯罪を伴ふ如き場合は別である。殊に暴力を用ひて逃走を企つるが如きに於ては、当然軍紀に依り処断せらるるを免れない。将た又逃走せざる旨を宣誓し、しかも逃走を敢てしたるに於ては、一種の背信罪を構成するから、相当処罰を受くべきは当然である。「俘虜処罰法」には之に関し左の規定が設けられた。

第十条 逃走せざる旨の宣言を為し之に背きたる者は一年以上の有期の懲役又は禁錮に処し、其の他の宣誓に背きたる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す。

 陸戦法規慣例規則第八条の「俘虜」の語には将校と否とを区別してないが、俘虜将校にして逃走をせざるべきの宣誓を為し、比較的自由の起居を許され、しかもその宣誓に背いて逃走したる者が捕へられたる場合には、之を死刑に処すること慣例の示す所であり、又之を違法と論ずべき理由も無い。独逸の「陸戦慣例」にも「宣誓を為さざる個々の者が逃走を企図することは自由を要求する自然の情の発露で、犯罪を以て目すべきでなく、随つて許されたる特典の制限及び一層厳重なる監視を以て処罰すべきも、死刑を課するを得ない。然れども逃走の陰謀の場合には、之に伴はしむるに死刑を以て処罰するに妨げなし。而して宣誓を破りたる場合には、死刑は当然の制裁となる。」とある(Morgan's Eng.trans.,pp.71-2)。


四〇四
 以上は俘虜の単独逃走に係るものであるが、俘虜が多数共謀して逃走を企図する場合は自ら別である。この場合に危険の重大性に鑑み、陰謀罪として俘虜収容国の陸軍法規に依り之に刑罰を課するに妨げない。その刑罰は概して銃殺である。米国の「陸戦訓令」第七十七条第二項に「然れども共同的若くは全般的の逃走を目的とする陰謀にして発見せられたる場合には、陰謀者は之を厳刑に処すべく、之を死刑に処するもげず。俘虜にして捕獲国の権力に対し謀反を企図することが発見せられたる場合には、その企図が同国人たる俘虜と共謀すると他の人々と共謀するとを問はず、死刑を之に加ふることを得。」とあり、独逸の「陸戦慣例」にも同様の規定がある(Ibid.,p.72)。

 之に関しては、大正三年の日独戦の当時に一小問題があつた。即ち青島の陥落後我国に収容したる独逸俘虜中、或時十数名が共謀して逃走を企て、目的を達せずして捕へられた。帝国軍憲は彼等を禁錮刑に処したるに、独逸側では陸戦法規慣例規則第八条第二項を採用し、懲罰に附し得るも刑罰は之を課し得ざるものとして抗議した。けれども、陸戦法規慣例規則の該条項は共謀逃走の場合には適用せざること第二回海牙平和会議の本規則に関する公的報告に説明せられてあるのみならず、前述の如く独逸自身「陸戦慣例」にも規定する所である。帝国軍憲が彼等を禁錮刑に止めたのは軽きに失する位で、寧ろ恩典と称すべく、随つて独逸側の抗議は何等理由なきものであつた。「俘虜処罰法」では、多数共謀に依る逃走に関し

第七条 党与して逃走したる者は、首魁は死刑又は無期若は十年以上の懲役若は禁錮に処し、其の他の者は無期又は一年以上の懲役又は禁錮に処す。

の規定が出来たので、今後は最早や斯かる議論の起る余地は無い訳である。


四〇五
 俘虜の逃走ありたる場合には、残留の俘虜に対し連座罰を課するを得るか。一八七〇年の普沸の役に於て、独逸に収容の沸兵殊に将校の俘虜にして逃走する者が続出したので、独軍にては逃走将校一名出づる毎に報復と稱(しょう)して残留の俘虜将校十名をば抽籤にて要塞内に禁錮することにした。手段の当否に就ては議論のある所で例へばピレ−は「報復なるものは国際法違反の行為に対してのみ許容せらるべきに、俘虜逃亡は敢て国際法違反の行為といふべきものでないから、之に対し報復を行ふは当を得ない。」と論じ(Pillet,p156)ボンフィスも「俘虜の一人が逃亡したからとて残余の同僚に対し連座罰を課するが如きは、正義の最も初歩の観念にも反す。」と説く(Bonfis,§1130,p.640)。一九二九年の俘虜待遇条約は第五十一条第二項に於て「逃走の企又は其の成就後に於て逃走に協同せる逃走者の同僚は、其の理由に因り懲罰のみに附せらるべし。」と規定する。即ち残留の俘虜が懲罰に附せらるるのは、同僚の逃走に協同した場合のこととしてある。(尚ほ俘虜待遇条約には第五十四条以下に於て俘虜に課するを得べき懲罰の種類条件等が掲記してある。)


四〇六
 俘虜に対する処罰を裁定する管轄機関は軍法会議、軍事法廷等の如き軍の特定司法機関たるを要するや、将た俘虜取締の任に当る指揮官にて足るや、は議論の余地があらう。日露戦役にありては、俘虜の犯罪は軍法会議に於て審判することにした(当時の俘虜取締規則第八条)。当時我国にありては、収容の露兵俘虜の数が逐次増加すると共に、監督官憲への反抗、逃亡の企図、宣誓の違反、その他種々の犯行者頻々出づるに至つたので、政府は明治三十七年十一月、緊急勅令を以て俘虜処罰法を制定せるが、之に依り俘虜の犯罪者を処罰するに方り、定役には服せしめずして禁錮は内地拘留所に、禁獄は内地の監獄に、有期流刑は島地又は内地の監獄に孰(いず)れも留置するに止め、犯罪の審判に就ても、俘虜は総て帝国軍人と同一に取扱ふの趣旨に由り、俘虜の犯罪は前述の如く軍法会議に於て審判することにし、又同法第七条に於て軍法会議にて俘虜の犯罪を審判するときは俘虜の階級に応じ帝国軍人に関する規定を準用するとした。第一次大戦中、英国にてはその収容せる独逸海軍の俘虜将校にして逃走を企てたる二名を特設の軍事法廷にて審問せんとし、該将校に之に対し異議を申立てたる事件があつた("The Trial of Lieutenant Andler for Attempt to Escape(1915),”Stowell & Munro,Int.Cases,U,pp.207-9)。蓋し単に懲罰の文字より推せば、取締指揮官己の裁量に之を処分するに妨げなかるべく、又それが本体であるべきかと思はるるが、懲罰の語義にして死刑その他一切の処罰を含むものとすれば、特定司法機関の裁定に依らしむるに理由あるべく、要は懲罰に附すべき行為の軽重を按じ臨機取捨して然るべき問題であろう。




立作太郎 『 戦時国際法 』 (日本評論社、1938年) P172

 俘虜は、之を其権内に屈せしめたる国の陸軍現行法律、規則及び命令に服従すべきものとし、総て不従順の行為あるときは、俘虜に対し必要なる厳重手段を施すことを得る(陸戦条規第八条第一項参照)。俘虜を権内に属せしめたる国は、俘虜の逃走を防ぐる為め及び規律を維持する為め、点呼に応ぜしめ又は、特別の監視を受けしむる等のことを定るを得る。俘虜の逃走を妨ぐる為め、兵器を用ひ、必要あれば之を銃殺することを得る。監視兵に抵抗し、又は本国を助くるの行為を為さんとする場合に於ても然りとする。俘虜にして陰謀、騒擾、不従順其他之を捕へたる国の国内法に於て重罪又は軽罪を以て罰する行為を為せるときは、捕へたる国の軍人と同様に、之に対して裁判を為し、処罰を為すを得べく、之が為めに死刑を科することを為し得べきである。例へば俘虜が多人数通謀して逃走を企て又は官憲に対する反抗を為さんと企つる場合には、之を死刑に処するを得べきである。