埋葬関係資料 紅卍字会

 

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紅卍字会史料

紅卍字会

埋葬表(東京裁判提出)

紅卍字会埋葬表 法廷証拠1703 p.1 紅卍字会埋葬表 法廷証拠1703 p.2
紅卍字会埋葬表 法廷証拠1703 p.3 紅卍字会埋葬表 法廷証拠1703 p.4
紅卍字会埋葬表 法廷証拠1703 p.5  

Pros. Doc. No. 1704: Chart of Charitable Organization prepared by the Red Swastika society. (Related to NANKING atrocities) (文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Entry No.329 Numerical Evidentiary Documents Assembled as Evidence by the Prosecution for Use before the IMTFE, 1945-47)


埋葬表(『南京事件資料集2』掲載)

世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表
区別
埋葬地点
死体数
合計
月日
備考
子供




清涼山後山
129
129
12.22 収兵橋一帯で収容
金陵大学農場
124
1
125
01.26 西橋塘内で収容
五台山荒山
17
2
19
02.02 漢字路一帯で収容
清涼山墓地
49
49
02.06 龍蟠里一帯で収容
韓家巷西倉山上
149
2
151
02.07 西倉壙 内で収容
五台山荒山
16
4
20
02.11 上海路一帯で収容
古林寺山上
107
2
109
02.14 古林寺山で収容
陰陽営南秀村
650
2
20
672
02.19 市北部各地で収容
古林寺後山
154
154
02.20 龍池庵で収容
同上
29
1
30
30
02.22 市北部各地で収容
陰陽営北秀村
337
337
02.27 同上
総計
1,759
8
56
1,793
   






中華門外望江磯
100
9
109
12.22 城内各処で収容
中華門外高輦柏村
250
11
261
同上 同上
中華門外普徳寺
280
280
同上 同上
 
6,468
6,468
12.28  
上新河里橋
996
2
996
01.10 上新河一帯で収容(合計は誤記)
中華門外望江磯
407
20
3
431
01.25 城内各処で収容
水西門外二道杆子
843
843
02.07 水西門外の河辺で収容
上新河太陽宮
457
457
02.08 太陽宮河下で収容
水西門外南傘巷
124
1
125
02.09 水西門外各処で収容
上新河二
850
850
02.09 死体既に腐乱、現地で収容
上新河江東橋
1,850
1,850
02.09 江東橋一帯で収容
上新河棉花堤
1,860
1,860
02.09 死体既に腐乱、現地で収容
漢西門外広東公墓
271
1
272
02.11 漢西門外一帯で収容
水西門外大王廟
34
34
02.11 水西門外の池で収容
下関渡固里
1,191
1,191
02.12 死体既に腐乱、現地で収容
中央体育場公墓
82
82
02.14 体育場付近で収容
上新河中央監獄
328
328
02.14 中央監獄内で収容
上新河観音庵空地
81
81
02.15 同地火事場で収容
上新河鳳凰街空地
244
244
02.16 同地西街で収容
漢中門外二道杆子
1,123
1,123
02.18 同地河辺で収容
上新河北河口空地
380
380
02.18 北河口一帯で収容
下関九甲
480
480
02.18 下関長江沿岸で収容
下関魚雷軍営脇
524
524
02.19 死体既に腐乱、同地で収容
下関草鞋閘空地
197
197
02.20 魚雷営埠頭で収容
同上
226
226
02.21 同上
下関魚雷軍営埠頭
5,000
5,000
同上 死体腐乱、同地で収容
下関石榴園
147
147
同上 幕府山脇で収容
幕府山下
115
115
同上 草鞋閘後方で収容
上新河五福村
217
217
同上 五福村電台等で収容
下関草鞋閘空地
151
151
02.22 魚雷営埠頭で収容
下関魚雷軍営埠頭
300
300
同上 死体が腐乱、当地で収容
中華門外普徳寺共同墓地
106
106
02.23 城内各地で収容
下関姜家園
85
85
02.25 下関各地で収容
下関石榴園
1,902
1,902
02.26 幕府山脇で収容
下関東砲台
194
194
同上 石炭港埠頭で収容
下関上元門外
591
591
02.27 上元門内一帯で収容
中華門外望江磯共同墓地
87
87
02.28 城北各地で収容
下関石榴園
1,346
1,346
03.01 幕府山付近で収容
河西南空地
998
998
同上 河一帯で収容
和平門外永清寺付近
1,409
1,409
03.02 同処大渦子で収容
下関石榴園
786
786
03.03 幕府山付近で収容
下関石炭港河辺
1,772
1,772
03.06 死体腐乱、同地で収容
下関海軍医院後堤
87
87
03.14 同地および怡和埠頭で収容
三沙河後方
29
29
03.15 同地一帯で収容
上新河甘露寺空地
83
83
03.15 同地一帯で収容
中華門外華厳寺山頂
100
100
03.19  
中華門外普徳子西安里堂
799
799
03.25  
太平門外城壁下
500
500
03.27  
上新河甘露寺空地
354
354
03.23  
中華門外安徳里西山上
133
133
03.24  
中華門外普徳寺共同墓地
1,177
1,177
04.14  
上新河賈家桑園空地
700
700
04.16  
河空地
282
282
04.19  
下関石炭港空地
385
385
04.27  
下関兵站処空地
102
102
04.29  
中華門外普徳寺
486
486
04.30 兵工廠および城内で収容
下関石榴園
518
518
05.01 兵站処河辺で収容
老江口堤防
94
94
05.15 同上
下関河辺
65
65
05.18 河辺の水上で収容
上新河黒橋
57
57
05.20 上新河畔で収容
中華門外普徳寺山上
216
216
05.16 城内各処で収容
下関石炭港
74
74
05.31 同処河辺で収容
中華門外普徳寺山上
26
26
06.30 城内各処で収容
同上
29
5
1
35
07.31 同上
同上
14
4
18
08.31 同上
中華門外普徳寺
31
8
9
48
09.30 同上
同上
42
13
7
62
10.30 同上
総計
41,183
75
20
41,278
  実数は41,330

(『侵華日軍南京大屠殺档案』より)

『南京事件資料集2中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992年 pp.270-273


日本軍に依る支那地方民及び武装解除された軍人の南京に於ける虐殺並に南京紅卍字会に依る屍体埋葬の実況[検証一七二八]

一九三七年(昭和十二年)十二月、支那国民政府が南京より移転せる際、国際委員会が中外の紳商並に宣教師によつて組織された。日本当局は中山北路以西並に漢中路以北の地を避難民区域となす中出に同意し、紅卍字会は其地に於ける救済事業を管理することを許された。
十二月十三日、日本軍の中島部隊が光華門より南京に入り、支那軍が下関の河岸に退却した際、地方民及び武装解除された将兵は難民区域に入り、若くはあちらこちらに隠れ場所を求め、その数は二十余万であつた。紅卍字会はアメリカの宣教師及び教授の援助により、毎日食事を給し、秩序を維持するため給食所を設置した。
避難民区域外に在つた人々は殆ど例外なく焼殺、双殺、強姦の如き種々の残虐行為を受けた。その犠牲者は南京内外の地方民並に武装解除された軍人を含んで居た。

一、殺戮
  日本兵は附近一帯の捜索をなし、遠ければ銃撃し、近ければ刺殺した。鶏や犬まで殺された。翌十二月十四日。日本兵は?江門を突破した後、再び軒並みの捜索を行ひ人を見れば殺した。和記洋行工廠に於ては数千、宝塔橋に於ては数百の地方民並に武装解除された軍隊が俘虜となつた。
彼等は煤炭港の倉庫に入れられ、扉が閉された。日木兵は彼等を機関銃で殺戮し、屍体に石油をかけ、火をつけた。同じ手段が下関老虎山に於て武装解除の後数千の支那兵に繰返された。?江門外に於て宝塔橋は退却に際し中国軍によつて破壊された。日本兵は下関近辺に於て捕へた五体の揃つた地方民は皆壊れた橋から河の中に追ひ落した。その数は数百であつた。日本兵は流れる河の中で助からうと徒らにもがいて居る犠牲者の悲惨な光景を見て面白がって居た。
二百名以上の警官が南京城外で縛られ、地面の穴の廻りに置かれた。それから穴には石油が入れられ、火がつけられた。警官は皆もがき苦しみながら火炙りにされた。前記の諸事件は、日本兵が南京に於て同様な方法で行つた他の多くの残虐行為を単に例示したに過ぎない。

二、強姦
  日本兵は少女より老婆に至る殆どすべての女を強姦し、屡々、犠牲者が死ぬまで交代で繰返し繰返し強姦した。死んだ後でも屍体を銃剣で突いたり切つたりし、明らかに野獣的な日本軍自身を楽しませるために固い物体を膣中に突込んだ。最も怪しからぬことには、一家族に対して、恐るべきき質問の後、一旦家族関係が確認され、父と娘、母と息子、兄弟姉妹が性交を強ひられ、日本軍は傍に立つて笑ひ、喝采した。かヽる野獣的行為は真に、支那人の道義心破壊を目的としたものであつた。

三、埋葬
  殺戮後、屍体は南京及其の近郊に山積して居た。紅卍字会は彼等を葬るため埋葬隊を組織することを申出た。日本側は約一ケ月後迄それを許さなかつた。そのため実際に仕事を始めた時には、屍体は殆ど腐爛し、変形して居て識別が不可能であつた。他の多くの屍体が大塘及び河溝に於て河中より引き上げられた。屡々、日本軍は十若くはそれ以上の屍体に長い針金を通し、繋ぎ合せて、河中に投じた。紅卍字会によつて葬られた屍体の総数は四三、〇八一であつた。
  屍体埋葬作業 月日、屍体の種別、屍体発見箇所、埋葬地の表を添付する。

世界紅卍字会南京分会之印
会長(署名捺印)呉仲炎
副会長(署名捺印)許伝音
一九四六年(昭和二十一年)四月六日
註 此の表の証明された写しが利用出来る。その翻訳は一九四六年(昭和二十一年)三月調整された南京区裁判所検事局の報告書(書類番号一七〇四)と一緒にある。

検察側文書第1728号: 日本軍ニ依ル支那地方民及ビ武装解除サレタ軍人ノ南京ニ於ケル虐殺並ニ南京紅卍字會ニ依ル屍体埋葬ノ實况 (文書名: 朝日新聞社旧蔵極東国際軍事裁判記録 ; 和文資料III) (検察側証拠) (ボックス番号: 6 ; フォルダー番号: 3)


中国側史料


許伝音

1884年生まれ。イリノイ大学にて哲学博士を取得、中国国内にて大学教員を務める。事件当時、南京に居住し、南京安全区国際委員会に所属、同家屋委員会委員長、国際救済委員会書記、紅卍字会南京分会会長。

東京裁判 証言

第三十五号(昭和二十一年七月二十六日)
検察側立証段階(二)


○許証人 三日目に私は日本兵を伴ふと云ふ条件の下に市内を通ったのでありますが、此の目的は路上に若しくは家の中に死んで居た、若しくは死なんとして居る者の数を略々決める為めでありました。
(宮本モニター 一寸附加へます。「日本陸軍将校の許可を得て」)
○許証人 私は屍体が到る処に横〈た〉はって居るのを見ましたが、其の中の或る者は酷く斬り刻んであったのであります。私は其の屍体が殺された時の状態の儘に横〈た〉はって居るのを見たのであります。或る屍体は身体を曲げて居り、又或る者は両足を拡げて居りました。さうして斯う云ふ行為は皆日本兵に依って行はれたのでありまして、私は日本兵が現にさう云ふ行為を行って居る所を目撃したのであります。或る主な大通 りの所で私は其の屍体を数へ始めましたのでありますが、其の両側に於て約五百の屍体を数へました時に、もう是れ以上数へても仕方がないと思って止めた程であります。其の時私の車に、もう一人中国人が乗って居ったのでありますが、此の人は日本に於て教育を受けた人であります。さうして自動車に乗って此の人の家に行きました時に、其の人の兄弟が殺されまして、さうして此の家の入口の所にまだ片付けてない彼の屍体が横〈た〉はって居るのを見たのであります。私は南京市の南の方----南市、又北の方、東の方、又は西の方に全然同じ状態が起って居るのを見ました。さうして日本の兵士達は人々に何等の考慮を払はないで、若し私の車の中に日本語を話す中国人が乗って居らず、又同乗して居った日本人が許可証を示さなかったならば、私も非常な困難に遭遇したでありませうが、此の人達が助けて呉れたのであります。此の時南京市内には中国の兵隊は全然居りませぬ のでありまして、私の見ました屍体は老若男女の市人、普通の人間であります。一人も軍服を着て居った者はないのであります。(
『日中戦争史資料8』p.25)

○許証人 日本兵は安全地帯に入って来て、さうして捜索した結果、種々の「キャンプ」及び家から大勢の一般 市民を連れて行きました。
(伊丹モニター 訂正。一般中国市民)
或る日私は卍協会の他の者と共に、是等の罹災者に対して食糧を配って居りました。
(伊丹モニター 訂正。「パン」やお菓子を配付して居りました)
我々が此の仕事を終り掛けた時、二人の日本兵がやって来まして、さうして門を固く閉めました。
(伊丹モニター 訂正。我々が丁度其の仕事を終へやうとした時に、日本兵がやって参りまして、其の中の二人は門の護衛に就きました)
日本兵は入って来、さうして縄を以て是等の中国人市民の手を縛り、十人或は十五人の一団に固めまして連れ去ったのであります。私は其処に立って居りました、さうして此の状景に胆を潰しました。此の建物の中には千五百人の罹災者が居ったのでありますが、是等は皆此のやうにして連れ去られたのであります。彼等は此の卍協会の職員までも連れ去らうとしましたが、我々が説明しましたので、是等の者を放したのであります。私は国際委員会の「ラビー」氏に、此のことを報告するやうに人に頼みました。「ラビー」さんと「フィッシュ」さんは直ちに私の請に応じて参りましたが、併しながら是等の中国人市民は、日本兵に依って連れ去られてしまったのであります。
(伊丹モニター 訂正。「フィッシュ」でなく「フィッチ」)
そこで「ラビー」さん、「フィッチ」さん、私及び日本語を話すことの出来る中国人は、一緒に日本の特務機関の司令部に参ったのであります。「ラビー」さんは抗議を申込みまして、何が故に日本兵が此の安全地帯の中に入り、さうして是等の一般 中国市民を連れ去り、さうして何処に連れて行ったかを聴き、更に直ちに連れ戻すやうに抗議を申立てたのであります。此の抗議に対する返事と致しまして、日本の特務機関は知らぬ と答へました。それで我々は何処に連れ去ったかを知るが為に、一時間其処に待ったのであります。我々は彼等から何等の満足すべき返事を得ることは出来ませぬ でした。彼等は朝までに返事することを約しました。併しながら其の約束を果 しませぬでした。翌日の七時か八時頃、我々は国際救済委員会及び卍協会(紅卍字会)の建物の附近で、機関銃の音を聞きました。そこで我等が何が起こって居るかを人に探索させました所、是等の中国人市民が機関銃に依って悉く殺され、さうして其の死骸が散らばって居ると云ふ報告を得たのであります。後程、我等は其の死骸を集め、さうして死骸の中に或る者の氏名が判明致しました。其の後どの「キャンプ」に於きましても、毎日日本の兵が入って来まして、さうして中国人の市民を探索し、さうして拉致したのであります。
(伊丹モニター 訂正。中国の兵隊を探しに来たのであります)
是等の「キャンプ」に於きまして、或る日には十数人、或る日には数百人の一般 中国人市民が連れ去られたのであります。さうして後程彼等は全部殺されたことが分りました。日本側の之に対する弁明は、是等の一般 市民が兵隊であると云ふことであったのであります。さうして是等の知識を色々の所から集めたのだと申立てました。併し実際の所、是等のもは総て一般 市民なのであります。一人として此の中に兵士は居らず、又武装して居った者はないのであります。
(モニター 訂正。此の中の一人と雖も、軍服を着たり、武器を持ったりした者は居りませぬ でした)  (『日中戦争史資料8』pp.26-27)

○サトン検察官 紅卍会(紅卍字会)は南京で死亡した市民の埋葬に従事致しましたか。

○許証人 卍協会は此のやうな博愛的な仕事に従事して居ったのであります。併し此の際、あまり多くの死骸でありましたので、
(伊丹モニター 訂正。紅卍協会(紅卍字会)は金に窮して、自費で埋葬出来ないやうな人々の埋葬を普通 取扱って居りましたが、其の当時余りにも屍体が多くて、持て余した訳でありました。併し日本軍当局より人が参りまして、お前達は死体埋葬の仕事をして居るのだから、我我に手伝って死体の引取りをやって呉れと申しました)
日本軍は我々に許可を与へてから市中を歩き廻る許可証、或は通行証を呉れました。さうして此の仕事をなす為に、我々は二百人の労働者を抱へて居ったのであります。我々は此の屍体を直ちに埋葬しました。是等の死体の数は実に四万三千と言はれて居りますが、是は余りにも過少(小)評価であります。私達は真の数がどの位 であったかはっきり申すことは出来ないのであります。
(伊丹モニター 追加。其の理由は正確な数字を発表することを許されませぬ でした)
初め我々は此の数字を出し、さうして公の文書にして遺すことは敢て出来なかったのであります。そこで我々は私の文書として之を記録して置いたのであります。此の数は我々が埋葬した屍体の数であります。是等の屍体は全て一般 中国市民であって、一人として其の中に兵隊は居らなかったのであります。
(伊丹モニター 追加。私達は軍人とは何等関係はありませぬでした)

○サトン検察官 それでは一般市民の埋葬に関係をして居った外の団体が南京にありましたか。

○許証人 はい、他にもさう云ふ団体がありました。是等は主として博愛慈善の為めの団体でありました。紅卍協会は其の一つでありました。

○サトン検察官 それでは紅卍協会の方で処理をして埋葬した屍体と云ふものは何処で見出されたのですか。

○許証人 是等の屍体は自分達に依って発見され、或は周囲の人々が、私達に告げ、或は日本の将兵が私達に其の所在を示したのであります。日本軍は伝染病を非常に恐れました。
(伊丹モニター 訂正。此の流行病蔓延の危険は特に一月、二月、三月、四月に激しかったのであります)
是等の屍骸は或は河の中から、或は建物の中から引出したのであります。是等の屍体は殆ど総て手を結へられて居ったのであります。或は、時には「ロープ」に依って縛られ、時には電線に依って縛られて居ったのであります。
(伊丹モニター 訂正。是等の屍体は手と手、詰り多くの屍体が一緒に手と手を繋ぎ合はせるやうにして、綱又は「ワイヤー」で縛り付けられてありました)
此の屍体が若し縛られて居る時には、之を解き放すと云ふことが我々の神聖なる仕事なのであります。さうして是等の屍骸を一つ一つ埋葬するのが我々の仕事です。併しながら是等の屍体が電線に依って縛られて居る時には、之を解き放すことは殆ど不可能なのであります。多くの場合に於て是等の屍体は既に腐敗し去って居ったのであります。斯う云ふ場合には我々は一つ一つそれを放して埋葬することが出来ず、随て一固まり一固まりと埋葬して居ったのであります。

○ウェッブ裁判長 もう凡ゆる詳細な点に亙ってまで証言する必要はありませぬ。
(伊丹モニター 訂正。屍体をどう云ふ風に処理したかと云ふことは関係ありませぬ )

○許証人 或る場合にはすっかり焼け爛れた屍体を発見したのであります。

○サトン検察官 此の救済会が屍体埋葬に付て活動したと云ふことに付きまして、あなたが一月、二月、三月、と云ふ月を挙げられましたが、是はどの年のことでありますか。

○許証人 一九三七年から一九三八年に掛けてであります。
  (『日中戦争史資料8』pp.30-31)


東京裁判 宣誓口供書

南京陥落後三日目に私は市街を自動車で通りました。それは日本兵が卍協会に死体埋葬の相談をしに来たからであります。私はどんな様になって居るかを見に出かけました。」  (『日中戦争史資料8』p.25)
「私の受けた情報によれば、彼等は機関銃で殺され、彼の死体は池の中に投げ込まれた。それは後日、引揚げられ、『スワスチカ』会員の手に依って埋葬されました。」  (『日中戦争史資料8』p.27)
「私の最善の推定によれば、南京市内外で陥落後、且つすべての抵抗がやまって後に、日本兵の手によって殺戮された中国人の一般 人の総数は二十万人内外であります。」  (『日中戦争史資料8』p.31)


ゼイ芳縁・張鴻儒・楊広才が中華門、花神廟一帯における日本軍の市民集団虐殺を陳述した証言文

一九四五年十二月八日
 私は謹んで、自分の目でしかと見た敵の罪行を事実に基づいて陳述します。
 民国二十六年旧暦十一月十三日、日本侵略軍の中島部隊の入城後、沙洲ウに避難していた人々が帰ってきました。沿道には見渡す限り死体が横たわり、悲惨さは目を覆うばかりでした。そこで初四日にゼイ芳縁が中国紅卍字会に相談して、埋葬工作をおこなうことにしました。
 紅卍字会の責任者の紹介により第一区公所救済班に行き、紅卍字会の旗と符号を受け取りました。後に、避難先から帰ってきた熱心な人々三十人余りを奉仕埋葬隊に組織し、初六日より埋葬工作を始めました。南門外附廊から花神廟一帯まで、四十日余りの積極的な工作を経て難民の死体約五千体余りを埋葬しました。また兵工廠内の宿舎の二階、三階で、国軍兵士の死体役二千体余りを埋葬し、分けて雨花台の麓、および望江磯、花神廟などに埋葬しました。今ある骨の山がその証となっています。
 難民の死体はみな、大通りや横町および防空壕などから出てきたものですから、姓名はまったく知る術もありません。それゆえ、日本侵略軍入城時の虐殺事件について詳しく取り調べるよう訴えます。
 以上、述べたところ、すべて事実であり、虚偽はありません……以上。
・証人:姓名・?芳縁、性別・男、年齢四六歳、原籍・南京、職業・庭師、住所・高柏村一四号
・証人:姓名・張鴻儒、性別・男、年齢四四歳、原籍・南京、職業・農業、住所・雨花台三二号
・証人:姓名・楊広才、性別・男、年齢四三歳、原籍・南京、職業・商業、住所・花露一〇二号
調査人:姓名・馬志鐘、性別・男、年齢三五歳、原籍・漂陽、職業・政、住所・中華門外方家巷五号
中華民国三十四年十二月八日証言
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』p.286


占領下南京三か月の記録  蒋公穀

(民国二十七〔一九三八年〕二月)
 十三日 金陵大女子難民収容所では、しばしば敵兵の強姦・略奪騒ぎがあり、アメリカ人が敵に抗議してからは、毎晩一名の特務員が歩哨に来た。子良は同所の管理員として接待役を勤めていたので、彼らの中に知合いができた。今日の昼、一人の人相の悪い中国服を着た中山と名乗る男が、突然子良を訪ねて来てむだ話をし、何時間か話してようやく出て行った。我々はこの獣がきっと何かをたくらんでいるものと見て、皆怖くてびくびくし別 の場所に移ろうという者もいたが、ただ静かに待つのみだ。
 市内いたるところに殉難死体があり、とりわけ池と空屋がもっとも多い。数日前、紅卍字会が埋葬を始めた。金銀巷の金陵大学農場で深い壕を掘り、死体を幾重にもかさねて葬り、土をかけて終りというもの。話では数えて記録したところすでに一二万体にのぼるとのこと。

『南京事件資料集2 中国関係資料編』pp.101-102


高瑞玉(高瑞玉、男、80歳)の証言

 わたしは幼い時から山東で大きくなった、■荘の者で、抗日戦争の前に軍罰に人夫として捕まって南京に来たのです。南京がまだ陥落しない前に、友達の紹介で、世界紅卍字会の南京分会で仕事をしていました。あの時の紅卍字会は、小火瓦巷に分会が一つあり、場所はわたしは住んでいた付近ですが、下関にも分会があって、今は区房管所の建物です。日本兵が入ってくる前は、卍字会は専ら救済物資の配布などのような慈善的なことをやっていました。日本軍が入って来てからは、街中が屍体で、どれもが殺害された同胞でした。卍字会は屍体の収集と屍体の埋葬とを組織しました。その時は班が二つあって、一つの班が集めるのに責任を持ち、一つの班が埋めるのに責任を持ちました。わたしは屍を埋める班の班長で、その班はみんなで九十九人でした。屍を埋める地点は主として雨花台の両側で、憲兵運動場でした。漢中門外の城壁の脇にも、中山門外の辺りにも埋めました。屍を埋める者は一人一人長袖のシャツを着るかチョッキを着るかしましたが、それを作るのが間に合わなくて、腕章を着けて、目印にした人もいました。わたしは長袖のシャツを着ていたのですが、シャツの胸にも背にも、卍の字を付け、ある者の帽子にも卍の字を付けました(その時わたしも写真を撮ったのですが、やがて見つからなくなってしまいました)。卍の字は白地に紅にし、シャツの色は濃い藍色でした。屍を埋めた墳はとても大きく、ある墳は千人入り、上に芦の筵と泥を被せ、わたしの班が手掛けて埋めたのは何千人かでした。その時埋めた屍は、全身のあり、頭の無いのや腿の無いのやもありで、鈎の形の道具で引っ張り、穴に投げ、一日にどれだけ埋めたかも一定しなく、ある時は少ししか埋めずに、先ず穴をちゃんと掘るのから始め、屍を埋める仕事はわたしは何か月もやって、翌年の秋までかかりました。
 屍を埋めるのをやったのは崇善会もそうでした。その団体は洪武路を曲がって入って行った大きな門の中にあって、そこが屍を埋めた情況ははっきりは分かりません。(周子廉と楊正元が記録)

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編『この事実を……』(加藤実訳、星雲社、2000年)pp.416-417


南京市崇善堂報告書《南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表》付属文書

付属文書 一
本堂は、同胞の惨殺死体がいたるところに散乱しているのを悼み、特別に崇字埋葬隊を組織し、紅卍字会と協力した。紅卍字会は市西部の埋葬を担当し、本堂は市東部の埋葬を担当した。(以下略)

〔『侵華日軍南京大屠殺档案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』p.277


長生慈善会主席舒敦甫が補助金支給を要求して南京市政監督公署に出した報告書

一九三九年一月二十一日(抄)
「昨年の南京事件では、死骸がいたるところに散乱して悲惨なること見るに忍びず、我が会は乙級板材百余点を崇善堂、紅卍字会慈善団体の埋葬隊と地方人士の求めに応じて支給し、すでになくなってしまいました。また甲級材の半掛け売り七十余点もすべて無料支給する結果となりました。」

〔『侵華日軍南京大屠殺档案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』p.281

『南京市政府 行政統計報告 民国二十四年度』

南京市公益慈善団体一覧表

南京市公益慈善団体一覧表101

南京市公益慈善団体一覧表102

『南京市政府 行政統計報告 民国二十四年度』(秘書処統計室編印、民国二十六年四月出版)pp.101-102

『南京市政概況(民国二十七年)』

南京市慈善団体調査表

南京市慈善団体調査表

『南京市政概況(民国二十七年)』(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)P33-34


埋葬隊の組織

P149
P147
埋葬隊の組織2(『南京市政概況 民国二十七年』P149)
埋葬隊の組織1(『南京市政概況 民国二十七年』P147)

『南京市政概況(民国二十七年)』(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)pp.147-149


訳文(阿羅健一氏による)

埋葬隊の組織
埋葬 事変の後、城壁の内外いたるところに屍体があった。最初、自治委員会救済課、現在は紅卍字会が埋葬に尽力したが、いたるところ荒地となって遺漏を免れない。埋葬隊はもとの十六人に戻った。屍体とまだ埋めていない棺を埋めるため人をやった。城内の無縁仏の墓と修理すべき墓の数を詳しく調べると二万六千四百余ある。これらは修理した。城内いたるところに縁故者の棺が安置されている。期限を決めて埋めた。無縁仏は中華門の外にある安里堂に運んで埋めた。五月、六月のことであった。修理すべき墓は石灰で強固にした。合計千四百七十余であった。年末までさらに百余体を埋葬し、千余の墓を修理した。民国二十七年の五月から十二月まで埋葬した棺と屍体及び修理した墓の統計表は次の通りである。
棺の手配 無縁仏の死体が見つかると、いつも孝善導で棺材を求め、城外に運んで埋葬した。後に振務委員会が埋葬費の項目で五百元を支出し、棺百個を備えて援助した。

「架空だった南京大虐殺の証拠」阿羅健一 『正論』1985年10月号pp.173-174


二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表

二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表(『南京市政概況 民国27年』P148)

『南京市政概況(民国二十七年)』(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)p.148


南京安全区国際委員会


第六号文書(Z9)

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十七日
南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う
(略)
 この回答にもとづき、当方は警官に進んで職務につくことをすすめ、当方から日本軍将校に事情を説明したから住民はこれでよい待遇をうけることになると彼らに保証し、また米の移送をはじめました。ところが、西洋人が乗車していないトラックが路上に出ると、必ず徴発をうけております。火曜日の朝、紅卍字会(当委員会の指示に従って仕事をしている団体)がトラックを出して遺体を収容しようとすると、トラックが奪われたり奪われる寸前の破目になったりしており、昨日は一四人の労務者が連行されました。 当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる死後は正規の警察官----昼夜兼行で部署についていた----よりも大きいように見えました。)これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカウトといったようなものでした。十四日に当方の四台の消防自動車が日本兵によって徴発され、輸送用に使われました。
(略)
委員長 ジョン・ラーベ
(略)

『日中戦争史資料9』pp.125-126


第十七号文書(Z28)

南京
一九三八年一月七日
南京日本大使館 福田篤泰殿
(略)
 当委員会は主として救援組織であり、いや救援組織に過ぎないと言ってもよいでしょう。それも、戦争の被害を受けた住民の世話をするという特殊な目的のために作られたものです。いたるところで被災者の状態がきわめて悲惨なために、同情や憐れみをひき起しているということが認められています。同様な目的の委員会がこの危機状態のなかでいくつかできており、そのひとつの上海委員会に対して、松井大将は自ら一万ドルの寄付をされ、これによって、日本軍最高当局はこのような委員会の活動に対し賛意を表明されました。
 当委員会に寄付された資金と物資は、特に前述したような目的のために使用することを委任されたものですから、なおさらのこと全力をつくして、この信頼にそわねばならないという義務があるように思います。ですから、当委員会の資金や物資を他の委員会に譲るべきではないと思います。当委員会は、現在、紅卍字会や赤十字会と協力してやっているように、他の組織と喜んで協力して救援活動をしていくつもりです。しかし、物資の活用については、当委員会が全面的に責任を負うべきです。貴下もこうした立場が理にかなったものであることをきっとわかって下さると思います。
 さらに、当委員会の資金や物資は、実際の需要に比べれば非常に少ないと言えます。当委員会にできることは、せいぜいほんの補い程度にすぎず、さらに大きく適切な計画を自治委員会の方で進めてくれるものと、私も希望しています。現在、紅卍字会および赤十字会がやっていることと同じように、当委員会にできることはわずかですが、自治委員会は当委員会や先にあげた二つの組織のどれよりもはるかに多くの仕事をすることを信じています。日本軍当局が、現在以上に自治委員会と協力して、難民に食物や燃料を供給することも希望します。たとえそうなって、全機関が努力を結集したところで、ほとんど必要には追いつかないでしょう。
(署名) 委員長 ジョン・H・D・ラーべ

『日中戦争史資料9』pp.139-140


南京救済国際委員会報告書

Report of The Nanking International Relief Committee
W. Work Relief
Period T
Appropriations were made in the form of cash plus some wheat, for wages of workers on approved projects. The direct expenditure on work relief in money was $7,662 of which only $158 was used for field staff and servants, and less than 3 per cent for materials. Several of the larger projects were in the form of subsideies to other organizations or institutions, with which they provided the supervision and materials, subject to the International Committee's approval of detailed budgets and its inspection at will. For example, $2,540 was used to complete the necessary burial enterprises undertaken by the Red Swastika Society, which covered over 40,000 bodies otherwise uncared for During some 40 working days, this employed nearly 170 men. On this and a number of other work relief jobs, forty cents per day of actual work was taken as the standard wage. Other important projects included over $1,500 in sanitary and street cleaning work under the Committee's own management of casual labor; $1,430 in grading undertaken by the Univercity of Nanking; some hundreds each in dyke work labor on farms otherwise uncultivated, road repair, and the transport and cleaning of the Committee's large purchase and distribution of wheat.
Over 18,000 wage-days were paid for in cash, representing approximately the employment of 720 men for a month. The Committee would have been willing to expend more in work relief if it had been able to securre the time and any of sufficiently competent managers, within or without its own organization. However, it must be recognized that in a situation of general distress for an emergency period, work relief is relatively costly and gives direct benefit to a small number of people unless vast public resoures are available.

『Eyewitnesses to massacre』 pp.426-427

太字部分の訳:たとえば必要な埋葬事業の全てが紅卍字会によって行われ、放置されたままの遺体四万体以上が片付けられたが、その埋葬完了のために二五四〇ドルが使われた。実働約四十日間に紅卍字会はおよそ一七〇人を雇った。この仕事や他の多くの救済活動の仕事は実働一日あたり四〇セントの標準賃金で請け負われた。(『「南京虐殺」の徹底検証』 p.313)


残留外国人


ベイツ

マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)、1897年5月28日、オハイオ州ニューアークで生れる。事件当時は金陵大学歴史学教授、南京安全区国際委員会のメンバー。

南京における救済状況 シール・ベイツ 一九三八年二月十四日

2 他機関との折衝ならびに協力
われわれの救済事業はすべて、南京安全区に組織された国際委員会のもとで行われている。一月下旬以後、難民人口の五分の二が彼らの家に帰ったことにより、安全区と市の他地域とのはっきりした区別 が相殺された。したがって、国際委員会は、特定地域の委員会としてでなく、純粋に私的な救済組織として活動を続けることになった。
当初から委員会は、中国赤十字社の地方組織と大きな無料食堂の運営において、素晴らしい協力を行ってきた。そして紅卍字会とは二つの大きな無料食堂の活動と死体埋葬活動において、協力してきた。この後者の役目は簡単なものではなかった。彼らが一日に二百体埋葬しても、まだ埋葬すべき三万体があることがわかっている(ほとんどが下関)。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』p.174 


ボートリン

ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin)、1886年9月27日、イリノイ州セコール生れ。事件当時、金陵女子大学学長、国際赤十字南京分会所属

日記(抜粋)

(1938年)
一月二九日 土曜日
 ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ−クラブに行くと言ってきかなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は二〇〇〇体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬してほしいと懇請した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。

二月二日 水曜日
 この訪問のあとにわたしは紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体----とりわけ、二つの池の岸に放置された焼け焦げ死体のことを伝えた。〔南京〕占拠以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に納めてきたのだ。

二月一五日 火曜日
 南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ三万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、きょうの午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまった−−−−渡河しようにも船がなかった−−−−という別 の情報を聞いた。何とかわいそうに。

二月二五日 金曜日
 きょうの午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこでわたしは、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員がいまも追われている場面 を目撃した。むしろにくるまれて壕のなかに置かれた、というよりは引きずり込まれた死体だ。臭気がとてもひどいので、いまでは作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。

二月二八日 月曜日
 兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の一人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。

四月 二日
 きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。

四月六日
 国際委員会は救済事業を推進している。二〇〇人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

四月一五日
 紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた----彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三河の地域は含まれていない。

『南京事件の日々』pp.143-240


ラーベ

ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe)、1882年11月23日、ハンブルクで生れる。事件当時は、シーメンス南京支社長、ナチ党党員、南京安全区国際委員会の委員長。

日記(抜粋)

(1937年)
十二月十六日
 下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通 部は中国人の手で焼きはらわれていた。?江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯 は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会が手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。

十二月二十六日 十七時
 そこいらじゅうに転がっている死体、どうかこれを片づけてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を十日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。

(1938年)
一月七日
 南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。

二月七日
 紅卍字会の使用人二人に案内されて、午前中、ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げこまれたのだ。近くのもうひとつの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。

二月十五日
 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。

『南京の真実』pp.121-254


ヒトラーへの上申書中の講演草稿 ジョン・ラーベ

 あの十二月の日々(クリスマス前後がいちばんひどかったのですが)、私たちは文字通 り屍を乗り越えて進んでいきました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通 りに放り出されていました。十二月十三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。
 このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられるますが、このへんでやめておきます。
 中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。 

『南京の真実』p.317

 


スマイス

ルイス・ストロング・キャシー・スマイス(Lewis Strong Casey Smythe)、1901年1月31日、ワシントンDCで生れる。事件当時は、南京安全区国際委員会の幹事を務め、市民保護に従事した。

現在の状況に関するメモ 一九三八年三月二一日付

記録
一九三八年三月二一日付
作成者−南京国際救済委員会(スマイス)

死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般 市民であると見積もっている。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.233


ウィルソン

ロバート・O・ウィルソン(Robert O. Wilson)、1906年10月5日、南京生まれ。プリンストン大学進学、1929年ハードフォード医学院で医学博士を取得。1936年、南京市・金陵大学病院に勤務。事件時、国際赤十字南京委員会に所属、多くの被害者の治療にあたった。


家族への手紙 1938年5月7日

原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]

[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。


ドイツ大使館


シャルフェンベルク

パウル・シャルフェンベルク(Paul Scharfenberg)、1873年生まれ。南京大使館分館、事務長。(『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』より)

漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録 一九三八年二月十日

 というわけで、この点では状況はよくなり始めている。紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。ラーベはこれを目撃したという。私はといえば、日本兵たちがその沼で飯盒に水を汲んでいくのを一度ならず見た覚えがある。どうぞお上がり下さい!暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。

『南京の真実』 p.247


ローゼン

ゲオルク・ローゼン(Georg Rosen)、1895年9月14日、イラン、シルヴァンに生れる。父フリードリッヒ、祖父ゲオルグはともに著名な東洋学者であり、父は外務大臣を務めた。1917年、第一世界大戦で西部戦線へ志願兵として従軍した。1921年、学業を修了し、博士号を取得、外交官となる。事件当時は、ドイツ南京大使館分館書記官。(参考:『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、wikipedia ローゼン項


南京の状況 ローゼン

報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
写し二

 紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通 り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量 処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路のなかに見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い街角にさえ)何週間も散らばったままである。
(略)
 外国人の個人的な移動の自由は、本年一月一五日付報告(二七二二/一〇〇二/三八)で触れた本郷少佐が突然解任され、もっと適任な将校である広田中佐に替わったあと、とくに拡大した。私はまだ憲兵の同行なしに外出することは許されていないが、少なくとも日に一、二時間は、紫金山の山腹に連なる郊外の森に出かけることができる。まだ埋葬されていない中国兵(の死体)の散乱する、見捨てられた陣地にうっかり足を踏みいれることさえなければ、のんびりと静養できるのだが。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P218〜221


日本側史料


南京特務機関報告書

南京班第二回報告(二月中状況)

四、市街清掃
(一)清掃隊の編成
(略)

(二)紅卍字会の屍体埋葬
紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約六百名)は一月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙けつつあり

『華中宣撫工作資料 十五年戦争極秘資料集 第13集』不二出版 1989年 p.153


南京班第三回報告(三月中状況)

六、市街清掃
(一)自治委員会にて清掃隊を編成せしむ
(略)
(二)屑鉄の蒐集
(略)

(三)紅卍字会の屍体収容
本会の屍体収容工作開始以来既に三ヶ月黙々として其■清に当りつつある点真に賞讃に価すへく而も何等訴へる事無く遂に彼等全額の準備金は既に消費し蓋し最近に至り初めて行動不能の域に達したる旨の■願あり
尚各城外地区に散在せる屍体も少からす然して積極的作業に取かかりたる結果著■の成績を挙け三月十五日現在を以て既に城内より一、七九三、城外より二九、九九八計三一、七九一体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり
春暖に伴れ更に収容埋葬に■数を要する事となり疫病の発生其の他を考慮して極力其方策に対し講究中なるか既に紅卍字会のみの資力にては到底至難の業たる事も明白となり何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり現在使用中のトラック毎日五―六両人夫二―三百名を要し既にガソリンの補給並人夫賃捻出も同会にては其方途無き迄に立至る
然して右収容開始以来同会の費消せし金額は一万一千一百七拾五元に及尚埋葬と称するも只アンペラ包の儘該地区一帯に大部分は放置しある状況にして、埋葬済み以前の屍体の土盛並墓地の消毒作業は絶対的な必要条件と思考せらる同会作成の予算表に依れは右経費八千九百五拾元を計上しあるも同会としての今後の活動は全く不可能の域に到達したる為右経費援助に関し目下研究中にあり

『華中宣撫工作資料 十五年戦争極秘資料集 第13集』不二出版 1989年 p.164


『大阪朝日新聞』北支版 昭和13年4月16日

東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)

南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』

 戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。

 そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。

 防疫方面についてはわが現地当局者間に防疫委員会が生れ、十月には大掃除を市内全部にわたって行ふが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ、所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立札を立てたり、ドブを埋めたり、死体を収容したり、相当努力をしてをり、将来は「防疫病院」の設立、衛生事務所(衛生組合のやうなもの)の設置、種痘施行その他を企画してゐる。

『日中戦争史資料8』p.393


南京市公益慈善団体一覧表

南京市公益慈善団体一覧表

『南京』(南京日本商工会議所、1941年)P231-233

 


その他


東京裁判 検察側最終論告

第三七六号(昭和二十三年二月十八日)(抄)
E 検察側最終論告(一)
J−61
一九三七年十二月十三日、南京が陥落した時、同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました(a)。同市に入城した日本兵は街路に居た民間人達を無差別 に射撃しました(b)。一度、日本軍が同市を完全に支配するや、強姦・殺戮・拷問及掠奪への耽溺が始まり、それが六週間続きました。最初の二、三日間に二万以上の人々が日本軍に依り即座に死刑に処せられました(c)。六週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、二十六万乃至三十万で、全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります(d)。この概数の正確性は紅卍字会と崇善堂の記録がこの二つの団体で十五万五千以上の死体を埋葬したことを示してゐる事実に依って示されて居ります(e)。六週間の同期間に於て二万名を下らざる婦人と少女は日本軍に強姦されたのであります(f)。

『日中戦争史資料8』p.300


紅卍字会12月28日埋葬に関する洞富雄の見解

 以上で、田中正明氏のあげた四つの疑点に対する批判をおえたが、氏はまた、紅卍字会の埋葬隊の埋葬数についても、疑義をただそうとするのである。田中氏はこう言う。

《それでは紅卍字会の埋葬数は信用できるかというと、これまた信憑性に欠ける。一日平均五〇体前後を処理していたものが、十二月二十八日になるとガゼン六、四六八という数字が出てくる。しかもこの欄にかぎって埋葬場所も、死体のあった場所も、納棺の有無も書いてない。空欄にポツンと(男)六、四六六、(女ゼロ)、計六四六八と数字だけがあるのみである。マギー日記(?)によると、二十八日は珍しく朝から大雪になったとある。大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない》(『虚構』三二八ページ)

 ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている六四六八体の埋葬例であるが、これについては、一九八四年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市档案館に収蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の八文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。「下関江辺推下江内」は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味するものと思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、舟で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字をかくしたのは、そこには、便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。
 次に十二月二十八日という「大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない」という難点であるが、水葬は土葬とはちがって処理がたやすかったことを見おとしてはなるまい。
 それに、約六、〇〇〇体は一日の処理数ではなかったということが考えられはしないか。この件の前の二八〇体埋葬は十二月二十二日のことであるから、二十八日まで、あいだに五日間の空白がある。その五日間、埋葬隊は遺体処理の仕事を休んでいたわけではあるまい。死体処理場所が同一だったので、六日分を一括して十二月二十八日分として記録したのかもしれないのである。

『南京大虐殺の証明』 p.82-83


参考資料

  • 『日中戦争史資料8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行)
  • 『日中戦争史資料9 南京事件2』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月30日初版発行)
  • 『南京事件を考える』藤原彰・本多勝一・洞富雄編著、大月書店
    (1987年8月20日第1刷発行、1988年6月30日第2刷発行)
  • 『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『南京事件資料集2 中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『南京の真実』ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳、講談社
    (1997年10月9日第1刷発行)
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道、展転社
    (平成10年8月5日第1刷発行)
  • 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房
    (1999年10月25日第1刷発行)
  • 『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』岡田良之助・伊原陽子訳、大月書店
    (1999年11月19日第1刷発行、2000年7月3日第2刷発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)
  • 『Eyewitnesses to massacre』 Zhang Kaiyuan編、M.E. Sharpe
    (2001年刊行)