(『侵華日軍南京大屠殺档案』より) 『南京事件資料集2中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992年 pp.270-273
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
P149 |
P147 |
『南京市政概況(民国二十七年)』(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)pp.147-149
埋葬隊の組織
埋葬 事変の後、城壁の内外いたるところに屍体があった。最初、自治委員会救済課、現在は紅卍字会が埋葬に尽力したが、いたるところ荒地となって遺漏を免れない。埋葬隊はもとの十六人に戻った。屍体とまだ埋めていない棺を埋めるため人をやった。城内の無縁仏の墓と修理すべき墓の数を詳しく調べると二万六千四百余ある。これらは修理した。城内いたるところに縁故者の棺が安置されている。期限を決めて埋めた。無縁仏は中華門の外にある安里堂に運んで埋めた。五月、六月のことであった。修理すべき墓は石灰で強固にした。合計千四百七十余であった。年末までさらに百余体を埋葬し、千余の墓を修理した。民国二十七年の五月から十二月まで埋葬した棺と屍体及び修理した墓の統計表は次の通りである。
棺の手配 無縁仏の死体が見つかると、いつも孝善導で棺材を求め、城外に運んで埋葬した。後に振務委員会が埋葬費の項目で五百元を支出し、棺百個を備えて援助した。
「架空だった南京大虐殺の証拠」阿羅健一 『正論』1985年10月号pp.173-174
『南京市政概況(民国二十七年)』(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)p.148
南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十七日
南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う
(略)
この回答にもとづき、当方は警官に進んで職務につくことをすすめ、当方から日本軍将校に事情を説明したから住民はこれでよい待遇をうけることになると彼らに保証し、また米の移送をはじめました。ところが、西洋人が乗車していないトラックが路上に出ると、必ず徴発をうけております。火曜日の朝、紅卍字会(当委員会の指示に従って仕事をしている団体)がトラックを出して遺体を収容しようとすると、トラックが奪われたり奪われる寸前の破目になったりしており、昨日は一四人の労務者が連行されました。
当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる死後は正規の警察官----昼夜兼行で部署についていた----よりも大きいように見えました。)これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカウトといったようなものでした。十四日に当方の四台の消防自動車が日本兵によって徴発され、輸送用に使われました。
(略)
委員長 ジョン・ラーベ
(略)
『日中戦争史資料9』pp.125-126
南京
一九三八年一月七日
南京日本大使館 福田篤泰殿
(略)
当委員会は主として救援組織であり、いや救援組織に過ぎないと言ってもよいでしょう。それも、戦争の被害を受けた住民の世話をするという特殊な目的のために作られたものです。いたるところで被災者の状態がきわめて悲惨なために、同情や憐れみをひき起しているということが認められています。同様な目的の委員会がこの危機状態のなかでいくつかできており、そのひとつの上海委員会に対して、松井大将は自ら一万ドルの寄付をされ、これによって、日本軍最高当局はこのような委員会の活動に対し賛意を表明されました。
当委員会に寄付された資金と物資は、特に前述したような目的のために使用することを委任されたものですから、なおさらのこと全力をつくして、この信頼にそわねばならないという義務があるように思います。ですから、当委員会の資金や物資を他の委員会に譲るべきではないと思います。当委員会は、現在、紅卍字会や赤十字会と協力してやっているように、他の組織と喜んで協力して救援活動をしていくつもりです。しかし、物資の活用については、当委員会が全面的に責任を負うべきです。貴下もこうした立場が理にかなったものであることをきっとわかって下さると思います。
さらに、当委員会の資金や物資は、実際の需要に比べれば非常に少ないと言えます。当委員会にできることは、せいぜいほんの補い程度にすぎず、さらに大きく適切な計画を自治委員会の方で進めてくれるものと、私も希望しています。現在、紅卍字会および赤十字会がやっていることと同じように、当委員会にできることはわずかですが、自治委員会は当委員会や先にあげた二つの組織のどれよりもはるかに多くの仕事をすることを信じています。日本軍当局が、現在以上に自治委員会と協力して、難民に食物や燃料を供給することも希望します。たとえそうなって、全機関が努力を結集したところで、ほとんど必要には追いつかないでしょう。
(署名) 委員長 ジョン・H・D・ラーべ
『日中戦争史資料9』pp.139-140
Report of The Nanking International Relief Committee
W. Work Relief
Period T
Appropriations were made in the form of cash plus some wheat,
for wages of workers on approved projects. The direct expenditure
on work relief in money was $7,662 of which only $158 was used
for field staff and servants, and less than 3 per cent for materials.
Several of the larger projects were in the form of subsideies
to other organizations or institutions, with which they provided
the supervision and materials, subject to the International
Committee's approval of detailed budgets and its inspection
at will. For example, $2,540 was used to complete the
necessary burial enterprises undertaken by the Red Swastika
Society, which covered over 40,000 bodies otherwise uncared
for During some 40 working days, this employed nearly 170 men.
On this and a number of other work relief jobs, forty cents
per day of actual work was taken as the standard wage.
Other important projects included over $1,500 in sanitary and
street cleaning work under the Committee's own management of
casual labor; $1,430 in grading undertaken by the Univercity
of Nanking; some hundreds each in dyke work labor on farms otherwise
uncultivated, road repair, and the transport and cleaning of
the Committee's large purchase and distribution of wheat.
Over 18,000 wage-days were paid for in cash, representing approximately
the employment of 720 men for a month. The Committee would have
been willing to expend more in work relief if it had been able
to securre the time and any of sufficiently competent managers,
within or without its own organization. However, it must be
recognized that in a situation of general distress for an emergency
period, work relief is relatively costly and gives direct benefit
to a small number of people unless vast public resoures are
available.
『Eyewitnesses to massacre』 pp.426-427
太字部分の訳:たとえば必要な埋葬事業の全てが紅卍字会によって行われ、放置されたままの遺体四万体以上が片付けられたが、その埋葬完了のために二五四〇ドルが使われた。実働約四十日間に紅卍字会はおよそ一七〇人を雇った。この仕事や他の多くの救済活動の仕事は実働一日あたり四〇セントの標準賃金で請け負われた。(『「南京虐殺」の徹底検証』 p.313)
マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)、1897年5月28日、オハイオ州ニューアークで生れる。事件当時は金陵大学歴史学教授、南京安全区国際委員会のメンバー。
2 他機関との折衝ならびに協力
われわれの救済事業はすべて、南京安全区に組織された国際委員会のもとで行われている。一月下旬以後、難民人口の五分の二が彼らの家に帰ったことにより、安全区と市の他地域とのはっきりした区別
が相殺された。したがって、国際委員会は、特定地域の委員会としてでなく、純粋に私的な救済組織として活動を続けることになった。
当初から委員会は、中国赤十字社の地方組織と大きな無料食堂の運営において、素晴らしい協力を行ってきた。そして紅卍字会とは二つの大きな無料食堂の活動と死体埋葬活動において、協力してきた。この後者の役目は簡単なものではなかった。彼らが一日に二百体埋葬しても、まだ埋葬すべき三万体があることがわかっている(ほとんどが下関)。
『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』p.174
ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin)、1886年9月27日、イリノイ州セコール生れ。事件当時、金陵女子大学学長、国際赤十字南京分会所属
(1938年)
一月二九日 土曜日
ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ−クラブに行くと言ってきかなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は二〇〇〇体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬してほしいと懇請した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。
二月二日 水曜日
この訪問のあとにわたしは紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体----とりわけ、二つの池の岸に放置された焼け焦げ死体のことを伝えた。〔南京〕占拠以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に納めてきたのだ。
二月一五日 火曜日
南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ三万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、きょうの午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまった−−−−渡河しようにも船がなかった−−−−という別
の情報を聞いた。何とかわいそうに。
二月二五日 金曜日
きょうの午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこでわたしは、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員がいまも追われている場面
を目撃した。むしろにくるまれて壕のなかに置かれた、というよりは引きずり込まれた死体だ。臭気がとてもひどいので、いまでは作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。
二月二八日 月曜日
兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の一人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。
四月 二日
きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。
四月六日
国際委員会は救済事業を推進している。二〇〇人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。
四月一五日
紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた----彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三沙河の地域は含まれていない。
『南京事件の日々』pp.143-240
ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe)、1882年11月23日、ハンブルクで生れる。事件当時は、シーメンス南京支社長、ナチ党党員、南京安全区国際委員会の委員長。
(1937年)
十二月十六日
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通
部は中国人の手で焼きはらわれていた。?江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯
は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会が手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。
十二月二十六日 十七時
そこいらじゅうに転がっている死体、どうかこれを片づけてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を十日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。
(1938年)
一月七日
南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。
二月七日
紅卍字会の使用人二人に案内されて、午前中、ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げこまれたのだ。近くのもうひとつの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。
二月十五日
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
『南京の真実』pp.121-254
あの十二月の日々(クリスマス前後がいちばんひどかったのですが)、私たちは文字通
り屍を乗り越えて進んでいきました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通
りに放り出されていました。十二月十三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。
このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられるますが、このへんでやめておきます。
中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。
『南京の真実』p.317
ルイス・ストロング・キャシー・スマイス(Lewis Strong Casey Smythe)、1901年1月31日、ワシントンDCで生れる。事件当時は、南京安全区国際委員会の幹事を務め、市民保護に従事した。
記録
一九三八年三月二一日付
作成者−南京国際救済委員会(スマイス)
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般
市民であると見積もっている。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.233
ロバート・O・ウィルソン(Robert O. Wilson)、1906年10月5日、南京生まれ。プリンストン大学進学、1929年ハードフォード医学院で医学博士を取得。1936年、南京市・金陵大学病院に勤務。事件時、国際赤十字南京委員会に所属、多くの被害者の治療にあたった。
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly
burying bodies from all parts of the city outside the zone
and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted
in cold blood is somewhere about 100,000, including of course
thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann
Arbor Paperbacks, 2002, P254]
[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。
パウル・シャルフェンベルク(Paul Scharfenberg)、1873年生まれ。南京大使館分館、事務長。(『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』より)
というわけで、この点では状況はよくなり始めている。紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。ラーベはこれを目撃したという。私はといえば、日本兵たちがその沼で飯盒に水を汲んでいくのを一度ならず見た覚えがある。どうぞお上がり下さい!暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。
『南京の真実』 p.247
ゲオルク・ローゼン(Georg Rosen)、1895年9月14日、イラン、シルヴァンに生れる。父フリードリッヒ、祖父ゲオルグはともに著名な東洋学者であり、父は外務大臣を務めた。1917年、第一世界大戦で西部戦線へ志願兵として従軍した。1921年、学業を修了し、博士号を取得、外交官となる。事件当時は、ドイツ南京大使館分館書記官。(参考:『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、wikipedia ローゼン項)
報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
写し二
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通
り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量
処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路のなかに見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い街角にさえ)何週間も散らばったままである。
(略)
外国人の個人的な移動の自由は、本年一月一五日付報告(二七二二/一〇〇二/三八)で触れた本郷少佐が突然解任され、もっと適任な将校である広田中佐に替わったあと、とくに拡大した。私はまだ憲兵の同行なしに外出することは許されていないが、少なくとも日に一、二時間は、紫金山の山腹に連なる郊外の森に出かけることができる。まだ埋葬されていない中国兵(の死体)の散乱する、見捨てられた陣地にうっかり足を踏みいれることさえなければ、のんびりと静養できるのだが。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P218〜221
四、市街清掃
(一)清掃隊の編成
(略)
(二)紅卍字会の屍体埋葬
紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約六百名)は一月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙けつつあり
『華中宣撫工作資料 十五年戦争極秘資料集 第13集』不二出版 1989年 p.153
六、市街清掃
(一)自治委員会にて清掃隊を編成せしむ
(略)
(二)屑鉄の蒐集
(略)
(三)紅卍字会の屍体収容
本会の屍体収容工作開始以来既に三ヶ月黙々として其■清に当りつつある点真に賞讃に価すへく而も何等訴へる事無く遂に彼等全額の準備金は既に消費し蓋し最近に至り初めて行動不能の域に達したる旨の■願あり
尚各城外地区に散在せる屍体も少からす然して積極的作業に取かかりたる結果著■の成績を挙け三月十五日現在を以て既に城内より一、七九三、城外より二九、九九八計三一、七九一体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり
春暖に伴れ更に収容埋葬に■数を要する事となり疫病の発生其の他を考慮して極力其方策に対し講究中なるか既に紅卍字会のみの資力にては到底至難の業たる事も明白となり何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり現在使用中のトラック毎日五―六両人夫二―三百名を要し既にガソリンの補給並人夫賃捻出も同会にては其方途無き迄に立至る
然して右収容開始以来同会の費消せし金額は一万一千一百七拾五元に及尚埋葬と称するも只アンペラ包の儘該地区一帯に大部分は放置しある状況にして、埋葬済み以前の屍体の土盛並墓地の消毒作業は絶対的な必要条件と思考せらる同会作成の予算表に依れは右経費八千九百五拾元を計上しあるも同会としての今後の活動は全く不可能の域に到達したる為右経費援助に関し目下研究中にあり
『華中宣撫工作資料 十五年戦争極秘資料集 第13集』不二出版 1989年 p.164
東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)
南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』
戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。
そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。
防疫方面についてはわが現地当局者間に防疫委員会が生れ、十月には大掃除を市内全部にわたって行ふが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ、所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立札を立てたり、ドブを埋めたり、死体を収容したり、相当努力をしてをり、将来は「防疫病院」の設立、衛生事務所(衛生組合のやうなもの)の設置、種痘施行その他を企画してゐる。
『日中戦争史資料8』p.393
『南京』(南京日本商工会議所、1941年)P231-233
第三七六号(昭和二十三年二月十八日)(抄)
E 検察側最終論告(一)
J−61
一九三七年十二月十三日、南京が陥落した時、同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました(a)。同市に入城した日本兵は街路に居た民間人達を無差別
に射撃しました(b)。一度、日本軍が同市を完全に支配するや、強姦・殺戮・拷問及掠奪への耽溺が始まり、それが六週間続きました。最初の二、三日間に二万以上の人々が日本軍に依り即座に死刑に処せられました(c)。六週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、二十六万乃至三十万で、全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります(d)。この概数の正確性は紅卍字会と崇善堂の記録がこの二つの団体で十五万五千以上の死体を埋葬したことを示してゐる事実に依って示されて居ります(e)。六週間の同期間に於て二万名を下らざる婦人と少女は日本軍に強姦されたのであります(f)。
『日中戦争史資料8』p.300
以上で、田中正明氏のあげた四つの疑点に対する批判をおえたが、氏はまた、紅卍字会の埋葬隊の埋葬数についても、疑義をただそうとするのである。田中氏はこう言う。
《それでは紅卍字会の埋葬数は信用できるかというと、これまた信憑性に欠ける。一日平均五〇体前後を処理していたものが、十二月二十八日になるとガゼン六、四六八という数字が出てくる。しかもこの欄にかぎって埋葬場所も、死体のあった場所も、納棺の有無も書いてない。空欄にポツンと(男)六、四六六、(女ゼロ)、計六四六八と数字だけがあるのみである。マギー日記(?)によると、二十八日は珍しく朝から大雪になったとある。大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない》(『虚構』三二八ページ)
ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている六四六八体の埋葬例であるが、これについては、一九八四年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市档案館に収蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の八文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。「下関江辺推下江内」は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味するものと思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、舟で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字をかくしたのは、そこには、便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。
次に十二月二十八日という「大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない」という難点であるが、水葬は土葬とはちがって処理がたやすかったことを見おとしてはなるまい。
それに、約六、〇〇〇体は一日の処理数ではなかったということが考えられはしないか。この件の前の二八〇体埋葬は十二月二十二日のことであるから、二十八日まで、あいだに五日間の空白がある。その五日間、埋葬隊は遺体処理の仕事を休んでいたわけではあるまい。死体処理場所が同一だったので、六日分を一括して十二月二十八日分として記録したのかもしれないのである。
『南京大虐殺の証明』 p.82-83
|
参考資料
|