埋葬表 第二隊第二隊月別統計表
『南京事件資料集2 中国関係資料編』pp.263-268
|
\年別 施棺\ |
二七年 (一月至四月) |
二十七年 ( 五月至十二月) |
二十八年 |
二十九年 |
共計 |
男屍 |
八、七九五 |
一七一 |
一五二 |
三〇六 |
九、四二四 |
女屍 |
一三六 |
一〇 |
四五 |
九四 |
二八四 |
孩屍 |
一八五 |
二〇 |
五二六 |
三五九 |
一、〇九〇 |
修攻 |
四、二三八 |
三、九〇一 |
一、〇二五 |
九、一六四 |
|
露棺 |
二四八 |
一八八 |
一〇一 |
一五一 |
六八八 |
屍骨 |
二四 |
六、七七四 |
六、七九八 |
||
火葬 |
八 |
五 |
一三 |
||
施材 |
二六三 |
五〇二 |
七六五 |
二、援埋隊屍棺及火葬修墓施棺統計表(昭和十五年度)
\類枌 月別\ |
男屍 |
女屍 |
孩屍 |
露骨 |
火葬 |
修墓 |
施宰 |
一月 |
一九 |
四 |
九 |
二二 |
一 |
一二六 |
二六 |
二月 |
二五 |
四 |
一三 |
四 |
一 |
六六 |
三五 |
三月 |
二三 |
二 |
一六 |
六 |
一八四 |
六 |
|
四月 |
二一 |
七 |
一五 |
三 |
四九 |
三四 |
|
五月 |
二二 |
七 |
八 |
八 |
六三 |
三九 |
|
六月 |
三七 |
九 |
一七 |
二 |
四三 |
五一 |
|
七月 |
二一 |
一三 |
四八 |
二 |
一一七 |
四〇 |
|
八月 |
二一 |
九 |
四八 |
一 |
一 |
八七 |
三一 |
九月 |
一三 |
一〇 |
四六 |
一 |
一 |
八七 |
三二 |
十月 |
六 |
七 |
六八 |
三八 |
一 |
九四 |
六五 |
十一月 |
一七 |
一〇 |
四八 |
六〇 |
四三 |
二九 |
|
十二月 |
五九 |
一二 |
二三 |
四 |
六六 |
七三 |
|
総計 |
三〇六 |
九四 |
三五九 |
一五一 |
五 |
一、〇二五 |
五〇二 |
『南京市概況』南京特務機関調製 一九四二年三月 pp.180-181
一九三九年六月
村民が報告するところによると、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯に三千体余りの遺骨があり、埋葬隊が埋葬した。あわせて四〇日間作業してやっと埋葬を完了した。全部で九〇九元の費用がかかった。霊谷寺の東側の空地も埋葬場所として、この骨を埋葬することにした。青れんがを使って、石段のついた円形の大きな墓を作り、外側はセメントで白く塗り、非常に堅固で壮麗なものとなった。高市長自作の「無主孤魂の碑」を墓の前に立てて記念とした。また、五月二八日には供養をおこなった。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕
『南京事件資料集2 中国関係資料編』p.260
草鞋峡の農民代表金国鎮の報告
宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯の白骨は野ざらしになっているので埋葬することを請求した。届け出により経費が許可されたので、財源を都合して埋葬人員四名を率い、二〇名を臨時の人夫として募り、その地に住まわせた。六月十三日から七月六日まで二四日間作業をし、全部で野ざらしの白骨三五七五体を埋葬・改葬した。地勢の比較的高いところで、長江から少し離れたところに大型の墓を一座つくり、碑を建て、記念とした。また男女の死体一二体、子どもの屍体三七体を埋葬し、大きな棺を一二個と小さな棺一個を施した。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕
『南京事件資料集2 中国関係資料編』p.260
特務機関長との会見の覚え書
一九三七年十二月十五日正午、交通銀行において。
通訳 福田氏。(会見は機関長による一方的言明であって、何ら質問も話し合いもおこなわれなかった。それは十二月十四日付のわれわれの手紙にたいする回答であった。手紙は当日の朝、福田氏に手渡され、日本軍隊長に提出されたものである。)
(略)
8 われわれは労務者の確保を切望している。明日から市内の清掃をはじめる。委員会は援助されたい。賃金は払う。明日、一〇〇人ないし二〇〇人の労務者を必要とする。
(略)
南京安全区国際委員会書記
(署名) ルイス・S・C・スミス
会見に出席した委員会のメンバー
委員長 ラーべ氏
書記 スミス博士
監査 スパーリング氏
『日中戦争史資料9』pp.123-124
南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十七日
南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う
(略)
この回答にもとづき、当方は警官に進んで職務につくことをすすめ、当方から日本軍将校に事情を説明したから住民はこれでよい待遇をうけることになると彼らに保証し、また米の移送をはじめました。ところが、西洋人が乗車していないトラックが路上に出ると、必ず徴発をうけております。火曜日の朝、紅卍字会(当委員会の指示に従って仕事をしている団体)がトラックを出して遺体を収容しようとすると、トラックが奪われたり奪われる寸前の破目になったりしており、昨日は一四人の労務者が連行されました。
当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる死後は正規の警察官----昼夜兼行で部署についていた----よりも大きいように見えました。)これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカウトといったようなものでした。十四日に当方の四台の消防自動車が日本兵によって徴発され、輸送用に使われました。
(略)
委員長 ジョン・ラーベ
(略)
『日中戦争史資料9』p.125-126
南京
一九三八年一月七日
南京日本大使館 福田篤泰殿
(略)
当委員会は主として救援組織であり、いや救援組織に過ぎないと言ってもよいでしょう。それも、戦争の被害を受けた住民の世話をするという特殊な目的のために作られたものです。いたるところで被災者の状態がきわめて悲惨なために、同情や憐れみをひき起しているということが認められています。同様な目的の委員会がこの危機状態のなかでいくつかできており、そのひとつの上海委員会に対して、松井大将は自ら一万ドルの寄付をされ、これによって、日本軍最高当局はこのような委員会の活動に対し賛意を表明されました。
当委員会に寄付された資金と物資は、特に前述したような目的のために使用することを委任されたものですから、なおさらのこと全力をつくして、この信頼にそわねばならないという義務があるように思います。ですから、当委員会の資金や物資を他の委員会に譲るべきではないと思います。当委員会は、現在、紅卍字会や赤十字会と協力してやっているように、他の組織と喜んで協力して救援活動をしていくつもりです。しかし、物資の活用については、当委員会が全面的に責任を負うべきです。貴下もこうした立場が理にかなったものであることをきっとわかって下さると思います。
さらに、当委員会の資金や物資は、実際の需要に比べれば非常に少ないと言えます。当委員会にできることは、せいぜいほんの補い程度にすぎず、さらに大きく適切な計画を自治委員会の方で進めてくれるものと、私も希望しています。現在、紅卍字会および赤十字会がやっていることと同じように、当委員会にできることはわずかですが、自治委員会は当委員会や先にあげた二つの組織のどれよりもはるかに多くの仕事をすることを信じています。日本軍当局が、現在以上に自治委員会と協力して、難民に食物や燃料を供給することも希望します。たとえそうなって、全機関が努力を結集したところで、ほとんど必要には追いつかないでしょう。
(署名) 委員長 ジョン・H・D・ラーべ
『日中戦争史資料9』p.139-140
マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)、1897年5月28日、オハイオ州ニューアークで生れる。事件当時は金陵大学歴史学教授、南京安全区国際委員会のメンバー。
第三十六号(昭和二十一年七月二十九日)(抄)
○サトン検察官 日本軍が、南京を支配し始めて後に於ける日本軍の対中華民国民衆の態度は如何でありましたか。
○ベーツ証人 あなたの質問が非常に範囲が大きいので何処から始めて宣いか分りませぬ。自分自身全然理由もなく民間人の個人が銃殺された事件を数々知って居ります。又、中国人で私自身の家から連出され射殺された者もあります。私の隣人の家では彼等の妻が強姦されたので、二人の男が驚いて起きました所、私の家の庭の角にある池の先きで二人とも射殺されました。
(林モニター そして其の池の中へ投げ込まれました)
日本軍入城後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がごろごろして居りました。此の虐殺行為の及ぶ全範囲と云ふものは非常に広いのでありまして、全体のところを申上げることの出来る人は一人も居りませぬ
。我々は安全地帯及び其の附近の地方に付て出来るだけ調査したのであります。「スミス」教授及び私は、色々な調査・観察の結果
、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します。
(林モニター 男女及び子供を含む非戦闘員)
其の他市内で多数殺された者がありますが、我々は其の数を調査することは出来ませぬ 。又、市外でも殺された者が相当居ります。今まで申したことは、中国の兵隊であり或は曾て中国の兵隊であったことのある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。
○サトン検察官 前の兵隊又は兵隊であった者が殺された、どう云う状態で殺されましたか。
○ベーツ証人 中国兵隊の大きな一群は城外の直ぐ外で降伏し、武装を解除され七十二時間後、機銃掃射に依って射殺されたのであります。是は揚子江の畔であります。国際委員会は三万人の兵士の亡骸を葬る為め労働者を雇ったのであります。是は我々の労働救済対策として行ったのであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数へることが出来ませぬ
。
(林モニター 埋められた屍体)
『日中戦争史資料8』p.49
ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch)、1883年、中国蘇洲で生れ。1906年、ウースター・カレッジで文学士号を取得。ニューヨークのユニオン神学校を進学、洗礼を受け牧師となり、上海青年会(YMCA in Shanghai)で働く。事件時は、南京青年会(YMCA in Nanking)の責任者であり、南京安全区国際委員会で市民保護に従事する。
一九三七年(昭和十二年)十二月二十二日、私は私の事務所の東方四分の一哩の地点にある池中に約五十個の死骸を見受けた。孰れも平服を纏ひ、其の中の多くは手を後に縛り上げられ、尚一名は頭の上半部を完全に斬取られて居た。其後私は数百の支那人の死骸を、それ等は殆んどが男で女は少かったが、同様な状態で池中や、街路上や、家の中に見受けた。
吾等の委員会は毎日、日本大使館に残虐行為の報告を出した。
『日中戦争史資料8』 P115
アーネスト・H・フォスター(Ernest H. Forster)、1895年、フィラデルフィア生まれ。1917年、プリンストン大学を卒業。聖公会の宣教師と揚州の馬漢学校へ赴任。1937年11月、南京の聖ポーロ礼拝堂に仕える。妻・クラリッサは、1937年11月漢口へ避難、1938年1月中旬、香港経由で上海に付く。アーネストは、南京滞在中はマギーと過ごした。『この事実を…A』p.185
ジョージへ!
鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかな?もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!
『南京の真実』p.151
ジェームス・ヘンリー・マッカラム(James Henry MaCallum)、1893年11月19日、ワシントン州オリンピア生まれ。1917年、オレゴン大学卒業、1921年、イェール神学校にて神学修士を取得、後にシカゴ神学校で神学修士を取得、ユニオン神学校で博士課程。1921年、中国へ渡航、基督会の伝道、コミュニティーセンターのため安徽省・江西省に在住した。事件当時は、金陵大学病院と難民救済事業に従事した。
一月七日
未だ北夏路の我々の屋敷内には一死体が有ります。他の一死体が我々の南門女子用建物の一階に、又、一死体が「プロパ」氏の囲内にあります。即ち此等の死体は十二月十三日頃、運命に会った。「プライス」氏の庭に生後六ヶ月位
の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。(以下略*)
※ 略箇所
「埋葬許可証は手に入りませんでした。私は自分で病院の地下壕に38以上の死体を埋めました。死体は附近の街路から集め、彼等の大部分は兵隊でした。生命の損失は恐しいものである。凡ゆる年頃の男・女・子供が恐るべき価値を支払った。何故に戦争は斯の様に残忍にならねばならぬ
のか。日本人は支那民衆を夫々の家に帰へして再び商売を始めさせ、日本商品を大量 に持って来るのだと云ひます。外交団体は市政府を樹立する希望を持ってヰる。然し軍は其れを許可しません。(略)」
『日中戦争史資料8』p.125
ルイス・ストロング・キャシー・スマイス(Lewis Strong Casey Smythe)1901年1月31日、ワシントンDCで生れる。1923年、ドレイク大学で法学士号を取得。1927年、シカゴ神学校で修士号を取得。1928年、ユナイテッド・キリスト宣教師教会から南京へ派遣され、南京市の金陵大学で社会学教授を務めた。1937年9月、スマイス夫人と二人の子供は避難させ、自身は南京に留まった。事件当時は、南京安全区国際委員会の幹事を務め、市民保護に従事した。事件直後に学生とともに南京と近郊の戦争被害調査を実施し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。(参考:wikipedia スマイス項、『この事実を…A』pp.426-427)
記録
一九三八年三月二一日付
作成者−南京国際救済委員会(スマイス)
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般
市民であると見積もっている。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.233
1897年、カリフォルニア生まれ。1921年、オレゴン農学院を卒業、同年、以美会(Methodist Board of Missions)より教育宣教師として中国へ派遣される。南京・金陵大学にて植物学を教える。1937年8月、家族で帰国。1938年9月、アルバートのみ南京へ戻る。1943年2月、上海・閘北にて日本軍に捕まり、1945年9月まで拘束される。『この事実を…A』p.549
( Albert N. Steward Excerpts of Diary)
原文:
December 11th.
The Japanese had attacked the city on three sides,but apparently
had left the
side next to the River at Hsiakwan open.When the Chinese soldiers
poured out
that gate to the bank of the River 40,000 or so of them were
mowed down with
machine guns as they entered the trap. On the occasion of
his first trip outside
the city after the occupation Mr. Fitch rode over human bodies
packed to a
depth of 6 ft.or more.Then the Japanese began searching
the city, even inside
the neutral zone,for soldiers in disguise,and any man was
liable to be taken as
such.In most instances such men were taken to the bank
of the River in companies of 100 and shot with machine guns,after which their bodies
were dumped
into the River. In at least two or three cases such groups
of men,tied together
were doused with kerosene and burned alive.Altogether, it
is estimated that 60-70,000 people lost their lives when the city fell into the
hands of the Japanese.
[Zhang Kaiyuan "Eyewitnesses To Massacre", An East
Gate, 2001, p.319]
[渡辺久士訳]
(1938年)12月11日。
(途中省略)
日本軍は三方から市を攻撃したが、明らかに下関の揚子江に接した方面は開放されていた。中国軍が揚子江岸に溢れ出たところ、彼らの約四万は包囲され、機関銃でなぎ倒された。フィッチ氏は、占領後市外に出た最初の機会に6フィートあるいはそれ以上の厚さに積み重なった死体の上を(車で)運転した。ほとんどの場合、そのような男たちは百人づつ一緒にされて揚子江河岸に連れられて行き機関銃で撃たれたが、その後、遺体は揚子江に投棄された。そのような男たちの集団の少なくとも二、三の事例では、一緒に縛られてケロシンを掛けられて生きたまま燃やされた。市が日本軍の手に陥ちたときに、全部で六、七万の人々が生命を失ったと見積られている。
1906年10月5日、南京生まれ。プリンストン大学進学、1929年ハードフォード医学院で医学博士を取得。1936年、南京市・金陵大学病院に勤務。事件時、国際赤十字南京委員会に所属、多くの被害者の治療にあたった。
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly
burying bodies from all parts of the city outside the zone
and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted
in cold blood is somewhere about 100,000, including of course
thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann
Arbor Paperbacks, 2002, P254]
[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。
1886年9月27日、イリノイ州セコールで生れる。1907年、イリノイ州立師範大学を首席で卒業。その後、高校教師職を経てイリノイ大学へ進学し、1912年、理学士号を取得。大学の牧師より外国キリスト教宣教教会に推薦され、安徽省合肥にて校長として三清女子中学校の設立に携わった。1918年、アメリカに帰国し、コロンビア大学で教育学修士号を取得、1919年には学位を取得。1919年、南京・金陵女子大学の学長代理就任、後に正式の学長となる。事件当時、国際赤十字南京分会に所属し、一方、大学キャンパスを難民収容所として開放、女性・子供用の避難所として日本軍から守った。(参考:wikipedia ボートリン項、『この事実を…A』pp.568-569)
(一九三八年)
一月二〇日 木曜日
中国赤十字会のG氏の話では、彼は、一月一七日、米を手に入れに出かけたさい、漢中路の外側に男の死体が堆く積まれているのを目撃した。付近にいた人たちが言うには、一二月二六日ごろ現場に連行されてきて、機関銃で射殺されたそうだ。登録のさいに、かつて兵士であったことを告白すれば、労務要員として賃金を支払ってもらえるという約束で、おそらく、事実を認めた人たちなのだろう。
一月二六日 水曜日
廃墟からの帰還、知り合いの女性に出会った。彼女はわたしに、楊□の池に多数の死体があることを知っているか、と尋ねた。そのことは多少聞いているので行ってみたい、と答えると、同道しよう、と言ってくれた。しばらくして彼女の夫に出会い、彼が、わたしとわたしの使用人を案内してくれることになった。わたしたちは問題の池を見つけた。黒焦げになったたくさんの死体が岸辺に転がり、燈油かガソリンの空き罐二缶
が死体に混じっていた。死人の両手は、背中のうしろで針金を使って縛られていた。死体が何体あるのか、また、最初に機関銃で撃たれ、そのあと焼かれたのかどうかはわからない。だが、そうであればよいと思う。これ以外にも焼け焦げた死体は、西側の小さいほうの池におそらく二〇体ないし四〇体あった。履いていた靴のなかには兵士の靴ではないものもあり、それらは一般
民間人の靴のようだった。焼かれていない死体が丘陵地全体に見られる。
一月二九日 土曜日
ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ−クラブに行くと言ってきかなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は二〇〇〇体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬してほしいと懇請した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。
二月二日 水曜日
この訪問のあとにわたしは紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体----とりわけ、二つの池の岸に放置された焼け焦げ死体のことを伝えた。〔南京〕占拠以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に納めてきたのだ。
二月一五日 火曜日
南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ三万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、きょうの午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまった−−−−渡河しようにも船がなかった−−−−という別
の情報を聞いた。何とかわいそうに。
二月一六日 水曜日
五時から六時の間にY・G・厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三沙河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁にわたしのところへやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対ない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
二月二五日 金曜日
きょうの午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこでわたしは、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員がいまも追われている場面
を目撃した。むしろにくるまれて壕のなかに置かれた、というよりは引きずり込まれた死体だ。臭気がとてもひどいので、いまでは作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。
二月二八日 月曜日
兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の一人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。
四月二日
きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。
四月六日
国際委員会は救済事業を推進している。二〇〇人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。
四月一五日
紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた----彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三沙河の地域は含まれていない。
四月二二日
金陵大学の馬文煥(音訳)博士が訪ねてきた。彼と彼の家族は、およそ五カ月にわたって農村地域で避難生活を送ったが、強姦、殺害、放火、掠奪が同地ですべておこなわれた。くわえて地方の警官が逃げたあとでは匪賊に苦しめられるという辛い、悲痛な体験をした。(中略)彼は、長江河岸にそって膨大な数の死体が埋葬されない恐ろしい状態で現在も放置されたままであり、いまでも多くの死体が長江を漂って流れていると、確証にもとづく話をした。
『南京事件の日々』pp.127-240
1882年11月23日、ハンブルクで生れる。1903年、モザンビークの英国企業で勤務。1908年、北京へ、1909年、ドーラ・カロリーネ・シューベルトと結婚、二児が生れる。1910年以降、シーメンス社に入社、1931年、シーメンス南京支社長に就任、1934年、ナチ党に入党。事件当時、南京安全区国際委員会の委員長として、市民保護に従事。ラーベは克明な日記を書いており、この日記は南京事件の解明に大きく寄与した。(参考:wikipedia ラーベ項)
十二月十六日
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通
部は中国人の手で焼きはらわれていた。?江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯
は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会が手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。
十二月二十六日 十七時
そこいらじゅうに転がっている死体、どうかこれを片づけてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を十日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。
十二月二十八日
フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。
(略)
このときとばかり私は福井氏に、十二月十三日に射殺された中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。
(1938年)
一月五日
またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。
一月七日
南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。
一月十二日
南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。
一月二十二日
竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。しばっていた縄が切れて、竹の担架が二メートルほど先にころがっただけだ。いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと望んでいる。だがその一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。もうこれ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。ただ、ときどき、あの兵士が死んだまま、まだこの世にいることを思い出すことにしよう。
一月二十六日
中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。
二月七日
紅卍字会の使用人二人に案内されて、午前中、ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げこまれたのだ。近くのもうひとつの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。
二月十五日
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
『南京の真実』pp.121-254
添付書類
一九三八年二月一六日付駐華ドイツ大使館報告第一一三号に添付
作成者不明(ジョン・ラーベ)
文書番号二七一八/一九九五/三八
機密
脱ぎ捨てられた多数の軍服は、日本軍に、難民区には多くの中国兵士がいると主張する格好の口実を与えた。かれらは再三にわたって難民収容所を徹底捜索したが、兵士とおぼしき者を真剣に探す努力はせず、まずすべての若者を無差別
に、次に何らかの理由で目についた者を全員連行した。城内で中国人が日本軍に発砲したことは一度もなかったにもかかわらず、日本軍は少なくとも五〇〇〇人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。こうして射殺された者ののなかには、市政府や発電所、水道局で働く何の罪もない職員たちも含まれていた。交通
部庁舎脇の通りには、一二月二六日まで、縛られて射殺された三〇人ものクーリーの死体が転がっていた。また、山西路からほど近い池のなかには五〇人、寺院には二〇人、江西路の端には一九三八年一月一三日時点でなお二〇人の遺体が散乱していた。
(略)
すべてのヨーロッパ人は南京城から離れることを禁じられ、城内の移動は日本人警備兵の警護つきでのみ許された。それでも、一二月二八日には棲霞山に行って食料の買い出しに成功した人物がいた。かれはそれまで、日本軍は抗日運動の拠点である首都南京だけに懲罰を加えたとばかり思っていたが、周辺の田舎ではもっとひどいことがおこなわれていることを目の当たりにした。中国軍は退却時に軍事的な理由から一部の村や農家を焼き払ったが、日本軍はこの放火を組織的に続行した。畑地や道路沿いに水牛、馬、ラバの死体がおびただしく倒れている。虐待、強姦、射殺は日常茶飯事である。住民は主に山に逃げ込み、そこに身を隠している。かれが一時間にわたって車を走らせている間、どんな大きな村でも人を見かけることがなかった。棲霞寺には約一万人の難民収容所ができていた。しかしここでも日本兵は野獣のごとく荒れ狂っている。中国人の話では、上海か蕪湖までの地域は似たような状況にあるという。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』pp.8-9
書簡
シーメンス中国本社上海取締役会宛、発信者−ラーベ(南京)
一九三八年一月一四日付
文書番号一二/九七九
射殺されたり、虐殺された人の死体はいまでも城内に放置され、私たちの手で葬ることは許可されていません(理由は不明です)。私の家から五〇メートルのところには、一二月一三日以来ずっと竹で編んだ台の上に一人の中国兵の死体がくくりつけられています。難民区内のあちこちの池には五〇体もの中国人射殺死体が漂っているというのに、私たちにはこれを埋めてやることもできないのです。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.96
あの十二月の日々(クリスマス前後がいちばんひどかったのですが)、私たちは文字通
り屍を乗り越えて進んでいきました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通
りに放り出されていました。十二月十三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。
このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられるますが、このへんでやめておきます。
中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。
『南京の真実』p.317
ゲオルク・ローゼン(Georg Rosen)、1895年9月14日、イラン、シルヴァンに生れる。父フリードリッヒ、祖父ゲオルグはともに著名な東洋学者であり、父は外務大臣を務めた。1917年、第一世界大戦で西部戦線へ志願兵として従軍した。1921年、学業を修了し、博士号を取得、外交官となる。事件当時は、ドイツ南京大使館分館書記官。(参考:『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、wikipedia ローゼン項)
報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年一月一五日付南京ドイツ大使館分館
一九三七年一二月二四日付報告(文書番号二七七二/八四三二/三七)に関連して
文書番号二七二二/一〇〇一/三八
私は先の報告で、日本軍は自ら引き起こした残虐行為が公的証人の目に触れるのを避けるため、われわれの帰還を引き延ばしたのではないか、との憶測を記したが、それは実証された。信頼すべきドイツ人および米国人の情報提供者の話によると、外国代表者の南京帰任の意向が明らかになるや、民間人・女性・子どもにたいする無意味な大量
殺戮で生じた、一部は路上にまるで「ニシンのように」積み重ねられたおびただしい死体を片づける除去作業が大慌てで始まったのである。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.66
報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
写し二
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通
り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量
処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路のなかに見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い街角にさえ)何週間も散らばったままである。
(略)
外国人の個人的な移動の自由は、本年一月一五日付報告(二七二二/一〇〇二/三八)で触れた本郷少佐が突然解任され、もっと適任な将校である広田中佐に替わったあと、とくに拡大した。私はまだ憲兵の同行なしに外出することは許されていないが、少なくとも日に一、二時間は、紫金山の山腹に連なる郊外の森に出かけることができる。まだ埋葬されていない中国兵(の死体)の散乱する、見捨てられた陣地にうっかり足を踏みいれることさえなければ、のんびりと静養できるのだが。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』pp.218-221
報告
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月七日付南京分館
文書番号五七一九/二一一一/三八
写し一
資産の運び出しは当面の間、不可能である。というのも箱や釘も梱包材もないため荷造り自体がひどく困難で、しかも日本軍は駅と港への外国人の立ち入りを禁じている。川港の下関に日本軍の大量
処刑による中国人犠牲者の死体がいまだに約二万体も横たわっているためで、無理からぬ ことである。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』p.228
報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年四月二九日付南京分館報告第五三号
文書番号二七一八/三一〇〇/三八
玄武湖公園内と、孫文の墓のある中山陵に、高さ二・五メートルほどの四角い木柱が建立された。そこには、「大日本陸軍使用地」と記されている。日本軍使用地が何を意味するかは、――奉天の満州皇帝陵と同じように、―― かつてあれほど美しく整備されていた中山陵のいまのひどい荒廃ぶりにうかがえる。この周辺は、瓶の破片、ストロー、缶
詰の空き缶が散乱し、遊歩道はトラックが踏み荒らし、草花や木々は引き抜かれてしまったのである。
木柱のすぐ脇では、一二月の戦いで落命した中国人の遺体が朽ち果てている。ある軍隊の精神の気高さを、たおれた敵にたいする敬意の度合いではかるとすれば、「大日本」の評点はまったく感心できるものではない。中山陵周辺に散乱する中国人の屍を野犬とカラスが食い荒らすままにしておくのではなく、回収して、国民的英雄顕彰碑を囲む緑地公園に合同埋葬してやることはたやすいこおとだったはずだ。一方、日本兵の場合はみな、戦死した場所に細長い木の墓標が立てられ、絶えず花が手向けられている。かれらの遺灰は故国に送られるのである。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』pp.263-264
東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)
南京便り 第五章 衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』
戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。
そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。
防疫方面についてはわが現地当局者間に防疫委員会が生れ、十月には大掃除を市内全部にわたって行ふが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ、所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立札を立てたり、ドブを埋めたり、死体を収容したり、相当努力をしてをり、将来は「防疫病院」の設立、衛生事務所(衛生組合のやうなもの)の設置、種痘施行その他を企画してゐる。
『日中戦争史資料8』p.393
事件当時、大佐 第16師団参謀長
第二九二号(昭和二十二年十月十四日)
個人弁論段階(二)
十三、検察側証拠に表示された埋葬屍体の存在したと言はるる場所は、「中山門・・・・馬群」間の如く、支那軍が陣地に拠って防戦した所であり、又は太平門・富貴山其他、城内各所の如く、支那軍が陣地に対する死傷者収容設備の存在したるべき地点である。此等の附近で彼我多数の戦死者が出たことは事実である。然し決してこれ等の地点で虐殺が行はれたことはない。
『日中戦争史資料8』p.245
騎兵軍曹 南京・第二碇泊場司令部
十二月二十六日 晴
(略)
午后死体清掃の為め苦力四十名を指揮し悪臭の中を片附く。約一千個に及べり。目を明けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり。
(略)
『南京戦史資料集U』 p.437
目次
一、陰陽営北秀村
二、陰陽営南秀村
三、古林寺山後
四、陰陽営南秀村、金陵大学側
五、上新河二道桿子の正面
六、韓家巷西倉山上
七、漢中門外二道桿子
八、上新河鳳凰街
九、上新河二道桿子の側面
十、下関魚雷〈軍〉営側
十一、上新河の棉花堤
十二、上新北河口
十三、下関宝塔橋の下
十四、中華門外望江磯
十五、中華門外普徳寺
十六、中華門外高輦柏村
十七、中華門外普徳寺
十八、中華門外普徳寺
十九、中華門外普徳寺側
二十、中華門外普徳寺側
二十一、莫愁湖広州公墓側
二十二、調査人員撮影
敵人罪行写真集の表頭に此の辞句を語す。
空気は日に日に緊張し、事態は愈々厳しきを告ぐ時であつた。民国廿六年(一九三七年)十二月十二日の早朝、我等の首都南京も終に敵の占領するところとなつたのである。
其の時に於て未だ城内を退出せざりし人民は一群一群と敵人のトラックで運び去られ、彼等は煤炭港に於て掃射し漢中門に於て、大方巷に於て掃射し、更に又非人道的にも草鞋峡に於て五、六万人を大屠殺、大焼殺したのである。掃射の後に刺撃し更に之を焼き、最後には長江(揚子江)中に投じて魚餌と為したのである。
逃亡は如何に? 何処にか活路が有らう?
八卦州の江中に漂流せる江に満々たる死体は逃亡せる者達の末路ではなかつたか。
魚雷〈軍〉営江辺に畳々と聳へる土墓は皆、逃亡者の落付き処ではなかつたか。何処に生路があらうぞ。逃げざるも又方法ではなかつた。紅卍字会、崇善堂等の機関団体の個人的に埋葬した屍体数字は何十万に上つてゐる。之等は逃げざりし者の結末ではなかつたか。大道小道に無茶苦茶に倒れてゐるのは難を避けんと身を動かした結果ではなかつたか。
此の部屋、彼の部屋に支離滅裂、血にまみれて居るは家にこもり、外に出るを肯んぜざりし人達ではなかつたか。殺!殺!殺!
天地を昏黒にし、天地を揺がして殺したのである。隠れるも殺し、避けるも殺し、逃げるも殺し逃げざるも殺し、難民区内に居りしも殺し、南京城内の血の流れは恰も揚子江の水流の如く、屍体の山は紫金山にも較び、精華なりし南京城は陰風惨々、鬼神も号哭せそ地獄変に為つたのである。
今や抗戦は勝利に終つた。敵人の罪行は正に此のー編に集収した。
我等は更に埋葬者及び撮影者と共に未だ敵人により消滅せられざりし荒塚に行き写真を撮つて来た。
我等は斯かる殺戮に遭ひし同胞に対し真に哀悼号哭を禁じ得ない。
仮令、敵人全部を殺死するとも、永久に償はれざる傷を癒す事が出来やうぞ。
陳光敬記す(印)
一九四六年一月十四日 撮影後
「檄言」
惨たる矣! 敵人、民国廿六年(一九三七年)に我が首都を陥し、無辜の人民を大屠殺した。城の内外に屍体は謚れ野に充ち、誠に目を掩ひ心を驚かすものがある。屠殺後、油をかけて之を焼き、腸は破れ頭は爛れ、其の惨状たるや実に見るに忍びないものがある。甚しきに至つては江中に投じ魚餌と為し、山林に抛棄して鷹犬の食と為す。実に人類歴史未曾有の惨事である。後、紅卍字会、崇善堂等の慈善団体の手に依り敵人の銃剌を冒し、残屍露骨の収容に従事し之を泉下に葬つた。
八年来、荒廃した土塚畳々とし、或は風雨に打たれ、或は牛羊に踏まれ、一部?は又敵人に毀滅され、大半は既に原形を求むるに難なり。
本月十四日、光敬及び李于門等は、中央社の写真記者李尊庸及び上述各団体の責任者程哲人等に(を)伴ひ、城を還りて一周し、終日の労に依り、此の小影を撮影せり。当時大屠殺の実情を表示するには不足と雖ども尚、敵人暴行の一、二を見るに足らん。此処に謹みて数言を述べ沈痛の意を表す。
助手 李于門謹記(印)
民国卅五年一月十五日
写真説明
一、地点は陰陽営北秀村にして当時の埋葬屍体は三百卅七なり。
城北各処の屍体収容、埋葬は世界紅卍字会之を為す。
写真説明
二、地点は陰陽営南秀村にして当時の埋葬屍体は合計六百七十二なり。
城北各処の埋葬者は右に同じ。
写真説明
三、古林寺山に於ける当時の埋葬屍体は合計二百九十三なり。山上、及び竜池奄等の屍体収容、埋葬者は世界紅卍字会なり。
写真説明
四、地点は陰陽営南秀村附近の金陵大学農場なり。当時の埋葬屍体は一百廿五と為す。西橋塘内の屍体収容、埋葬者は世界紅卍字会なり
写真説明
五、地点は上新河二道程子とす。当時の埋葬屍体は合計八百四十三なり。五福村、電台村等の屍体収容、埋葬者は世界紅卍字会なり。
写真説明
六、地点は韓家巷西倉山なり。当時の埋葬屍体は合計一百五十九なり。西倉塘内の屍体収容、埋葬者は右記と同様なり。
写真説明
七、地点は漢中門外二道程子なり。当時埋葬屍体は合計一千一百廿三人なり。該処河附近の屍体収容、埋葬者は紅卍字〈会〉なり。
写真説明
八、地点は上新河鳳凰街附近と為す。当時の埋葬屍体合計二百四十四なり。
該所西街の屍体収容、埋葬者は右記と同様なり。
写真説明
九、地点は上新河二道なり。当時の埋葬屍体は合計八百五十とす。該処河附近の屍体収容、埋葬者は世界紅卍字会なり。
写真説明
十、地点は南京魚雷軍兵営附近なり。
紅卍字会責任者の言に依れば当時の埋葬屍体は合計に万余とす。
当時此墓は八個ありしも、敵人投降以前に於て既に其の七個は毀され、現に其の一つをのみ残す。此の一墓中に五千人の屍体有り、江口より収容せしものにして、大部?は腐爛しありしとの事。
石碑あり。「民国廿六年草鞋峡の無縁魂」の銘字あり。埋葬者は紅卍字会とす。
写真説明
十一、地点は上新河棉花堤なり。当時埋葬屍体は合計一千八百六十余とす。河口一帯の屍体収容、埋葬者は右に同じ。
写真説明
十二、地点は上新北河口の空地なり。当時の埋葬屍体は合計三百八十とす。北河口附近の屍体収容、埋葬者は世界紅卍字会とす。
写真説明
十三、地点は下関宝塔橋下の永清寺辺より草鞋閘・石榴園治山根一帯にして、十余丈長さの墓には五百余の屍体が埋葬さる。該処江辺より収容せしものにして、埋葬者は紅卍字会なり。
写真説明
十四、地点は中華門外望江磯一帯とす。
当時の埋葬屍体は五百五十余なり。城内各処の屍体収容、埋葬者は崇善堂とす。
写真説明
十五、地点は中華門外普徳寺附近なり。当時の埋葬屍体は約六千四百六十八とす。合計三個の長墓塚は深さ一丈五尺に達す。城内各処、埋葬者崇善堂に依り収容さる。
写真説明
十六、地点は中華門外望江磯・高輦柏村なり。当時の埋葬屍体は合計六百二十七とす。
城内各処、収容者紅卍字会に依り埋葬さる。
写真説明
十七、地点は中華門外の兵器廠にして雨花台より花神廟に到る。当時の埋葬屍体は合計二万六千六百十二にして、城内各処、埋葬者崇善堂により収容される。以上各処は普徳寺の近側なり。
写真説明
十八、十九、二十、
右に同じ
写真説明
二十一、地点は莫愁湖広州公共墓地附近なり。当時の埋葬屍体は合計二百七十二と為す。
西門外一帯、収容者世界〈紅〉卍字会に依り埋葬さる。
写真説明
二十二、上面は敵人罪行写真撮影時の調査人にして、墓塚跡の不明の地は現地住民に訪問し、併せて閲見せし情況なり。
写真中 一、陳光敬 二、李于門 三・四、郷民 五・六、埋葬者及び法書
本写真帖は本官の派遣せし本処書記陳光敬、李于門が当日、日軍に屠殺されし屍体を収容した崇善堂代表周一漁及び紅卍字会代表程哲人、及び該地方に於て事情を知れる者、及び中央日報社写真記者李尊庸君等と共に撮影せし二十一枚の写真にして、埋葬屍体は合計四万六千九百十五なり。其の行程中、通済門外より方山、中山門より馬羣水、西門外より上新河一帯に到る蜿蜒たる地は埋葬屍体合計七万八千一百〇六二に達す。人力・物力関係に依り未だ撮影しない、又は敵人の破壊せしを撮影し能はざれば、此処に其の四分の一を撮影に其の概略を示すに他なし。
首都地方法院首席検察官
陳光虞(官印)
民国三十五年一月十六日
『日中戦争史資料8』pp.385-390
第三七六号(昭和二十三年二月十八日)(抄)
E 検察側最終論告(一)
J−61
一九三七年十二月十三日、南京が陥落した時、同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました(a)。同市に入城した日本兵は街路に居た民間人達を無差別
に射撃しました(b)。一度、日本軍が同市を完全に支配するや、強姦・殺戮・拷問及掠奪への耽溺が始まり、それが六週間続きました。最初の二、三日間に二万以上の人々が日本軍に依り即座に死刑に処せられました(c)。六週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、二十六万乃至三十万で、全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります(d)。この概数の正確性は紅卍字会と崇善堂の記録がこの二つの団体で十五万五千以上の死体を埋葬したことを示してゐる事実に依って示されて居ります(e)。六週間の同期間に於て二万名を下らざる婦人と少女は日本軍に強姦されたのであります(f)。
『日中戦争史資料8』p.300
第八章 通例の戦争犯罪
南京暴虐事件
後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般 人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られたいたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
『日中戦争史資料8』p.396
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参考資料
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