埋葬関係資料 崇善堂

参考資料



崇善堂の成り立ち

 中国には近代以前から「善堂」とよばれる一種の慈善団体が存在している。多くはその地域の有力者が資金を出して設立したものである。南京にも数多くの善堂があり、崇善堂もそうした善堂のひとつであった。崇善堂は清の嘉慶二(一七九七)年に創立され、当時すでに一四〇年の歴史のある善堂であった。本部は城内南部の金沙井三二号にあった。設立時には恤?局といった。太平天国の南京占領時に破壊され、一八六五年の再建時に崇善堂と改称したという(南京市地方志編纂委員会編『南京民政志』海天出版社、一九九四年、四六〇頁)。通常は寡婦救済・保育援助・棺材の施し・診療所の運営などの貧民救済を行なっていた。主たる財源は不動産収入であった。崇善堂は南京近郊江寧県の一六七二・八五畝〔一畝は約六・六六七アール〕の田地、長江中洲の一万三〇二八・〇六畝の土地のほか家屋二六四室分を所有しており、そこからの地代・家賃で慈善事業を運営していた(同前)。であるから、崇善堂を「せいぜい従業員五、六人の街の葬儀屋」(田中正明『??南京虐殺"の虚構』日本教文社、一九八四年、三二七頁)とするような見解は論外である。

井上久士「第7章 遺体埋葬記録は偽造史料ではない」
(南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、1999年)P132-133)



崇善堂埋葬隊の構成

 埋葬隊は四つの分隊からなっていて、それぞれ主任一人、隊員一人、常雇い作業員一〇人からなっていた。四隊四〇人の作業員ではとうてい人手が足りず、城内では大量の臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が遺体の収容・埋葬に協力したという(『南京大屠殺』四〇四頁)。

井上久士「第7章 遺体埋葬記録は偽造史料ではない」
(南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、1999年)P135)



高瑞玉(高瑞玉、男、80歳)の証言

 わたしは幼い時から山東で大きくなった、■荘」の者で、抗日戦争の前に軍罰に人夫として捕まって南京に来たのです。南京がまだ陥落しない前に、友達の紹介で、世界紅卍字会の南京分会で仕事をしていました。あの時の紅卍字会は、小火瓦巷に分会が一つあり、場所はわたしは住んでいた付近ですが、下関にも分会があって、今は区房管所の建物です。日本兵が入ってくる前は、卍字会は専ら救済物資の配布などのような慈善的なことをやっていました。日本軍が入って来てからは、街中が屍体で、どれもが殺害された同胞でした。卍字会は屍体の収集と屍体の埋葬とを組織しました。その時は班が二つあって、一つの班が集めるのに責任を持ち、一つの班が埋めるのに責任を持ちました。わたしは屍を埋める班の班長で、その班はみんなで九十九人でした。屍を埋める地点は主として雨花台の両側で、憲兵運動場でした。漢中門外の城壁の脇にも、中山門外の辺りにも埋めました。屍を埋める者は一人一人長袖のシャツを着るかチョッキを着るかしましたが、それを作るのが間に合わなくて、腕章を着けて、目印にした人もいました。わたしは長袖のシャツを着ていたのですが、シャツの胸にも背にも、卍の字を付け、ある者の帽子にも卍の字を付けました(その時わたしも写真を撮ったのですが、やがて見つからなくなってしまいました)。卍の字は白地に紅にし、シャツの色は濃い藍色でした。屍を埋めた墳はとても大きく、ある墳は千人入り、上に芦の筵と泥を被せ、わたしの班が手掛けて埋めたのは何千人かでした。その時埋めた屍は、全身のあり、頭の無いのや腿の無いのやもありで、鈎の形の道具で引っ張り、穴に投げ、一日にどれだけ埋めたかも一定しなく、ある時は少ししか埋めずに、先ず穴をちゃんと掘るのから始め、屍を埋める仕事はわたしは何か月もやって、翌年の秋までかかりました。
  屍を埋めるのをやったのは崇善会もそうでした。その団体は洪武路を曲がって入って行った大きな門の中にあって、そこが屍を埋めた情況ははっきりは分かりません。(周子廉と楊正元が記録)

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編『この事実を……』(加藤実訳、星雲社、2000年)P416-417



崔金貴(崔金貴、男、70歳)の証言

 わたしは抗日戦争前には馬車を駆っていて、日本兵が入って来てからは働けなくなってしまいました。家の近くに崇善堂がありましたが、それは慈善団体で、満清時代からあって、小さい時から知っていました。崇善堂は抗戦前には、冬は綿入れを施したりお粥をやったりし、夏には湯茶を配っていました。日本兵が入って来てから、崇善堂が死体を集めて埋める人を探したので、それまでにお棺を担いでいた人やわたしのような暇で生活の資のない人たちが行って、一日やって一円くらいでした。わたしが行ったのはもうかなり暖かい時で、三月か四月くらいのことでした。初めの日は水西門外二道■子の金華醤油廠に行き、その工場の醤油のかめから屍を掬いあげたのですが、それはどれも日本兵が中国人を抛り込んだもので、それに別の所から集めて来た屍もありました。暖かくなったので、屍は臭くてもう嗅ぐことができず、一日やって、やりたくなくなってしまいました。わたしと一緒に行ったのでもう一人わたしが前に馬車を駆っていた時の助手だった王小洋がいましたが、彼は同じチームになりませんでした。明くる日は行かずに、小さな商売をしようと思ってもできないで、何日かしてから又屍を埋めに行ったのです。前後して一週間ほどやったのでした。屍を埋める時は、みんあチョッキが一つずつ配られ、それには前にも後ろにも字が、白地に黒で、崇善堂と書かれていて、それに長方形の官印が押してあったと覚えていますが、それと前を歩くのが旗を持っていました。あの時はまだかなり乱れていたからで、そうしなかったら日本兵がむやみに捕まえたり殺したりしたかもしれません。屍を埋めるのは近くに穴を掘って埋めたり、旧からあった壕や溝に引っ張って行って抛ったりして、土を詰めるのですが、埋めた屍は、ちゃんと整っていたのはほとんど無く、道具は鉄で引っ掻く鈎でした。あの醤油廠は、今の第二製薬廠の前身です。屍を埋める時、埋めた人数は数えないで、日数でお金を数えていましたが、崇善堂には付いていて専ら数を数えているのがいました。一緒に屍を埋めるのに加わった王小洋は、五年前に世からいなくなりました。一週間くらいやった後もうやりませんでしたが、他の人はまだやっていました。小さな商売をしていた時に、下関に行ったら草鞋峡の処に屍が一番たくさんあって、それはみんな波に砂浜まで押し寄せられたのでした。それに魚雷営にも死んだ人がたくさんいました。(戦国利と楊正元が記録)。

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編『この事実を……』(加藤実訳、星雲社、2000年)P417-418



南京市崇善堂難民区内埋葬工作従事者一覧表

※原点は南京大学歴史系編著『日本帝国主義の南京における大虐殺』(一九七九年刊、内部刊行物、保存注意)。崇善堂埋葬隊の隊員・作業員の一覧。

表1 南京市崇善堂難民区内埋葬工作従事者一覧

職務
姓名
堂長兼崇字埋葬隊隊長 周一漁
崇字埋葬隊第1主任
第1隊隊員
第1隊人夫
盂藍田
王光徳
施大牛 程小秋 伍土福 金双林 朱徳貴
馬迪先 陳老五 伍士禄 王大保 呂世和
崇字埋葬隊第2隊主任
第2隊隊員
第2隊人夫
阮月秋
馬徳財
王老四 韓心汗 石小竜 何亦貴 張金保
馬徳福 金大発 熊士庚 蔡貴
崇字埋葬隊第3隊主任
第3隊隊員
第3隊人夫
郭全濤
張保善
伍大保 王小六 金有財 朱貴 陳在喜
張天生 馬小五 余福 孫来福 丁保貴
崇字埋葬隊第4主任
第4隊隊員
第4隊人夫
程哲人
蕭生
余士禄 金士福 王安子 田大発 雷逢春
李有禄 張功義 伍貴 馬士賢 金思汗

  崇善堂は難民区で「崇字埋葬隊」を組織し、それを四個分隊に分け、各分隊に主任一人、隊員一人、人夫一〇人をおいた(表1)。一九三七年十二月から一九三八年四月の間、南は中華門・通済門外、西は水西門外、東は中山門外、城内では城南から鼓楼を経て?江門以東に至る地域で、計十一万二二六七体の遺体、そのうち男が一〇万九三六三体、女が二〇九一体、子供が八一三体、を収容した。詳細は表2を見られたい。

南京市文史資料研究委員会編『証言・南京大虐殺』(加々美光行・姫田光義訳、青木書店、1984年)P167



南京市崇善堂報告書《南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表》付属文書

付属文書 一
 本堂は、同胞の惨殺死体がいたるところに散乱しているのを悼み、特別に崇字埋葬隊を組織し、紅卍字会と協力した。紅卍字会は市西部の埋葬を担当し、本堂は市東部の埋葬を担当した。全部で四隊、各隊に主任をおき、食事付き、無給であった。隊員一名につき一日米八合〔中国の一合は約〇・五五合〕、隊員一〇名につき一日米□六合を給した。本隊は以下のことを明記する。民国二十七年十二月三十日、本堂の通行証が憲兵に持ち去られて、返還されていない。憲兵についてきた通訳らは、敵の威勢を恃んで威張り散らし、衣服などを大量に奪い去り、三回にわたる捜査の結果、室内は空っぽになった。敵の威嚇、侮辱は絶えがたいものであり、同胞が敵の走狗に痛めつけられるさまは敵以上にひどいことをいやというほど知った。今も、思い起こすとぞっとする。

付属文書 二
  郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区に入れない者は、昼間は一か所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者にみつかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあったものである。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔面が青くなり、脚が折れているのは、大勢の者から殴られたり、蹴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯をくいしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。
  毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると草叢に隠れたり、田の畦に隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると、すぐに弾丸が飛んでくる。中には婦人がいると、手で止まれと合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聴かないと殺されるし、言うことを聴いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声がいっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それ故、農村部の遭難者は都市部より多い。本堂が得た各種の報告は、全く涙を禁じ得ぬもので、同胞を哀悼して黙祷するも、悔やみきれない。

〔『侵華日軍南京大屠殺档案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』P277



崇善堂埋葬隊隊長周一漁が南京市自治委員会に宛てた書簡

一九三八年二月六日
中華民国二十七年二月七日着
  拝啓 査するに幣堂が埋葬隊を成立させてから今まで一か月近くたち、作業割当はたいへん頻繁であります。しかし、車輛が非常に不足しております。そのうえ今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じます、一漁、ここにご高覧を仰ぎたく存じ上げます。幣堂所用の自動車は二十四年製造のものであり、目下修理に急を要しますので、次の各部品を配給されたくとくに書簡でお願い申し上げます。一、バッテリー 二、ピストン肖子 三、クラッチ等
  貴会がどうか補助の方法を講じ、事業に利を与え、慈善事務を推し進めることができますよう、この段どうかご明察のほどあわせてお願い申し上げます。
  ご返事はこの上にいただければ幸甚でございます。
  南京市自治委員会御中
  南京崇善堂埋葬隊隊長 周一漁

〔以下自治委員会の指示〕
直接丁三自動車修理部と相談するように
二月八日

〔侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館所蔵資料より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』P278



崇善堂堂長周一漁が補助金請求のため江蘇省振興委員会に出した報告書抄録

一九三八年十二月六日
  補助を求めて困難を解決し、慈善事業を引きつづきおこなうために、貴委員会の救済事業の趣旨を伺います。幣堂が、寡婦救済・育児・施薬・貧窮者子女教育等の慈善事業をおこなうことは前清より現在まで百有余年間、絶えることがありませんでした。今事変において、幣堂は難民区内に診療所を設け、埋葬隊を組織し、その他の救済事業も取り計らいました。難民区が解散するに及んで、いたるところ無衣無食の罹災民たちでいっぱいであります。市内における慈善事業の必要性は、以前に倍しており、幣堂の困難もまた昔に倍しております。……寒い冬が来ると、これら救済事業はいっそうゆるがせにできなくなります。幣堂は情報は比較的確かですが、力が思うにまかせないので苦労しております。救済を待つものは切迫しているのに救済されずにいます。救済者は拱手傍観していられましょうか?再三思いをめぐらせるに、ただ、貴会に報告し、なんとか補助を賜わり、幣堂の慈善事業が中途で停頓しないよう要請するのみです。寡婦を救済し、住居を求める者に等しく恵みを与えること、これらは、貴会の広く罹災者を救済する趣旨にかなうものです。ここに謹んで申し上げます。敬んで命をお待ちいたします。
江蘇省振興委員会御中
南京市崇善堂堂長周一漁 謹呈
堂住所南京市内金沙井三二号
中華民国二十七年十二月六日

〔『侵華日軍南京大屠殺档案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』P278-289



南京市崇善堂堂長周一漁の陳述記録

一九四七年二月三日
  右証人は、民国三十六年度公判第一号、谷壽夫戦犯裁判一件のため、民国三十六年二月三日午前一一時、国防部戦犯裁判軍事法廷にて訊問。
 出廷官は左の如し
裁判長 石美瑜
書記官 施泳
  証人周一漁に入廷を命ず。
問…姓名、年齢、出身は?
答…周一漁、年齢六〇歳、南京人、中華路金沙井に住んでいます。
問…本廷は、南京陥落当時、あなたが崇善堂で死体埋葬工作に当たったと聞いているが?
答…崇善堂は皆でやっています。当時、私は理事長をしており、取り扱った埋葬死体は、一一万二二六六体ありました。(付表〔資料68〕参照)
問…本廷は二月六日より励志社にて谷壽夫戦犯の裁判をおこなうが、そのとき、あなたに出廷して、南京陥落時の日本軍の暴行について証言陳述をしていただきたい。
答…承知しました。
問…日本軍は何時入城しましたか?
答…二十六年十二月十三日に入りました。
問…誰の部隊が入ってきましたか?
答…谷壽夫の部隊がまず入り、十四日になって中島部隊が入ってきました。
問…あなたは南京陥落時に、南京を離れていましたか?
答…離れていませんでした。
問…あなたの家は被害がありましたか?
答…ありませんでした。
問…あなたは自分の目で日本軍の暴行を見ましたか?
答…虐殺された人を七・八回見ました。一回は一〇人、一回は八人。
問…およそ、どのような被害でしたか?
答…死体収容に当たったとき、銃剣で前後から刺されたものを見ました。
問…あなたは何処で死体収容に当たりましたか?
答…随所です。当時はいたるところに死体がころがっていました。
問…なお、どんな被害がありましたか?
答…日本軍は地下室の外から、中に銃砲を撃ち込みました。
問…死体収拾時に人夫はいましたか?
答…いました。
問…現在も、当時の人夫を探しだせますか?
答…探しだせます。探して、二月六日に一緒に出廷し、証言させます。
問…死体収拾時に、収拾した中に軍人がいましたか?
答…皆、一般人の服装で、軍服を着たものはありませんでした。老若男女それぞれありました。
問…あなたの見たもっとも悲惨な被害は?
答…内橋市場の斗母宮で見たのですが、一人の鶏を売っていた五十歳余りの婦人が、三人の日本軍に輪姦された後、布切れを陰部から突っ込まれ、腹が膨れて死にました。二十六年十二月十六日のことです。
問…南京陥落のとき、虐殺がもっとも多かったのは何時ですか?
答…入城第一週目が殺害も放火も一番多かったです。
証言の義務と偽証の罰を告げ、誓約書を付帯せしむ。
周一漁
以上の記録は、証人に示して、相違なき事を認めて上記の如く署名せしむ。
本件については、証人周一漁に再度の召喚を待つよう告知した。(本廷は召喚状と付属文書を送付す。)
中華民国三十六年二月三日
書記官 施泳
裁判長 石美瑜

証人宣誓文(訊問後)
  今般、証人となるに当たっては、事実に基づいて陳述し、秘匿したり誇張したり致しません。
証人 周一漁
中華民国三十六年二月三日
注意…刑法第一六八条は、証人が供述の前後に宣誓して、虚偽の陳述をなしたる時は、七年以下の有期徒刑に処す。

『南京事件資料集2 中国関係資料編』P279-281



長生慈善会主席舒敦甫が補助金支給を要求して南京市政監督公署に出した報告書

一九三九年一月二十一日(抄)
「昨年の南京事件では、死骸がいたるところに散乱して悲惨なること見るに忍びず、我が会は乙級板材百余点を崇善堂、紅卍字会慈善団体の埋葬隊と地方人士の求めに応じて支給し、すでになくなってしまいました。また甲級材の半掛け売り七十余点もすべて無料支給する結果となりました。」

〔『侵華日軍南京大屠殺档案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』P281



南京市公益慈善団体一覧表

南京市公益慈善団体一覧表101

南京市公益慈善団体一覧表102

南京市政府 行政統計報告 民国二十四年度
(秘書処統計室編印、民国二十六年四月出版)P101-102



南京市慈善団体概況(二十四年度)

南京市慈善団体概況(二十四年度)

南京市政府 行政統計報告 民国二十四年度
(秘書処統計室編印、民国二十六年四月出版)P286



南京市政公署補助慈善団体情形表

南京市政公署補助慈善団体情形表

南京市政概況(民国二十七年)
(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)P17-18



南京市慈善団体調査表

南京市慈善団体調査表

南京市政概況(民国二十七年)
(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)P33-34



阿羅健一「架空だった南京大虐殺の証拠」

埋葬 事変の後、城壁の内外いたるところに屍体があった。最初、自治委員会救済課、現在は紅卍字会が埋葬に尽力したが、いたるところ荒地となって遺漏を免れない。埋葬隊はもとの十六人に戻った。屍体とまだ埋めていない棺を埋めるため人をやった。城内の無縁仏の墓と修理すべき墓の数を詳しく調べると二万六千四百余ある。これらは修理した。城内いたるところに縁故者の棺が安置されている。期限を決めて埋めた。無縁仏は中華門の外にある安里堂に運んで埋めた。五月、六月のことであった。修理すべき墓は石灰で強固にした。合計千四百七十余であった。年末までさらに百余体を埋葬し、千余の墓を修理した。民国二十七年の五月から十二月まで埋葬した棺と屍体及び修理した墓の統計表は次の通りである。
棺の手配 無縁仏の死体が見つかると、いつも孝善導で棺材を求め、城外に運んで埋葬した。後に振務委員会が埋葬費の項目で五百元を支出し、棺百個を備えて援助した。
『正論』1985年10月号



埋葬隊の組織、二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表

P149
P147
埋葬隊の組織2(『南京市政概況 民国二十七年』P149)
埋葬隊の組織1(『南京市政概況 民国二十七年』P147)
P148
二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表(『南京市政概況 民国27年』P148)

南京市政概況(民国二十七年)
(監弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館、1938年)P147-149



南京市社会事業団体一覧表(昭和十六年末調)

南京市社会事業団体一覧表(昭和十六年末調)

南京市政概況(南京特務機関調製、昭和十七年三月)P197-198



南京市公益慈善団体一覧表

南京市公益慈善団体一覧表

『南京』(南京日本商工会議所、1941年)P231-233


参考資料

  • 『南京市政府行政統計報告 民国二十四年度』秘書処統計室編印
    民国二十六年四月出版
  • 『南京市政概况 民国二十七年』督弁南京市政公署秘書処編、宜春閣印書館 (印刷者)
    1938年
  • 『南京』南京日本商工会議所
    1941年
  • 『南京市政概況』南京特務機関
    昭和17年
  • 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房
    (1999年10月25日第1刷発行)
  • 『この事実を…』侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編、加藤実訳
    (2000年2月11日第1刷発行)
  • 『証言・南京大虐殺 戦争とはなにか』南京市文史資料研究委員会編、加々美光行・姫田光義訳、青木書店
    1984年8月
  • 『南京事件資料集2 中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)