上海派遣軍 司令部

参謀部
・飯沼守 参謀長 少将 日記NEW
・上村利通 副参謀長 大佐 日記
・西原一策 参謀第1課長 大佐 作戦日誌

榊原主計 参謀部第3課 少佐 証言・東京裁判宣誓口供書
・極東国際軍事法廷 法廷証第3401号 宣誓口供書
・証言:板倉由明「「南京大虐殺」の真相 上元門事件の研究」よりNEW
・証言による「南京戦史」(11)<最終回> 『偕行』1985年2月号
・証言:板倉由明『本当はこうだった南京事件』より

経理部
・岡田酉次少佐 回想(『日中戦争裏方記』より)

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料
・大西一 上海派遣軍参謀部 第2課参謀 大尉
・榊原主計 上海派遣軍参謀部 第3課参謀 少佐

 

【 関連資料 】
・上海派遣軍 諸部隊
・上海派遣軍 部隊編成

 


飯沼守 上海派遣軍 参謀長 少将

日記 <抜粋>
※本資料は『南京戦史資料集1』(pp.1-196)に所収されている飯沼守日記から、南京事件の参考となると思われる記述を抜き出したものである。各日付の後ろに付加されている隅付括弧は引用者が付けたものなので注意されたい。また、引用している文は日記本文の一部を抜粋したものである。

九月一日 【投降兵】
  関口大尉3Dに連絡帰来報告 鷹森隊は第一線前進、此正面にて投降者増加、南部正面戦意減退、食糧の補給不十分なりと(五・〇〇)
p.33

九月六日 【投降兵反抗・殺害】
  五・〇〇の情報、天谷支隊は右翼を張り出し浅間支隊と連絡 本夕迄に宝山西方約二キロメートルの「クリーク」の線に進出する予定 兵営に在りし敵約600降伏せるも敵対行為ありし為殺す 鹵獲品の後始末を頼む 青津参謀を明日軍司令部に派遣す
p.41

九月六日 【外国マスコミの捕虜に関する問合せ】
  俘虜は何程ありや日本軍は之を皆殺害しあらさるや等のことを外国新聞記者質問するか故に適当に俘虜を後送せしむる如くせられ度との武官室の意向なるも第一線は到底之を顧る余地なきを以て目下の処第一線に一任しある旨武官室に電報す
p.42

九月七日 【投降兵反抗・殺害】
  青津参謀来り天谷支隊の件連絡、宝山西門外にては真に銃剣突撃にて敵を潰滅、宝山西門附近は戦車と一中隊にて一角占領、他は3Dに委す 約600の俘虜は最初二、三百白旗を掲けたるも其後退却し来りし部隊敵対行為をせる為撃滅、本日中に月浦鎮前面二キロメートル内外に近迫攻撃準備を為し明日
p.42

九月九日 【死体処理】
  夜一〇・〇〇頃船に帰り各方面の概要を司令官に報告、司令官も後備二大隊か大体11D方面に上陸(軍艦輸送)したるを聞き非常に安心さる 敵の屍体各所共放置されあり、衛生上も又人道上(中には手を縛したるまま殺したるものありと)も不都合なれは焼却又は埋葬する様処置せよとのこと
p.47

九月二十三日 【投降兵】
  3Dは金家湾蕭里を占領、此時広東兵11名投降せり
p.63

十月二日 【捕虜】
  3Dの九月二十九日迄の戦闘結果 遺棄屍体概数一三、〇〇〇鹵獲品小銃二、四九九 小銃弾二八八、五二〇LG三〇三 MG五三 手榴弾一、〇〇〇等か主なるものなり
《欄外》俘虜38、迫撃砲51
p.74

十月五日 【捕虜】
  昨夜黄浦江内の軍艦に向て機雷の爆破を為したと 之て三回目何れも何の損害もないが第三国の建物の蔭にかくれて行ふのか癪た 101Dにて崇明塘の頑強なる敵陣地を奪取せる際敵の屍体約200俘虜300
p.78

十月七日 【捕虜】
  23/8―30/9山室部隊の敵に与へたる損害概数、戦死三二、〇八〇 俘虜五二四 鹵獲MG四五、自動小銃二九、小銃三六二
  上陸以来の負傷者別、銃創七二、砲創二二、爆創二・〇、白兵〇・四八
p.80

十月九日 【捕虜対応】
  参謀長に訓示指示の後示すへき事項
(中略)
  歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追跟する夜襲)俘虜を作る如くす 敵動揺の兆あるに乗し来る者は俘虜とすへし
彼等は日本軍に捕はるれは殺さると宣伝しあり之を是正すること
  上海西北正面には租界外と雖外国兵警備しある建物あり後日其配備は配布すへきも其方面に射弾の行かさる如く予め注意せしめられたし
  陳天民寝返りはあてにならさるも実現せは其戦機を捉へ迅速なる突破を敢行すへし、勿論彼等の欺瞞に陥らさること 我部隊内に入れる之等の部隊あらは武装を解除し(説明して)他の俘虜と取扱は同様とするも将来別にする旨を理解せしむ
pp.84-85

十月十五日 【捕虜】
  30/9〜10/10 3Dの戦果 俘虜四五、小銃一〇〇八、LG一一六、MG三九、小銃実包一八九、二〇〇、迫撃砲弾五八、手榴弾六五〇、有刺鉄線一五〇巻、地図二、遺棄屍体五、三六〇
p.91

十月十七日 【捕虜】
  9Dの陳家行攻撃に於て一昨日東端奪取の時に敵の屍体300、本日奪取の際敵の俘虜約60早速後方工事に使用ありと
pp.93-94

十月十九日 【捕虜・殺害】
  3Dは張家楼下宅兪宅黄宅を占領せり兪宅の東北側に在る陳宅は極めて小なる一、二軒の村らしく南北より挟撃せらるる関係に在りなから尚頑として退却せす、黄宅にては遺棄屍体300俘虜30とのこと
(中略)
  3Dの黄宅占領の際得たる俘虜中11名は負傷者にて処分19名は19、64、24、31、52D各一名36D14名なりと、後日取調の結果改編して当時は皆36Dの者なること判明せり
pp.96-97

十月二十日 【捕虜】
  11Dの十月一日より十六日迄の戦果概要
「屍体七、六三二(砲兵隊か三、六〇〇許りにて之は多分に歩兵と重複しあるへし)俘虜二七、迫撃砲三〇、MG一四〇、小銃三四七、小銃弾七、五〇〇、MG〔弾〕一二、〇〇、手榴弾八〇〇、チエツク銃8水冷MG3」
p.97

十月二十三日 【捕虜】
  3D李碩宅占領の時戦車中隊長支那兵一名を捕へ之に投降する者を呼ひ来れと命したるに25名許あり戦車に数珠つなぎにして帰還其他にも二十数名の捕虜ありたりと
p.101

十月二十四日 【捕虜】
  二十一日張宅(陳家行東南約二キロメートル)に於て捕へたる軍イ大尉の言に依れは朝食7〜8時夕食5時頃、「マラリヤ」流行しあり、材料は塹壕に入れあり、患者後送機関は団に担架卒40名、師には80名(174師所属)
p.102

十月二十六日 【捕虜】
  3Dの李碩宅占領の際109名の俘虜、屍体600内、団長もあり、午後武藤大佐其他方面軍要員数名到着、10Aの上陸は十一月五日に延期、松井大将の両軍指揮は七日頃以降、当軍にて一部を北方に作戦せしむるは十一日頃の予定にて現状に応し準備決行
pp.105-106

十一月十六日 【捕虜】
  9D正面の敵は昨夜退却直に追撃に移り今頃は昆山の西方一里位には前進しあるへく重藤支隊正面にては捕虜600遺棄屍体500山砲四門を獲たり
p.132

十一月二十日 【捕虜】
  十一月十日迄に敵に与へたる損害概数、()内は十一月七日方面軍司令部の指揮に入りたる後の分、之には10Aを含む
  屍体八一、〇〇〇(一〇、〇〇〇)捕虜一、〇〇〇、小銃一四、二〇〇(四、三〇〇)Lg一、九〇〇(二五〇)MG四八〇(二六〇)迫撃砲七〇(六)山砲四(四)野砲一〇(一〇)手榴弾一一七、六〇〇(一〇五、〇〇〇)迫撃砲弾一〇、一〇〇(九、五〇〇)榴弾砲七(七)小銃弾MG弾二二七三、〇〇〇(七三九、〇〇〇)、山砲弾三、八〇〇(二、六〇〇)毛布六、〇〇〇 米一五〇石
p.136

十二月十一日 【南京戦・第13師団】
  尚13Dの歩一聯 山砲一大を以て南京東北方の砲台二を攻略し兼て16D佐々木旅団の進出を容易ならしむへきを命せらる。
(中略)
  3Dの一部(68i)をして南京城武定門を攻撃せしめらる、明日正午頃迄には戦場に到着し得へし。道路の関係上師団砲兵を伴ひ得さるを以て考慮したるも軍砲兵の一部にて協力せしむることゝし師団の希望もあり其名誉の為に参加せしむ。
  国崎支隊左岸に移りたる報に殿下も何とかして13Dを早く渡し津浦線を遮断し得さるやと多少焦慮せらる。
pp.153-154

十二月十二日 【軍司令部移動】
  朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部(兵工署弾道研究所あること確実 多分科学研究所ならん→新築イ科大学?)に移る。
p.154

十二月十三日 【南京戦・第13師団】
  敵の大部は退却し16Dは中山門を入り9Dは光華門より戦果拡張中。敗残兵一中隊許り33iと佐々木支隊の中間を東方に退却せりと。
  天谷支隊の先頭部隊は本朝上陸に成功せり。13Dも海軍の協力に依り明日より渡江し得る旨芳村参謀より電報ありしを以て南京に向へる支隊を除き鎮江にて明日より渡江を命せらる。
  午前一一・〇〇頃出発軍司令官に従ひ高橋門9D長の許に到る。午後一・〇〇同地発帰部、其直後高橋門西方千メートル許の我砲兵陣地敵に爆撃されたりと。往路敵の敗残兵本道北側高地方面に来りしか此者午後軍司令部北側高地に来り護衛隊之を西方に撃退、小隊長(准尉)一戦死、兵一名負傷、午後五・〇〇頃再ひ北側高地に現はれ高射砲も射撃して交戦す。敗残兵の他の一団は、東方より13Dの砲台占領部隊、北方より佐々木部隊、南方より騎兵及33iの各一部より包囲され彼我混入して乱闘中なりと。
  修成騎兵は本日午前一・〇〇頃敵の敗残兵約三千と衝突天明頃迄に撃退、我死傷七〇、馬の損害二〇四、敵の遺棄死体は七百を下らす鹵獲品多数との報あり。
  軍司令部護衛の為9Dに歩一大を要求したるところ19i全部山砲一大隊を派遣すとのことにて夕刻過一部到着せる筈。
  孟塘の照空隊全滅したるが如きも詳細不明(電話にて襲撃されたるを報告し終に天皇陛下万歳と言ひ電話を切りたりと云ふ)。
<欄外>歩一分隊を午後増加せり。
  司令部北側高地に於ける二回の戦闘にて戦死一(准尉)<欄外注・誤り戦死二十名許>負傷十四。
  南京攻略後各兵団に南京及其附近に集結すへき命令を下さる。
  列車は機関車一、3、4等客車各二、有蓋貨車七、無蓋十三にて大型不時着飛行機一工兵学校附近に在りと。
pp.155-156

十二月十四日 快晴 【南京戦・第13師団】
  照空隊全滅の報は果して虚報、若干の死傷ありたるに過きす。但昨日の司令部附近の戦闘に於ける我死傷は戦死准尉二其他十名許 負傷中隊長一少尉二其他二十名弱なり。
  本朝尚其残敵五百司令部東北側に在るを知り19i主力を以て全く包囲投降せしめつゝあり。
  13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏龍山砲台占領、高射砲及重砲十余門を鹵獲せり。
  支那船五を爆沈せりと思惟せし内四隻は米国砲艦なりしとて艦隊長官我司令官に抗議を申込れたりと 尚英船一も砲撃に依り撃沈されたりと言ふ。
  戦車大隊麒麟門附近通過の時敵五百許り南下するに会し通信兵等を指揮し掃蕩せり。又南京東方地区より約一千宛の捕虜二群下関方向に移しあるを飛行機にて視たりと。
  下関に於て独工一は機関車三、客車六、貨車三十八を鹵獲す 完全なり。
  三・〇〇頃佐々木支隊の一中隊は南京東北方に於て約二万を捕虜とせりと。又別に四列側面縦隊にて長径八キロメートルに亘る捕虜を南京城北側に向ひ護送しあるを飛行機にて視認せりとの報告あり。
  方面群参謀長より電話にて十七日入城式を為す考にて掃蕩せられたき希望ありしも当軍としては殿下の御意図に依り無理をせさる如く掃蕩中にて現況にては十七日は不可能なる旨返答せり。
  天谷支隊は午後二・〇〇揚州南門占領、数百の敵は東、北、西の各方面に退却中。山田旅団は午前一一・〇〇幕府山砲台を占領せり。
  19iは軍司令部附近の掃蕩を終り(百数十名を掃滅す)明日十五日一大隊と戦車一中隊を残し帰還せしめらる。
  人見大佐掃蕩を終り帰るに方り拝謁、賜物あり。pp.156-157

十二月十五日 霧深し 快晴 【南京戦・第13師団】
│概ね杭州、蕪湖、揚子江右岸地区の安定確保
│一部の兵力を大本営の使用に供し得ること
│航空隊を以てする要地の爆撃
│101Dを以て上海警備(方面軍直轄)
│南翔(含む)以西を派遣軍
}方面軍参謀長来部の話し
  以上の件及方面軍か入城式を十七日と主張しあり 軍としては早くも十八日を希望の旨申上く。
  殿下は入城式に就ては無理をせぬこと、外国人に対し入城式の日時を知らせさること、防空を十分にすへきことを注意せらる。
  野戦建築部長木崎主計大佐来部今回方面軍直轄となる。
  山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。
  四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。此時入城式は十七日に決定された旨聞く。
  13Dの状況、本日二・〇〇頃先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第二悌団は揚州に入らんとするところ、第三悌団は渡江を終り前進中、師団司令部は明日渡江、(電話本日開通)
  六合占領部隊58iの一大、山砲一中基幹は明日小発※二十にて出発明日午後六・三〇「クリーク」入口に到着「クリーク」を六合に向ふ予定。山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。
  長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は二十日以後にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。(3D、兵キ、軍イ、獣イ部長天王寺附近にて約五百の敗残兵に襲はれ安否不明とか。草場少将紫金山に登りたる時「トチカ」内より残敵出て来りたるとかの事例あり)。尚一〇・三〇過方面軍参謀長を訪ひ話したるも頑として変更の意思なし。
※小発は小発動艇
pp.157-158

十二月十六日 晴天 【特務機関・宣撫工作・入城式・掃討・第13師団】
  原田少将来り南京の特務機関兼宣撫の為佐方少佐を置くと。
  午後一・〇〇出発入城式場を一通り巡視三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐の帰来報告に依るも16D参謀長は責任を持ち得すとまて言ひ居る由なるも既に命令せられ再三上申するも聴かれす、且断乎として参加を拒絶する程とも考へられさるを以て結局要心しつつ御伴することに決す。
夜復殿下に召され今迄の死傷数の調査を命せられたる以外は所謂雑談に時を過す、毎度光栄に感するのみならす常に多くの教訓を受く。
  北島参謀揚州飛行場に着陸天谷支隊及13Dと連絡す何れも無難に順調に進捗しあり。揚州飛行場は城の西北側に在り九〇〇と七〇〇メートル平坦。長中佐夜再ひ来り16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し南京附近を徹底的にやる必要ありと建言す。
pp.158-159

十二月十七日 快晴、夜風強し 【海軍戦果・入城式・南京戦戦果】
  松田海軍参謀の報告、十一戦隊(近藤少将)は十三日其大部を以て南京下流に到着、敵の筏に依て退却する者約一万を撃滅す、南京下流の閉塞は幅約三五〇メートルの水路空きあり又機雷なし。靖江下流の視発所は陸海軍協同して占領一昨日掃海を終れり。運送船は既に昨日鎮江に来れり、南京も荷役桟橋破壊されあるも二十日頃迄には修繕して使用し得るに至るへし。
  本日の入城式には附近飛行場を爆撃したる後六、七十機にて空中守備状態に入りたる場合の軍命令を下さる。
  午後一・三〇より入城式、特に暖き快晴実に麗らかに終了す。代表部隊の堵列閲兵、国民政府に於ける国旗掲揚式、遥拝式、万歳三唱、御賜の御酒にて乾杯、海軍司令長官の発声にて万歳三唱。午後三・三〇頃帰る、先つ第一日の無事に済みたるを喜ふ。
  芳村参謀より天谷支隊及13D主力の渡江に関する件の報告を受く。
  南京の獲物は相当にあるらしきも未だ調査十分ならす「ガソリン」ドラム缶五〇〇を見つけたとのことを本日聞く。
  夕食には殿下の台臨を仰き祝盃を挙く、其最後に殿下の御思召に依り戦役将士の英霊に黙祷を捧く。堵列部隊か或は戦死者の位牌を奉し或は遺骨を胸に下けたること、国民政府の旗竿に大日章旗を掲揚したること、夕食の際「此処は御国を何百里」の軍歌を聞きたるとき自然に涙の落つるを禁する能はさりき。
今日迄判明せるところに依れば南京附近に在りし敵は約二〇コ師一〇万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの如きも今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込なるも未た調査完了せす。
本夜方面軍にて行ふ参謀長会議の件承知す。其主旨は兼て幕僚間にて聞きたるところに依れは宣伝謀略乃至宣撫工作に関する件にて統帥に触るゝ如きことは師団参謀長をも同時に集むる会議にては行はすとのことなりしも通牒には明かに「今後の作戦に関し」とあり、又明日の慰霊祭直前方面軍司令官より軍司令官及師団長に訓示ありと。之れに対する態度は明朝殿下に申上けたる後決定すへし。
夕刻祝宴の際に於ける殿下の御発意に依り上海派遣軍の軍歌を広く将兵より募集することとす。
本日午後殿下より10Aにては国崎支隊其他に感状を授与したる由当軍にても早くせよとのことに当軍は従来慎重を期しある関係上後れある旨申上く。
殿下は又13D長を入城式に呼はなかったのは私か悪かった序ての節断て置けとか、松井大将の手柄を横取する様て悪いとか申さる。
pp.159-160

十二月十八日 【参謀・師団長会同・慰霊祭】
  午前一一・〇〇より首都飯店にて参謀長会同。
  殿下より方面軍参謀長に伝へよとのこと、師団長と共に訓示を与へらるゝこと其内容如何に依りては軍司令官の顔立たす。(伝ふ)司令官より老婆心として談話。
  今後更に奥地に敵を窮追すへきか否やは大本営の指示に依るものにて不明なるも我個人の考にては現在の命令範囲にては不十分。江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは支那人に新らしき決心を催すに必要なりと考へあり故に意見を具申し度思ひあり 故に一時後方に移駐する師団も更に前進する機会あるを考へあるを要す。要は武威に懼服せしむると共に皇軍に心服親和せしめ日支一体の必要を感せしむる以外出征の目的達成の途なし。之か為二、三注意を倍〔シ〕(K-K註:草冠+徒)し度い。軍紀風紀の粛正。支那人に対する軽侮の念多し之か禍を為し今日の事変を生起したるとも言ひ得、且軍人は満洲の又は北支の支那人に対したる観念を以て此地方の漢民族を同一視するは免れさるところなり、漢民族殊に南方の支那人を個人的に観るときは気力、経済力共に侮るへからさる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結力なかりしに在り、故に之を加うれは恐るへき力を成す。而して現今之か実を結ひつつあり、軽侮するは誤りなるを銘心せよ。
  国際関係に対する自分の信念としては支那人には和く親切に英米其他諸外国に対しては正しく強くと言ふに在り、外国人に対し日本か恐れすと認めしむるか支那人を反省せしむる途なりと考へあり、但し徒に感情的に諸外国に不快の観念を与ふるは不可なり。英米政府は極東に於ける日本の勢力を認識しあり。従て彼等は日本と協調的方針を採るへしと見透しあるも彼等の国民に対する政策上其通り実行し得さる点あり。殊に英国政府然り。
  大国の襟度を以て裕々迫らさる態度にて接するを可とす。
  以上将校には伝へられたし。
  次に塚田参謀長より書類の朗読的説明、原田少将より治安及宣撫工作に就て若干の説明ありたり。
  午後二・〇〇稍々前軍司令官に対し方面軍司令官より訓示あり列席各師団長、軍参謀長陪席。
  二・〇〇より慰霊祭、場面あまりに広くして感深きを得す、軍にて行ふ時は考慮を要す。
  方面軍司令官の訓示は近く行はるゝ軍の師団長会同の際軍司令官訓示と共に頒つことゝす。又参謀長会同の席にて師団参謀長に方面軍にて示されたることは何れ軍より指示あるへきに依り夫れに依り実施すへき旨方面軍参謀長の前にて明示す。
  本日式後光華門の戦跡御巡視の筈なりしも寒風激しく迷惑すへしとて中止せらる。
  13Dは正午頃〔ジョ〕(K-K註:さんずい+除)県に近く迫りつあり(水口鎮にて約四〇〇の敵を撃破して其西方に進出)。

十二月十九日 今日は再ひ暖き快晴となる。 【押収・放火・掠奪・慰安所設置】
  13Dの十二〔ウ〕(K-K註:土偏+干)に於て押収せる塩は四十二万五千俵(二十二貫入)なり。
午後「てなか弾」「なすか弾」の実射を見る有効なり。鎮江にては「てなか弾」を敵掩蔽部に投入三名焼死せしむ。光華門にては十三日朝敵の依れる城内煉瓦家屋を一発にて焼却せり。
二・〇〇より砲兵学校の野戦予備病院(患者七百名弱)を殿下見舞はせらる、帰途湯水鎮の分院を見舞はる。
憲兵の報告に依れは十八日中山陵奥の建物に放火し今尚燃へつゝあり。又避難民区に将校の率ゆる部隊侵入強姦せりと言ふ。(真偽確かならさるも)其他之に類すること及英、米大使館又は領事館の「トラック」を押収し或はセントシタル者ありて注意事項は実行せられあらす。本夜副長より参謀長に電話にて注意を与ふ。
13Dは〔ジョ〕(K-K註:サンズイ+除)県攻撃の為展開中なるものの如く昨日の位置と大差なし。南京城内には我国の15H四門あり之か為に22Aは二門破壊され彼の一門を破壊せりと。
迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す。
pp.161-162

十二月二十日 【師団長・参謀長会同・第13師団】
  二十四日午前師団長、午後参謀長を集むる命令を出さる。昨夜要塞兵備調査委員の命令を発せらる。(中略)
  13Dの116iは一昨日既に〔ジョ〕(K-K註:さんずい+除)県北方に進出、本朝師団の先頭部隊は〔ジョ〕(K-K註:さんずい+除)県占領、午後には北島参謀同地飛行場に着陸連絡し来る。飛行場は中径約八百メートルの八角形良好なりと。依て明日より午前七・〇〇発揚州ジョ(サンズイ+除)県間の定期航空を為す。
p.162

十二月二十一日 【住民医療・山田支隊】
  軍イ部長来り南京にて多量の衛生材料を押収せりと聞く。又宣撫の意味ならす我軍隊を防疫上地方民の診療を実施する考へなりとのことなりしを以て飽く迄本末を顛倒せさる如く余力を以て行うことを要求す。
(中略)
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。
荻洲部隊は本日大体所命線に部隊を配置し且夫々一部を更に前方要点に出したるか如し。
p.164

十二月二十三日 【軍司令部移動】
  午前一〇・〇〇発南京軍司令部に移る。首都飯店と高等法院(?)なり。
p.165

十二月二十六日 【捕虜・殺害】
  午後一・三〇殿下の御伴にて〔ユウ〕(K-K註:てへん+邑)江門、下関、浦口、〔ユウ〕(K-K註:てへん+邑)江門南門の地下室、太平門(33iの一中隊か千数百の捕虜を獲処分したる所)富貴山地下室、同砲台等を見、五・〇〇帰る。
p.169

十二月二十九日 【八卦洲掃討】
  海軍の近藤少将来り殿下に拝謁したるのみにて帰れり、其殿下への話に烏龍山砲台附近にて既に数隻撃沈せらる、夫れは触発及最新式視発水雷なるか如し。依て其沿岸並中洲を掃蕩されたしとのこと依て海軍と連絡し先つ海岸の視発所を捜索することとす。
p.171

一月四日 【中国兵摘出】
  憲兵は南京難民区域或は外国大使館等に潜伏しある不逞徒を捕へつゝあり、保安隊長、八十八副師長等主なる者なり。
p.175

一月六日 【軍紀・米領事南京着・英艦長トラブル】
  国際関係、軍紀風紀、未然に防止する如く十分注意すへし。総長、大臣の電報に対し返電を出しあり。
《鉄道、輸送関係。遊撃隊の件》
  外国人の件。蘇洲の外人帰還を希望しあり。入るゝ時期を概定したし。
(中略)
  憲兵隊長を集め参謀長口演(別冊)。
  中支那憲兵隊四百名新編成。別に両軍の憲兵各五十名宛。
(中略)
  本郷参謀より、米領事正午前上陸好感を持ち軍の統制に服すへく誓約、然るに英の「ビー艦」長無断上陸せんとしたるを以て之を阻止せるに残置せる石炭五、六十屯を見度、且領事代理として上陸すと称したるを以て石炭位置迄の上陸を認めたり。然るに其石炭は目下衣糧廠の入り居る「クラブ」とかに在りて一悶着を起し、居合せたる大西参謀は支那軍の占領しあるものを撃退占拠せるものなれは不法にあらすと申渡したるも英は今後更に文句を言ふならんと。
p.176

一月七日 【米領事】
  本郷参謀より米領事と会食の件を聞く。大体現状調査に来りたるものの如く当方としては市内掃蕩戦を実施せさるへからさりし状況を説明諒解せしむ。
p.176

一月二十一日 【米領事館掠奪・暴行】
  次長より次の電報来る。在南京米国領事の報告に依れは、一月十五日〜十八日に米権下より日本兵か婦女の1名をつれ出し金陵大学より「ピアノ」を壁を破りて持出したり。在南京外交官は無力、軍は其統制取れすと、在東京米大使より抗議ありと。今日尚如此兵ありとは実に残念、然し現に本日も米国旗の在る家に兵か掠奪に入り込み居る処を米書記官と同行の憲兵取り押へたりと言へり。米の抗議も真実らし。然しなから当方としては領事に如此電報を中央に打つは最初の約束と異り怪しからぬ旨抗議し、彼は絶対的に打電を否定せり。
(中略)
《…(軍事課)榊原(補任課)転出》
p.182

一月二十六日 【強姦(天野事件)】
  本夕本郷少佐の報告。米人経営の農具店に二十四日夜十一時頃日本兵来り、留守居を銃剣にて脅し女二名を連行強姦の上二時間程して帰れり、依て訴へに依り其強姦されたりと言ふ家を確めたるところ天野中隊長及兵十数名の宿泊せる所なるを以て、其家屋内を調査せんとしたるに米人二名亦入らんとし、天野は兵を武装集合せしめ逆に米人を殴打し追い出せり。其知らせに依り本郷参謀現場に到り、中隊長の部屋に入らんとしたるも容易に入れす、隣室には支那女三、四名在り強て天野の部屋に入れは女と同衾しありしものの如く、女も寝台上より出て来れりと、依て中隊長を訊問したるに中隊長は其権限を以て交る交る女を連れ来り金を与へて兵にも姦淫せしめ居れりとのこと。依て憲兵隊長小山中佐及33〔i〕第二大隊〔長〕を呼ひ明朝の出発を延期せしめ大隊長の取調に引き続き憲兵にて調ふることとせり。
p.184

一月二十七日 【強姦(天野事件)】
  小山憲兵隊長、堀川新分隊長来り天野中尉調査の概要を聞く。
p.184

一月二十九日 【強姦(天野事件)・米領事館掠奪事件】
  小山憲兵隊長来り天野中尉以下の件に就き報告、事件送致に就き軍の意向を聞く。依て中尉以下同宿の者全部を送致すへきを希望し、殿下にも報告せり。
(中略)
  天野中尉出発を差止められ何とか穏便の取計ひをとて来りしも、男らしく処理せよと諭して帰へす。
  (※)法務部長より其後の事件の報告を聞く。強姦、傷害等の外特に甚しきは横領せる自動車及「タイヤ」を通訳に売りたる一団あり。殿下も之には呆れて何とか注意の実行を監督する手段を講せよと命ぜらる。小山憲兵隊長の申出もあり、補助憲兵を増加し憲兵の分遣所を城内に増加することとせり。米大使館に日本兵侵入事件は米本国の回訓に依り参謀長か「アリソン」に対し陳謝するか、松井司令官か米艦隊長官に、又は東京或は「ワシントン」にてとのこと。更に研究することとせるも大体参謀長陳謝する考。但之にて今迄の事件を総て解消するを条件としたり。
※法務部長 高等官三等 塚本浩次
p.185

一月三十日 【強姦(天野事件)】
  天野中尉以下十二名軍法会議に送致。
p.186

二月一日 【米領事館掠奪事件】
  例の米領事館侵入事件陳謝は原田少将にとの本間少将の意見にて其様に交渉する筈。
p.187

二月七日 【松井方面軍司令官訓示】
  一・三〇より派遣軍慰霊祭、終て松井軍司令官より隊長全部に対し次の要旨の訓示あり。南京入城の時は誇らしき気持にて其翌日の慰霊祭亦其気分なりしも本日は悲しみの気持のみなり。其れは此五十日間に幾多の忌はしき事件を起し、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたれはなり、何を以て此英霊に見へんやと言ふに在り。殿下亦御列席=殿下に対し奉り誠に申訳なき気持にて帰来早速御断を申上く。
  式後司令部にて佐方少佐の宣撫に関する報告、次て懇談。(式後松井司令官の訓示は凱旋気分相当に横溢しあるは怪しからぬとのこともあり)
p.180

二月十二日 【米領事館掠奪事件・捕虜】
  福井領事より対米、侵害事件国旗陵辱事件は其事実ありとせは陳謝する旨を軍に相談承認す。<中略>米領事「アリソン」より一月二十八日以後二月一日迄の日本兵の非行として掠奪強姦八十九件を抗議し来れり。甚た誇大なるへきも日本兵の非行は憲兵のみにても数件あり実に慨嘆に堪へす。
《13Dは臨淮関、蚌埠の対岸を攻撃、遺棄死体一千五百、機関銃小銃多数鹵獲、俘虜百五十、我戦死四二負傷百二、三十名》
p.190

以上、引用元は『南京戦史資料集1』より



上村利道 上海派遣軍 参謀副長 歩兵大佐

日記
十二月二十一日 晴
(略)
N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

『南京戦史資料集2』pp.268-269


西原一策 上海派遣軍参謀第1課・
長 歩兵大佐

作戦日誌 12.8.11-13.2.18 上海派遣軍幕僚 西原一策
靖国神社 靖国偕行文庫所蔵

十二月十三日 晴
午前三時紫金山西麓の敵はその北麓を経て東に向ひ退却し岔路口附近の歩砲兵に衝突し南に折れて下五旗附近に在りし騎十三の一中に衝突せしとか
逃走兵の掃蕩は■■大に注意を要す、
天谷支隊■■に■■す 13D主力は鎮江附近に於て渡河するを可とするとの芳村参謀の報告に依り軍命令し■す 但し幕府山砲台占領部隊は南京より渡河せしむ、■午■の敗残兵約四百軍司令部北方二粁猛塘に到着せりとの報あり■■に中隊を以て之を攻撃北方に撃退せしむ、軍司令官も十一時出発高橋門に到る途中敗残兵と衝突之を■■兵にて撃退す、午后四時半■の敗残兵再ひ司令部の北側に現出し■射砲は之を砲撃す 佐々木旅団か岔路口道を全く開放せしは城内の敵を逃走せしめたるものにして■■ならす
9D長は司令部の急を聞き人見聯隊を急派せしめたり

十二月十四日 晴
人見聯隊を以て湯水鎮東北方谷地の残敵約五百を掃蕩せしむ 13D山田支隊の捕たる俘虜約二万あるも食糧なく処■に困る

十二月十五日 晴
南京城内に外人横行す又支那要人は蘇連等の関係建物内に遁入しあるか如し、長中佐現地に到り手配す

十二月十六日 晴
依然城内の掃蕩をなす、

十二月十七日 晴 暖かし
南京城入城式を行ふ歴史的場面を呈す
■路約二千の俘虜の一団に遭ふ、十四、五の子供あり

十二月十八日 曇 寒し
慰霊祭を行はる、山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか(■■より■■にかけ)その中に我方将一、兵一を俘虜と共にMGにて殺されたりと、蓋し俘虜の一団か抵抗し逃亡を企てたるための混乱の犠牲となりしものなり、大■中佐申告に来る、夕を共食す

十二月十九日 晴
午后一時半よりか号弾の実射又■■あり「てなか」弾共に効果大なり、之を大場鎮附近の攻撃に使用せは効果大なりしならん

自十二月十九日
到十二月二十二日 晴
特記事項なし

十二月二十三日 雨
十時出発 軍司令部は南京首都飯店に■る

十二月二十四日 曇
十時より兵団長会議、三時より参謀長会議を行はる、師団長の懇談に■て16D中島中将は「チャコロ」に対しては予后備兵にて■山なりと申述へたるか■■不足なりと言はさるへからすその■自己の■■の■を以て■理の如く述へられたるは可笑し



榊原主計 上海派遣軍参謀部第3課 少佐

極東国際軍事法廷 宣誓口供書
法廷証第3401号: 宣誓供述書/ 榊原主計 (文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47)
https://dl.ndl.go.jp/pid/10281166/1/1
極東国際軍事裁判所
亜米利加合衆国 其他

荒木貞夫 其他

宣誓供述書
供述者 榊原主計

自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ先ヅ別紙ノ通リ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス

宣誓口供書
供述者 榊原主計
一、私は元陸軍大佐であり現在第一復員局人事課長の地位に在ります
二、私は一九三七年(昭和十二年)八月上海派遣軍の編成と同時に同軍の参謀部員となり後方補給の任務を授けられ八月二十三日呉松に上陸し最初は弾薬の補給を取扱ひ南京入城当時は輸送に関係しましたそして翌年一月二十三日内地帰還の命を受け帰国しました
三、私は松井大将とは上海派遣軍編成以来同司令部に在つて其命令を受け又は直接意図も受けて良く松井大将の作戦方針等は知つて居ります
四、上海派遣軍の編成は全く突然のことでありましたそして編成を完了後に出発したのでは上海の陸戦隊の苦戦を救ふのに間に合はないので先づ応急動員を行ひ逐次内地を出発することになりました此の先遣隊は第三及第十一師団から出されました各々歩兵四ケ大隊砲兵二中隊の約五千人位宛の兵力で大砲は八門ありましたが弾丸は一門に対し約四百発合計三千二百機(K-K註:「発」)しか持つて行けませんでした
五、上述の様に先遣部隊の兵力は少く逐次増強されましたので上海の戦闘は非常な苦戦となりました松井大将が上陸されたのは約二週間位遅れたと思ひます加之に「コレラ」「赤痢」等悪疫が慢(K-K註:「蔓」)延した為め宝山城を全部避病院とし之が手当に努め十月頃に妨遏はしたが戦力は夥しく低下した事もあり其の他弾薬糧秣の不足等の為戦闘は常に困難でありました之れは全く此方面に対する作戦準備が完備して居なかつた事と不拡大方針に基く兵力の逐次使用によるものと思はれます
六、上海派遣軍も作戦要務令の規定する方針に従ひ占領地所在の軍需品を徴発したこともあります部隊の行ふ徴発は主として大隊の主計官が実施に当り其所持する金櫃から支払を実行するものでそれ以下の部隊又は各個人の勝手に為すことは出来ませぬ徴発したときは対価を払ふことは当然であります
七、徴発について困つたことは上海から南京に至る迄占領地の多くは其の部落には一般住民も行政上の責任者も残留して居なかつたことであります即ち交渉の相手となすべき者が存在しなかつたので結局不在所有者の現実の承諾のない状態の儘之を軍需に用ひなければならなかつたことが屡々ありました然しその様な場合には如何なる物を如何程徴発したかを明記し所有者に判明する様貼紙をして司令部へ代金を取りに来る様に記して置くのを例としました
私が現実にその様な措置を講じてあつた事実を目撃したのは無錫に於ける米の倉庫に於てでありました
八、占領地に所有者若くは行政上の責任者が居つたときは全て之等に交渉しその承諾を得て代金支払の上円満に受領した
私が現実にその様に行動した例は幾つもあるが特に印象に残つて居るのは白茆江上陸作戦の際であります上陸点附近の小村落に行政上の責任者たる村長が残留して居て交渉の当事者となつたのでその者と接衝して糧秣の補給を受けました是れに対して正当に代金の支払を為し又残留住民を保護する様に取計つたので右の村長は日本軍の秩序ある行動に感謝し我々を歓待してくれた事実があります
常熟でも其の様な例がありました
九、其他各地で制札を立て住民の保護、掠奪の禁止等を指令しましたこれは総て松井大将の意図を奉して行つたものであります南京では行政上の責任者が全く残留せず交渉の相手方がなかつたから上述した様な便宜の方法で徴発が行はれたものと思はれる難民区から徴発をしたとの話は聞いてゐません
一〇、戦場で戦術としての放火は支那軍でも日本軍でもやつた殊に支那軍の退却前に為す放火は各地で相当な被害があり此の為日本軍の進撃又は占領後の宣撫工策に支障を来しました
南京で火事があつたと言ふのも日本軍の占領前のことで占領後には大規模な火事はなかつた自分が知つて居る範囲では極く小部分が焼失して居たのみで大部分の市街は焼けて居ない夫子廟附近にしろ其他の中心地にしろ戦前の儘残つて居るのは現地を見れば明瞭であります
之を東京のそれに比較したら物の数でもない
一一、南京の外交部軍政部は傷病者の病院になつて居たのを見た然し医療は不完全で傷病者の収容も困難であつたらしいここで病人を虐殺した等のことはありません却つて米や医療品を給与した位である何分にも重病者が多かつた様であるから恢復せず死亡した者はあると思ひます
一二、俘虜は南京に行く迄は軍司令部まで送附せられたものは少く入城後約四千位の俘虜を収容しましたがその半数は上海へ送り半数を南京で収容して居た自分も幾人かは一般労務に使用してゐるのを見ましたが残虐な取扱をした事はない用務がなくなれば放免して居る現に泗縣の劉某は放免してやつた一人であるが彼に聞けば取扱ひ振りは判ると思ふ俘虜の遁亡、窃盗などは稀ではなかつた窃盗をして捕へられた者は正式に処断されたと思ふが遁亡したものは其の儘放置した筈である
一三、旧陸軍の辞令で「補○○○」とあるのは編成内の某職務につかしめ編成上定員に入るのであるが「○○○被仰付」とあるのは一定の職務を与へられず官吏としては定員外であり無任所官吏である松井大将の履歴書EX一一五中昭和三年十二月二十一日附「参謀本部付被仰付」とあるのは参謀本部に一応官吏として籍を置くのみで(欧州旅行中)何等定職を持たないことを意味するのである

昭和二十二年(一九四七年)二月二十日 於東京
供述者 榊原主計

右ハ当立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス
同日於東京
立会人 上代琢禅



証言:板倉由明「「南京大虐殺」の真相 上元門事件の研究」より

その第三課の榊原主計少佐は、「ともかく占領当時は食糧がなく、集めても捕虜に食わせることが出来ないので、各部隊が分散して持っていれば何とかなると思い、捕虜は出すな、と命令してあった。後に無錫で米倉庫が発見され、食糧の心配がなくなったので、十七日頃から捕虜を集めたところ、四千名位いた。第三課長寺垣忠雄中佐は温和な人柄で、捕虜を殺せ、などとは言っていない。山田支隊の話は聞かなかった。集めた捕虜は私が棒で二つに分け、半分は上海に送り、残りは刑務所へ収容した」と語る。

『じゅん刊 世界と日本』No.413 1984年4月5日 p.35


証言:証言による「南京戦史」(11)<最終回>より

▼榊原主計氏の述懐(上海派遣軍後方参謀35期、東京都練馬区□□□□□□□□)(K-K註:住所の詳細は伏字とした)
(筆者注)榊原氏は後方参謀として従軍、翌13年1月陸軍省人事局課員、東京裁判では松井大将の弁護側証人。老衰して記憶も薄れているが、生き残りも少ないので……と前置きされ、当時のアルバムをめくりながら、お話を伺った。
――俘虜の取扱いについて――
  軍の入城式は12月17日であったが、私は入城式に先だち、13、14日頃中山門から市内に入りました。俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食糧や収容場所などが決定しなかったので、「取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時機は速やかに示す」こととしました。
  ところが、無錫の倉庫で米約六、〇〇〇袋を押収したとの報告をうけ、また、刑務所や監獄が使用できるようになったので、入城式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。
  中央刑務所に収容された俘虜は約四〜五千であったと思います。それは翌年1月、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数二、〇〇〇人を残したように記憶しています。
(p.11)
▼榊原主計氏の回想(上海派遣軍参謀)
――南京占領、最初の二、三日間――
  南京市内の警備は上海派遣軍が担当することになり、第十六師団(20iと33i)が警備にあたったが、占領直後は第九師団の一部も進入していた。入城部隊は極力制限されていた。
  柳川軍(10A)は原則として部隊の市内進駐を認めない方針であったが、後に厳選された極く一部の部隊(大隊程度)が警備にあたったと記憶している。
  私は13〜14日頃、単車(サイドカー)で市内に入ったが、大体平穏でした。一万二千人の女・子供を含む非戦闘員の殺害の跡など認めませんでした。第一、住民はおらず、そんなに多数の殺害などできるはずがありません。13日に市内に進入したわが軍の兵力からみても、一万二千人の殺害など不可能です。
――便衣隊狩り、捕虜三万人以上殺害?――
  捕虜収容所には多少出入しましたが、「降伏後七十二時間以内に捕虜三万人以上殺害」の如き事実はありません。捕虜の取扱いについては前述のとおりです。
  便衣隊狩りの犠牲者二万人?そのような事実も無かった。私は仕事の関係上、中国の参謀本部跡の建物内に入って見ましたが、ガランドウで書類が散乱し人影はありませんでした。
  近郊の避難民約五万七千人殺害、南京市内外で約二十万人殺害?まったく荒唐無稽な数です。
――その他――
(1)中国軍の日本課長の呉石君の自宅が、五台山にあるというので、この家を捜し出して荒らされないよう処置した。後日、呉石君から礼状をいただいたが、この呉石君は陸大45期、昭和8年卒業の同級生です。
(2)徴発については、草刈工兵大尉が橋を架けるために必要というので、木材を徴発したことを覚えている。
(3)防疫給水部は軍の編制内にあったが、水質は悪いし、コレラが多発し、中国軍による毒物投入をも警戒して、防疫・給水業務に多忙をきわめた。防疫給水部が俘虜を解剖実験に使ったとかいう噂話を聞くが、そんなことは絶対にない。

証言による「南京戦史」(11)<最終回> 『偕行』1985年2月号 p.8



証言:板倉由明『本当はこうだった南京事件』より

(pp.141-142)
  飯沼日記に見るように、捕虜担当の第三課参謀・榊原主計少佐は二十一日に第十三師団に行って空しく帰っている。榊原氏の証言(註42)では、捕虜は上海に送って労役させることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた、という。どうも上海派遣軍司令部では、参謀長、参謀副長、担当参謀のいずれも捕虜の殺害命令を出していないようである。むしろ、榊原参謀の行動からは、「捕虜を収容する」方針が窺われ、「殺セ」の命令があったとすれば、正規の命令ではなく、参謀(長中佐説が有力)の出した独断命令であった可能性がある。
(p.146)
(註42)一九八三年七月三日、榊原主計氏自宅にて。

板倉由明『本当はこうだった南京事件』pp.141-142 p.146



岡田酉次『日中戦争裏方記』

解説
岡田酉次『日中戦争裏方記』(東洋経済新報社、昭和49年3月20日)
岡田 酉次(おかだ ゆうじ、1897年(明治30年)- )、三重県鈴鹿市出身。南京攻略戦当時、経理部部員 主計少佐として上海派遣軍司令部に在籍する。

P109-115
15 裏方さん南京攻略に参加

 昭和一二年一〇月頃まできわめて頑強に抵抗を続けた呉淞上陸部隊前面の中国兵も、大場鎮・蘇州河の線で破れると急に浮き足立ち、派遣軍各部隊はこれを急追一一月一九日頃には常熟・蘇州・嘉興の線に向かって前進することができた。この戦況好転に乗じ一気に南京をも攻略することは、よく敵蒋政権の死命をも制す−−との現地軍報告に接した参謀本部では、この問題を中心に今後の作戦をいかに指導すべきかにつき、慎重熟議を開始した。

 しかるに、たまたま一一月五日抗州湾に上陸した第十軍(柳川兵団)では、同月一九日朝全力を挙げて南京に向かって進撃するよう隷下各部隊に発令していた。そこで参謀本部でも、種々検討勘案のうえ、従来上海派遣軍に示されていた作戦地域の最前線蘇州・嘉興の線を改めて撤廃する旨の指令を出したのである。このことは政略的には従来の事件不拡大方針の変更であり、その放棄にも通じた。そこで中支派遣軍でも勇躍競って首都南京の攻略に向かって堂々進撃したのである。蘇州・嘉興の線を突破して兵を進めることは、きわめて重大な問題である。ちょっと考えてみても、この処置は明らかに事件の不拡大という基本方針から逸脱するが、一歩譲って考えたとしても、首都南京を攻略せんとする限りどうしてもこれを全面和平のチャンスとしてとらえなければなるまい。攻撃開始前からあらかじめ和平への見通しをつけておくか、少なくとも所要の政治工作が作戦に呼応して進められ、政戦両略の間で呼吸が合わなければ、無二の戦機を逸するだけでなく長期戦の泥沼に足を入れる懸念も大きいからである。これについては、松井石根派遣軍司令官が以前から、敗走する中国軍に追尾して南京城への追撃に移りたい旨の意見を具申しており、中央では陸軍省や参謀本部を中心に種々討議されていたのも当然である。

 討議の中枢参謀本部では不拡大方針の放棄を極度に重視し、多田参謀本部次長は強く消極論を主張したが、石原将軍の後任下村定作戦部長は追撃積極論を唱え、いわば二派に分かれて激論の末ついに積極論が採決されてしまったのである。私など派遣軍特務部にあっても、何とかこの作戦に応ずべく政治工作に手を打ったが、作戦は予想以上に迅速に進み、遂にタイミングが間に合わなかったのは千載の痛恨事であった。

 この首都南京攻略は、単に和平へのチャンスとなり得なかったのみならず、不幸、一部に起こった一般住民に対する大虐殺のニュースが中国の世論をかきたて、対日国際情勢を悪化させたと同時に、中国側をして抗日戦線の結成をさらに強化せしめる結果となったのである。

 私はこの作戦には経済・金融担当のスタッフ原田達治(東洋経済出身)等を同道、朝香宮軍司令部に加わって南京に向かった。南京入城のうえはいち早く南京市内政府系金融諸機関を接収すること、新しく占頭都市で放出される軍票の実状を調査する任務についた。すでに述べたごとく、柳川兵団が杭州に上陸した一一月五日依頼、中支派遣の全部隊は日銀券に代えて軍票を専用するよう決められていたのであるから、首都南京に多数の部隊が集中する際の軍票放出の適否は、今後の軍票対策に至大の影響を及ぼすと判断したからである。

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉街湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれに当たり、上海派遣軍と第十軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することとなり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現われ、たまたま陣地構築で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

 今度の私の従軍にも、いつものとおり中村国一というボディガードが車に同乗していた。正式には陸軍軍属中支那派遣軍特務部付中村国一である。他の章でも触れたと思うが、かれは私の育った桑名市の出身で、同地出身の代議士にして陸軍政務次官をしていた加藤粂四郎が、私あての紹介状を持たせて上海へ送り込んできた人物である。いつも私を呼ぶに″武官″をもってし、さながら殿様に仕える小姓のごとく丁重かつ献身的に奉仕してくれた。彼はきわめて放胆な男で、上海到着後も私への紹介状を持ちながら一向に来訪せず、海軍陸戦隊の行なう市内の敗残兵や便衣隊の戸別討伐に興味を持ち、しばらくこれに参加して上海の邦人間で有名になっていた。在留邦人の話では、自らは武器一つ身にまとわず常に討伐兵の先頭に立って討伐に当たるという勇敢さであったという。

 当夜も彼は私のため一浴槽を探し出し、湯の取替えやら清掃までやって、いままさに私を迎えようとしていたところへ、別の一老軍人が入浴にきた。彼は大音声で老軍人の入浴を阻止しつつ「この湯は武官の入らぬうちはだれにも入浴はさせられない」と怒鳴った。この老軍人とは、私の上司、派遣軍参謀長の塚田攻中将であったが、後日この話を同将軍から聞かされたうえ、「君は実に良い部下を持っているな」といわれ、汗顔の思いをしたが、中村の怒号でおとなしく他の浴槽に足を運んでいったというこの将軍の態度にも、一種の風格を惑じたのである。

 翌朝は戦況も緊迫していたので、原田一行を残し中村のみ同乗させて前衛部隊まで追尾し、南京城一番乗りを志して前進した。南京城壁に接近するにつれ、敵が打ち出す銃弾は頻繁となり、やむなく前衛部隊と本隊との中間にあって、断続的に前進あるいは後退した。敵弾の飛来がますます繁くなると、中村国一は俄然危いと叫んで私を自動車座席の足場に横臥させ、敷いてきた毛布を頭から私にかぶせて馬乗りになり、自らは、しこの御楯とならんかなの風情であった。今は亡き彼の人柄と当時のことを思い浮かべ、吹き出したくもなる次第である。

 前進につれて通路の両側には死屍累々として目を覆わしめるものがあり、やっと城壁から逃れ出た中国兵士達−−眼前で降服する者あるいは捕虜となって後送される者あり、また小広場では数珠つなぎのまま互いに身を寄せ合って茫然自失している敗残兵があるなど−−を至るところで見かけたが、その中には少数の女性さえまじっているのに気づいた。死に直面する人間の心理は格別で、かかる凄絶な情況における興奮は心理状態を一層激化させて、あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。

 当日の南京城攻略戦では、向かって右から第一六師団、第九師団、第三師団先遣隊、第一一四師団、および第六師団が数本の道路より進撃し、別に第一三師団と岡崎支隊が遠く迂回して背後から南京城に迫った。これらはいずれも城門への一番乗りを競って攻め込んだのである。想像するに、それは統一ある指揮のもと一糸乱れぬ前進攻撃というよりは、我れ勝ちに先を争って急進する運動会のリレー競走を思わしめるものであったろう。

 私は硝煙のなか屍を避けつつ中華門から入城、まず最寄りの交通銀行本店へ飛び込んだ。銀行の内部は混乱というよりもむしろ森閑としており、行員らはあらかじめ計画的に奥地に退避したものと判断された。従って金庫内には重要資産もなければ重要帳簿等も全く見当たらなかった。

 市内では随所に火災を見、道路上も混乱するなかを、やっと次の中国銀行その他を探し当てたが、行内はいずれも交通銀行の場合と同様であった。引き続き部隊は敗残兵の掃討や治安対策に当たったが、夜ともなると焼け残りの火焔が真紅に空をこがし、寒さも寒しで露営の夢もつかの間のうちに明けて行った。

 翌日は早朝より、光華門城壁への一番乗りで戦死を遂げた私の中学時代の同窓伊藤善光大隊長を城壁外に弔った。

 この頃になるど、比較的戦禍を免れた城外や近郊では、いずれの都市占領の場合にも見られる泥棒市場がボツボツ立ち始めるのを見受けた。金融専門の宗像久敬(日銀上海駐在代表兼軍顧問)、藤松正憲(同補佐。現足利銀行会長)ならびに替地大三(同補佐。現高千穂交易役員)等に急遽救援を求めて軍票対策に取りかかった。

 平時でも見かける例ではあるが、中国ではこうした混乱の際、盗難品を持って集まる難民による市場が生まれる。通称「泥棒市場」と呼ばれる所以であろう。かつて他の市場で安価な花瓶を宗像氏の鑑定で買い求めたことがあったが、彼はロンドソ駐在中の余暇に、同市の博物館において東洋から持ち去られた中国古陶器の研究をした通人である。もとより今回の場合は、良き掘り出しものがな、などという心のゆとりも計画もなかったが、紙巻煙草の一本売りをするこれらの市場において、日本兵士達の差し出す軍票に住民達がどんな反応を示すかが、私どもの視察の目的だったのである。時に日本兵から無理に押しつけられて手渡される軍票も、一両日の経過と日本製民需品による軍票物資交換所が開設されるにつれ、俄然これら市場から一般流通面へと流れ始めるのであった。

 市内掃討の一段落とともに南京入城式が行なわれるというので、私も特務部員として乗馬姿で一世一代の入場武に参列できるものと心待ちしたが、南京攻略前後における蒋政権側の動向など諸情勢報告のため急遽帰国することとなり、まことに心残りであった。後日松井大将の乗馬姿の入城写真を見、また将軍から戴いた入城詩の揮毫(口絵に掲出)を見るにつけ、この入城式こそは、同将軍にとっても一世一代の盛事となったに違いないと思うのである。アジアを憂え中国を愛していた彼ほどの将軍の隷下部隊から、あのいまわしい南京虐殺事件が発生したとすると、死んでも死に切れない心の痛みがあったろうと痛恨に堪えない。

 

「証言による「南京戦史」」『偕行』掲載資料
大西一 上海派遣軍参謀部 第2課参謀 大尉

述懐 蘇州戦 (第1回 p.30 2段)
証言 虐殺は絶対にない、12/13午後中山門から入城、?江門手前400-500mの首都飯店に対する第16師団の攻撃を視察、その後城内視察、12/18もしくは12/19?江門―下関道の両側及び揚子江岸に多数の死体を目撃(3000-5000人戦闘員も含まれていた) (第8回 p.8 3段)
思い出 憲兵隊(宮崎有恒)が主として匪民分離を実施、便衣兵摘出2万人はナンセンスで実態は数百名ではないか、第10軍の依頼で特務機関で捕虜50-60名を預かる、南京以降中国各地で勤務したが南京大虐殺の話は聞かなかった、慰霊碑の建立、孫文像の修理 (第11回 p.11 3段)

榊原主計 上海派遣軍参謀部 第3課参謀 少佐
述懐 捕虜の取扱い (第11回 p.8 4段)
回想 南京市内の警備態勢、12/13-14南京入城、1万2000名の非戦闘員、降伏後3日間で3万名以上の捕虜、便衣兵狩り2万名の殺害、近郊避難民5万7千名の殺害、市内外20万名の殺害は何れもない (第11回 p.11 1段)

 

参考資料