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■第114師団
第114師団 作命甲第62号 12月13日9時30分
一一四師作命甲第六二号
第百十四師団命令
十二月十三日午前九時半
於 朱家楼子北方高地
一、城内の敵は頑強に抵抗しつゝあり
国崎支隊は既に浦口に達し敵の退路を遮断しあり 集団の掃蕩地区は共和門―公園道―中正道―漢中路(含む)以南の地区とす
二、師団は攻撃を続行し城内の敵を殲滅せんとす
三、両翼隊は城内に進入し砲撃は固より凡ゆる手段を尽して敵を殲滅すへし
之か為要すれは城内を焼却し特に敗敵の欺瞞行為に乗せられさるを要す
両翼隊砲兵の配属を解く
四、砲兵隊は逐次陣地を曽家門、李家凹附近の線に推進し城内の破壊に任し且両翼隊の城内掃討に協力すへし
五、騎兵隊は前任務を続行すへし
六、戦車第五大隊は城内に進入し両翼隊の掃討に協力すへし
七、師団通信隊は前任務を続行すへし
八、予備隊は箕家門(曽家門)に位置すへし
九、予は箕家門に至る
師団長 末永中将
(以上「第百十四師団戦闘詳報」<『第百十四師団作戦資料綴所収』>)
『南京戦史資料集1』p.450
第114師団 作命甲第63号
12月13日20時00分
一一四師作命甲第六十三号
「十二月十三日午後八時於回家営」
「一、師団は南京城内の敵を掃蕩したる後、十四日城内東南部及その附近に宿営せんとす」(歩兵第66連隊第2大隊陣中日誌より)
『本当はこうだった 南京事件』p.126
「証言による「南京戦史」」関連資料 第114師団
萩原誠 第114師団兵器部
概要:述懐 歩兵第102連隊による雨花台攻撃、中華門城壁攻撃、雨花台集団虐殺2万人は虚構(第8回 p.9 3段)
第114師団戦闘詳報 11月26日〜12月5日 長興・漂陽・宜興・リッ水
第114師団戦闘詳報 12月6日〜12月14日 漂水・秣稜関・方山・将軍山・南京
附図 上陸後第114師団各部隊行動報告要図 第114師団司令部 アジア歴史資料センター Ref.C11111085200
第7図 リッ水−南京間地誌図 アジア歴史資料センター Ref.C11111086000
第114師団 戦時旬報 第4号 昭和12年12月1日〜10日
第114師団 戦時旬報 第5号 昭和12年12月11日〜20日
第114師団 戦時旬報 第6号 昭和12年12月21日〜31日
▼▼歩兵第127旅団
▼歩兵第66連隊
歩兵第66連隊 作命甲84号 12月13日0時20分
歩六六作命甲第八十四号
歩兵第六十六聯隊命令
十二月十三日午前零時ニ十分
於 南京南門東南高地
1 師団は南京入城を企図せしも城門破壊するに至らす止むなく侵入するを得す
2 聯隊(第二大隊第九中隊欠独立機関銃二小隊工兵小隊を属せらる)は南門東南方高地線を占領し夜を徹せんとす
3 第一大隊は(聯隊機関銃隊一小隊 独立機関銃二小隊属す第二中隊欠)は左第一線となり本道東側約二百米の線より鉄道線路に沿ひ集団家屋に亘る間を占領し夜を徹すへし但し陣地東側高地は一小隊を以て確実に占領せしむへし
4 第三大隊は(第九中隊欠聯隊機関銃(一小隊欠)歩兵砲中隊を属す)は右第一線となり左第一大隊に連繋し集団家屋東側を経て南側に亘る間に陣地を占領し夜を徹すへし但し一小隊を以て集団家屋南方高地を確実に占領せしめあるへし
5 聯隊砲中隊通信班は別に指示する位置に在りて露営すへし工兵小隊は南門破壊の為敵情地形を偵察すへし
6 第二中隊は聯隊本部前に単哨を配置し警戒せしむると共に別に指示する位置に警戒兵を配置すへし
7 第四中隊は捕虜の警戒に任せしむへし
8 本夜に於ける合言葉は宮常とす
9 予は聯隊本部に在り命令受領者を出し置くへし
聯隊長 山田中佐
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p.564
歩兵第66連隊 作命甲85号 12月13日3時10分
歩六六作命甲第八十五号
歩兵第六十六聯隊命令
十二月十三日午前三時十分
於 南京南門東南方高地聯隊本部
1 敵は城壁に於て頑強なる最後の抵抗を試みつゝあり
旅団は本十三日更に中華門突撃を復行す野砲一大隊重砲一中隊を以て直接協力せしめらる
突撃実施要領左の如し
イ、重砲兵第一中隊中華門附近城壁の破壊次て野砲隊の支援射撃の下に突入す
ロ、突撃に当りては各種重火器等を屋上及雨花台等に配置し徹底せる支援射撃を実施
ハ、突撃順序は歩兵第百弐聯隊歩兵第六十六聯隊とす
2 聯隊(編祖旧の如し)は成る可く多くの重火器を以て歩兵第百弐聯隊の突撃を支援し歩兵第百弐聯隊突撃後突入し左の地区を掃蕩せんとす
協和門より西方に通する大街以南の地区にして南門より北方に通する大街の東側にして更に周家凹東端―養虎■―琵琶湖敬政府社会局―大陸銀行に通する大街以西地区を旅団の担当地区として其の西半分を歩兵第百弐聯隊突入部隊に於て其の東半分を歩兵第六十六聯隊に於て担任す
3 歩砲協定の要領左の如し
イ、中華門附近城壁に突撃路開設は重砲隊担任し天明後より開始す
ロ、突撃路開設後時間を協定し砲兵の支援射撃を実施す
ハ、突撃路開設の為め射撃開始及其終期並に突撃支援射撃の実施時刻並回数等は本日之を示す
4 第一大隊の重火器及配属重火器及聯隊砲中隊及歩兵砲中隊は本道上雨花台附近に午前七時陣地を占領歩兵第百弐聯隊の突撃及聯隊の突撃を援助すへし
5 第三大隊(配属部隊旧の如し)は突入部隊となり歩兵第百弐聯隊に引続き突入し前項掃蕩区域を掃蕩すへし
6 軍旗中隊たる第二中隊は連隊本部と共に掃蕩成功後城門に入り楼上に上り皇居を遥拝すへし
7 其他の部隊は現態勢に在りて待期すへし但し小行李は雨花台南側に至り弾薬補充に任すへし
8 予は午前七時雨花台北側高地に在り同時命令受領者を出し置くへし
連隊長 山田中佐
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p.564-565
歩兵第66連隊 連隊命令の要旨 12月13日12時00分受領
七、午後零時左記聯隊命令を受領す
聯隊命令の要旨
師団は南京城内の敵を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内にて北方法院南側を東西に通する頼楼外以北の地区に宿営す
聯隊は希望街(二万五千分の一)市政府北側を東西に通する道路の以北の地に宿営せんとす
歩兵第百弐聯隊は市街以南地区に宿営す(旅司、旅団予備隊は同地に宿営す)聯隊砲及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を進発城内に至り別に宿営する地域に移宿す
聯隊長注意事項
イ、聯隊戦死者の聯隊諸兵慰霊祭を行はんとせしも情況之を許ささるに附諸兵に伝達し置く事
戦没者を出したる各中銃砲隊は午後七時建制の順序に聯隊長礼拝の時巡回するに附各中銃砲隊は一室に遺骨を奉安し準備しあること
礼拝者は聯隊長大隊長中隊長小隊長以下の代表者を可とせん但聯隊内に姻戚者あるときは其の隊より連絡し礼拝すること各中銃砲隊南京攻撃中畏くも侍従武官を御差遣あらせられ諸兵労苦の情態をみそなわせられたり
其の際下賜せられたる聖旨令旨の伝達式を本日中に行ひ其際上司の訓示祝詞を徹底せしむべし尚昨十三日午前十一時三十五分南門楼上に於て軍旗を捧持し聯隊将兵を代表し軍旗中隊と共に遥かに皇居に対し聖旨に答へ奉る此件も諸兵に徹底せしむへし
参謀注意事項
イ、十五日頃入城式十六日頃慰霊祭を実施せらるゝ予定之か参加部隊は一部にして主力は可成速に長興宜興間に集結する慰霊祭の服装は軍装にして鉄帽を除く入城式に参加する部隊は歩兵二個大隊慰霊祭に参加する部隊は歩兵一大隊聯隊砲聯隊機関銃は一銃携行
ロ、各部隊は大隊長若は大隊長代理の引率を以て十四日午後徒歩を以て行軍する事を得(服装は執銃帯剣)
ハ、特に軍紀風紀火災掠奪の防止に注意する事支那人以外の住宅を侵かさゝることを厳守すへし
ニ、橋梁は南門のみ車輛を通す
ホ、大行李案内の為十四日午前九時迄に案内者を師団司令部に差出し大友大尉に連絡すへし師団は雨花台要塞山下にあり又十四日午後五時迄に宿営地に還らせしめられたし
ヘ、給水車班は南門外停車場附近にあり開設しつゝあり
経理部注意事項
イ、各部隊は宿営地に散在せる物資は其の宿営部隊に於て適宜処置すへきも大量なる場合は通報する事(聯隊本部に通す)
ロ、糧秣は南門外の糧秣倉庫に於て何時たり共渡す
兵器部注意事項
イ、十四日の弾薬補給時間は午後二時迄に補給すへし
補給すへき弾薬左の如し
小銃 平射砲 総家門(雨花台附近)
ロ、射耗弾数を調へ定数を補給すへし
ハ、弾薬箱及薬莢は同地に集結すること
副官部注意事項
イ、地雷敷設多し特に注意する事
大行李は明十四日諸隊の位置に分進したる後華層楼附近に宿営すへし
師団経理部長はマ(K-K註:クサカンムリに麻)田橋附近に野戦倉庫を開設して後方より来る糧秣を集めると共に速に南京に於て糧秣を徴発し先つ之を以て諸隊に補給すへし
師団兵器部長は総華門附近に弾薬交附所を開設すへし(師団東南約三粁の地点)南京城内外の「クリーク」の水には撒毒なし給水班は一部を以て華神廟に位置し給水に任すへし
各隊は弾薬を明十五日夕迄に南門外広場に集積すへし
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p566-567
歩兵第66連隊命令 12月13日14時00分
八、午後二時零分聯隊長より左の命令を受く
左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
貴大隊の任務は前通り
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p.567
歩兵第66連隊 作命甲86号 12月13日21時00分
歩六六作命甲第八十六号
歩兵第六十六聯隊命令
十二月十三日午後九時零分
於 南京南門北方千五百聯隊本部
イ、南京を死守せし敵は我聯隊の猛攻に依り捕虜千数百名を残し本十三日午前十一時三十五分南京南門を奪取し次て掃蕩隊をして指定区域を掃蕩し残敵約百名を斃し南京を明朗化せり尚鹵獲兵器弾薬物資数多得たり
ロ、聯隊は本十三日夜本部及び掃蕩隊を次て南京市内に其他を南京市外に宿営せんとす
ハ、各隊は指示せし区域に舎営すへし
ニ、南京宿営部隊は指示せし位置に下士哨を配置し尚宿舎直前に警戒兵を配置すへし市外宿営部隊は第一大隊長に於て警戒を担任すへし
ホ、軍旗中隊たる第二中隊は軍旗歩哨の外本部前に単哨を配置し本部の直接警戒をなさしむると共に下士哨をクリーク橋梁南側に出し道路南方に対し警戒せしむへし
へ、第三大隊長は歩兵一小隊を柳川部隊本部(上海銀行)に至らしめ同管理部員の指示を受けしめ警戒の任に当らしむへし
ト、通信班は聯隊本部と旅団司令部間に電話を架設すへし
チ、本夜に於ける合言葉は宮 常とす
リ、予は南京市内聯隊本部に在り命令受領者を出し置くへし
聯隊長 山田中佐
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
注意
南京市内に各国の国旗を掲揚しある個所は特に侵入せさる様注意すること外人自動車に依り視察し且写真撮影しある形跡あり一兵に至る迄個人の意志を以て徴発等行はさる如く注意を要す
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p.568
歩兵第66連隊 作命甲87号 12月13日23時00分
歩六六作命甲第八十七号
歩兵第六十六聯隊命令
十二月十三日午後十一時〇分
於 南京南門北方千五百聯隊本部
イ、師団は南京城内を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其の附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内に於て地方法院南側を東西に通する道路(頼楼街)以北の地区に宿営す
ロ、聯隊は希望街(二万五千分の一地形図市政府北側を東西に通する道路)以北の地区に宿営せんとす
歩兵第百弐聯隊は該市街以南地区に宿営す(旅団司令部及旅団予備隊も同地に宿営す)
ハ、聯隊砲中隊及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を出発城内に至り別に指示する区域に移宿すへし
ニ、予は依然現在地に在り
聯隊長 山田中佐
下達法 先つ要旨を各別に下達し次て命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』pp.568-569
[第1大隊]
歩兵第66連隊第1大隊命令12月12日19時50分
大隊命令
十二月十二日午後七時五十分
於 南京南門外大隊本部
1 敵は揚子江を渡り続々退却中なるも尚多数の残敵は城内外に在りて頑強に抵抗しつゝあり
2 大隊(第二中隊欠、独機二小隊RMG1/4を附す)は午後七時概ね南門外の掃蕩を終り南京城外を占領し四周の敵に対し警戒し夜を徹せんとす
3 各隊は大隊副官の指示により各々配置につくへし
4 警戒に関しては四周に対し歩哨を配置する外第一中隊は南側高地に第三中隊は警備地西側に第四中隊は警備地東側に各々下士哨を配置する外一部を以て掃蕩担任区域の警戒に任すへし又別に第三中隊より一ケ小隊を出し警備地南側高地を占領すへし
5 給養は現地物資に依るへし
6 余は大隊本部に在り
命令受領者を出し置くへし
第一大隊長代理 渋谷大尉
下達法 各隊長を集め要旨を伝へたる後命令受領者を集め口達筆記せしむ
注意事項
1 南京城外の掃蕩に於て捕虜一、五〇〇余名
曲射砲 二
歩兵砲 一
自動車 一
重機 六
軽機 二〇
小銃 一、五〇〇
拳銃 五〇
高射砲 二
弾薬 五〇、〇〇〇
を鹵獲し頑強に抵抗せる敵兵七〇〇名を殪せりわが損害軽微にして南京攻撃の最後を飾りたる将兵の努力を多とす
2 南京付近に於て生水を飲用せる某隊の兵二名は即死せり絶対に飲用せさること
3 火焔を絶対に戸外に洩らさす且つ喧噪に亘らさること砲撃を受くる顧慮大なり
(現に二回に亘り砲撃を受けたり)
尚各隊共に家屋防禦の設備をなし敵の来襲に備ふへし更に第四中隊は全員を以て捕虜の監視に任すへし
4 残置せる背嚢は明日中に中隊の半数の人員を以て運搬し得るの準備にあるへし服装は執銃帯剣とす
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』pp.561-562
歩兵第66連隊第1大隊命令12月13日1時40分
二、右聯隊命令に基き左の大隊命令を下達す
大隊命令
十二月十三日午前一時四十分
於 南京東南高地大隊本部
1 師団は南京入城を企図せしも城門を破壊するに至らす止むなく進入するを得す
聯隊は南門東南方高地線を占領し夜を徹す
2 大隊は連隊の左第一線となり本道東側約二〇〇米の線より鉄道線路に沿ひ集団家屋に亘る線を占領し夜を徹せんとす各隊は前大隊命令に基き益々警備を厳にし夜を徹すへし
3 本夜に於ける合言葉は「ミヤ」「ツネ」とす
4 余は大隊本部にあり
命令受領者を出し置くへし
第一大隊長代理 渋谷大尉
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集』p.564
歩兵第66連隊第1大隊命令12月13日5時00分
大隊命令
十二月十三日午前五時〇分
於 南京東南高地大隊本部
1、敵は城壁に於て最後の抵抗を試みつゝあり旅団は本日十三日更に中華門突撃を慣行す
野砲兵第一大隊重砲兵一中隊を於て直接協力せらる突撃実施要領左の如し
重砲兵の中華門附近の城壁の破壊次て野砲隊の支援射撃の下に突入す
突入に当たりては各種重火器等を屋上及雨花台高地に配置し徹底せる支援射撃を実施す
突撃順序は第百弐聯隊次て第六十六隊隊とす
2、大隊は午前七時迄に雨花台高地を占領し聯隊の中華門突入を掩護し併せて昨日に引続き残敵の掃蕩を実施せんとす各隊は同時刻迄に配備を完了しあるへし細部に関しては現地に於て指示す
3、軍旗中隊たる第二中隊は聯隊本部と共に掃蕩成功後城内に入り楼上に上り皇居を遥拝するにつき其の時機に於て大隊は共に皇居を遥拝すへし
4、予は午前七時左より第一線配備を巡視したる後本部位置に在り
命令受領者を出し置くへし
第一大隊長代理 渋谷大尉
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』より)
『南京戦史資料集1』p.565-566
歩兵第66連隊第1大隊 南京附近戦闘詳報 12月13日par.「八」
歩兵第六十六連隊第一大隊戦闘詳報
自昭和十二年十二月十日 至昭同十二月十三日
(K-K註:12月13日の抜粋)
八、午後二時零分聯隊長より左の命令を受く
左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、聯隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
貴大隊の任務は前通り
九、右命令に基き兵器は第一第四中隊に命し整理集積せしめ監視兵を附す
午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は露営地南方谷地第三中隊は露営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることゝせり
但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知させさる如く注意す
各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り
聯隊に報告す
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり
捕虜は観念し恐れす軍刀の前に首を差し伸ふるもの銃剣の前に乗り出し従容とし居るものありたるも中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり
『南京戦史資料集1』pp.567-568
大関初次 第66連隊第1大隊 大隊本部 上等兵
証言
「私はたおれた一刈大隊長とともにいたので、第一線のことは知りません。部隊の後をついて行きましたが、捕虜のことは聞いたことがありません。
戦闘中のことだから、捕虜というより敵という感じが強かったのではなかろうか」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211
一兵士(所属不明)
日記
(12月13日)
午後五時、南京外廊にて敵下士官六名を銃剣を以て刺殺す。亡き戦友の敵をとった。
全身返り血を浴びて奴ののど笛辺りをつきたるや、がぶ血をはいて死ぬ
。背中と云はず腰と云はず、刺して刺して刺しまくり、死ぬるや今度は火をつけてやる。中に、ウナリ乍ら二、三尺はい出すのがある。生温い血が顔にはねる。
手を洗はず夕食を全く久し振りで食べる。
秦郁彦『南京事件』p.159
第3中隊
原貫一 第66連隊第3中隊 指揮班
証言
「負傷したものですから第一線に遅れて雨花台の方に進みますと、中国兵の捕虜がいました。そこは戦線の後方で、一旦捕らえて放したものでしょう。問題の捕虜は第一線にいた捕虜だと思います。
戦闘詳報に書いてあるのでしたらそういうことがあったのでしょうが、私はそれは見ていませんからなんとも言えません。
しかし、南京事件を調べている人たちに、そのときの様子をどんなに説明しても分かってもらえないでしょう。戦場にいなかった人にその場をいくら説明しても正確には伝えることができないからです。
私は中隊の指揮班で給与係をやっていましたから、食料がないことはよく知っていました。だからああいう戦闘の状況で捕虜を処刑したと聞いても分かります。戦場を知っていれば、その処置に対して何も言えません。それが戦争です。
それに世の中は勝てば官軍ですから、第六十六連隊は何を言われてもしょうがありません。そう思っています」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.210-211
森尾市太郎 歩兵第66連隊第3中隊 中隊本部 上等兵
証言
「十二月十二日夜、中隊長と一緒の濠の中にいましたが、まわりには死んだ者や負傷者もおり、そのとき、中隊長のそばにいた兵隊はわずか十二、三人でした。
そのうち、上から、明日、南京城突入という命令が来まして、中隊長は、この兵力で攻撃か、と涙を流していました。
十三日朝、城壁の前の高台で中隊長と一緒だったことは記憶していますが、私は昼前、中華門から入り、そのとき中隊長も一緒だったかどうか記憶にありません。
城内では煉瓦作りの建物を中隊本部にして、中隊長もここにいました。
十三日、十四日と二晩南京城内にいて、私は十五日か十六日、中隊の遺骨を持って日本に帰るよう命令され、下関から船に乗りました。師団の遺骨を持っていた渡辺さんと一緒です。
捕虜については何も聞いておりません。捕虜を捕まえたり、命令があったということを陣中日誌に書いたこともありませんでした。
南京で一番記憶に残っていることは、下関に相当死体があったことです。下関から船に乗るとき見ました。凄惨だと思いました。
三月に原隊に戻りましたが、虐殺という話は戦後聞いたことで、中国兵は軍服を脱いで市民になりすましていたのでそういう兵隊をやったことを虐殺と言われているのでしょう」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.212
渡辺紋蔵 歩兵第66連隊第3中隊 第1小隊 小隊長 少尉
証言
「第三中隊は十三日、十四日と城内にいたので捕虜を捕らえるということはありませんでした。
城内に入ってしばらくするうち、私は師団の四百柱の遺骨を持って内地に帰るように命じられたので、南京から上海に向かいました。入城式(十七日)の前のことで、ですからあの入城式は全く知りませんでした。
翌年二月に原隊に復帰したとき、南京では捕虜が二百人から三百人いたと聞いたことがあります。
いま南京で虐殺があったと話題になっていますが、当時私が知っていたのはそれだけです。
南京虐殺ということは戦後になって初めて聞きました。
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211
藤沢藤一郎 歩兵第66連隊第3中隊 上等兵
第六十六連隊はこのあと中支に転戦して、昭和十四年八月に内地に戻り解散となる。
解散のとき、藤沢氏は軍曹まで進み、大隊本部に勤務していた。解散にあたって大隊の記録は宇都宮五十九連隊留守部隊に収めたが、このとき、藤沢軍曹は記念として第一大隊戦闘詳報を貰った。何か記念になるものを、と思ったが、戦闘詳報は同じものが二部か何部かあり、そのうちの一部を貰った。
留守部隊に収めた記録は終戦時に焼却されたから、当時の記録は藤沢氏が持っていたものだけになった。戦後、サンケイ新聞や栃木新聞が第六十六連隊史を連載したときこれを貸し出した。昔はコピーがなかったので戦闘詳報の複製が出回ることもなかったが、数年前に貸し出したときからコピーが出回るようになった。戦闘詳報の原本は昭和六十一年八月の台風十号で畳の上四十センチほどまで浸水して水びたしになったので、日記とともに捨ててしまって今はない。
一時間近くの藤沢氏の話はこのようなものであったけれど、肝心の虐殺命令については一切ない。そこで改めて質問することにした。
*
――戦闘詳報によると、第三中隊も捕虜をやったとありますが。
「全然知りませんでした。第三中隊は十三日からずっと城内に入っていましたから」
――捕虜をやったことを第三中隊の他の人から聞いたことはありませんか。
「ありません」
――第三中隊は十三日全員城内に入ったのですか。
「全員かどうかわかりませんが、ほとんど入ったと思います」
――戦闘詳報を持っていらっしゃいましたが、捕虜処刑のところを読んでどう思いましたか。
「戦闘処刑は全部読んだわけではなく、自分の戦ったところだけを見たものでしたから。そのところを読んでどう思ったかについては特別記憶はありません」
――戦闘詳報がまるっきり嘘を書くことはないと思いますが。
「そうです。戦闘については中隊から来た戦闘詳報をもとに書きます。嘘を書くということはありません。ただし鹵獲兵器などは数字が来ますけど、もともと正確に数えていませんから、九十とあったら百と書くとかそういうことはあります。しかし、捕虜のことはよくわかりません」
――投降してきた中国兵がいたといいますが。
「さあ、私らが城壁の前で中国兵と向かい合っていたときはそういうことはありませんでした」
――西沢中隊長からは何か聞いたことはありませんか。
「西沢さんは本を書いていますが、そういうことは載っておりません。中隊会などでも虐殺したなどということは聞いたこともありません。
お役に立てずにすみません」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.210
久保田和三郎 歩兵第66連隊第3中隊
証言
「南京城を見たときは感動しました。
十二日ごろ、城壁を前にしていたとき、くすんだ白旗を揚げた丸腰の中国兵が来た。線路上に腰をおろしていたのを覚えている。その日と翌日の二晩、近くの校舎のようなものに泊め、二回食事を与えた。城外の濠には相当死体があって、そこを超えて南京城に向かったが、私は入城式には参加しなかった」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211
水沼兼吉 歩兵第66連隊第3中隊
証言
「南京城壁の前で戦っていたとき、白旗を揚げて中国兵が投降してきたのをおぼえています。人数は百人弱でした。
第三中隊が城内に入ったのは朝か昼かはっきりしませんが、夜ではありませんでした。そのとき第三中隊はまとまっていたと思います。
中国兵のことですが、我々が城内にいたとき、中隊の幹部の人、西沢さんじゃありませんでした、指揮班の人あたりだったと思います、その人が、捕虜をやる、といって希望者を募っていました。
戦闘詳報に書いてあるものでしたら、そのとき何人かが城外に戻ってやったのではないかと思います。ただし捕虜をやった場面は見ていませんからそれは私の想像です」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211-212
第4中隊
手塚清 歩兵第66連隊第4中尉 中隊長 中尉
証言
昭和十二年十二月七日、南京に向かっている途中、手塚隊長は負傷し、平沢少尉と交代した。すぐ後方の野戦病院に運ばれた。野戦病院といっても形だけのものである。それから一週間ほどで南京は陥落し、入城式の日になって手塚隊長は南京城内に運び込まれた。それから数日後、上海に運ばれ、そこの病院に入院した。
翌十三年一月にほぼ傷が治って、第四中隊に復帰して平沢代理と引き継ぎをすることになった。引き継ぎをした際、その間のさまざまな報告を受けたけれど、捕虜を殺したというような話は何も聞かなかった。
しばらくすると、別の部下から、南京で中国兵を殺したという話を聞いた。そのときは、別段気にもとめていなかったので詳しく聞くことはしなかったが、数人の中国兵をやった、というニュアンスで部下の話を聞いた。
南京で中国兵をやったという話を聞いたのはそれだけである。もし戦闘詳報のようなことがあったとするなら、そのことではなかろうか。
こういう話である。
その後、誰が命令したと考えられるか、捕虜に対して手塚隊長はどのような考えを持っていたかなどを質問すると、手塚中隊長は次のように言った。
「激しい戦闘でしたから敵愾心は相当なものでした。
あのころ、一刈さんも負傷していましたから、渋谷さんが命令したのだろうか。
渋谷さんは現役の将校で、第一大隊の現役は一刈さんと二人だけでした。連隊が編成されるというので満州から急遽やってくることになったが、宇都宮まで来る時間がなかったので五島列島で私たちと一緒になりました。まあ豪胆な人でした。
しかし、中国兵をどうするというのは大きい問題だから上のほうに問い合わせたと思います。」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第18回 『丸』1990年6月 p.211
小宅伊三郎 歩兵第66連隊第4中隊第1小隊 小隊長代理 曹長
阿羅健一『兵士たちの「南京事件」 城塁』 連載第19回(『丸』1990年7月号)pp.212-213
「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の掩護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。
兵士廠の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、五、六発が私の近くに当たった。
それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った。検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせ等があり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。あとで千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜二、三百も合わせると千五百人になると聞いた記憶がある。
しかし、あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない。
その日の夕方だったと思うが、先輩の大根田副官から、この日の捕虜で誉められ、また、極秘だが引き続き杭州作戦があるといわれた。それを聞いて、兵隊たちは極度に疲労しており、さらに作戦があるのはひどいと思いました。
その後捕虜についてはどうしたのかはっきりした記憶がない。それでも捕虜収容状況を見に行き、行ってみると、収容所が騒然としていて警戒にあたる兵隊の苦労は大変だと思っていたのが印象に残っています。また、部下から捕虜への給与がなくなるとの問い合わせもあり、警備の交代と給与のことを大隊長に言った記憶がある。
一刈(大隊長)さんは負傷していましたが、片足になっても南京に突入するという頑固な人で、担架かなんかで運ばれてついてきました。大隊長に捕虜の件について言ったような気がしますが、大隊長からどういう答えがあったのか記憶にないのです。私は引き続き城内掃討もしなくてなりませんし、忙しかったのでその間も飛び回っていたと思います。
ただし、満州事変にも参加しており、常に軍紀に厳しく言っていました。捕虜を殺すように命令したなどということはありません。
城内に入っても兵隊の編成替え、誰を入城式に参加させるか、戦闘詳報の整備などで忙しく、私自身は入城式にも参加していません。
城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理とはそのとき久し振りに会ったくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。
戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決裁を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。
捕虜の取扱は国際条約で定められており、捕虜とは戦意を失い、降伏して我が方の命令指示に従順に従う者をいいます。しかし、捕虜と言われている中には、戦闘に敗れ抗戦力を失い一時降伏の意を表し、収容されると群れをなしてただちに反乱したり、偽装降伏して再度戦線復帰の機をうかがうものがいます。捕虜護送中、捕虜が護送兵を急襲して武器を奪い、大脱走した例もあり、捕虜として確認するのには相当の日時を要することが多いのが現実です」
以上が小宅曹長の話である。
第一大隊戦闘詳報には「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」とあり、このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長代理のことであることが分かったが、小宅小隊長代理は、捕虜を捕らえたのは確かだが三人を伝令に出したりとかそういうことは一切なかったという。
そして、中国兵を捕らえた小宅小隊長代理が捕虜虐殺命令を出したことも、そのような考えを持っていなかったことも分かった。
最後に、渋谷第一大隊長代理、平沢第四中隊長代理あたりが実際命令したらしいという話もあるが、どう思いますか、という問いに小宅氏は、
「あの前後、渋谷さんや平沢さんがどうしていたかはっきりしませんが、ともに第一大隊本部にいたのではないかと思います。また、捕虜がいたことについては一刈大隊長も知っています。問題は捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません。
しかし実際どうだったのか、捕虜を捕らえて第四中隊を指揮していた私すら知らないので、相当混乱していたと思います。誰がどうしたのか私には全く分かりません。
第一大隊戦闘詳報に書いてあるのでしたら、形の上では一刈大隊長ということになるのでしょうか」
このように答えた。
高橋文雄『野州兵団奮戦記』 (昭和58年4月10日発行)
pp.260-261
その第一大隊も、北支戦線にいる五十九聯隊のように、内地宇都宮の留守隊から補充兵が未到着であり、わずか近衛の独立機関銃大隊の二個小隊が配属されただけ。第一線の第一、第三中隊は編成定員百九十四人が相次ぐ激戦で半数を割った。岡田恒房中尉(高根沢町)の第二中隊は聯隊の予備隊。第四中隊は南京総攻撃前に大貫龍男(大田原市野崎)、加藤箕三郎(宇都宮市)小隊長が戦死。総攻撃開始直前に頼みの綱の手塚清中隊長(宇都宮市)も負傷したため、ただ一人残った将校の平沢新次郎小隊長が中隊長代理として第一大隊の予備隊となった。小宅伊三郎中隊指揮班長が第一小隊長兼務となり、戦場に残されている第一大隊の負傷者の収容と仮包帯所への後送任務を渋谷大尉から命ぜられ、任務に当たっていた。
当時の状況を第四中隊の小宅伊三郎さん(益子町生田目)は、
ひとことの痛みも口に出さない部下思いの手塚中隊長殿。秣陵関の敵攻撃中、半身に敵機関銃弾四発を受けて重傷の五島善作軽機関銃手(塩原町関谷)。五発の敵弾を受けたが右のポケットに入れてあった大貫小隊長殿の遺骨と認識票で奇跡的に生命が助かった県栄分隊長(宇都宮市二条町)など数多くの重傷者と衛生兵を抱え、敵の真っただ中、逆襲を考えながらの一夜はつらかった。師団主力は急行列車のように、南京へ南京へと前進して行き、夜明けには友軍の姿はなく、ウチの小隊の五十人足らずとなった。計画どおり負傷者を後送し、身軽になった小隊は第一線に追及のため、南京街道上を出発したとたん、敵の攻撃を受け、街道上は前進不能となり、田んぼのアゼを遮蔽物として各兵の距離二、三メートルとり、匍匐前進した。山頂の敵の射撃は正確で、前後左右に横なぐりに突きささった。このため苦しい匍匐を約一キロして、やっと危機を脱した。何回も敵襲に遭ったが応戦せず、夕刻大隊の後尾についた。奇跡的に一人の負傷者もなかった。師団は敵に行動をわからせないよう戦死者をダビするほか火気の使用を厳禁していたので、私は天幕をかぶり、ローソクの光で地図と地形を照合したら、南京近くきたのがわかった。そのころ兵隊は谷間に火を発見。腹が減っては戦にならぬと、飯ゴウを並べて飯をたいた。私もそこに行った。兵隊は少しでも早く炊きあがるようにとそばに丸太が五、六本あったので、それを燃やせと火の中に入れようとした。よく見たら、丸太の先に焦げた軍靴がついていた。兵隊が炊事をしていた火は、戦友たちの遺体を火葬にした火と知った。今さら他に火を求めることもできないので、涙ながらにこの火で炊いた飯ゴウ飯をたべた。
と回想してくれた。
p268
ウチの大隊は雨花台の要塞に近い敵の築城地帯内で、陣地戦を展開。下関方面の敵重砲と雨花台の迫撃砲の猛砲撃を浴びて苦戦中であった。とくに第三中隊は敵陣地の真ッ正面で、四つに組んでの大激戦になり、相当の損害がでていたようだ。まだ予備隊であった私は破壊された中国民家内で、陣地攻撃の原則を考えた。陣地内の戦闘はどうしても白兵隊(K-K註:ママ)になるので味方に不利。敵が予期しない方面に引っぱりだしてたたくか、包囲しか手がないであろうと考えていた。そのとき、敵迫撃砲の集中射撃をくった。その一弾が目の前でさく裂し庭先にあった大きな中国ガメが吹っ飛んで姿を消し、あたり一面にハクサイのつけ物が散乱した。だれともなしにはいだして、泥によごれたつけ物をむさぼり食った。私もその一片を食べたが、そのうまいこと。とても言葉には表わしようがないほどだった。五十九聯隊に在隊中、満州事変に出征したが、そのとき砲煙弾雨のなかで戦友たちとキャベツを食べたことを思いだした。思えば今度の戦争で杭州湾上陸いらい、ふるさと益子の野山で遊び回った三人の幼な友達が壮烈な戦死をとげ、遺体の手を涙ながらに握りしめて別れたが、いま私が生きているのが不思議なような気がした。そのとき、第四中隊は第三中隊の右翼に進出せよとの大隊命令を受けた。攻撃前進を始めたとたん、中隊は乱戦にまき込まれ、うちの小隊は中隊主力から孤立した。各個躍進する小隊の先頭に立った私は、着剣した小銃を握ったまま戦死している戦友を発見した。軍服の名札に「竹井」と書いてあった。まさに味方のしかばねを乗り越えての戦闘であった。
p272
擲弾筒と手榴弾で敵を制圧していたら、軽装甲車隊長の井上中尉殿が私のところに「敵の対戦車砲で動きがとれない。宇都宮さんでこれを攻撃してくれ」といってきた。豪胆な田波希平分隊長(元小山市農業協同組合長)と山形徳治分隊長(西方村)に乏しい兵力のなかから二個分隊をさき、奇襲攻撃を命じた。田波分隊は敵将校が死守する対戦車砲陣地にひそかに近づき、石川寛軽機関銃手(真岡市)の発射を合図にこれを不意急襲し、敵を撃退したばかりでなく、砲二門を分捕って意気揚々と引き揚げてきた。このため、軽装甲車隊の行動が容易になったので、精強を誇る敵兵のなかにも白旗を立て投降するものが続出した。これを見た敵将校は城壁上や後方から投降せんとする味方の兵を有無もなく射殺した。戦争とはむごいものだと思った。
田波希平 歩兵第66連隊第4中隊 分隊長
証言
「南京城には城壁からでなく、城門から入りました。中華門だったと思います。入った日にちははっきりしませんが、昼だったと思います。
捕虜は城外にいたとき、何人かいてご飯を食べさせました。その後、大隊から命令が来たのか、その捕虜を処分することにしました。夕方でした。平沢(第四中隊長代理)あたりからの命令のような気がします。
捕虜にご飯を食べさせたことも、やったことも、考えてやったことではありません。すべて命令です。あのときは無我夢中で、それが戦争だと思っていました」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.212
[第2大隊]
歩兵第66連隊第2大隊 作命第52号 12月13日21時30分
a この作命を受けた歩六六―Uでは、同十三日「午後九時三十分於回花営」(筆者註「回家営」の間違い?)とするU作命五二号を発令している。
『本当はこうだった南京事件』p.126
青柳忠夫 歩兵第66連隊第2大隊 副官 少尉
証言
青柳氏にとって、軍隊時代の体験は今でも心の中で大きな部分を占め、大切に保存しているハードカバーの陣中日誌をたまにひもとくこともある。陣中日誌には第六十六連隊から受けた命令と、それを受けて第二大隊が出した命令がすべて記録されている。大隊副官の陣中日誌であるけれど、第二大隊の戦闘詳報はこれを基に書かれたものであるから、第二大隊戦闘詳報の原本にあたる。第一大隊戦闘詳報と同じ価値を持つ。
青柳氏は大隊本部にいただけに軍の命令には詳しく、第六十六連隊の命令について具体的に聞くことができた。
青柳氏は陣中日誌をもとに命令の実際について話をし、また、陣中日誌に書いていないことも話してくれたが、まず、たずねたことは、第二大隊にはどのような捕虜処刑の命令が来ていたかということである。
しかし、青柳氏の陣中日誌には捕虜処刑の命令が書かれていない。
そこで、日誌には書かれていないけれど命令はあったのではないかたずねると、青柳副官は、連隊から捕虜処刑という命令を受けた記憶はないときっぱり答えた。
その代わり青柳氏は自分が直面した捕虜の話をしてくれた。
十二月十二日のことである。もしかすると、一日のずれがあるかもしれないが、十二日前後のことで、南京突入を今か今かと身構え、連隊、旅団、師団の各司令部がだんご状態になっていたときのことである。第二大隊は師団司令部の護衛をしていたが、そのとき、中国兵を捕らえた。中国軍と日本軍は入り乱れていたから師団司令部の近くにも中国兵がたくさんいて、中国兵を捕まえたからといって特別奇異なことでもない。捕らえた数は三百から五百であった。
青柳副官ははじめての経験だったためどうしたものかと近くにいた師団参謀長磯田三郎大佐に指示を仰いだ。銃声、砲声がひっきりなしで、混乱している中でのことである。すると、磯田参謀長からは、
「厳重に、しかるべく処理せよ」
と指示がきた。
その指示を受けると、青柳副官は、捕虜に銃と弾と持ち物をその場に置いて、前に進むように、と通訳に言わせた。銃弾は部下に命じて集めさせ、持ち物は没収させた。中国兵は全員を戦線の後方に連れていって釈放させた。
没収した中国兵の持ち物とは米の入った袋であるけれど、青柳副官は参謀長から指示されたとき、すぐにこの袋を狙おうとしたのだ。なにしろ数日間、満足に食べていないので、中国兵を見たとき、これが真っ先に目に入り、結局、日本兵で食べた。
当時、何人かの新聞記者が師団司令部にいて、その中に青柳副官と大学で同窓の三船四郎朝日新聞記者もいた。これをそばで見ていた新聞記者の一人が、青柳副官の行動は連隊長の指示どおりなのかと青柳副官にたずねたので、連隊長の指示どおりだと答えた。
このような捕虜の話であった。
それでは、第一大隊の戦闘詳報の話についてはどうなのか。青柳氏は自分の体験からと言って、次のように推測した。
第一大隊でも捕虜を捕まえて同じように上に指示を仰いだのではなかろうか。作戦命令の記録も残っていないから、命令というものではなく、いわゆる指示を仰いだものだろう。たぶん、青柳副官が磯田参謀長から受けたと同じ指示が第一大隊にも行ったのではないか。
そのように判断するのは青柳氏が上の人の考え方をよく知っているからである。
青柳副官は南京入城直前、旅団長の秋山充三郎少将から、兵隊は戦闘中は軍紀を守るが、戦いが終わると気がゆるんで何をするか分からないから、これからが大切だ、と念を押された。また、磯田参謀長からは先ほどのように厳重にしかるべく処理せよとの指示を受けている。磯田参謀長はのちに日米が開戦するときの駐米大使館の武官をつとめる人であるけれど、南京に向かう途中も話す機会があり、ある程度、参謀長の考え方を知っていた。だから「捕虜は殺すべし」という命令が師団や旅団から出されるということはどうしても考えられない。
しかし、その後、指示を受けて第一大隊はどうなったのか、そしてどう行動を取ったのか。捕虜を処刑したという話は当時聞いたことがなかったし、第一大隊もたぶん自分と同じような処置を取るとしか考えられないので、戦闘詳報にあるようなことは想像ができない。
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 pp.208-209
第6中隊
田村猛 歩兵第66連隊第6中隊第3小隊 小隊長
証言
「捕虜がいたとか、それをどうしたとかということは知りません。雨花台ではどうやったら勝って生きて行けるかだけを考えていました。虐殺ということは戦後になって始めて聞いたことです」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.206
[第3大隊]
第10中隊
大貫酉一 第66連隊第10中隊指揮班 班長
証言
「虐殺の話はどういう場面なのか全然わかりません。十一日ごろだったと思いますが雨花台のほうにたくさんの捕虜がいたのを見たことがあります。捕虜の数は、本当かどうか七、八千人とか一万人とか聞いたこともあります。その後、私らは城壁の攻撃があったので、捕虜がどうなったかは知りません。
私は十二日、銃剣を持った中国兵に飛びかかられてどうにか助かりましたが、そういう中でのことですから殺すか殺されるかで、戦場はすごいものでした。虐殺という話は中国の宣伝ではないでしょうか」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.206
日向野博 歩兵第66連隊第3大隊 分隊長 軍曹
証言
「他の大隊のことだが、各中隊で八十人から百人くらいの捕虜がいて、これをやったと聞いたことがある。そのとき、工場に追い込んで手榴弾を投げ込んだとも聞いた。
その話を聞いたのは南京戦の後か戦後のことかはっきりしないが、捕虜を連れて攻撃もできないのでやったのではないか。
我々の隊も一人とか二人の中国兵を処刑したことがある。移動しているから処刑するしか方法がなかった」
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.207
▼▼歩兵第128旅団
第128旅団右翼隊命令 12月12日20時30分
○歩一二八旅命
右翼隊命令
十二月十二日午後八時三十分
於 南京東南角東南七〇〇米道路側無名部落
一、師団は南京城高く日章旗を翻せり
師団は主力を周家凹―雨花台の線以南の地区に集結し一部を以て城内を掃蕩す
ニ、右翼隊は主力を以て所命の線以南の地区に集結し一部を以て城内を掃蕩せんとす
三、歩兵両聯隊は既に示しある兵力を以て城壁附近に軍旗を奉し其の主力を以て城壁近く堅固に地歩を占め敵の逆襲に備へ逐次城内の掃蕩に任すへし
掃蕩及警戒区域の境界左の如し
観音庵―白鷺洲―国貨界上西端道路集合点を連ぬる線(線上は右聯隊に属す)
四、戦闘地境左の如し
師団と上海派遣軍との境界は共和門より西方に通する道路とす
両翼隊間は周家凹東端、養虎巷、琵琶巷、市政府社会局、大陸銀行を通する大街の線(線上は左翼隊に属す)
五、爾余の諸隊は予備隊とし南京東南角より東南方約七〇〇米道路に添ふ無名部落に(野砲兵中隊は現在地)至厳なる警戒裡に夜を徹すへし 警戒に関しては先任中隊長之を区処すへし
六、予は南京南角より東南方約七〇〇米道路に添ふ無名部落に在り
右翼隊長 奥少将
(『歩兵第百五十聯隊戦闘詳報』)
『南京戦史資料集1』p.451
歩兵128旅団命令 66号 12月13日12時00分
○歩第一二八旅命第六十六号
右翼隊命令
十二月十三日正午
於 南京東南部七〇〇米道路上無名部落
一、城内の敵は今尚頑強に抵抗しあり
国崎支隊は既に浦口に達し敵の退路を遮断しあり
師団は攻撃を続行し城内の敵を掃蕩す
二、右翼隊は城内に進入し共和門、公園路、中正路の線(含む)以南の地区を掃蕩せんとす
三、第一線両聯隊は全力を以て城内に進入しあらゆる手段を尽して敵を殲滅すべし 之か為要すれば城内を焼却し特に残敵の為め偽騙行為に乗せさるを要す
掃蕩区域の境界は故の如し 之か為め砲兵隊、戦車隊は城内の戦闘に協力す 工兵聯隊の協力区分故の如し
四、歩兵両聯隊の各々一中隊及独立機関銃隊は予備とし直ちに本道上に残置し余の指揮下に入らしむへし
五、余は暫く現在地にあり後本道上を城内に至る
右翼隊長 奥少将
(『歩兵第百五十連隊陣中日誌』)
『南京戦史資料集1』p.451
▼歩兵第115連隊
歩兵第115連隊第3大隊 陣中日誌 昭和12年11月26日〜12月31日
歩兵第115連隊第3大隊 第2号 リッ水付近に於ける戦闘詳報 昭和12年12月4日
歩兵第115連隊第3大隊 第3号その1 方山(杜家山)戦闘詳報 昭和12年12月7日〜8日
歩兵第115連隊第3大隊 第3号その2 南京攻略戦闘詳報 昭和12年12月10日〜13日
歩兵第115連隊第10中隊 南京附近戦闘詳報(抜粋他)
▼歩兵第150連隊
歩兵第150連隊命令12月12日20時20分
歩兵第百五十聯隊命令
十二月十二日午後八時二十分
於 南京城内東南角
一、敵は首都南京を放棄して北方に退却せるか如きも一部は尚至近距離に止りて我を撃退するに汲々たり
歩兵第百十五聯隊の一部は当聯隊と混淆しつゝ城内に進入せり
二、聯隊は既に奪取せる地歩を堅固に保持し夜を徹せんとす
三、会田少佐は城内第一線部隊を指揮し現在の線を確保し敵の逆襲に対し至厳をなすへし
一部を以て雨花門を守備せしむるを要す
四、内田大尉は城壁破壊口より右野口中尉は其の左側城壁占領部隊を指揮し城内の第一線と密に連絡し特に現在の線を確保すへし
特に両側城壁上よりする敵の逆襲を警戒するを要す
五、第三大隊長大塚少佐は其の指揮にある部隊及第四中隊独立機関銃第五大隊の二小隊を指揮し城外を警備し城外の敵の逆襲を警戒し現在の線を確保すへし
六、第八中隊の二分隊は軍旗の直接護衛に任すへし
七、砲兵部隊は大逆襲に対しては友軍に危険なき地域に射撃し得る如く準備すへし
八、通信班は前任務を続行すへし
予は雨花門内第一線の直後に位置す
聯隊長 山本中佐
下達法
命令受領者を集め口達筆記せしむ
(歩兵第百五十聯隊『戦闘詳報』第六号より)
『南京戦史資料集1』p.577
歩兵第150連隊 陣中日誌 昭和12年11月26日〜12月31日
歩兵第150連隊 第5号 自長興 経リツ陽 至リッ水 戦闘詳報 昭和12年11月28日〜12月5日
歩兵第150連隊 第4号 方山附近戦闘詳報 昭和12年12月6日〜9日
歩兵第150連隊 第6号 南京附近戦闘詳報 昭和12年12月10日〜13日 |