極東国際軍事裁判所 判決文

第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
(冒頭)
南京暴虐事件

第十章 判定
(冒頭)
広田弘毅
松井石根
武藤章

参考資料


書影
判事一覧
被告一覧
その日の法廷

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』極東国際軍事裁判所編、毎日新聞社(1949年)より

  

B部
第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)

  すべての証拠を慎重に検討し、考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠を、このような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。
  本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から一九四五年八月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によつて思うままに行われたことを立証している。数カ月の期間にわたつて、本裁判所は証人から口頭や宣誓口供書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまつたく共通の方法が行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によつて秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。
  残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたつて、被告と論議されている出来事との間に関係があつたならば、場合によつて、われわれは便宜上この関係に言及する。他の場合には、そして一般的には、差支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取扱うことにする。
  一九四一年十二月の太平洋戦争開始当時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終りまで、甚だしく無視された。
  捕虜を冷酷に射殺したり、斬首したり、溺死させたり、またその他の方法で殺したりしたこと、病人を混えた捕虜が、健康体の兵でさえ耐えられない状態のもとで、長距離の行軍を強いられ、落伍した者の多くが監視兵によつて射殺されたり、銃剣で刺されたりした死の行進、熱帯の暑気の中で日除けの設備のない強制労働、宿舎や医療品が全然なかつたために、多くの場合に数千の者が病死したこと、情報や自白を引出すために、または軽罪のために、殴打したり、あらゆる種類の拷問を加えたこと、逃亡の後に再び捕えられた捕虜と逃亡を企てた捕虜とを裁判しないで殺害したこと、捕虜となつた飛行士を裁判しないで殺害したこと、そして人肉までも食べたこと、これらのことは本裁判所で立証された残虐行為のうちの一部である。
  残虐行為の程度と食糧及び医療品の不足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によつて例証される。合衆国と連合王国のうちで、二十三万五千四百七十三名がドイツ軍とイタリア軍によつて捕虜とされた。そのうちで、九千三百四十八人、すなわち四分が収容中に死亡した。太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、十三万二千百三十四名が日本によつて捕虜とされ、そのうちで、三万五千七百五十六人、すなわち二割七分が収容中に死亡したのである。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 p.258

  

南京暴虐事件

  一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至つて、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいつたときには、抵抗は一切なくなつていた。日本兵は市内に群がつてさまざまな虐殺行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであつた。目撃者達によつて、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかつたこと、戦いに勝つた日本軍は、その獲物に飛びかかつて、際限のない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行つた。そこには、なんの規律もなかつた。多くの兵隊は酔つていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によつて大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであつた。他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によつて、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
  多くの強姦事件があつた。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまつた。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あつた。多数の婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された。
  占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。
  日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪つた。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラツクで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあつた。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一画一画と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払つた。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従つているように思われ六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。
  男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによつて行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によつて、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあつた中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかつている。
  ドイツ政府は、その代表者から、「個人でなく、全陸軍のすなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為」について報告を受けた。この報告の後の方で、「日本軍」のことを「畜生のような集団」と形容している。
  城外の人々は、城内のものよりややましであつた。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあつた。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落 組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遭つて、遂には多数の者が死亡した。生残つた者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
  中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によつて、かれらは集団的に射殺された。
  このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかつた。
  後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であつたことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によつて証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によつて死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
  日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によつて配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかつたことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかつたときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによつて、日本政府が世論によつて陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといつた。
  ベーツ博士の証言によると同市の陥落後、二週間半から三週間にわたつて恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたつて深刻であつた。
  国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。
  松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。「自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪へぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである」と。松井は約一週間市内に滞在した。
  当時大佐であつた武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあつたときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかつた。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上つていたという証拠が、一人の目撃者によつて、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかつた。
  南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所の公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送つた。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送つた。その陸軍省では梅津が次官であつた。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣広田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であつた。
  残虐行為についての新聞報道は各地にひろまつた。当時朝鮮総督して勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかつた。一九三八年三月五日に日本に帰つてから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における「功労」によつて叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思つたからであると述べている。かれは遂に処罰されなかつた。
  日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなつた軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦、放火及び殺人は、南京が攻略されてから少なくとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたつて、引続き大規模に行われたのである。
  一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送つていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を扇動していると非難する声明を行つた。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもつていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 p.260-262

  

C部
第十章 判定

 本裁判所は、これから、個々の被告の件について、判定を下すことにする。
 裁判所条例第十七条は、判決にはその基礎となつている理由を附すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗読を終つた事実の叙述と認定の記述との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係争事項に関して、関係各被告の活動を詳細に検討した。従つて、本裁判所は、これから朗読する判定の中で、これらの判定の基礎となつている多数の個々の認定を繰返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に関する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに挙げた叙述の中における個々の記述と認定とに基いているものである。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 .297

  

広田弘毅

  広田は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  広田は、一九三三年から、一九三六年三月に総理大臣になるまで、外務大臣であつた。一九三七年二月に、かれの内閣が倒れてから四カ月の間、公職に就いていなかつた。一九三八年五月まで、第一次近衛内閣において、再び外務大臣であつた。それ以降は、かれと公務との関係は、ときどき重臣会議に出席し、総理大臣の任命とその他会議に提出された重要な問題について勧告することに限られていた。
  一九三三年から一九三八年まで、広田がこれらの高い職務に就いていたときに、満州で日本が獲得したものは、その基礎を固められ、日本のために利用されつつあつた。また、華北の政治経済生活は、中国の政治経済生活を日本が支配する準備として、華北を中国の他の地域から分離するために、『指導』されつつあつた。一九三六年に、かれの内閣は、東アジアと南方地域における進出の国策を立案し、採用した。広範な影響のあるこの政策は、ついには一九四一年の日本と西洋諸国との間の戦争をもたらすことになつた。やはり一九三六年に、ソビエット連邦に関する日本の侵略的政策が繰返され、促進されて、その結果が防共協定となつた。
  中国における戦争が再び始められた一九三七年七月七日から、広田の在任期間を通じて、中国における軍事作戦は、内閣の全面的支持を受けた。一九三八年の初めにも、中国に対する真の政策が明らかにされ、中国を征服して、中国国民政府を廃止し、その代りに、日本が支配する政府を樹立するために、あらゆる努力が払われた。
  一九三八年の初めに、人的資源、産業資源、潜在的資源及び天然資源を動員する計画と法令が可決された。この計画は、要点ではほとんど変更されないで、その後の数年間を通じて、中日戦争を継続し、さらにいつそうの侵略戦争を遂行する準備の基礎となつた。広田はこれらの計画と活動をすべて充分に知つており、そしてこれを支持した。
  広田は、非常に有能な人物であり、また強力な指導者であつたらしく、このように、在任期間を通じて、軍部といろいろの内閣とによつて採用され、実行された侵略的計画について、ある時には立案者であり、またある時には支持者であつた。
  弁護側は、最終弁論において、広田のために、かれが平和と、紛争問題の平和的すなわち外交的交渉とを終始主張したことを裁判所が考慮するように要望した。広田は外交官としての訓練に忠実であつて、紛争をまず外交機関を通じて解決するようにつとめることを終始主張したことは事実である。しかし、そうするにあたつて、日本の近隣諸国の犧牲において、すでに得られたか、得られると期待されるところの、利得または期待利得のどれをも、犧牲にすることを絶対に喜ばなかつたこと、もし外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していたことは、十二分に明らかである。従つて、本裁判所は、この点について申立てられた弁護を、この被告に罪を免れさせるものとして、受理することはできない。
  従つて、本裁判所は、少くとも一九三三年から、広田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。
  訴因第二十九、第三十一及び第三十二についていえば、重臣の一人として一九四一年における広田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。かれは一九三八年以降は公職に就かず、これらの訴因で述べられている戦争の指導については、どのような役割も演じなかつた。提出された証拠は、これらの訴因について、かれの有罪を立証しないと本裁判所は認定する。
  訴因第三十三と第三十五については、ハサン湖における、または一九四五年の仏印における軍事作戦に、広田が参加し、またはこれを支持したという証拠はない。
  戦争犯罪については、訴因第五十四に主張されているような犯罪の遂行を、広田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。
  訴因第五十五については、かれをそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、一九三七年十二月と一九三八年一月及び二月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取つた。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止させるという保証が受取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少なくとも一カ月の間、引続いてはいつてきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかつたということで、広田は自己の義務に怠慢であつた。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかつたことを知つていた。しかも、かれはその保証にたよるだけで満足していた。かれの不作為は、犯罪的な過失に達するものであつた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七及び第五十五について、広田を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第五十四については、かれは無罪である。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 p.300-301

  

松井石根

 被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもつており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知つていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であつたという認定を正当化するものではない。
 一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見做すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知つていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかつた。このことは行われなかつた。
 一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。
 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であつた。それに続いて起つたのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であつた。日本軍人によつて、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によつて否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかつた。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあつたときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによつて、かれはどのようなことが起つていたかを知つていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あつたと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起つていたかを松井が知つていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかつたか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかつた。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかつているように、またかれが知つていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかつた。かれのために、常時かれは病気であつたということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起つている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかつた。これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知つていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもつていたとともに、その権限をもつていた。この義務の履行を怠つたことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 p.305

  

武藤章

  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  かれは軍人であつて、陸軍省軍務局長の重要な職に就くまでは、高等政策の立案に関係のある職務にはついていなかつた。その上に、軍務局長になる前の時期において、単独または他の者とともに、かれが高等政策の立案に影響を与えようと試みたという証拠はない。
  軍務局長になつたときに、かれは共同謀議に加わつた。この職とともに、一九三九年九月から一九四二年四月まで、かれはほかの多数の職を兼ねていた。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備及び遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。
  かれが軍務局長になつたときに、ノモンハンの戦闘は終つていた。この戦争の遂行には、かれは関係がなかつた。
  一九四五年三月に、日本が仏印でフランスを攻撃したときに、かれはフィリッピンにおける参謀長であつた。この戦争をすることには、かれは関係がなかつた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、武藤を有罪と判定する。訴因第三十三及び第三十六については、かれは無罪である。
戦争犯罪
  武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで、松井の参謀将校であつた。南京とその周辺で驚くべき残虐行為が松井の軍隊によつて犯されたのは、この期間においてであつた。多くの週間にわたつて、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知つていたと同じように、武藤も知つていたことについて、われわれはなんら疑問ももつていない。かれの上官は、これらの行為をやめさせる充分な手段をとらなかつた。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかつたのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。
  一九四二年四月から一九四四年十月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
  一九四四年十月に、フィリッピンにおいて、武藤は山下の参謀長になつた。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる「南京虐殺事件」のときに、かれが占めていた地位とは、まつたく異なつていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあつた。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行つた。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらのはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出来事について、まつたく知らなかつたというかれの弁護を却下する。これはまつたく信じられないことである。本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、武藤を有罪と判定する。

『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』 p.306-307

 

参考資料

  • 『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』極東国際軍事裁判所編、毎日新聞社
    (1949年)