「証言による「南京戦史」」掲載資料

 

<説明>

 本一覧は、旧陸軍の親睦団体である偕行社の機関紙『偕行』で、1984年(昭和59年)4月〜1985年(昭和60年)3月、同5月に連載された「証言による「南京戦史」」に掲載された資料の一覧である。
 この連載は、第1回〜第11回は畝本正己氏が執筆、最終回は加茂川幸太郎氏が執筆責任者となっている。番外は、最終回における総括に対し会員から多くの賛否の批判が寄せられた為、反対意見を掲載し、かつ、執筆者 畝本氏、編集委員 細木重辰氏、『偕行』編集担当常任理事 高橋登志郎氏の意見を掲載したものである。
 南京事件における主要資料集(『日中戦争 南京大残虐事件資料集』洞富雄編、青木書店、1985年、『南京事件資料集』南京事件調査研究会編訳、青木書店、1992年、『南京戦史資料集』南京戦史編集委員会編纂、偕行社、1993年)に掲載された史料や政府発表等を省略したことをご了承願いたい。
 資料の記載方法は、ページ数、段数、氏名、部隊名、職名、階級、資料種別、資料概要となっている。部隊名、職名、階級は南京戦当時のものとなっている。資料種別(証言、述懐、回想、遺稿等)は概ね本文の記述に沿っているが、記述がないときは筆者が補っている場合がある。資料概要については適宜判断し内容を取捨しているので、詳細を知りたい場合は当該資料を閲覧することをお勧めする。




証言による「南京戦史」 第1回 昭和59年4月

p.29 4段 畝本正巳 独立軽装甲車第2中隊 小隊長 回想 11/25湖州入城の状況
p.29 4段 独立軽装甲車第7中隊 戦記 常熟戦、無錫戦
p.30 2段 大西一 上海派遣軍参謀 述懐 蘇州戦
p.30 3段 犬飼総一郎 歩兵第19旅団司令部通信班長 談 11/25無錫突破、11/26常熟進出
p.30 3段 草場辰巳 歩兵第19旅団長 少将 証言 10/13隆平県城占領 中国軍の掠奪
p.30 4段 奥秋国造 独立軽装甲車第2中隊 上等兵 証言 南京へ向かう追撃戦の際に便衣の敗残兵と戦闘となる
p.30 4段 畝本正巳 独立軽装甲車第2中隊 小隊長 回想 12/1下泗安付近で敗残兵約400名の襲撃を受ける
p.30 2段 第16師団 作戦経過の概要 1937/12/1



証言による「南京戦史」 第2回 昭和59年5月

p.10 1段 蒋介石 最後の関頭声明 1937/7/17
p.10 1段 蒋介石日記 1937/11/7 11/13 12/7
p.13 1段 中沢三夫 第16師団参謀長 述懐 南京市難民数「推算…十万内外」
p.13 1段 城島赳夫 戦車第1大隊第1中隊 中隊長 南京市街重要施設要図、難民区立入禁止区域、外国権益要図、p.11掲載
p.13 3段 中沢三夫 東京裁判宣誓口供書 掃蕩状況、難民区への便衣兵潜入
p.13 4段 佐々木到一 第16師団歩兵第30旅団長 『私記抄』 市民審査、居住証明書交付、敗残兵認定の場合は外交部に収容約2000名
p.13 4段 土屋正治 歩兵第19連隊第4中隊長 証言 南京市進入時期の市内の様子、負傷者収容状況
p.14 1段 平本渥 歩兵第7連隊第2中隊 証言 南京市進入時期の市内の様子、外交部における負傷者収容状況
p.14 2段 中支那方面軍特務部長 11/25 中央に宛て状況報告、上海戦における中国軍数
p.14 3段 中沢三夫 証言 外交部における負傷者収容、負傷者収容所での死者
p.14 3段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長 証言 雨花台北麓の兵技専門学校(兵工廠)における焼死体400-500体
p.14 4段 犬飼総一郎 歩兵第19旅団司令部 通信班長 証言12/13城内の状、負傷し病院へ収容された若年中国兵、後に井戸に身を投げて死亡



証言による「南京戦史」 第3回 昭和59年6月

p.6 2段 張其キン、魏汝霖『抗日戦史』 南京防衛軍の戦闘序列、兵力配備
p.7 1段 中支那方面軍特務部長 11/25 中央に宛て状況報告、南京戦前の南京防衛軍総兵力
p.7 2段 海軍航空隊 12/12 中国軍の汽船・ジャンクによる揚子江遡航
p.7 2段 徐志道 中将 証言 憲兵団南京から長沙への撤退
p.7 2段 犬飼総一郎 証言 撤退援護の残置兵数
p.7 2段 中華民国国防部史政処編『抗戦簡史』 南京防衛軍の戦略意図
p.7 3段 中沢三夫 証言 陥落時の中国側軍事・政治責任者の不存在
p.8 2段 南京城攻略要綱
p.9 1段 畝本正巳 独立軽装甲車第2中隊 中隊長 「攻略要領および注意事項」を第一線部隊へ伝達
p.10 1段 東京裁判 キーナン主席検事冒頭陳述に対する松井の意見書
p.11 1段 独立軽装甲車第6中隊 第114師団先遣部隊への救援、鉄心橋
p.11 3段 第6師団 南京城攻撃部処の要旨命令
p.12 2段 谷壽夫 第6師団長 中将 歩兵第47連隊第11中隊への賞詞
p.12 2段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 早朝 証言 雨花台での戦闘状況、雨花台北麓の兵技専門学校(兵工廠)における焼死体400-500体、非戦闘員の死体を見なかった



証言による「南京戦史」 第4回 昭和59年7月

p.7 4段 『歩兵第三十六連隊史』 戦闘状況12/5〜8
p.8 2段 安川定義 歩兵第19連隊第1大隊 本部付 軍曹 証言 戦闘状況12/8〜12/12
p.8 3段 清水貞信 歩兵第35連隊第2中隊 中隊長 証言 12/7〜12/11
p.8 4段 野村敏明 歩兵第35連隊第2大隊 本部付 軍曹 証言 12/9南京での火災
p.9 2段 宮本四郎 第16師団司令部 副官 遺稿 12/12紫金山戦闘
p.9 2段 城島赳夫 戦車第1大隊第1中隊 中隊長 証言 12/10麒麟門・馬群、12/11孝陵衛
p.9 4段 城島赳夫 証言 馬群―中山門の死体遺棄状況
p.9 4段 森英生 歩兵第20連隊第3中隊 中隊長 証言 中山門占領状況
p.11 1段 伊庭益夫 歩兵第20連隊第10中隊 小隊長 証言 12/11西山戦闘、12/13中山門より南京入城
p.11 2段 六車政治(六車政次郎) 歩兵第9連隊第1大隊 証言 湯水鎮、12/9紫金山東端、12/10紫金山戦闘、負傷、12/11野戦病院にて負傷の手当、12/12病院から大隊本部へ、紫金山主峰占領、中山陵瀬飲料、12/13中山門占領
p.11 4段 佐藤増次 歩兵第9連隊第1大隊 本部先任書記 証言 12/19戦闘詳報の資料作成のため中山陵・紫金山中腹・玄武湖南側を視察、虐殺の跡なし、城門で人馬の死体を見る
p.12 1段 小山武夫 当時の上海・南京を取材した記者 証言 崇善堂の埋葬は信憑性ない
p.12 2段 中沢三夫 第16師団 参謀長 紅卍字会・崇善堂の埋葬について分析
p.12 4段 中沢三夫 第16師団 参謀長 東京裁判供述 紫金山・中山陵・明孝陵方面の非戦闘員死体の否定、霊谷寺の死体は戦闘によるもの
p.13 3段 谷田勇 第10軍司令部参謀 工兵大佐 寄稿「南京事件は虚構である」



証言による「南京戦史」 第5回 昭和59年8月

p.6 1段 佐々木到一 歩兵第30旅団 旅団長 少将 私記 12/12紫金山での戦闘、12/13下関での追撃戦
p.6 3段 澄田政夫 歩兵第38連隊第11中隊 小隊長 証言 12/13戦闘状況、12/14下関、12/15仙鶴門鎮警備、第10中隊による多数の捕虜(約2000名)、12/17〜18頃、南京の刑務所へ護送、第9中隊第2小隊長吉村文作少尉捕虜護送任務
p.7 1段 児玉義雄 歩兵第38連隊 副官 証言 師団副官から投降を受け入れず処置する師団命令を受ける
p.7 1段 沢田正久 独立攻城重砲兵第2大隊第1中隊 観測班長 歩兵中尉 証言 12/13仙鶴門鎮の戦闘、中国兵が投降、捕虜とする
p.8 1段 宮本四郎 第16師団 司令部 副官 遺稿 紫金山占領後に1万名の中国兵が投降、捕虜とする、参謀長は捕虜はつくらないとの指示
p.10 4段 『小戦例集』 気球観測による交通遮断射撃
p.11 1段 安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長 証言 城内掃蕩、第9中隊陣中日誌?



証言による「南京戦史」 第6回 昭和59年9月

p.4 3段 坂元眤 歩兵第23連隊第2大隊 大隊長 体験記 12/12城壁占領、12/13城壁西南角を起点に北方へ掃討、12/14水西門東側市内に1/3まで宿営、12/15獅子山砲台を見学、12/16紫金山、中山陵・明孝陵を見学、12/18-19安徳門南側高地で占領記念標柱を設置、12/9-12連隊の戦果は遺棄死体2000体、捕虜24、捕虜は収容所へ送る
p.5 2段 谷田勇 第10軍司令部参謀 『偕行』昭和46年11月号掲載「昭和五十二年十二月十四日誕生日の思出 城内進入部隊は8000名を越えない規模、第10軍司令官との思い出、街路で死体は見ていない、12/16午後下関埠頭で1000体以上の通常人の死体を見た
p.5 4段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長 証言 12/12中華門の戦闘、南京後雨花台山麓の兵技専門学校(兵工廠)に死体400-500体、12/14中隊宿舎を捜す為城内を探査する、中国赤十字会員(紅卍字会か)を見る、12/15サイドカーで城内の軍司令部へ行く、その後、下関へ行き数千の死体を見る、?江門付近の死体は少なかった、12/21中隊は軍官学校教導隊校舎へ移転、女性への暴行は多少あった
p.7 1段 守田省吾 歩兵第47連隊通信班 班長 「「南京虐殺説」に想う」(寄稿か) 中華門付近の城内にはほとんど敵兵を見ず、一般住民も少ない
p.7 1段 安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長 虐殺の噂・話は聞かなかった
p.7 3段 歩兵第四十五連隊史
p.8 2段 成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 手記『追憶』・証言 12/13三叉河南方での戦闘、クリークに敵の死体、12/14下関到着、中国兵5000-6000名を捕虜とするが後に解放、12/15-12/21城内警備
p.8 4段 鵜飼敏貞 第6師団通信隊小隊長 述懐 捕虜を第16師団へ引渡し、中華門付近の火災は少ない
p.9 3段 高橋義彦 第6師団配属 独立山砲兵第2連隊本部付 中尉 証言 12/12棉花地→新河鎮、12/13中国軍の反撃、戦闘後の遺棄死体2300体、水際附近に約1000体、全て戦闘員だった、12/14→下関→江東門→12/16、12/17中山門外で約100体の死体
p.13 4段 中村竜平 歩兵第9連隊 連隊旗旗手 述懐 住民によるゲリラ敵襲撃を受けた、その為「捕虜を認めず」という命令



証言による「南京戦史」 第7回 昭和59年10月

p.5 3段 佐々木孟久 独立野戦重砲兵第15連隊第2大隊 大隊長 12/9南京城外 射撃禁止区の指定、紫金山・天文台の砲撃、12/11・12城壁射撃、南京占領後は城内軍官学校に駐屯
p.5 4段 樫木義雄 野戦重砲兵第10連隊 観測係 伍長 証言 第9師団協力、12/9光華門付近工兵学校にて観測、12/13正午観測班南京入城、死体は10-20体確認、城外約10キロ後方輜重学校に駐屯
p.6 1段 西坂中 歩兵第36連隊 軍曹 述懐 12/9光華門城壁一角を占領、12/13城内進入後戦場掃除実施
p.6 2段 土屋正治 歩兵第19連隊第4中隊 中隊長 12/13城内進入の様子、鉄筋コンクリート造の建物に中国軍病院、城内での戦闘・捕虜なし、難民区にて摘発した敵兵を目撃、揚子江河畔で銃殺されたであろう
p.7 1段 安川定義 歩兵第19連隊第1大隊 本部附 軍曹 12/13通済門城壁占領、北側城壁に沿う地域を掃討、所々に敵遺棄死体を散見、通済門北側公園路付近で「民服を来た遺棄死体を散見」、12/13夜半湯水鎮で軍司令部付近に残敵出没し救援に向かう、大隊長の随伴として城内視察、中山路からユウ江門を出て下関へ、ユウ江門外に多数の中国兵死体を目撃(一部市民の服装の者あり)、城内では死体を見ず
p.9 2段 戦車長村門・榎 証言 12/14掃討、中山路十字路で敗残兵より射撃を受ける、中山北路の中国通信隊兵舎で約150名を捕虜とする、 草場軍曹の言として漢西門外で中国兵80名を機関銃で射殺
p.9 4段 城島赳夫 戦車第1中隊 中隊長 証言 中山路・中央路で戦車が死体を踏みつぶすようなことはしていない
p.10 2段 渡辺末蔵 独立軽装甲車第7中隊 上等兵 12/10光華門攻撃、12/13城外防空学校から七甕橋・高橋門・麒麟門・中山門道抜け中山門より入城、12/14掃討、城内飛行場付近で20〜30名を捕虜とし兵站(収容部隊)へ引き渡す、12/15歩兵第7連隊に配属され掃討、司法院を宿舎とする
p.10 3段 吉松秀孝 歩兵第6旅団副官 見聞記 掠奪・暴行・住民殺害等は見聞していない、城内巡視中、大きな空家に500-600名の中国兵が居るのを目撃
p.11 1段 野村敏明 歩兵第35連隊第2大隊 本部附 軍曹 証言 12/11中山門正面陣地攻撃、12/12城壁に取りつく、12/13中山門占領、城内進入、虐殺は見なかった、体験記を山本七平へ送付『私の中の日本軍』N軍曹の記録として記述、洞富雄批判
p.11 3段 清水貞信 歩兵第35連隊第3中隊 中隊長 記録 12/13中山門城壁占領、掃討、同夜工場らしき建物に隠れていた敵兵80名(通報では数100名と言われていた)と戦闘、12/14掃討、敗残兵が放火
p.11 4段 野村敏則(敏明) 歩兵第35連隊第2大隊 本部附 軍曹 私信 城壁上から敵兵を突き落とすことはないはず、戦車が敵兵を蹂躙していない、12/13夜は静かだった
p.12 1段 平本渥 歩兵第7連隊第2中隊第3小隊 陣中日誌『命脉』12/13城壁占領、掃討、司法行政院に多数の難民を目撃、外交部建物に中国兵負傷者が充満、翌日某部隊が占拠していた
p.12 2段 歩七戦友会(杉野勝次・師団司令部書記、山本堯貞・第6旅団司令部書記、村澤藤作・戦友会世話人、小村助次・前同、清水長永・前同、各大隊代表2名) 五台山麓に難民収容所があった、漢西門付近の岡から外国人が監視していた、12/16?下関で中国兵の死体を見た
p.12 4段 福田篤泰 中国在勤外交官 上海から同行した満鉄職員4人と入城、国際委員会の状況



証言による「南京戦史」 第8回 昭和59年11月

p.5 3段 中沢三夫 第16師団 参謀長 東京裁判宣誓供述書 12/13中山門城壁占領、大平山・上元門・下関・城内一角を掃討(12/14まで)、12/16司令部・小部隊が入城、難民区を警備、下関に通じる公路に軍装備品が散乱、12/25住民調査
p.5 4段 森英生 歩兵第20連隊第3中隊 中隊長 証言 12/13城内掃討、難民区に接する道路に軍服が積まれていることを目撃、ただし難民区へは入らず、紅卍字会のトラックに中国兵を満載したトラックが戦線を突っ切る、難民区は立入禁止、俘虜収容施設不良
p.6 2段 栗原直行 歩兵第20連隊速射砲中隊 中隊長代理 証言 12/13〜12/23南京城内に滞在、12/23以降湯水鎮で警備、12/13中山門占領、連隊本部で若干の捕虜を捕獲、中山門に通じる道路に若干の遺棄死体、入城後数日経って?江門から下関へ行ったが死体は見なかった
p.6 4段 伊庭益夫 歩兵第20連隊第10中隊 小隊長 証言 12/13軍旗護衛中隊として中山門より入城、入城後掃討、約10日後に湯水鎮へ
p.6 4段 森王琢 歩兵第20連隊第3大隊 大隊長代理 証言 12/15まで中山門城外、12/16中島中将と中山門より入城、およそ1/23まで城内警備および城外掃討、街に死体が散乱している様子はない、下関に多数の溺死体を目撃
p.7 1段 池田早苗 歩兵第20連隊 中隊長 述懐 下関で5000-6000体の死体を目撃
p.7 1段 六車政次郎 歩兵第9連隊第1大隊 副官 証言 12/13入城せず紫金山を掃討、12/14中山門から数百メートルの城内にある師団第2野戦病院へ入院、12/24退院、大隊の小隊長の話として紫金山警備中に敗残兵数百名を捕虜としたが途中で抵抗したので攻撃したとのこと
p.7 3段 佐藤増次 歩兵第9連隊第1大隊 本部先任書記 述懐 12/19戦闘詳報作成の資料を得る為中山陵・紫金山・玄武湖をまわったが虐殺の跡はなかった、城内に通じる道路(太平門又は玄武門)に人馬の死体が散乱していた
p.7 3段 野村美代太郎 歩兵第9連隊第2中隊第1小隊 小隊長 述懐 南京城壁の工事現場で5-6名の中国兵の死体を目撃
p.7 4段 長谷川茂雄 歩兵第9連隊第3中隊 指揮班 軍曹 証言 12/15頃南京入城、南京郊外の大きな穴に多数の死体があったのを目撃、戦場掃除と思われる
p.7 4段 竹内五郎 歩兵第9連隊歩兵砲隊 衛生兵 証言 戦死者の死体がゴロゴロという光景も火災も見ていない
p.8 2段 宮本四郎 第16師団 副官 遺稿 12/13入城、師団長は蒋介石邸、司令部は南京飯店に入る、その後、司令部は総理府に移る、海軍の剣道教士から捕虜を斬らせるよう依頼を受ける(拒否)、下関へ向かうメインストリートで中国兵の軍服が散乱しているのを目撃
p.8 3段 大西一 上海派遣軍 参謀 証言 虐殺は絶対にない、12/13午後中山門から入城、?江門手前400-500mの首都飯店に対する第16師団の攻撃を視察、その後城内視察、12/18もしくは12/19?江門―下関道の両側及び揚子江岸に多数の死体を目撃(3000-5000人戦闘員も含まれていた)
p.9 1段 木佐木久 第16師団司令部 参謀 手紙 非戦闘員1万2000名の殺害を否定
p.9 3段 萩原誠 第114師団兵器部 述懐 歩兵第102連隊による雨花台攻撃、中華門城壁攻撃、雨花台集団虐殺2万人は虚構
p.9 4段 加藤正吉 騎兵第3連隊 本部書記(『騎兵第三聯隊史』編纂委員主任) 記事 12/11仙鶴門鎮付近に兵力集結、12/12中国軍と遭遇戦12/13朝まで戦闘が続く、MG小隊長・福井正勝日記によると遺棄死体約3000体、同戦闘は佐々木到一『私記抄』、『小戦例集 第四輯』第36(砲兵)の記録と一致
p.11 1段 中山重夫 岩仲戦車隊 段列 目撃談 毎日新聞(S58.8.4)・朝日新聞(S59.6.23夕刊)に記事掲載 『証言・南京大虐殺』(青木書店、S59)掲載 雨花台にて投降した中国兵を銃剣で殺害
p.11 3段 朱友才証言 『南京日報』1982.8.11より転載(『証言・南京大虐殺』所収) 第16師団が旧国民党陸軍監獄に監禁されていた捕虜(約1万名?、一般住民含む)を江東門にて殺害、紅卍字会が死体収容約1万5000体)



証言による「南京戦史」 第9回 昭和59年12月

p.5 2段 平井秋男 歩兵第33連隊 本部通信班 班長 証言 12/13天文台高地→太平門→和平門→下関(14:30)・獅子山砲台北側、揚子江に逃げる中国兵を重火器で攻撃(1000-2000名)、下関東部地区(獅子山砲台外濠西側)に宿営、死体は見ず、12/14?江門の閉塞解除作業
p.5 4段 島田勝己 歩兵第33連隊第2機関銃中隊 中隊長 遺稿 紫金山山麓→太平門→和平門、太平門で捕獲した敗残兵を殺害するケースが多くあった、獅子山付近でも140-150名の敗残兵を殺害、投降した中国兵が武器を隠し持っているケースが多くあった
p.6 1段 羽田武夫 歩兵第33連隊機関銃中隊 一等兵 証言 12/10紫金山要塞攻撃、12/12最高峰陣地を占領、12/13紫金山→天文台→太平門→玄武湖→和平門・下関道→下関(野営)、12/14掃討(城内西北一帯、獅子山砲台、交戦の後、遺棄死体約300体、投降した便衣兵約200名)、ユウ江門の道両側に死体が点々とあった、ユウ江門前広場に約300体の死体を目撃、その後2ヵ月ほど警備
p.8 2段 中沢三夫 第16師団 参謀 述懐 太平門―富貴山地区の遺棄死体は中国軍の衛生機関での死者、紅土橋―北極門の遺棄死体は場所が不明だが外交部に大兵站病院があり日々30-40名の死者があった
p.8 2段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊 曹長 証言 12/15下関にて「全くの焼野原で死屍累々」、死体は揚子江中流に流す予定、死体数数千体と推測
p.8 4段 石松政敏 第2野戦高射砲司令部 副官 証言 太平門外の死体数は「千にも足らなかった」、門外の濠に死体を入れて埋めた、門正面の城壁曲折部に約100体の死体(戦闘によるものと推定)、鶏鳴寺高地に中国軍高射砲陣地・防衛司令部があった
p.9 3段 新井敏治 歩兵第38連隊第1中隊 軍曹 負傷入院していた為に南京到着は12/15、12/19・12/20頃下関揚子江岸で漂着死体を押し流す作業を実施、死体数300体、子供はなく、女性は2-3体、民間服あり、城内に死体を見なかった、
p.10 3段 佐々木元勝 上海派遣軍司令部 野戦郵便長 日記 12/16麒麟門先に武装解除された4000名の兵を目撃、軍政部の通りで2-3万名の中国兵を殲滅・一時に掃射したと推定する跡を目撃(後に誤断とする)、揚子江岸で「無数」の中国兵死体を目撃、馬群で武装解除・後ろ手に縛った200名の捕虜を刺殺、既に埋められた後を目撃(麒麟門での敗残兵との戦闘にける捕虜)、南京での捕虜は4万2000名と聞く、揚子江河岸からの帰りに捕虜(摘出された便衣兵か)の大群を連行中の部隊と遭遇、全て殺害すると聞く、埠頭で2000名の捕虜(後ろ手に縛る)殺害、馬群で女性捕虜を凌辱した話を聞く、12/17「上海兵站部」の日本兵が老人の市民を射殺、軍政部前の軍服の散乱は便衣に着替える為だったと思われる、揚子江岸で捕虜2000名殺害の跡を目撃、実際に射殺している状況を目撃か、12/17入城式後に後手に縛られた敗残兵を青龍刀で殺害する状況を目撃、夕方、中山門前で武装解除された中国兵7200名と遭遇、引率将校は殺害するだが当面警察署に留置する予定と話す



証言による「南京戦史」 第10回 昭和60年1月

p.29 4段 橋本以行 証言 『流れる敵兵をかき分けて』海軍第11戦隊 12/13烏龍山砲台より遡った地点で小舟に乗った中国兵が江一面となり対岸へ逃れるのを目撃、南京下流の閉塞線を越えた地点より小舟の数は減り、桟橋用の箱舟・筏が現る、先頭を進む砲艦保津はこれらを攻撃、難民や日本兵の様な服装をした者が舟に混じっていた(偽装の可能性)、15:59下関中貨桟橋に到着、その後、砲撃を受けた為、桟橋を離れ上流で投錨、幕府山砲台からの砲撃の可能性、砲艦勢多は下関桟橋に横付けした時点ではまだ江岸には多数の中国兵おり銃撃戦となる、その後、日本軍の小型戦車1台が下関桟橋に到着、江岸一帯には中国兵が「黒山のように重なり合っている」のを目撃(生死不明)
p.30 3段 関口鉱造 砲艦勢多 次席大尉 証言 12/13砲艦勢多は下関埠頭に接近し蝟集していた中国兵へ攻撃した、中国兵が居なくなってから埠頭に着岸、夕方に陸軍大佐より碇泊場司令部を設置すると告げられる、12/15城内偵察の際にフィッチと思われる人物と話をする、フィチは城内が混乱している状況を話す、車でユウ江門付近まで送ってもらう、?江門―下関埠頭道には中国兵の死体は見たがそれほど多くない、S13年10月に下関埠頭を再訪した際、減水期の河川敷で白骨を目撃
p.31 4段 住谷盤根 第三艦隊従軍画家 砲艦安宅乗組 回想 雑誌『東郷』昭和58年12月号 南京が陥落した直後に下関埠頭→興中門にて入城、興中門に「累々たる伏屍」を目撃、興中門付近で陸軍兵士に引率される便衣の中国人を目撃、下関埠頭で陸軍による捕虜殺害を目撃(1000名足らずと推測)、何万という捕虜・20万虐殺を否定
p.32 2段 泰山弘道 中支派遣第3艦隊 司令部 海軍軍医大佐 従軍日誌 ※『南京戦史資料集2』掲載
p.32 4段 松井石根 中支那方面軍 司令官 大正 陣中日誌 ※『南京戦史資料集2』掲載



証言による「南京戦史」 第11回 昭和60年2月

p.8 2段 栗原利一 第65連隊第1大隊 伍長 証言 毎日新聞記事に関して「真意とは逆である」とする、捕虜が反抗し命令により殺害した
p.8 3段 平林貞治 第65連隊連隊砲中隊 小隊長 証言 『世界日報』S59.7.17記事の引用、捕虜反抗の様子
p.8 4段 榊原主計 上海派遣軍後方参謀 述懐 捕虜の取扱い
p.9 1段 浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊 軍曹 所見 同連隊が下関で捕獲した捕虜について、関係したのは第9中隊・第10中隊の可能性、白旗を掲げる中国兵約1コ小隊を殺害したと証言する者がいる、大虐殺ではない
p.9 3段 石松政敏 第2野戦高射砲司令部 副官 述懐 南京大虐殺の問題点は便衣兵の処分、難民区での憲兵による便衣兵摘発、在留外国人に知られずに大虐殺は出来ない、下関の多数の死体は戦闘によるもので捕虜ではない、下関で殺害されたのは摘出された便衣兵、下関の3つの桟橋で縛られた便衣兵が殺害されるを目撃、これを捕虜殺害という噂となり南京虐殺となったと推測
p.10 1段 松川晴策 鉄道第1連隊 上等兵 12/13堯化門に滞在、12/14光華門(中山門?)から南京入城、中山路を北進したがほとんど死体は見ない、?江門に相当数の中国兵の死体を目撃、土嚢と死体とを共に重ねその上を車が通行した場面を目撃、死体数100以上、下関駅で作業、12/15-16頃下関埠頭で便衣兵が並ばされ銃剣・銃撃により殺害する光景を目撃、その数1000名は越えない程度、城内は平穏
p.10 3段 佐々木到一 第16師団歩兵第30旅団長 『私記抄』※『南京戦史資料集1』
p.10 4段 宮本四郎 第16師団司令部 副官 遺稿 難民区での中国兵摘発状況、便衣兵の認定方法、捕虜の収容(刑務所・倉庫・学校等)、太平門外左方沼地に4-8m程度積み上げた中国兵の死体(300体)を目撃、中山路の車道中央に5-6才の女児の死体を目撃
p.11 1段 榊原主計 上海派遣軍後方参謀 回想 南京市内の警備態勢、12/13-14南京入城、1万2000名の非戦闘員、降伏後3日間で3万名以上の捕虜、便衣兵狩り2万名の殺害、近郊避難民5万7千名の殺害、市内外20万名の殺害は何れもない
p.11 3段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長 証言 12/21中隊は城内軍艦学校教導隊校舎へ移転、特務機関・紅卍字会により城内整理が進捗、隊で2名夜間に抜け出し「女遊び」に出た、城内飛行場付近に慰安所があったと記憶、強姦2万件は信用できない
p.11 3段 大西一 述懐 上海派遣軍参謀 思い出 憲兵隊(宮崎有恒)が主として匪民分離を実施、便衣兵摘出2万人はナンセンスで実態は数百名ではないか、第10軍の依頼で特務機関で捕虜50-60名を預かる、南京以降中国各地で勤務したが南京大虐殺の話は聞かなかった、慰霊碑の建立、孫文像の修理
p.12 1段 福島佐太郎 中華民国新民会首都指導部 新民会総指導部長は繆斌、当時、劉啓雄将軍(汪政権下で和平旧国軍軍長)、に南京事件の真偽を訪ねた、劉は南京戦時雨花台陣地・光華門を守備する旅長だった、南京戦における中国軍の敗走状況、問題は難民区へ避難しなかった僅少の市民と民家・廃屋に潜入した敗残兵だが噂のような大量虐殺などあり得ない、虐殺数は難民区から摘出された便衣兵2-3千名と推測
p.12 3段 藤田清 独立軽装甲車第2中隊本部 曹長 証言 強姦があったのは軍慰安所開設までの僅かの期間ではないか
p.12 4段 井上直造 独立軽装甲車第6中隊 述懐 ※竹下栄蔵同中隊上等兵の陣中日誌を読んだ井上氏が書き残したもの、金壇で部下の上等兵が誤解による強姦容疑で憲兵に拘留され、被害者に誤解を説くため金品を払ったことで不起訴となった
p.13 2段 亀田三千男 独立軽装甲車第7中隊 段列 軍曹 ※昭和59年1月29日全国セトミ会で語った体験談 昭和13年6月頃南京捕虜収容所で衛兵指令伊藤秀次中尉のもとで警備にあたった、その際、ある一等兵が勤務放棄で憲兵に検挙、代々木刑務所で2年の刑に服す事件が発生
p.13 3段 第16師団申継書 ※『南京戦史資料集1』所収



証言による「南京戦史」 最終回 昭和60年3月

その総括的考察 『偕行』編集部・執筆責任者 加茂川幸太郎
p.14 2段 角良晴 中支那方面軍司令部 司令官専属副官 大佐 投書 ※『南京戦史資料集1』所収
p.17 3段 平林盛人 21期※戦史部森松氏へ情報 「古関健(25期)が当時参謀本部から派遣された南京事件調査班長として渡支されたそうです」
p.17 3段 宇都宮直賢 上海で軍特務部兼報道部員として渉外担当、南京陥落直前に陸軍省兵務局へ転任 証言 「同氏帰国の後、南京事件の対策、のためアメリカ班の西義章中佐や本間雅晴第二部長が事情調査のため急遽南京に向かったという」



証言による「南京戦史」 番外 昭和60年5月

p.4 1段 『偕行』3月号の南京戦史の<総合的考察>に対する抗議 筑後地区偕行会
p.4 1段 質問状 福富繁
p.4 4段 証言による南京戦史<その総括的考察>に抗議する 高橋義彦
p.5 2段 鵜飼貞敏
p.6 1段 「証言による南京戦史<その総括的考察>について」の疑問 清松哲
p.6 2段 大西一
p.6 3段 森王琢
p.7 4段 筆者の答え 「証言による南京戦史」修史作業を終えて 畝本正巳
p.8 4段 編集部から 「証言の重さ」について 編集委員 細木重辰
p.9 2段 南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え 『偕行』編集担当常任理事 高橋登志郎