海外のマスコミ

シカゴ・デイリーニューズ』A・T・スティール
    37年12月17日
    38年2月3日(1)
    38年2月3日(2)
    38年2月4日

『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』
    38年3月16日 フィッチの談話

『ニューヨーク・タイムズ』ダーディン
    37年12月9日
    37年12月18日
    38年1月9日(1)
    38年1月9日(2)



『シカゴ・デイリーニューズ』38年12月17日 A・T・スティール

 日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、その傍らで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている



『シカゴ・デイリ−ニューズ』38年2月3日 A・T・スティール(1)

 数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろともどりはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。30分以内に中国軍の志気は瓦解し、全軍が潰走することになった。
 もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(悒江門)に向かって群をなして街路を通 り抜けていった。(中略)

 午後4時半頃、崩壊がやってきた。始めは、比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(当時の日没は午後5時ごろ)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ出した。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

笠原十九司『南京事件』P130〜131



『シカゴ・デイリーニューズ』38年2月3日 A・T・スティール(2)

 兵士らが、退却主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通 部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫に達したとき、恐ろしい爆発音が夜空を貫いた。
 銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、川岸にいたる道路をうろうろする群衆のパニックと混乱をいっそう高めた。燃えさかる庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通 は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、いっぽう、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。

 兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、無駄であった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。今や各人がバラバラとなった。燃える障害を迂回してなんとか下関門(ゆう江門)に達することが出来た者は、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。
 それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのであった。

笠原十九司『南京事件』P135〜136



『シカゴ・ディリーニュース』38年2月4日 A・T・スティール

 (アメリカ)西部でジャックラビット(プレーリーに住む耳の長いウサギ)狩りを見た事がある。それは、ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かって狭められ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景は全く同じで、そこでは人間が餌食なのだ。逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くはすでに武器を放棄していた。
 日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区(難民区)になだれ込んだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。
 まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町はあちこちで兵士が軍服を投げ捨てて、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩きまわる者もいた。
 小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路に廃棄された軍服や武器、弾薬、装備などが散乱した。平時であれば、一般 住民――まだ約10万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、今や軍服と銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。

 日本側の捜索網が狭められるに連れて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向へ突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服をひきはがそうとするところであった。
 ある兵士は騎馬してあてもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けてはなっていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼らは兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎ取り、横っ面 を殴った。兵士は呻き声も出さずにこれを受けた。

 パニックになった兵士たちは、走行中の私の車に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差しだし、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ人宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りにでもなると信じて、入れてくれるように懇願した。
 とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を堀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集められ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった。

笠原十九司『南京事件』P145〜146



『ニューヨーク・タイムズ』38年12月9日 T・ダーディン

 南京の男性は子供以外の誰もが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わり合いのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であった者が見逃され、命びろいする場合もあった。
 南京掃蕩を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍が自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略)

 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。



『ニューヨーク・タイムズ』37年12月18日 T・ダーディン

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁面 を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本軍は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を撃ち込んだ。
 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。



『ニューヨーク・タイムズ』38年1月9日 ダーディン(1)

 月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)

 無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略)

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。時には縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般 的な処刑方法は、小銃での射殺であった。
 年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。

笠原十九司『南京事件』P152



『ニューヨーク・タイムズ』38年1月9日 ダーディン(2)

 日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通 りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
 軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(ゆう江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量 であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ゴミ捨て場のようになっていた。

笠原十九司『南京事件』P139〜140



『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』38年3月16日

(フィッチの談話)
 12月14日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げ込んだ六千の元中国兵――彼の情報ではそうなっている――の身分と居場所を教えるように要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国の制服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。
 安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(12月13日に日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は1300人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の河岸で処刑された。

笠原十九司『南京事件』P177