日本のマスコミ


朝日新聞 46年5月10日
「磯谷、谷両氏南京へ」

 南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される。両戦犯容疑者の裁判は南京到着後直ちに開始され、年内に判決ある見込みである。

笠原十九司『南京事件』P7



朝日新聞 47年3月12日
「谷中将に死刑判決」

 南京大虐殺事件の主犯者としての責を問われた南京占領当時の第六師団長谷寿夫元中将は十日、国防〔部〕軍事法廷で死刑の判決を下された。

笠原十九司『南京事件』P7



朝日新聞 47年12月20日
「南京虐殺者に死刑」

 南京大虐殺事件で百人斬り競争をした元中島部隊所属の小隊長向井敏明、元副官野田毅、それに三百人斬りの田中軍吉元大尉の三戦犯は、十八日南京軍事法廷でおのおの死刑を宣告された。南京虐殺事件の共犯として起訴された他の者は、特別 反証(反証とは相手方の申し立てた事実又は証拠を反駁するための証拠)を提出することが出来たが、この三戦犯は反証を提出できなかった。

笠原十九司『南京事件』P7〜8



朝日新聞 48年11月13日
「南京の残虐行為/この一訴因で絞首刑」

 中支那方面軍を率いて、彼は一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の始めまでやまなかった。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日または七日の間滞在した。(中略)
 本裁判所は、何が起こっていたかを松井は知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来度とを緩和するために効果 のあることは何もしなかった。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたとともに、その権限をもっていた。この義務の遂行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めねばならぬ 。

笠原十九司『南京事件』P3〜4



東京日日新聞 37年12月15日
「大戦捷!歓喜の熱風 /来たぞ!世紀の祝祭日 /師走の町に17日早く“お正月” /帝都は旗、旗、旗、のなみ」

 一億国民待望の「南京陥落公報」に接した14日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄み切った太陽が燦々と注ぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新聞配達の足音が各家を訪れたとき、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨たるラッパの音と共に臨時ニュースを発表したとき、全国民は歓呼の声を上げた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。クリスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂浪士が本腰をとげた日と同じうして到来した。