マッカラム日記・手記

1937年12月19日

 ───只今は南京防備の支那軍が崩壊して丁度一週間目です。日本軍が月曜日に病院前を過ぎて中山路を行進して入城し、日本国旗が其処此処に現はれ始めました。我等は皆退却する支那軍が惹起した恐慌と総崩の後に治安が回復するであらうと考へて、ほっと安心致しましたか航空機は何らの懸念も緊張も起さずに彼等の頭上を飛ぶことが出来ました。  然し一週間は経過したが、それは此の世の地獄でありました。述べようと試みることさへも恐しい物語であります。───私は全く何処から始め何処で終って宜いのか解りません。私は今迄に一度も斯の様な残忍を開いたことも、読んだこともありません。強姦───強姦───又、強姦───私共は一夜に少くとも一、〇〇〇件を算へ日中も多くの事件があるのです。苟も抵抗或は不承諾見えた事が有れば銃剣で突き殺すか、小銃で射殺するのです。私共は一日に数百件を書き上げることが出来た。民衆はヒステリーに罹って居ります。───即ち彼等は私共外国人を見ると膝まずき時には所謂叩頭さへも致します。彼等は救助を求めるのです。兵士の嫌疑の有る者は(其他の者と同様であるが)市街の外部に率れて行かれて何百人となく銃殺されました。 ペン、時計、金銭───某地区の貧困な避難民すらも再三、再四掠奪されて、最後の一「ペンス」殆んど最後の一枚の着物或は最後に残った一寝具迄も奪はれて了ひました。そして此等の物は間も無く処分されるかも知れない。 女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られます。日本軍は凡て何処へでも好きな処に出入出来、又、勝手な振舞をしても自由な様である。亜米利加国旗は屡々金陵大学(南京大学)や「ヒルクレスト(Hillcrest)」学校等から引剥されました。 神学校(ビー・ティ・ティ・エス、バプテスト教教師訓練学校)大学、金陵大学(南京大学)、中学校、養蚕「ビルディング」、図書館、其他数十の場所に於て毎夜、強姦、強奪、射殺、銃殺事件等が起ります。外国人が其場に居合せた時は大概斯様な事件を防ぐことが出来ます。然し利用し得る私共十五人或は二十人では到底、常時全ちの建物内に居ることは出来ません。


12月29日

 私は毎昼中と一週間中の五晩も多忙であったので書く時間が有りませんでした。外国人は病院に於て日本人の訪問客を接待して二十四時間勤務に服さねばなりません。雪が降って非常に寒い時であります。私共の胸は貧弱な避難所に住んであの様な塞ぎこんだ場所に閉ぢ込め られた数千人の身を思ふと痛みます。 私共の病院は満員です。又、軽患者は大学寄宿舎の建物を占めて居ります。私共は此等の人々が行くべき場所が無いので退院させることが出来ません。前週中二十五人或は二十人の赤子が生れた。───「クリスマス」の日の日に六人の赤子が生れた。 「ハインス」嬢を見出すのは容易なことであります。───彼女は赤子の全群を世話して常に育児室に居りますから。「クリスマス」の日に当って、皆々様のことを想ひ、諸君が幸福な時をお過しになる様希望致しました。 私共は諸君が未だに拈嶺に居ることと想像しました。拈嶺は引払ふかも知れぬと云ふ噂が我々の方へ届いて居りました。私共は完全に此の世の他の人々と絶縁して居ります。誰れも南京に入ることは出来ません。又南京から出ることも大変困難であるらしい。私共は私共仲間の或者を遣して当地に発生した又は発生して居る恐るべき事件の報道を持ち出さうと相談しました。然し私共は仲間が一度出立したからには二度と還らぬだらうと云ふことを知って居ります。 私は目下当地の「バック・ハウス」に「ミルス(Mills)」「フィッチ(Fitch)」「スミス(Smythe)」「サンズ」「ウィルソン(Wilson)」「ベイーッ(Bates)」「リッグス(Riggs)」の諸君と住んで居ります。 私共は皆二倍の勤務を致して居ります。私共が食事に就くと常に約五分間置きに誰かが入って来て救助を求めるのです。食物は丸呑みです。そして貨物自動車が盗まれた為に、又もっと屡々女子を兵士から保護する為に急に、出て行かねばなりません。私共は皆同時に食事に就くことは殆んどありません。私共は日が暮れてからは敢て一人歩きはせずに、三々五々外出します。 私は毎日若(しく)は隔日に我々教会所属の財産調査に外出しました。私は出掛ける度に北夏路にある私共の家には訪問客が居りました。外国人の家は皆一目に見えます───で日本軍が到着する迄は触れて居りません。其後は触れぬものは何もありませんでした。総ての錠は破壊され総ての「トランク」はあさり捜されました。日本軍は金銭や貴重品等を捜し遂には煙道や「ピアノ」の内部迄捜査しました。私共の蓄音機の音盤は全部破壊されて居ります。皿は掠奪の後投げ棄てられた他物と共に床に破壊されて積み重って居ります。「ピアノ」の前部は取除かれ、又、総ての琴槌は重量のある何物かで叩かれてあった。私共の家は安全地帯の外部にありましたので、これは期待して居りましたが、此の地帯内の家屋も同じ運命に遭ひました。私共の男の子供の学校の建物の二つは放火され、一つは完全な損害であります。南京は今物淋しい様相を呈して居ります。 日本軍が南京市に入城した時は建物等には余り損害が無かったのですが、入城後店舗は商品を奪はれ、其の多くは焼かれて了ひました。太平・中華、事実上市中の総ての他の主要商業道路は廃墟の堆積です。南部市内の主要街路の後方地帯の大部分も亦焼かれました。私共は毎日新しい火事を見ます。そして何時になつたら漸んな残忍な破顔が終熄するだらうと疑ふのです。 然し民衆に対してもっと悪いことが起って居りました。彼等は恐怖の中に在りました。これも不思議ではありません。彼等の多くの者は現在彼等の肩の周囲に纏ふたった一枚の着物しか残されてありません。 身寄りなく武器のない彼等は兵士の為すが儘になって居りました。而して兵士連は好きな処に自由に排掴することを許可されて居りました。何らの規律も無く兵士達の多くの者は洒に酔って居りまつた。日中彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区に在る建物内に入って来て、夜になると婦女を連れに帰って来ます。若し婦女が隠れて居らないと責任ある者は現場で銃剣で殺されます。十一、二歳の少女と五十歳の婦人連は逃げられませんでした。抵抗すると生命に関します。最悪な事が病院にやって来ます。 抵抗した妊婦六箇月の婦人が顔面や身体二十六箇所の「ナイフ」創と、腹部に一箇所の突傷を受けて、私共の所に参りました。彼女は赤子を亡くしましたが、彼女の生命は助かるでせう。 生命を助けてやるからと約束して日本軍に身を任せた沢山の人々の中の一人(此等の人々の中帰った者は極く少数でした)が生命永らへて仲間の運命を語りました。彼は日本軍は彼等の頭上に石油を注いで、それから放火しましたと公言して居ります。此の男は他に何らの負傷もしてをりませんでしたが、頸部や頭部の周囲が恐ろしい程火傷して居りましたので、とても此の世の人とは思はれませんでした。同日に身体が半分火傷した他の一人が病院に入って来ました。此の男は又銃で射たれた。多分全く彼等の群は機銃射撃され身体を横み上げられ焼かれたのでありませう。 私共は詳報を得ることは出来ませんでしたが、此の男は明らかに匍ひ出てどうやら救助を求めに病院へ来ましたのでせう。此等の者は二人共死亡しました。此の故に私は諸君が数日間食慾を失ふ様なこんな恐ろしい物語を話すことが出来ました。それは全然信ぜられぬことでありますが、然し数千(の)人々が残忍にも屠殺されました。───幾人あるか想像するも困難です。───其の数が一〇、〇〇〇人に近いだらうと信じて居る人々も有ります。礼儀正しく、而も尊敬して、私共を処遇して呉れました、若干の大変愉快な日本人がありました。他の者は非常に残忍で、私共を脅迫し殴打したり、平手打等をやりました。「リィグス」氏は最もひどく平手打をされました。私は時々、一日本兵が、若干の支那人を助けたり、又、遊ぶ為に支群人の赤子を拾ひ上げて居るのを目撃しました。日本兵が一人ならず、戦争は嫌だ本国に帰還したいと私共に語りました。日本大使館員が親切で、私共を救ひ出さうとしましたが、彼等は無力でありました。而して良心的な日本兵は極く少く、全然有るか無いかです。さて病院を巡視する時間です。職員が百人も居ります。私共が水と燈火を再び得るならば、仕事は非常に容易になるでせう。其の訳は探し出す燈火と汲み出す水があれば、毎日、私共の仕事はかなり増加されますから。


12月30日

 天気快晴、外出するのは誠に気持が良い。大変平和的である。───然し良いどころではない。(全然反対である)一人の男が今日腸を銃で貫通されて四フィートも飛び出した儘、病院へ入院して来ました。彼は恢復の見込は千の中一位である。(全く助かる見込は無い)「ボブ・ウィルソン(Robert O. Wilson)」氏は針で縫はうとして朝の時間の大部分を費しました。夕食前十二歳になる少女が黄色の自動車を駆って来た二名の日本兵に誘拐されました。  数名の男子が兵士であったとの嫌疑で「マギー」氏居宅の金陵や其他の場所から連れて行かれました。此等の男達は其の仲間に彼等が兵士で無いと証明することの出来る友達が居たのですが、此等の者が手に胼胝があると云ふ理由で、抗議を発言したけれども更に進んだ調査もせずに、兵士であると格印を押されました。  多くの人力車曳や艀の船頭等が他の労働者達と同様に、単に彼等の手に真面目な勤労の印があるので射殺されました。  江安乗合自動車停留所の附近の一独逸人の住宅に居る一老年の管理人が昨日殺害されたと云ふことが報道されて居ります。日本兵は道路上に居る若者を労働に徴用しようとしても発見出来ません。其男は自ら進んで労働に行くことに異議を申立てました。(異議を申立てました)から、私は今日は可成り静かな日と申しましたででせう。ですから諸君は私がぢっとして筆を取る暇の無い時には何んな事件が起って居るか御想像出来ますか。  私共は病院の人々や「ドラム・タワー(鼓桜)」教会に住んで居る支部人のキリスト教信者達の為に米を供給するのに忙しくありました。で其等の支那人のキリスト教信者達は「ドラム・タワー」教会に居住しました。五十個の大型の袋を移動しました。───其の重量は約六十五担でありました。日本軍は支那の警察及支部人の取締を強化し始めて居り、又外国人に対して強化した制限を加へると示唆して居ります。「オキ」氏は我々亜米利加人は一ヶ所り警戒付で集合することを提議致されました。其の様な場合にはどの位の自由が許可されるのか全く解りません。私共は少し疑を持って居ります。登録が始って居ります。そして登録証明書を所持しない支邦人は目下安全地帯からの自由行動を制限され、且該地帯から出ることを拒絶されて居ります。今や私は筆を擱かなくてはなりません。私は若干名の患者を病院車で家に送り届けなければなりません。病院を退院する者は皆外国人に伴はれねばなりません。私は公の護衛兵です。───支那人の警官に対してすらも護衛兵となります。私共は非常に込合って居りますので、誰かを出すのは嬉しいことです。  然し行くべき処も無く、金銭も無く、又着物も無い者が非常に沢山居りますので、全く問題です。私共は此等の者を治癒し、それからなほざりと飢餓で死亡させる様に蹴り出すことは出来ません。又、殺すことも再度迫害させることも出来ません。此等の者の大部分は此の市が占領されてから銃剣や小銃の負傷で入院したのです。


12月31日

 今日は年の最後の日である。新年を祝賀するために大々的な準備が目下なされて居ります。それは私共の日本人(の)友達が好む休暇でなければなりません。  三日間の休暇が発表になって居りました。  私共はもっと自由が許されると何んな事が勃発するのかと懸念しました。好転の徴候が有ります。  今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集るのを目撃しました。後で彼等は行政院調査部から日本軍の手に依って配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々が居りました。


1938年1月1日

 一年の年と日は輝した出発しました。私は盛んに爆発する爆竹に起き上って何事があるのかと訝って目を開きました。空には大きな赤玉の様な太陽が輝いて此の上なく良い日でした。時が経って紫色の山は恰も「キャスケード」山脈が屡々呈する様に藍色になってきました。今日は明瞭に祭日であった。爆竹───沢山の爆竹が支那人に無料で分配させるのに耽溺することを拒絶するものがあらうか。彼等は昨日数十万かの二百「ポンド・ブツ」の米袋を遣ってしまったことを知りました。常に変らぬ新年の挨拶が交換されました。一昨日の晩、私共は「ヂョン:ラベ(John H.D.Rabe)」氏の家に招待されました。其処には多くの蝋燭で点火された美しいクリスマスの飾り樹が有りました。私共の妻や子供が出席しない以外は万事完全でしたが。───妻と子供の居ないと云ふことは大きな空虚でした。私共は諸君の身の上を按じて居りました。私共は東京からの短文の無電で、諸君が全部拈嶺から退去しつつあると云ふことを聞きました。私は時々諸君が皆亜米利加に居ったら良いなと希望します。私共は客として「トゥイネン(Paul De Witt Twinem)」婦人・「マギー(John G.Magee)」氏・「フォスター(Ernest H.Forster)」氏並に金陵出身の鄭氏と新年の晩餐をとりました。私共は最後の鵞鳥を食べました。我々が夕食を食べ終へた頃に我々の楽しい日はメチャメチャになって来ました。二人の男が「マギー」氏の屋敷から走って来ました。(で「マギー」氏は避難民で一杯になった三箇所を所有してヰたのです)───此の二人の男は日本兵二名が侵入して女子を求めて居ると申しました。私共は待機の自動車に乗り「ピッチ(George A. Fitch)」氏が「マギー」及「フォスター」両氏をつれて行きました。時経て彼は二人の婦人を病院へ連れて来ました。一婦人は強姦され、ひどく殴打された他の婦人は父の助力に依ってどうやら逃げることが出来ましたが、彼女が窓から跳んだ時に負傷しました。彼等2人はヒステリ(ー)的病状を呈して居りました。其後、市街の東南部に在る寺院の尼さんが一人我々の所に連れて来られました。彼女は12月14日に傷を受けたのでした。彼等の五名は地下濠内で安全を求めたのですが、日本兵が各入口から侵入して五名の中三名を殺し、他の二名を傷つけたのでした。此等の二名───即ち此の尼さんと十歳になる小さな徒弟の少女は後で友達の死体の下に身を隠して助かったのでした。彼等は実に十八日間も治療を受けず、又五日間も食物無しに過したのでした。近隣の一人の男がこの酷く負傷した尼さんをやっとのことで病院迄連れて来たのでした。此の少女は背中を刺されたので、病院車をやって連れて来たのですと尼さんは語りました。彼女の傷は大変良くなって居りました。で彼女が必要な凡ては食物と入浴それに居心地の良い環境でした。市街の南東地区に住んでヰた民衆は日本兵に包囲されて居て怖しい運命の者達です。

 私共が其の少女を待ってヰた時に彼等は我々の周囲に集って来ました。───で此等の日本兵はかなり礼儀の正しい者達でした。然し我々が其処に立ってヰた時に一人の酪酎した日本兵が二人の支那人をいぢめながら来ました。此等の支部人は非常に恐れてヰたので、私の処に来て救助を求めました。私も武装して酪酎した日本兵は怖しいと云ふことを白状します。然し二、三人の真面目な日本兵の助力に依って、此のノンダクレ兵から注意をそらせて、この老年の支部人は逃げる機会を得たのです。───今や彼等は一目算(散)に逃げて行きました。此の酩酊した兵は明かに私を悪罵しました。───憤怒した他の兵士の一人が棍棒で殴打したので。私が病院車に急いで戻った時に、他の一組の日本兵が私の看護人───寧ろ看護人の一人を連去つたことを発見しました。此の者は料理人で、彼は好奇心から我々と一緒に来ることを請願して許可されたのでした。彼の赤十字のある腕章はとられておりました。彼は嚇かされて慥に射殺されるのかと思はれた。私は彼を救助した。この時迄に私は我々の病院車は取られておるのかも知れぬと心配し始めました。然し急いで戻って見ますと、礼儀正しい日本兵の一隊が未だ自動車を包囲しておるのを見ましたので、我々は笑って其処を去りました。最近の数日、私共は人が殆んど敢て行かうともしなかった市街の場末迄行きましたが、其の都度無事に沢山の食物と患者を連れて帰って来ました。

 今日は財産の破壊された範囲を見積るべく試みました。病院から中山路及北夏路迄は30%───それから先は稍々下り───南部の場末は広範囲に燃えたといふことも無い。「エス・クーロン」から東城郭に向っては20%から30%位の損害が或る地域に集中して居りました。

 今日の午後、南京陥落前に負傷した一婦人が病院に入院しました。彼女の家は南京の南部にあたる一村落に在りました。彼女は五人の子供を連れて家を出たのでした。───一番末は生れて三ヶ月の赤ん坊と一番年上は十二才になる子供でした。───日本軍の飛行幾は機銃掃射をして頭上を飛びました。一弾は彼女の眼を射て頚部の近くに抜けました。彼女は赤子を連れて押し進まうと努力しましたが、遂に断念して、自分の近くに子供達を寄せて、一夜の大部分を人事不省になって横たはらねばならなかった。午後になって彼女は赤子を連れてはとても歩けないことを知ったので、赤子を人の居ない一軒の家に置きまして、或る村人の処までやった歩いて来ると、村人が助けて彼女を避難所の一個所へ入れて呉れました。十八日後に彼女は我々の処に着きまして治療を受けました。

 今夜暗くなって私は市街の諸所に五ヶ所のかなり大きな火災を算へました。又、火事・掠奪及強姦が継続します。安全地帯では日本兵が侵入して来てもまだ大変良いのです。然し我々が曾て日夜数ヶ所で一度に日本兵の侵入するのを止めようとしてヰた当時と比較すると、今日は割合に平和な静かな時です。少くとも私共は筆を取るだけの時間は有ります。


1月3日

 今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によって為された善行を報告せねばなりません。最近七、八名の大変に立派な日本兵が病院を訪問しました。私共は彼等に病人に与へる食物の欠乏を語りました。今日、彼等は若干の牛肉を附けて一〇〇斤の豆を持って来ました。我々は1箇月も病院で肉なんか食べなかったので、此等の贈物は大いに歓迎されました。彼等は我々に他に何んなものが欲しいかと尋ねました。然し毎日毎日、気持の悪い報告の連続です。
 一人の男が昨日の午後、救済本部の附近で殺されました。午後には一日本兵が婦人を強姦しようとしました。彼女の良人は之を妨害して彼女を助けて抵抗した。然し午後に此兵士が良人を殺さうとして戻って来ました。今日他の一婦人が憐れな有様で而も恐しい物語を持って来ました。彼女は日本軍が衛生部隊の一隊へ連行した五名の女子の一人であった――― 即ち昼間は日本兵の衣類を洗濯し夜は強姦するために。彼女等の中二名は無理に十五名乃至二十名の兵士を満足せしめられ、一番美人の婦人は毎夜四十名もの日本兵を満足せしめられた。私共の処へ来た此の婦人は三名の日本兵に離れた場所へ呼び入れられて、其処で彼等は彼女の頭部を切り落さうと計画しました。頭部の筋肉を切ったが、兵士達は脊髄を切り隔すのに失敗しました。彼女は死んだ風を装って、病院迄やっとのことでたどり着きました。――― 即ち此れは日本兵の残忍さを立証する多くの事件の他の一つです。

 「ウィルソン」博士は彼女の傷を縫ひ合せようと試みてヰます。さうすると彼女は生くる機会を得るかも知れません。毎日毎日私共の仲間は此等の怖るべき事情を其の筋へ報告しました。其の筋の者は緊張して命令を出しましたが、然し毎日暴行が起ります。


1月4日

 今朝早く十二機の日本軍飛行機が頭上を飛行するを目撃す。露店や天幕に住ねばならぬ此等の憐れな人々にとっては、今日の天候は晴天であるが、恐ろした寒い日です。私は月曜日に我々が支那軍から実際に空襲されたと云ふことを記録するのを忘れました。此の空襲は日本軍に不意打で、日本軍には全く用意が出来て居りませんでした。遂に日本軍の航空機が立ち上って狂人の様に全速力で飛んで行きました。

 私は郵便が貴君の所へ届くなんて考へません。貴君の最後の手紙は十一月二十五日附でした。私は友達と一緒になって雪の中で色々な面白いことをして居る学校の楽しい仲間として貴君を画きました。大切に保存して下さったでせうね。我々の生活は全く退屈です。我々の生活は非常に馬鹿げた而も不必要な斯んな残忍と困苦とで全く充満して居ります。病院に於ける我々の全時間は日本兵の鉄砲や銃剣で犠牲になった人達を縫ひ上げて救助することに費はれます。日本軍は凡ての無事の貧賎な支那人を救済するために来ているのに。それなのに日本軍が、新年に際して国民党は支那民衆の困苦に対しては心配はせぬ、と言ふ立派な演説をした時に、私は日本軍の犠牲者で充満してゐる我々の病院のことを考へずには居られませんでした。支那の国情に就いての外国の救助と支持は追出(加)さる可きであると云ふことに就て疑ふ余地が少ない。


1月5日

 バック・ハウスの私のアテイク式の部屋から日出を眺めると、全く此の上無く良い朝で美事な眺望である。病院の?]光線室で其処・此処から拾ったチグハグの装置から「ラヂオ」を繕ひ上げて、昨夜役立つ様になったので、通信が再び開設されたわけです。病院車に乗って私共の大家族の為に白菜(キャベツ)を購入すべく南市迄行って来ました。燃焼中の多くの大火災を目撃す。


1月6日

 赤文字の日とは! 日本大使館の福井氏から今日、三名の亜米利加大使館員が南京に到着するだらうとの報知あり。彼等は十日間の約束をして居りましたが、明かに軍の許可を受けるのに若干の困難がありました。

 我々は日本軍の手を経て彼等の帰都を伝言すべく試みやしたが、日本軍は伝言を拒絶しました。彼等は我々全部を南京から退去せしめたかったでせう。然しこんなに長く滞在し余り多くの事を知り過ぎたので我々は立去る事を許されぬ――― 我々は実質上捕虜の身です。私の「ラヂオ」は結局余り役立たなかった。我々は第二の「ラヂオ」を購入しましたが、役立つ短波を得ることが出来ません。我々は東京・マニラ・上海から英語の報知を受けます。又若干の良い音楽も入って来ます。私は昨日「ラヂオ」を聴いて数時間過しました。で凡ゆる方面から同じ「レコード」放送が度々ありましたので、私は家族の者達に歌って聞かせることが出来ました。─── 即ち??掩は水夫の「ポパイ」だよ!俺は水夫の「ポパイ」だよ! 俺は菠薐草を食べたからには最後まで頑張るぞ、俺は水夫の「ポパイ」だもの!″

 新しい仕事があるのだ、赤子の搬送だ、あーさうだ、「トレム(C. S. Trimmer?)」と「ウィルソン」両君が赤子を搬送すると、私が家庭へ─── 即ち避難民の充満した天幕へ連行するのだ。殆んど隔日に私は白菜・米其他の食糧を得るために病院車を出しました。外国人は交付を保証するために進んで行かねばなりません。最近三匹の牝牛を救助し、又蒋掃人が我々に若干の「バタ」を造ってくれます。

 我々独身仲間は慮州(府)(Luchowfu)産の桃の罐詰二十六打を得、先月中はそれを毎日食べて居りました。

 我々は沢山米を食べます。又白菜は充分あります。私は日本軍が林檎を一個十セントで制限販売して居るのを知ってヰます。若干の他の食物も入って来て居ります。
 当時の最大の「ニュース」が入りました。亜米利加領事館の代表者が、「マッカラム(McCallum)」・「トリマー(Trimmer)」・「ミルズ(Milles)」・「スマイズ(Smythe)」四家の家族が二十日に漢口から香港に向ったと語りました。彼は亦、十一月末に書いた諸君の手続を配布してくれました。これが一ヶ月以上の間に我々が受けた最初の報道であり、又手紙でありました。─── だからどんなに歓迎されたことか!

 定めし諸君は、多くの不便と万一の危険に身を曝されたことでせうが愉快な旅行をなされ(ん)ことを望んで居ります。私は諸君が今何処に居て又、次の行動は何にかと耳にする時は全く安心致します。私は、若し諸君が上海へ来ることを許されるならば諸君はそうするであらう、そして子供達を学年の残余を終了させるために、其の土地の亜米刺加学校に入れるであらう、と一人で推断しました。是非いらっしゃって下さい。そーなさるならば間もなく諸君に面会出来るかも知れません。けれども我々が此処を立去ることを許るされる保証をまだ持ちません。私は此処に居て(滞在して)良かったと思ひます。我々外国人はわずかに二十名でありましたが、我々は安全地帯の諸所の収容所でかなり救助することが出来ます。若し、我々が日本軍五万名に対して百名居たならば、もっと多くを遂行し得たであらうが。金陵大学(南京大学)は12、000名もの支那人を収容しました。即ち大学建物には約25、000名、神学校及バブテスト教師訓練学校には夫々2、000名乃至3、000名、附近の各家は一杯になる迄収容しました。

 男等のあるものは今、石炭や米を運搬して居ります。我々はどうしても荷車や自動車を見えない処に置くことは出来ません。


1月7日

 未だ北夏路の我々の屋敷内には一死体が有ります。他の一死体が我我の南門女子用建物の一階に、又、一死体が「ブロパ」氏の囲内にあります。即ち此等の死体は十二月十三日頃、運命に会った。「プライス」氏の庭に生後六ヶ月位の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。埋葬許可証は手に入りませんでした。私は自分で病院の地下壕に38以上の死体を埋めました。死体は附近の街路から集め、彼等の大部分は兵隊でした。生命の損失は恐しいものである。凡ゆる年頃の男・女・子供が恐るべき価値を支払った。何故に戦争は斯の様に残忍にならねばならぬのか。日本人は支部民衆を夫々の家に帰へして再び商売を始めさせ、日本商品を大量に持って来るのだと云ひます。外交団体は市政府を樹立する希望を持ってヰる。然し軍は其れを許可しません。

 彼等は支那民衆を家に帰さうと思うてヰる。然し軍は民衆が敢へて収容所から退去せぬ迄に怖(脅)かし続けます。彼等は商業が再び開姶されるのを希望します。然るに軍は凡ての在荷を奪ひ店舗を焼却しました。彼等は再び其等を生産しようとします。然し軍は凡ての鶏・豚・牛及生物を殺戮しました。何んと皮肉なることよ!


1月8日

 四、五名の新聞記者が収容所の入口へ来て菓子や林檎を配給し、避難民へ若干の金銭を手渡した。そして活動写真が此の親切な行為を映写しました。

 同時に日本兵の一団が囲内の裏壁をよぢ登って来て十二人位の女子を強姦しました。取り消された写真は少しもありませんでした。建設団が電気と水道を回復するべく希望します。「ラビ(John H. Rabe)」氏を通じて職人を仕事に就かせる様に最後の取極めが為された前日に、下士官を長とする陸軍の一隊が英国輸出会社の工場へ行きました。そして電気会社所属の傭人四十三名を整列させて彼等を機銃掃射しました。
 此の電気会社は個人経営の団体でした。該兵士達は、調査もせずに射殺された者達は政府の傭人であると主張しました。斯んなことが一ヶ月後の一般的な状態で、殆そど恢復の望みはありません。

 今、日本兵は安全地帯に於ける我々の努力を信用せぬやうに試みて居ります。彼等は貧賎な支那人を脅迫して、我々が云ったことを否認させようとします。支那人の或者は容易に掠奪・強姦及焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのでは無いと立証すら致します。

 我々は今狂人や馬鹿者を相手にしてヰるのだと時々考へます。又我々外国人は全部生きた此の厳しい試煉を経たのだと不思議と思ひます。我々が何時南京を退去すべく許可されるのか判りません。我々の仲間が非常に少いので、我々は仲間の者がもっと沢山入って来るやうに許可される迄は退去したくありません。我々は独身部屋で可成普通に生活して来ました。そして一緒に暮して楽しい一団でした。我々の全部は重大なる場面と同様に又多くの楽しい場面にも遭遇しました。そして我々はお互に関聯させて愉快な時が有ります。我々は食物として慮州府産の桃や支那産の「キャベツ」から換へるのを大歓迎することが出来た。良質の「バター」や鶏卵は何んな良い味覚がすることか!! 然し我々は多量の小麦粉・米を所有し、又庭園には未だに萵苣・人参・甜菜が生じて居ります。若し軍部に依って利用されるならば冬中、弐拾万人の人口を養ふに足る充分の米が都市にある筈であらう。然し経済的形勢は思ふだに燐れなものである。無生産!ただ消費あるのみ。家族が無事に香港に到着したことを聞きました。有難や! 如何にして! 何処に!


1月11日

 アメリカ大使館員が二日前、晩餐に来ました。又、今日ドイツ大使館員並に英国大使館員が来ました。それは全く愉快な事でした。我々は一ヶ月以上も外部の者と会はなかったので、話す事が沢山あって、全くお話しの饗応でした。我々は彼等が話すことを一語も洩すまいと傾聴しました。然し今でも尋ね度い質問が沢山あります。

 病院事務は危険状態を突破しました。電気が有りますから、世界の他の人々と接近させる「ラヂオ」受信機も使へます。我々がもっと沢山病院資材が得られるならば再び正常な状態に接近したと感ずるでせう。強姦・掠奪等が終熄したわけでなく、斯んな事が単に繰り返されても何らの価値を増さぬ位に昔話となりました。恐喝や賄賂が行はれます。─── 即ち現在の救済機関を毀損しようと計画して。

 他の者は燃料や食糧を供給する事に従事してヰます。国際委員会はそれを一袋千弗で売却してヰました。彼等は日本軍からそれを一袋四首「ドル」で購入しますが、日本軍には唯の一銭もかかりません、戦利品ですから。私は今日更に四匹の牝牛を提供されました。若し私がそれらの牛を飼養する場所があれば牛乳を用ふる事が出来るから喜んで受けたであらうが、今は我々が既に手に入(れ)た牝牛の飼料も問題です。


 今日情報の粒選の一つは日本領事館勤務警察官「たかたま」氏に関することでした。彼は我々の所有の掠奪された外国財産を探してヰた時に我々を引き廻はしました。彼は前に幾回もそこ・ここの場所から若干細小の物を拾ひ上げる(の)を目撃されました。又、昨日「スパーリング(Eduard Sperling)」氏は、彼が疑もなく非常に賞賛した見事な美術骨董品を人力車二台分の荷物にして、立派なドイツ人の一邸宅から出て来るのに逢ひました。


1月12日

 遂に我々は今日貴君が上海に到着する筈であると云ふことを耳にします。さうすると沢山の質問も解決します。又、私は貴君は直に亜米利加学校へ行かれることと思ひます。貴君は我々の処に手紙を持って来て下さることが出来るやう希望します。

 英国・独逸及亜米利加大使館員は非常に親切である。若し彼等が入って来るのを知られるならば。日本の新聞記者が我々の処に若干の手舐を齏しましたが、其等は勿論開封でした。貴君がほんの僅かの手紙しか持って来られなかったと思ひます。又私は貴君が残されて行かねばならぬかも知れぬ事柄に就いて決して楽観的でありません。我々は「ブラディ(Richord F. Brady)」博士を非常に必要とします。又、博士を連れて来る方法があれば良いがと希望します。我々は助手が必要です。「ミニー(Minne Vautrin)」さんは、特に女子の独身の助手を必要としております。来る者は誰でも自身の給与品─── 寝具は勿論食物を持って来なければならぬ。我々の家には家具の外何一つ頼るものがありません。我々は余り忙しくて財産の管理が出来ませんでした。我々は病院近くの場所へ屡々行きましたが大した利益はありません。

 日本軍が都市に侵入した最初の数日間は、日本及亜米利加両大使館の封印は破てれ、又完全に無視されました。又各地は時々掠奪されました。

 群集を閉出しする方法を講ずる迄彼等を清掃することは何の益もありません。

 土地に管理人が居るので安心して財産を利動し得る場所はわずか一、二ヶ所しかありませんでした。財産は今迄日本大使館からの声明書や文書が日本軍に尊敬されぬのだから安全どころではありません。支那人の財産はそれが外国所属であらうが無からうが、皆差押へられ強奪され、又は銃剣で突きさされるまでである。我々は或る場合には日本人の守衛を得ましたが、彼等は木炭・ストーブ・食物及寝具を要求して、之を持って行きます 寒ければ煖をとるために其場で家具類を燃します。亜米利加大使館員は日本人の守衛を傭ひましたが、二日目には解雇しました。


1月13日

 万歳!万歳!上海で書いた貴君の手紙が来ました。今や私は貴君に手航を書いて大使館員に託すと、貴君は安心して受取るでせう。そして貴君も亦同様に出来るでせう。

 多忙な日でありました。今朝早く牝牛の飼料を求めに和平門迄行きました。然し其処は前日燃けて了ひました。それから我々は琵琶湖附近の或場所迄行きました。其処で我々は半荷車の飼料を得ました。他の場所で一荷分の綿の実の搾槽を手に入れました。我々の病院車は近頃は二倍の働きをして居ります。再び他の荷を取りに戻ります。それからの私はTENSHANから来て居る監督福音伝道師の一人である「ヂョン・マギー」氏の為に棺を用意しました。同氏は慥かに現状に抗議して自殺したのであります。それから私は三八〇斤の重量のある大型一樽の豆油を手に入れました。今我我は手許に三ヶ月分の食塩が有ります。私は暇さへあれば此の様な食料事務に取越苦労するとは! 昨日、私は「ピー・エイチ・ティ」で苦力から一袋一〇〇斤の米を十五袋手に入れました。此の米袋の大部分は「ドラム・タワー(鼓桜)」の教会に居る支部人のキリスト教信者達に与へるためでした。実直な南門の人達の中四、五名の者が其処に避難して居りますが、彼等は今迄少しも苦しめられたことは有りません。福音伝道者的な勤人又は他の勤務員は一人も南京に在る我国大使館には傭はれて居りません。此処にはわずかに都市勤務の牧師が一

 私は更に四匹の牡牛と二匹の犢とを受領すべく決意しました。此等の四匹の牡牛は一ヶ月の間一つの小屋に閉じ込められてヰて、調子が非常に悪かった。私は此の四匹の犢と一匹宛の山羊と小羊とを駆り集めて、一行を病院迄誘導しました。盛んに叫声を出し又彼等の或るものは不承々々行きましたが、我々は彼等を正面の自動車車庫に入れました。これが病人用の余分の供給の牛乳となる訳です。又、我々が常時使用する豆乳を手に入れることが出来なかったから、我々も其牛乳を必要とした。私は出掛けて白菜を病院車一杯手に入れる。支那民衆は白菜を持って来ることが出来ぬから、誰れかが求めに行かねばならぬ。我々は今日、一人の優秀な看護婦を発見しました。─── 蕪湖病院出身の者です。本当の看護婦は五十名の中約十名位です。亜米利加大使館員が今晩、晩餐にやって来ました。「トリマー(C. S. Trimmer)」氏も亦、大使館員に面会したことが無かったので来ました。大使館員は此の様な楽しい時が全く有りません。彼等は熱・電気・水等を得ることが出来ませんでしたので、家事をやり、又食塩を得ることも困難です。だから勿論、彼等は我々の残余の方々がやる様な興味も活動もありません。そして又新聞も外出も又何んな種類の活動も無くて、只問題ばかり取扱ふのでは人生は相当退屈になって来ます。閉ぢ籠ってヰては雰囲気は非常に陰鬱に又退屈になるに違ひない。我々は皆家族に面会するために上海へ行き度くてたまらない。今夜一英国人が上海へ行くので我々が送り度い手紙を持って行って呉れると約束しました。私は今迄に書いたが郵送出来なかった手紙(今では可なり沢山ありますが)を貴君り送ります。状態が好転しましたが、未だ怖しい事件が引続き起ります。

 二日前に私は施薬所へ行くと胃袋の一部と腸の若干が露出した十五歳の男の児が机の上に居るのを目撃しました。傷は二日前のものでした。彼は和平門の近くに生き延びてヰる。兵が彼を野菜運搬の労働者として連行したのでした。彼が仕事を終了した時に彼等は彼の衣類を調べで発見した六〇セントを奪ひました。それから銃剣で数回彼を突き刺しました。我々の英国大使館の友人は我々の話を殆んど信用しなかった。彼等は経験が無く、物語を了解することが出来たので可成り和らげねばならなかった。

 然し彼等は自身で可なり怖しい事件に衝き当って直接に体得しました。彼等は英国所属の財産を調査に旅行をして、和平門の、エーピースィー附近でゴルフ打球棒を無理に内部り入れられた一婦人の身体を発見しました。そしてその一部が露出して居りました。今や諸君は何故に民衆が避難所に留り、又何故に戦慄してヰるかを了解するでせう。我々は居る間は亜米利加所属の財産上で彼等を保護することは出来ました。然し我々が出来たことは水桶の一滴の水の如きものであった。

 一月の大部分を我々の乳牛を飼育する乾草や綿の実の搾糟を求めて過しました。来週、私は米や石炭を忙しく求めねばならぬでせう。私は今日、一病院車で外出しました。「グレース・ボアー(Grace Bauer)」嬢は白菜を購入に他の病院車を用ひました。彼女は荷を求めて通済門へ行って無事に帰って来ました。我々外国人が無事に制限区域へ行けるのは不思議です。最近到着した外交官の或者は、何故に我々全部が整列させられて射殺されなかった(か)と不思議に思ふでせう。其の理由は我々は運良く逃げましたから、私は貴君が上海にお住ひになり、又子供達が学校に通ってヰるのは嬉しいことです。

 我々は非常に接近して来て間もなく一緒になれることを希望します。私は家族を貴君のみの責任に残して何んとも申訳ありません。私は家族の者に面倒をかけたから、死ぬ前には退去したいと期待しました。私の使命とする仕事が終了して、そろそろ退去することが出来る時に病院が事務管理人を非常に必要とし、且つ人手不足であったので、病院の人々が私に助けて呉れぬかと請願されたときに、拒否することは出来ませんでした。一度病院に留まったからには、私は全く仕事の渦巻の中に捕はれて、とても脱出しようとしても出来ませんでした。私の思ひと祈りは貴君の処迄何回も何回も届きました。私は現在退去した者を批判しようとは思ひません。私はそれは為すべきことであると思ひました。

 又、私は我々の凡ての支那の友人や勤務者を退去する様に遂めたことを神に感謝して居ります。然し私としては、如何に困難しても止まって、之等の憐れな支那民衆を幾分でも救助することに幾分の分担を持ったことを嬉しく思ひます。

 若し貴君が書店で「スポーティング・ニュース」を一部御覧になりましたら、どーぞ家族の方々の待望の手紙と一緒に是非御送り下さい。