日本の報道・出版
報道
朝日新聞 1946年5月10日
「磯谷、谷両氏南京へ」
南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される。両戦犯容疑者の裁判は南京到着後直ちに開始され、年内に判決ある見込みである。
笠原十九司『南京事件』 p.7
朝日新聞 1947年3月12日
「谷中将に死刑判決」
南京大虐殺事件の主犯者としての責を問われた南京占領当時の第六師団長谷寿夫元中将は十日、国防〔部〕軍事法廷で死刑の判決を下された。
笠原十九司『南京事件』p.7
朝日新聞 1947年12月20日
「南京虐殺者に死刑」
南京大虐殺事件で百人斬り競争をした元中島部隊所属の小隊長向井敏明、元副官野田毅、それに三百人斬りの田中軍吉元大尉の三戦犯は、十八日南京軍事法廷でおのおの死刑を宣告された。南京虐殺事件の共犯として起訴された他の者は、特別
反証(反証とは相手方の申し立てた事実又は証拠を反駁するための証拠)を提出することが出来たが、この三戦犯は反証を提出できなかった。
笠原十九司『南京事件』pp.7-8
朝日新聞 1948年11月13日
「南京の残虐行為/この一訴因で絞首刑」
中支那方面軍を率いて、彼は一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の始めまでやまなかった。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日または七日の間滞在した。(中略)
本裁判所は、何が起こっていたかを松井は知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来度とを緩和するために効果
のあることは何もしなかった。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたとともに、その権限をもっていた。この義務の遂行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めねばならぬ。
笠原十九司『南京事件』pp.3-4
東京日日新聞 1937年12月15日
「大戦捷!歓喜の熱風 /来たぞ!世紀の祝祭日 /師走の町に17日早く“お正月” /帝都は旗、旗、旗、のなみ」
一億国民待望の「南京陥落公報」に接した14日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄み切った太陽が燦々と注ぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新聞配達の足音が各家を訪れたとき、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨たるラッパの音と共に臨時ニュースを発表したとき、全国民は歓呼の声を上げた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。クリスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂浪士が本腰をとげた日と同じうして到来した。
報道関係者の手記・証言
松本重治
1899年-1989年。同盟通信社入社、同社常務理事、国際文化会館理事長。事件当時、南京戦に従軍
手記:『上海時代 下』
(K-K註:1937年11月中旬、後藤隆之助氏との対話における松本氏の発言として)
日本軍は兵站の線が延びすぎ、糧秣に事を欠く結果、掠奪が行われる危険が多い。柳川兵団に従軍していた「同盟」記者の話によれば、柳川兵団の進撃が速いのは、将兵のあいだに『掠奪・強姦勝手放題』という暗黙の諒解があるからだとさえいっている。これでは、皇軍の皇軍たる面目もなければ、すべては、全くの『無名の師』に堕することになる。結論的には、南京まで行かないうちに、兵を停め、和平交渉に徹するよりほかに、日本を救う道はない。
pp.242-243
私はそれで終ったかと思っていると、松井最高指揮官が、つと立ち上り、朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。深堀中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それが、また戦病没者への供養となるであろう」云々と、切々たる訓戒のことばであった。私は、心に「松井さん、よくやったなあ」と叫び、深堀中佐を顧みて、「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。何とかして松井大将の訓戒のニュースを世界に撒きたいのだ。ぜひとも報導部長の同意を得たい」と頼むと、深堀中佐は、「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、ちょっと待っていてくれ」という。
二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、「参謀は、あまり賛成しないといっている」というので、私は、「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報導部長として、日本のための最大の貢献になるのですよ。これを許可しないというほうが報導部長の責任になるのだと考えられないですか」と詰め寄る。深堀中佐は、しばし考えていたが、「松本君、君の考え方が正しい。参謀が何といおうとかまわない。自分は報導部長の責任において、ニューズの発表、打電を許可する」「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、少なからず聞いてはいたが、松井大将の話を聞いてみると、現実に、ずいぶんわるいことをやったらしいではありませんか。日本軍の名誉回復の一助としたいのです。ぜひこの電報をやりましょうや」「松本君、やってくれ」。私は、深堀中佐の手をとって、握手をした。
「南京大虐殺」事件
翌十九日、私は上海に帰ってすぐ支社に出社、東京向けの発信をするとともに、英文部長の堀口(瑞典)君に、英訳してロイテル通信や各英字紙に配ってくれと頼んだ。堀口君も大賛成。その翌朝、短いながらも、その記事は、上海の『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』など各英字紙に掲載された。しかし松井最高指揮官の態度は立派であったが、松井さんの訓戒の対象となった日本軍の南京その他における最も恥ずべき暴行、虐殺、放火、死体冒涜等の事実は、たえず私の心を痛めたのであった。
翌年四月になって、ジャキノ難民区でともに働いたティンパーレー君が総局事務所にやってきて、「中国における日本軍の残虐行為」なる書物を編集、発行することになったことを報告した。そして、「これは、よき日本人に対しては、まことに済まぬことながら、ひろく戦争が人間というものを変えてしまうという、悲しむべく、また憎むべきことを世界に周知せしめたいのです。しかし、ことに日高さんと松本さんとに対しては、南市の難民区を作ることにつきご両人に協力をしてもらいながら、事実上、反日的な刊行物を編集するにいたった。これは、お二人の好意に対し悪意をもって酬ゆるようなことになるもので、自分にとっても心苦しい限りである。そこで、時局がら、直接に名指しすることは差し控えたが、私の序文において、お二人に対する私の衷心からの敬意を表明しておいたわけだ。何とぞ、この本はあくまで反戦的編著書として受けとってくれ」という良心的な話であった。「ティンパーレー君、私も日本人の端くれである。南京の暴行、虐殺は、全く恥かしいことだと思っている。貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝するとともに、君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」といったことがあった。それから六月ごろになって、その本を買い求め、通読しようとしたが、読むに堪えない事実の羅列なので、半分ぐらいでやめてしまった。聞けば、本書は、ロンドンでの発行と同時に、中国においても中国語に翻訳、刊行された。ティンパーレー君の戦争反対の良心的善意には敬意を表したが、私が、かねてひそかに考えていた中国からの日本軍の撤兵の問題を、より真剣に考え始めたのも、そのころからであった。この点については、後段に譲りたい。
その後三十数年経って、私がこの回想録の執筆を準備していたころ、南京の「大虐殺」事件について、日中両国民のあいだで、いろいろ論議が始まり、ティンパーレーの著書の中国版から覆刻された邦訳が『外国人の見た日本軍の暴行』と題されて竜渓書舎から発行され(一九七二年二月)、つづいて、本多勝一氏の『中国の旅』が著され、また、早大の洞富雄教授が、周到な研究に基く『南京事件』を著された。その翌年、鈴木明氏の『「南京大虐殺」のまぼろし』という著書が出たが、その結語は、「今日に至るまで、事件の真相はだれにも知らされていない」というのである。私は、本多氏、洞教授、鈴木氏のものを、心苦しさを覚えつつも、通読したが、事件の正確な全貌は、なかなかつかめなかった。だからといって、私は反論をしようとは思わない。だが、私としては、被害者の数量よりも、日本軍人がやった非人間的な行為そのものに、胸を刺された思いであった。
私は、最近、従軍記者として南京攻略直後に取材のため南京に数日を過したという元同僚の新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、参考のため、直接話を聞いた。とくに深沢氏は、ずっと従軍日記をつけていたので、それも読ませてもらい、大いに参考になった。三人ともが十二月十六日から十七日にかけ直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった。約二千という人と二、三千ぐらいであったという人があった。おそらく、機銃掃射され、ガソリンをぶっかけられて焼け死んだものであったらしい。それから、元軍政部構内で若い将校や下士官が「新兵訓練」と称して新兵を使って中国人の捕虜を銃剣で突き、そこにあった防空壕にぶちこんだが、前田氏は、捕虜十二、三人目が突き殺されたのを見て、それだけで気分がわるくなり、嘔吐を催して、立ち去ったという。また、軍官学校構内で捕虜を拳銃で射殺するのを見て、二人ぐらい見ていて、もう見ていられなくなったという。また、三氏が話してくれた共通の点は、戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないということであった。大本営発表の中国軍の損失九万というのには、捕虜の虐殺数が相当入っているのではないかとの話もあった。日本軍が半ば包囲陣形をとったので、下関や雨花台などで中国兵が多数殺されたが、これも戦死とみるべきかとも考えられた。その他女子に対する暴行、殺人も極端にまで行われたらしいが、軍隊として組織的にやったものとは信ぜられないという。三氏は、みんな相当の錬達の記者であるが、何十万とかいう「大虐殺」事件はなかったようだといい、戦闘以外の虐殺被害者は、まず、一、二万というところではないかともいっていた。また、前田氏は社会ダネを拾って駈けまおったが、そのほか、占領直後、十四日、十五日には便衣隊狩りが相当行われたことも聞いているが、十二月二十日ごろを境にして、市民の生活には、街頭にも平常の雰囲気がとり戻されていたという。
十八日の松井最高指揮官の訓戒に対し、ある師団長などはせせら笑っていたそうだが、とにかく、翌日からは、第十六師団だけが南京の警備に当り、その他の部隊は、蕪湖方面その他城外に移された。ところが、その警備のため南京に残された第十六師団の兵士たちの一部が、その後も、乱暴を続けたということは、南京難民区の委員の一人であった、M・S・ベイツ教授が、極東国際軍事裁判で証言したところであった。私はベイツ教授を個人的にも知っていたが、その数日後、軽井沢で会ったことがあった。彼は、口も重く、「あのときは、全くひどかった。もう何もいいたくありません」と一言、語ったばかりであった。「南京大虐殺」の数量も真相も、なお不明であるにしろ、われわれ日本人の心の奥底に、消そうにも、消すことのできない傷跡が残っていることは、確実である。
pp.248-253
松本重治『上海時代 下』中公新書 1975年
前田雄二
同盟通信の記者として南京戦に従軍
手記:「私の見た「南京事件」『祖国と青年』1983年1月号
3 「南京大虐殺」とは
″処刑″
翌日(十二月十六日)、新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で″処刑″の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三ヵ所で並行してやっているのだ。
引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。
私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
私は辛うじて十人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。
死体の門
支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口の?江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。
「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいぶかりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。
いったいどうしてこんな状態になったのか、いつからなのか、聞こうにも誰も知った者はいない。下関の部隊で聞いてもムダだった。私たちは帰途ふたたび、気味の悪いこの城門を抜けなければならなかった。
「今日はいやなものばかり見る日だ」
と、私は昼食時にこれらの見聞を同僚に語った。しかし、ことはまだ終わっていなかったのだ。
銃殺
午後、支局を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも″処刑″が行われていたのだ。
死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。午前の処刑よりは残虐性が少なく、その死もまことにはかなかった。
「記者さん、やってみないか」
兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っこめた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と銃をすすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり、捕虜の背中に銃口を接近させると引き金を引いた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。
死とはなんとたやすいことか。私は銃を中村の手から引ったくると下士官に渡し、急いでその場を立ち去った。
私はまるで自分が射ったかのような錯覚を覚えた。中村のニヤリと笑った顔と、背中を丸めて落ちていった男の姿が、その後、時折眼底に蘇った。あの男にも平和な家庭があったに違いない。
翌十七日には、軍司令部の南京入城が予定されていた。占領軍は、その時までに、すべての掃除を完了しておこうとしていたのだった。
入城式
十七日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将兵の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。
下関からは、長谷川清艦隊司令長官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には陸海の航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。
松井軍司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約百名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本實彦改造社長などの姿もあった。
この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。
死んだ部隊
私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。?江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。
「機銃でやったらしいな」
と祓川が言った。
「それにしても多いなあ」
千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。?江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。
城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。
軍司令官の怒り
翌十八日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後二時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。
祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、聯隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
会場の五百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、「松井はよく言ったね」
と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
あるまじき行為
「皇軍としてあるまじき行為」という松井の言葉が、何を指したのかは明らかでない。しかし、前日来私が見た″処刑″や長江河畔の死体群などが含まれていたのかも知れない。あるいはまた、南京に至るまでの各戦線での行動に対するものであったかも知れない。さらには南京城占領の乱戦の中でおこった一部住民区での残敵掃討の渦中で発生した破壊や暴行をさすのかも知れなかった。
南京落城の時、英国や米国の新聞記者や伝道師などが残留しており、彼らから種々の情報が上海に流れた。また司令部には憲兵隊その他からの報告が集められていた。松井はかねてから人道上の配慮にきびしく、とくに南京は首都であり、外国公館も多いところから、軍規の厳正を求めていた。しかしその指令は、末端までは伝わらなかった。
上海戦で日本軍は幾度か潰滅的な打撃を蒙り、同時に民服のゲリラに苦しめられた。その恐怖の体験が敵軍と住民を区別することを困難にした。激戦はしばしば、殲滅と焦土の形をとった。その累積が南京に持ちこまれた。
しかし、その時の松井大将の″叱責″の内容は、のちに海外へ伝えられたいわゆる「南京大虐殺」などのようなものではなかった。「大虐殺」の被害者は、十数万とも三十万ともいわれる。当時の南京防衛軍は十万といわれ、市民は二十万とされていた。軍民全滅しなければ三十万という数字にはならない。
流説の拡幅
もとより南京攻城戦では、多数の日本将兵も死んだが、中国軍の戦死者ははるかにそれを上まわった。とくに脱出部隊に対する殲滅戦があった。これに南京までの交戦による死亡者を加えれば、万の単位で数える数字になったろう。しかし、これらは戦闘の範囲に入るものであった。すなわち、「大虐殺」というのは、長江沿いや?江門、それに″処刑″、私自身が見た事実、これらの中には戦闘につながるものがあるかも知れないが、これらの事実が核になって噂が拡幅され、戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがったのではないか。
一部の兵の暴行に良心を傷つけられ、指令の不徹底を怒り、異例の叱責をした松井石根は、戦後、この拡幅された「大虐殺」の責任者として処刑されることになったのである。
乱暴狼藉の噂
また占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入城早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式のころから難民区内でも区外でも商店が店を開けはじめ、同盟班も十八日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。
支局には、戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた。これと入れ違いに、これまで忠実に仕えてきた李杏泉が多額の軍票と身分証明書を与えられて住民の中に去った。
難民区内での日本兵の″乱暴狼藉″説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動をはじめた矢先のことである。私たちは顏を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、十四日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった。
警備司令部の記者会見でも、「例の白髪三千丈」だろうと、まともに取りあげる空気にはなかった。もしそれが事実だったとすれば、私たち新聞記者は明きめくらだったということになる。
『戦争の流れの中に:中支から仏印へ』前田雄二 善本社 1982年 pp.117-125
二年ほど前、私は書斎の整理をした時、古い日記帖を発見した。これは従軍記者として東京を出てから、上海戦、南京戦、そして漢口戦に従った時のものだった。私はかねがね当時のことを記録したいと考えていたので、日記の発見を機会に筆をとりはじめた。それが週刊誌「世界と日本」(内外ニュース社)に一年半にわたって連載された「戦争の流れの中に」というドキュメンタリーである。そしてこの連載ものが、つい最近、一冊の本になって「善本社」から出版された。
「私の見た「南京事件」『祖国と青年』1983年1月号 pp.34-35
※K-K註:前田氏は他に次の執筆がある。
『月曜評論』1982年8月9日号「目撃者の証言 ”南京大虐殺”の真相」
『祖国と青年』1983年1月号「私の見た「南京事件」(『月曜評論』より転載)
『南京大虐殺はなかった』前田雄二 著 善本社 1999年(『戦争の流れの中に』より抜粋)
堀口瑞典
同盟通信上海支局所属。語学力を買われ軍の通訳を行ってたという。
証言:板倉由明「松井石根大将「陣中日記」改竄の怪」『歴史と人物』1985年年冬号
同盟通信上海支局英文部長の堀口瑞典氏は、その名の通り外交官の父君の赴任先スエーデンで生まれ、英、仏、独、スペイン語を自在に駆使して報道部の発表や高官の記者会見に活躍した人である。この会見で通訳にあたった堀口氏の記憶では、外人記者たちから南京事件の質問が続出し、松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた、という。
※K-K註:「この会見」とは、1937年12月23日の松井と外国人記者団との会見をさす
板倉由明「松井石根大将「陣中日記」改竄の怪」『歴史と人物』1985年年冬号 p.326
今井正剛
朝日新聞記者として上海戦〜南京戦に従軍
手記:「南京城内の大量殺人」『特集文芸春秋』1956年12月号
見当らぬ民衆
こうして準備された南京人城式は、なるほど豪華荘厳であつたにはちがいないが、奇妙なことにこの”大絵巻”を見物するものといえば、兵隊と同じようなカーキ色の従軍服をきた新聞記者の他は、一般民衆と名のつくものは唯一人もいなかつたことである。
つまり入城式の沿道は、堵列の兵隊のほかは、ネコの子一匹たりとも通行を許さなかつたからである。軍司令官閣下に、あるいは畏くも宮殿下のお通りに、万が一にも無礼なことをするフテイの輩がいては一大事、という考えの方が強かつたのにちがいない。敵国民の憎悪の瞳をあびることは、皇軍の汚れであるとも思つたのかもしれぬ。歩武堂々たる閲兵の行列の両側に堵列した、部下の将兵の捧げ銃と頭右いの声の中を静かに進んで行つた。そしてそれをとりまくものはうちくだかれた瓦礫と死の空虚とがあるばかりだつたのだ。
こういう入城式を挙行するために、二三日前から南京城内に敵の一兵たりとも残存するを許さず、という軍令が入城部隊に厳達されていた。敗残兵が軍服をぬぎ捨てて便衣に着かえ、市内にかくれひそんでいるかもしれぬ。徹底的にこれを調べあげて掃蕩すべし、というので、南京突入の十三日夜から、十四、十五日の両日は殊にこの”残敵掃蕩”が苛烈であつた。十四日の日は、兵隊さん逹も入城したばかりだつたから、国民政府だとか、軍官学校だとか、市内の要所要所を経回つては万歳を唱えて歩くのに忙しかつたが、十五日は、いよいよ入城式を明後日にひかえて行動は掃蕩に集中された。南京大虐殺事件というのは、この十五日の夕刻から深夜にかけて行われたのである。
(略)
虐殺を眺める女子供
以前の支局へ入つてゆくと、こゝも二三十人の難民がぎつしりつまつている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあつた。支局で雇つていたアマとボーイだつた。
「おう無事だつたか」
二階へ上つてソファにひつくり返つた。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰つた気持の昼寝だつた。
「先生、大変です、来て下さい」
血相を変えだアマにたたき起された。話をきいてみるとこうだつた。
すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じやないのだから早く行つて助けてやつてくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顏を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員(現朝日新聞アメリカ総局長)と私はあわてふためいて飛び出した。
支局の近くの夕陽の丘だつた。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがじやがんでいる。空地の一方はくずれ残つた黒煉瓦の塀だ。その塀に向つて六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかつては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘一ぱいにひびき渡る。次、また六人である。
つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざににされてゆくのを、空地にしやがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いつたいこれは何か。
そのまわりを一ぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顏を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえたかつた。ババーンという銃声と、ぎやあつ、という叫び声が耳一ぱいにひろがり、カアッと斜めに差した夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだつた。
傍らに立つている軍曹に私たちは息せき切つていた。
「この中に、兵隊じやない者がいるんだ。助けて下さい」
硬直した軍曹の顏を私はにらみつけた。
「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
「どいつだかわかりますか」
「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」
返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。
群衆の中から皺くちやのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出して来た。
「この二人だ。これは絶対に敗残兵じやない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」
たちまち広場は総立ちとなつた。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがつて、群衆が殺到した。
「まだやりますか。向うを見たまえ。女たちが一ぱい泣いてるじやないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやつたらどうだ」
私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかつていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。
大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救つたにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかつた。これも戦場の行きずりにふと眼にとまつた兵士の行動の一コマにすぎないのか。いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。
屠所にひかれる葬送の列
電灯のない、陥落の首都に暗い夜がきた。かき集めてきたランプの灯影で、さすがに夕方のあの事件を、私たちはボソボソと語り合つていた。
ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、ひたひたと、ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじつて、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。
外套をひつかぶつて、霜凍凉る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか。果てしない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかつた。
「どこだろうか」
「下関(シャアカン)だよ。揚子江の?頭だ」
「行つて見よう」
とつて返して外套の下にジャケツを着込むと、私たちは後を追つた。
まつくらな街路をひた走りに走つた。江海関の建物が、黒々として夜空を截つている。下関桟橋である。
「たれかつ」
くらやみの中から銃剣がすつとにぶい光を放つて出て来た。
「朝日新聞」
「どこへ行きますか」
「河つぶちだ」
「いけません。他の道を通つて下さい」
「だつて他の道はないじやないか」
「明日の朝にして下さい」
「今ここを大ぜい支那人が通つたろう」
「――」
「どこへ行つた」
「自分は知らない」
「向う岸へ渡すのか、この夜半に」
拍子抜けのしたようにポンポン蒸汽の音が遠くから伝わつてきた。
「船が動いてるね」
「そうらしい。部隊が動いてるのかな」
気をゆるめたらしい歩哨が、足をゆるめて話しかけて来た。
「吸わないか、一本」
キャメルをポケットから出した。
「はあ、でも立哨中ですから」
人のよさそうなその兵が、差し出した煙草を受けとつてポケットへ入れようとしたとたんだつた。
足もとを、たたきつけるように、機関銃の連射音が起つて来た。わーんという潮騒の音がつづくと、またひとしきり逆の方向から機関銃の掃射だ。
「――」
「やつてるな」
「やつてる? あの支那人たちをか」
「はあ、そうだろうと思います。敗残兵ですから。一ぺんに始末しきれんですよ」
「行くぞ」
「いけません。記者さん。あぶない。跳弾が来ます」
時日、花火のようにパッパッと建物の蔭が光り、時々ピーンと音がして、トタン板にはね返る銃弾の音が耳をはじいていた。
何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であつたほかは、その大部分が南京市民であつただろうことは想像に難くなかつた。
揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。
「うつ、寒い」
私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。
「さつき、支局のそばでやつてるとき、自動車が一台そばを通つたねえ」
中村君がそういつた。
「毛唐が乗乘つてたぜ」
「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーヴヘつつ抜けになるな」
「書きたいなあ」
「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」
「いや、もう一度見ようや。この目で」
そういつて二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が断えていたからだ。
消えた二万人
河岸へ出た。にぶい味噌汁いろの揚子江はまだべつたりと黒い帯のように流れ、水面を這うように乳色の朝霧がただようていた。もうすぐ朝が来る。
とみれば、碼頭一面はまつ黒く折り重なつた屍体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその屍体をひきずつては河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。
対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥濘のように碼頭一面がにぶく光つている。血だ。
やがて、作業を終えた”苦力たち”が河岸ヘ一列にならばされた。だだだつと機関銃の音。のけぞり、ひつくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行つた。
終りだ。
下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、水面めがけて機銃弾が走つた。幾条かのしぶきの列があがつて、消えた。
「約二万名ぐらい」
と、ある将校はいつた。その多くはおそらく左右両方から集中する機銃弾の雨の中を、どよめきよろめいて、凍る霜夜の揚子江に落ちて行つただろう。その水面にまで機銃弾はふりそそいだが、さらに幾人かは何かにつかまり、這いあがつて、あるいは助かつたかもしれない。しかしこれは完全な殲滅掃蕩である。
南京入城式は、こうして大掃除された舞台で展開された。そして私はあの予定原稿を書きなぐつた。みんな同じ日の出来事だ。異常心理にちがいない。
勝ち戦の軍隊が行つた行為だとは考えられぬ気が私はする。何か追いつめられた者の、やけくその大暴れだつたのではあるまいか。事実、上海市街戦いらい、大場鎮の攻撃から南京攻略戦にいたるまで、あまりにも勇猛果敢な中国軍の抗戦ぶりであつた。何の支那兵とみくびつていたのが、こんな筈じやなかつた。恐ろしい敵だ、という恐怖に変つて、その恐怖が全軍を支配していたのだ。そして、さあこれで勝つた、と解放された緊張が、恥も外聞もかまう余裕もなしに、あの恐ろしい殺戮行為となつて現われた――と私は考えている。でなければ、あの異常心理の持つて行きようがない。「記者さん、あたりなさい」 機関銃をかまえていた兵士が、そこらから板ぎれを集めて火をつけた。共通の秘密を持つ者の親しさだ。くすぶる板きれの霜がとけて、ジュウジュウと鳴つていた。
今井正剛「南京城内の大量殺人」『特集文芸春秋』1956年12月号 pp.155-159
足立和雄
朝日新聞記者として現地で従軍
手記:「南京の大虐殺」(『守山義雄文集』)
南京の大虐殺
昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。
朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。
「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)
『守山義雄文集』同書刊行会 1965年 p.448
証言:『「南京事件」日本人48人の証言』阿羅健一
――南京で大虐殺があったと言われていますが、どんなことをご覧になっていますか。
「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった」
――ご覧になって、その時はどう感じました?
「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました」
――なぜ勝てないと……。
「中国の婦女子の見ている前で、一人でも二人でも市民の実ている前でやった。これでは日本は支那に勝てないと思いました。支那人の恨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思ました」
――そのほかにご覧になりましたか。
「その一ヵ所だけです」
――大虐殺があったと言われていますが……。
「私が見た数十人を射ったほか、多くて百人か二百人単位のがほかにもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるかもしれない」
――南京城外はどうでした?
「城外といっても上海―南京間は戦闘行為でしょう。郊外を含めて全部で何千人か、というところでしょう」
――そうすると、ほとんど城内であったということになりますね。
「そうでしょう。青年男子は全員兵士になっていて、城内には原則として残っていないはずだ。いるのは非戦闘員で老人・婦女子だけだ。もちろん全然いない訳ではないが、青年男子で残っているとすれば特殊な任務を帯びた軍人か便衣隊だと思われていた。便衣隊は各戦線で戦いの後、日本軍の占領地に入って後方撹乱や狙撃など行っていましたからね。逃げないで城内にいるということは、敵意を持っていると見られても仕方ない。
軍は便衣隊掃蕩が目的だったが、あるいはやりすぎがあったかもしれない。」
――城内外に合わせて数千人あったということですね。
「全部集めればそのくらいはあったでしょう。捕虜を虐殺したというイメージがあるかもしれないが、それは、戦闘行為と混同しています。明らかに捕虜だとわかっている者を虐殺はしていないと思います」
pp.27-29
――今井記者をよくご存知ですか。
「今井君は同じ社会部で接触はありました。親しくはありませんでしたが。亡くなった人のことは言いたくない」
――お気持ちはわかりますが、今井記者のことで知っていることをお聞かせ下さい。
「今井君は自分で見て書く人じゃなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている。南京でもカメラマンなど何人か死んでいますからね。今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった。筆を走らせるというのかな。しかし、文はうまいとされていた。」
――今井氏は入城式の原稿も見ないで書いたと言われますが、いわゆる予定稿というやつ。
「一般に予定稿というのはあった。天皇陛下が出席される行事などはそうだった。翌日、一緒に行動して予定の変更があれば訂正する。今井君の南京の入城式の記事が予定稿だったかどうかは記憶にないが、締切に間に合わせるためには考えられることです。
入城式の記事は別にして、今井君の原稿にはフィクションがあったかもしれない」
pp.29-30
今年の春に朝日新聞の論壇係から私のところに電話がありましてね。守山君がベルリンにいた時の話です。
ベルリンで、守山君は日本の留学生と飯を食ったことがあり、その時留学生に南京で大虐殺があったと語ったというのです。その留学生は今は有名な大学教授になっているそうです。私は彼の名前を聞くのは初めてでしたが、その大学教授がベルリンで守山君から聞いた話を論壇宛に送ってきたというのです。
守山君の語った話というのは、日本軍が南京で老人・婦女子を殺し、あまりたくさん殺したので、道路が血でいっぱいになり、守山君がはいていた半長靴に血が流れ込むほどだった、というものです。守山君がこういう話をしたというのです。
論壇の係は、私が南京で守山君と一緒だったし親しかったことを誰かに聞いて、この話を確かめようと電話をかけてきた訳です。
そこで私は、たしかに南京では守山君と一緒でしたが、そんなことは見ていないし、後で守山君から聞いたこともない、守山君は嘘をしゃべるはずはない、その大学教授はどんな人か知らないが、その人が言っていることは嘘だ、そういうことが載るなら守山君の名誉のために残念だ、と言いました。
論壇係は私の話を聞いて納得したようです。教授の投稿をボツにしました。南京大虐殺については、意識的に嘘をついている人がたくさんいるんですよ。
pp.31-32
――百人斬りの話を知っていましたか。
「ええ。あの記事を書いた浅海(一男)君も知っていますよ」
――浅海記者はライバルの新聞社の記者でしょう?
「でも何度も顔を合わせていましたよ。毎日新聞は戦争をあおるような気風が特に強かったようだが、浅海君もそんな人でね。あの百人斬りの記事は創作かもしれんな。浅海君が百人斬りを競った二人の軍人に会ったのは事実だろうが、二人の談話は創作かもしれない。浅海君は口をつぐんで何も言ってないが、心の中ではまずい記事を書いたと思っているんじゃないかな。戦後、あの記事が証拠になって二人の軍人は死刑になったし、その中国へ浅海君は新聞の組合の委員長として言っているんだからね」
――浅海氏とはその後も会っていますか。
「なんも会っています。最後に会った時はずいぶんやせていたが、今はどうしているか。
私は先ほども言ったが、最初、第百一師団の従軍記者だった。。同じ師団に従軍した毎日の記者が伊藤君といってね。船で一緒だった。この人は記者なのに、日本刀を腰にぶら下げていて、酔うと刀を抜いて暴れるんだよ。この人もあとで組合の委員長をやったが、浅海君と伊藤君もあまり知性的ではなかったように思うね」
pp.33-34
『「南京事件」日本人48人の証言』阿羅健一 小学館文庫 2002年
守山義雄
1910年-1964年。朝日新聞記者として南京戦で従軍
証言:篠原正瑛「西にナチズム東に軍国主義」(『日中文化交流』)
戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、そのころ朝日新聞ベルリン支局長をしていた守山義雄氏(すでに故人)から、南京に侵入した日本軍による大虐殺事件の真相を聞いたことがある。守山氏は、朝日の従軍記者として、その事実をまのあたり見てきた人である。南京を占領した日本軍は、一度に三万数千の中国人、しかも、その大部分が老人と婦人と子どもたち、を市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射をあびせて皆殺しにしたそうである。そのときの南京城壁のなかは、文字どおり死体の山をきずき、血の海に長靴がつかるほどだったという。守山氏は、このような残虐非道の行為までも”皇軍”とか”聖戦”といういつわりの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと、いく日も思い悩んだそうである。
篠原正瑛「西にナチズム東に軍国主義」『日中文化交流』第157号 1970年8月 日本中国文化交流協会 p.5
証言:『ドイツにヒトラーがいたとき』篠原正瑛
そのころ私は、東部戦線に出征していて、一時休暇をもらって帰ってきていたドイツ人の学友の口から、占領した村の住民に対してドイツ軍が残虐なことをやっているという話を聞いていたので、守山氏にその真偽をただしてみた。私が話終ると、守山氏は暗い表情で「君の学友の話は、本当です。しかし、戦争なんていうものは、どこへ行ってもそんなものですよ。シナにいる日本の軍隊だって、おなじです」と、はきすてるように言った。そして、何を思ったのか、急にしんみりした口調になって、日本軍の南京攻略のときに朝日の従軍記者として体験したことを語ってくれた――
日本軍が南京に入城したとき、城内に残っていたのは非戦闘員ばかり、それも、大部分が老人と女子と子どもであった。日本軍は、彼らを一ヵ所に集めておいて、城門をしめると、城壁の上から軽機関銃と手投弾の猛射をあびせて、みなごろしにしてしまったそうである。その数は三万数千人だったということだが、折り重なって倒れている死体から流れ出る血は、川のように道路にあふれ、守山氏が履いていた革の長靴がつかるほどだったそうである。
語り終ってから、守山氏は、しみじみと言った――「僕はね、篠原君、日本軍のこんな残虐非道な行為を目のあたり見ながら、それでもなお『皇軍』とか『聖戦』とかいう、まやかしの表現によって虚偽の報道をしなければならない新聞記者の職業に絶望して、いっそのことペンを折って日本へ帰ろうかと、何日も思い悩んだことがありましたよ」。
しかし、守山氏は結局、「戦争とは、こんなものかもしれない。そして、こんな行為でも、やはり『民族の生命力』というものの表現なのかもしれない」と思いなおして、従軍記者の仕事をつづけたそうである。
守山氏が日本に帰ったとき、中国における日本軍の行動に関するその報告があまりにも否定的だったので、朝日新聞の首脳部は狼狽したという。そして、首脳部は、その報告の内容が万一、陸軍に知られたときには守山氏の身にどんなことが起るかわからないと思い、ベルリンの支局に転勤させたということである。ドイツは日本の友邦であったし、特に陸軍とは親密な関係にあったから、ベルリンにいる守山氏のところまで追及の手が延びることはあるまいと、朝日新聞の首脳部は考えていたらしい。
『ドイツにヒトラーがいたとき』篠原正瑛 誠文堂新光社 1984年 pp.135-136
森恭三
朝日新聞ニューヨーク特派員
手記:『私の朝日新聞社史』森恭三
私が新聞の「知らせる義務」について真剣に考えるようになったのは、特派員として海外に出てからです。日本軍による南京虐殺事件(一九三七年十二月)はアメリカの新聞に大々的に報道され、ニューヨーク特派員として、私は当然、これを詳細に打電しました。ところが、東京から郵送されてきた新聞を見ると、一行もそれがでていない。そればかりでなく、東京のデスクからは、例えば「台湾の基地を発進した海軍航空隊は中国本土にたいする渡洋爆撃に成功した。これは画期的な壮挙である。これにたいするアメリカの反響を至急打電せよ」といった種類の指令を送ってくるのです。私は、出先きと本社とのズレを痛感せざるをえませんでした。そういう経験をくりかえして、だんだん自分の判断によって本社からの指令を取捨選択するようになりました。場合によっては本社からの指令を無視する。これは出先きとしての抵抗です。
『私の朝日新聞社史』森恭三 田畑書店 1981年 pp.24-25
原四郎
1908年-1989年。事件当時、読売新聞上海特派員、後に読売新聞副社長。
証言:『世界日報』1982年8月31日
一方、当時、読売新聞の上海特派員だった原四郎氏(七四)=現在、読売新聞社顧問=も「わたしが、南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して三カ月後のこと。当時、軍による緘口令が敷かれていたわけではない。なぜ、今ごろこんなニュースが、と不思議に思い各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また、中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった」と語る。
「当事者、従軍記者らが証言/作られたニュースか南京大虐殺」」『世界日報』1982年8月31日 p.3
大宅壮一
1900年-1970年。ジャーナリスト、作家、評論家。ジャーナリストとして南京戦に従軍。
証言:『サンデー毎日』臨時増刊 1966年10月20日号
大宅 ぼくは南京攻戦略のとき上海からずっと軍について南京にはいったわけだけどね、一番乗りは光華門で、ぼくらは二番手で中山門からはいったんだが、その中山門に土のうを積み込んではいれない。それを遠くから日本軍が土のうをくずすために大砲をどんどん撃ち込むんですね、日本の大砲は正確ですね、真ん中に穴をあけて、そこを突撃するわけですね、当時はですね、南京を占領すればですね、あの日華事変は終わるもんだというふうな考え方が一般的で、兵隊もそう考えて張り切っていた。張り切ったあまり、相当悪いことをしたもんでね。非常に思い出の深い土地だね。
町はたしかに変わってます。しかし、近代的なビルはあまりできておりませんね。せいぜい五階建か六階建のビルですがね、ただ、まあ、キレイになったね。街路樹が実にスミズミまで植えられて。しかも大きくなっているということですね、アカシアのね。解放と同時に並み木を植えたようですね。なかには、ずい分大きくなったのがありますね。ありゃ成長がはやいんだなあ。何十万本という単位ですね。
p.70
南京大虐殺の”真相”を聞く
小谷 大森さん、前の晩の食卓でも、お互いがよりよく理解するためにも真実を聞きたいというんで、南京大虐殺をかつての社会部記者的にかなり追及しておられたようだが、あの夏さんが「話したくないんだが、あなたがたがそうおっしゃるなら語りましょう」といって、明らかにしてくれた大虐殺の模様と感想をひととおりやってくれせんか。
大森 あの大虐殺を写真まで展示して見せてくれたイキサツを申しますと、前の晩に二つのテーブルに分けて向こうとこっちとごちそうになったとき、私の横にきた中国国際観光旅行社の経理=マネジャーがですね、彼がまた毛主席の社会主義論というのをはじめだしたので「ちょっと待ってくれ。行った先、行った先でそんなに社会主義を吹聴するのは旅行業者として、少し問題じゃないか。ぼくのいう忠告を本気できくか」というと「きく」というから「では、せっかく毛沢束というのは世界の生きている最高の指導者と思っているけど、いかにいい料理でもいささか食傷ぎみだから、もうちょっと変わった話を日本人の旅行者にきかすようにしたほうが、より友好のためになるんじゃないか」というたらですね。そしたら通訳の女の予が私にくってかかりましてね。私をにらみつけたんですよ。通訳の分限を越えるようなことをしたんです。さすがに気がついて、そのとおり通訳したんですが、結局「では申し上げよう」ということになった。その前に「あなたの親類か何かに虐殺の犠牲者はないか」ときいたから「ない」といった。そういうことで、彼は大虐殺の話をバアーッといって「なお、ききたいか」「いくらでもきこう」といったら翌日、追加したわけですね。
小谷 ここで、聞いた要点だけご紹介しておきますと、昭和十二年の十二月十三日から入城して、翌年の二月までに三十万人の中国人が虐殺された。当時の南京の人口は百万であった。そして家屋は三分の一が焼かれ、商店街の八〇パーセントが焼き払われたというのが、この虐殺のポイントの数字です。かなりドキュメントとして度の強い話が展開したわけですが、大宅さん、このへんで感想と判断をおっしゃってくださいませんか。
大宅 私はね、あそこまで先陣争い――各兵団が門を目ざし、ちょうどスゴロクの”上がり”みたいにね、だれが上がるか、同時に南京を占領することは大陸の戦争が終わることだというような考え方が強かったですね。兵隊の士気大いに上がり、猛烈な勢いで南京へと進んできた。私は毎日新聞の準特派員というか、毎日新聞の旗についてきたんだが、私たちの属していた兵団がね、中山門にはいって惜しくも二着になったのかな。光華門にはいったのが第一着で、これが最初の”万歳”を唱えた。しかし、入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。
つぎに、南京というものの性格だが、南京の都市計画そのものも、われわれが見ていてよくできているし、街路樹なんかに五年や十年で育たないような古い大きな木が相当あるんだね。都市計画そのものの最初の青写真を作ってある程度やったのは蒋介石なんだね。だから蒋介石プランの上をいまの新政権がなぞったようなものだね。こんどきて一ばんいいと思うのは、やはり都市計画、道路と並み木ですね。これはどちらかというと蒋介石の手柄だと思うんですね。それをまあ、あまりいわないんだな。
それがいま、日本軍に対する憎しみより、国民党政府に対する憎しみに重点をおいてどこかズレているところがある。ところが、対日本人観という公式みたいなものがあって、日本軍国主義は悪いんだが、日本人民は悪くないんだ、友人であるという意識、これが徹底していて、日本人の顔をみると、どこに行ってもこれをいうんですな。そのひとつの図式というか、これは中央から出ている、と思うね。
同時に南京虐殺のあとを見せても、日本の人民と日本軍国主義は別だ、さらにいえば日本の一部はいま、アメリカ帝国主義につながっている。しかし、日本人民はアメリカ帝国主義に相当抵抗しているんだ――と。日本人民の抵抗というものがかなり過大に宣伝されて中国人民の頭にはいってきているね。
pp.77-78
「大宅考察組の中共報告」『サンデー毎日』臨時増刊 1966年10月20日号
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