牧原信夫の陣中日記
歩兵第20連隊所属・上等兵
〔一一月二二日〕
道路上には支那兵の死体、民衆及び婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀想である。
橋の付近には五、六個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである
〔一一月二六日〕
午前四時、第二大隊は喚声を上げ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃蕩が行われた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、後三名は捕らえた。兵隊たちは早速二名をエンピや十字鍬でたたき殺し、一名は本部連行、通
訳が調べた後銃殺した。
八時半、宿舎に就く。三小隊はさっそく豚を殺していた。まったくすばやくやるのにはおそれ入った。
〔一一月二七日〕
支那人のメリケン粉を焼いてくう。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。支那人二名を連れて十一時、出発する・・・・鉄道線路上を前進す。休憩中に五、六軒の藁葺きの家を焼いた。炎は天高く燃え上がり、気持ちがせいせいした。
〔一一月二八日〕
午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃蕩に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準を付け一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げていく。何のために逃げるのか解らないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海だある。老人が二、三人にて可哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。その上五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。
〔一一月二九日〕
武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮き足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。
〔一二月一日〕
途中の部落を全部掃討し、また船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに挑発に一家屋に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手放す。
〔一二月四日〕
昨夜は大変に寒くて困った。二、三日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だということで早速挑発に出る。自分は炊事当番で岡山、関本と共に昼食を準備する。挑発隊は鶏・白菜等を持って帰り、家の豚も殺して昼食は肉汁である。
正午すぎ、移転準備の命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することになった。苦人も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した
〔一二月五日〕
午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。
南京は近いのだろう。一軒屋に乾いもが目に付いた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。
堀越文雄陣中日記
第13連隊 山田支隊 歩兵第65連隊
〔一〇月六日〕
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔一一月九日〕
捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供一人、これも突かれたり。
〔一一月一六日〕
午後六時頃一部落を見つけて泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と三人して挑発せし鴨と鶏、全部で八羽を持って夕食うまし。外に豚一匹は油とサトー、塩とで炒め、昼食の副食物にする。
〔一一月二〇日〕
昨夜まで頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを切る。全く作法どおりの切れ工合いなり。刀少し刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。
敵はほとんど退却す、残れるものは使役に服せしめ、または銃殺、断首等をなす。怒りの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。
〔一一月二二日〕
鶏の挑発に出かける。クリークをとおる支那人の船を全部止めて方っぱしより調べそれに乗り対岸にいたり、チャンチウ一壺を得てかえる。にわとり凡そ十羽もあるべし。中食うまし。
大寺隆上等兵の陣中日記
第13師団 山田支隊 歩兵第65連隊 第7中隊
〔一二月四日〕
兵隊は元気に町を歩いて色々徴発している。
〔一二月八日〕
途中八時ごろニヤをつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。三十分歩いて五分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力があるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
〔一二月九日〕
途中ニヤをつかんで無錫に十時とう着。無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかの様に空にかがやいている。火災を起こしているところもあった。三里も手前から見えた。今日は休養だ。午後から城内の徴発に行って道に迷い、五時ごろようよう木村上等兵と二人で帰る。
〔一二月十日〕
皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。青陽鎮の町はまだ火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。
〔一二月一四日〕
食糧は今日からなしに。地方から徴発していかなければならない。第四中隊は徴発中隊だ。
〔一二月一六日〕
徴発隊として午前七時二〇分整列、七時に起きたのであわを食って出ていく。途中道を間違えて半道ばかり反対の方向に行く。豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発用意。
午後二時半東流鎮につく。龍タン鎮から約四里、町に着き宿舎を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまたいろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当に御馳走があった。
〔十二月十八日〕
・・・・昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二カ所に山のように重なっているそうだ。七時だが未だ方付け(片付け)隊は帰ってこない。
〔十二月十九日〕
午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警(驚)く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日は使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ。
中島今朝吾日記
第16師団師団長・中将
だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたるども、千、五千、一万の群衆となればこそこれが武装を解除することすら出来ず、ただ彼らが全く戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん騒擾せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)
後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門における守備の一中隊長が処理せしもの約1300,その仙鶴門付近に終結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。
この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に誘いきて処理する予定なり。
上海戦従軍日記
泰山弘道 海軍軍医大佐
下関に追いつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したる者約一万人に達せりという
笠原十九司『南京事件』P160
一兵士の日記 第9師団 歩兵第7連隊
〔12月13日〕
市内といっても大都市南京、ほんの一部分の取りついた付近の小範囲に過ぎないが、夥(おびただ)しい若者を狩だしてくる。いろいろの角度から調べて,敵の軍人らしいもの二十一名を残し、後は全部放免す。
〔12月14日〕
昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩りだされて来る。靴づれのある者、面
たこのある者、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名と共に射殺する。
笠原十九司『南京事件』P168〜169
増田六助伍長 第16師団 歩兵第20連隊
明くれば十四日、今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は、八方より包囲されて唯一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに、草の根分けても探し出し、亡き戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置に付いた。各小隊分かれて、それぞれ複雑な支那屋敷を一々捜して男は全部取り調べた。
その中にある大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長等が見つけた。それというので飛び込んでみると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らに小銃、拳銃。青竜刀など兵器が山ほど積んであるではないか。(中略)
片っ端から引っぱり出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下っている電線でひっくくり数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめ気の立っている者どもは、木の枝や電線で力まかせにしばき付けながら、「貴様らのために俺たちはこんなに苦労しているんだエイ」ピジャリ「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲になっているか知れんのじゃエイ」ピシリ。
「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているか知れんのだぞ」エイ。
ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴ボン「こらこの餓鬼もだ」ボン。
素っ裸の頭といわず背中といわず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる。ちょっと多すぎて始末に困った。しばらくして〔安全区〕委員会の腕章を付けた支那人に「称支那兵有没有」と聞くと、向こうの建物を指差して「多多的有」と答える。その家に這い入ってみると一杯の避難民だ。その中から怪しそうな者千名ばかり選びだして一室に入れ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選り出して最後に三百人くらいの奴らを縛った。(中略)
夕闇せまるころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。
飯沼守日記
〔37年12月16日〕
午後一・〇〇出発、入城式場を一通り巡視、三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐(上海派遣軍司令部参謀部第二課長・長勇)の帰来報告によるも、一六D(一六師団)参謀長は責任を持ちえずとまでいいおる由なるも、すでに命令せられ再三上申するも聴かれず、かつ断固として参加を拒絶するほどとも考えられざるを持って、結局用心しつつ御伴することに決す。(中略)
長中佐夜再び来たり、一六Dは掃蕩に困惑しあり、三Dをもって掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。
兵士Xの日記 第9師団 第7連隊
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通
遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。
目につくほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出してくるが、第一中隊は目立って少ないほうだった。それでも百数十名を引き立ててくる。そのすぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。
市民と認められる者はすぐ帰して、36名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方ない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方ないことだという。多少の犠牲はやむえない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。
山田栴二少将の日記 山田支隊隊長・少将
〔十二月十四日〕
他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る。
捕虜の仕末に困り、あたかも発見せし上元門外に収容せしところ、一四七七七名を得たり、かく多くて殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。
〔一二月一五日〕
捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。
〔十二月十八日〕晴れ
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸にこれを視察す。
〔十二月十九日〕晴れ
捕虜仕末のため出発延期、午前総出にて努力せしむ。
笠原十九司『南京事件』P184〜185
遠藤高明少尉の陣中日記
第13師団 山田支隊 第65連隊 第8中隊・少尉
捕虜の総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出しT(第1大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。
黒須忠信上等兵の陣中日記
第13師団 山田支隊 山砲兵第19連隊 第3大隊・上等兵
午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向かう。二,三日前補慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突き刺したことであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ(し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首を切ってみた。こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった。
帰りし時は午後八時となり、腕は相当つかれていた。
松井石根大将の陣中日記 中支那方面軍指令官・大将
中山門より国民政府にいたる間両側には両軍代表部隊、各師団長の指揮のもとに堵列(垣根のようにつらなること)、予はこれを閲兵しつつ馬を進め、両軍司令官以下随行す。未曾有の盛事、感慨無量
なり。
午後二時過ぎに国民政府に着、下関より入城先着せる長谷川海軍長官と会し、祝詞を交換したるのち、一同前庭に集合、国旗掲揚式につづいて東方にたいし遙拝式をおこない、予の発声にて大元帥閣下の万歳を三唱す。感慨いよいよ迫りついに第二声を発するをえず、さらに勇気を鼓舞して明朗大声に第三声を揚げ、一同これに和しもって歴史的式典を終了す。
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