日本の文民

重光葵 外交官、外務大臣。南京での虐殺の事実を認める。
『重光葵手記 続』

福田篤泰 外交官。事件当時、南京に滞在。残留外国人の対応。
『一億人の昭和史3』
板倉由明氏聞き取り
田中正明氏聞き取り『南京事件の総括』
田中正明氏聞き取り『”南京虐殺”の虚構』
参考:ラーベによる福田氏らの評価

滝川政次郎 法学教授、東京裁判弁護人。事件直後、南京を視察。
『東京裁判を裁く 下巻』

矢次一夫 労働運動、政治活動、国策研究会創立、企画院委員。事件直後、南京を視察。
『昭和動乱私史 上』

伊藤述史 外交官。事件当時、上海で無任所大使として活動。
東京裁判証言

佐藤安之助 陸軍少将、衆議院議員。事件直後、南京を視察。
『小川平吉関係文書1』

徳川義親 尾張徳川家当主、貴族院議員、右翼活動家支援。長勇中佐による市民殺害命令があったと聞く。
『最後の殿様 徳川義親自伝』

八角三郎 海軍中将、衆議院議員。事件直後、南京を視察。
『中・北支那を視察して』

 

日本の文民


重光葵

※略歴=1887年-1957年。1911年外務省入省、1930年駐華公使、1932年4月上海天長節爆弾事件で右足切断の重傷を負う。南京事件当時は駐ソ連大使、その後、駐英大使、外務大臣等を歴任。

『重光葵手記 続』より

※1944年2月22日付
D、俘虜取扱の関係。
  米国が宣伝をなし居るは、内政問題は勿論戦力昂揚を主とするも、大東亜宣言を破壊せんとする民族離間の意味も多分にありと思はる。「ビルマ」に於ける印度兵勇敢なる戦も此宜伝を利用せり。又特に支那に対し、日支事変以来の悪感情(南京事件の如きは書物にもなり居れ〔り〕)を挑発し、支那人の対日反感を新にせしめんとするものの如し。我方としては之に乗せられざるを可とす。由来、俘〔虜〕の待遇は人道問題にして、日露戦争後の日露の関係改善及我世界的有利なる立場も俘虜待遇に当を得たるに依ること少からず。故に戦争の為めに止むを得ざることの外、俘虜の待遇は之を改善せざるべからず。我が日本精神は戦争と人道とを明に区別するものなり。
陸軍の俘虜情報局は非常に努力し居るも、二年後の今日尚、未通告のもの数万あり。……最近ある会社に於ては陸軍の優遇指令に拘らず、食器に態と砂を付けて俘虜に与へたる事例あり……。
或は陸軍の先輩を長とする調査委員会の如きものを設置するも可なるべし。
尚又、敵の戦争犯罪を調査する為めに一つの委員会を設置するを要すべし。
――首相。[ ]〔原文空白〕より聴取したる上調査会の設置のことはよく考えざるべからず。他は異存なし。
pp.204-205

※「戦争犯罪人逮捕」項

  俘虜虐待の宜伝は独逸敗北の場〔合〕も仝様であったが戦争の激しい敵味方憎忌の感情の極、少くとも事実よりは誇大せられ、若し〔く〕は極端なる事実のみが取り上げられるのは米国流の新聞報道振りから考えて見ても当然であって、善かった例(例へば上海の収容所の林所長の場合の如き)は取り上げず、悪い場合のみが米国の輿論に投ずる為めに報道せられた。
  然し俘虜及敵国人に対する日本人の考え方は日露戦争当時の考え方とは仝然異った方向にあった。軍及右翼を中心とする思想の動き方は戦争前、特に満州事件前後より急激に反動的となり、「日本精神」「皇軍思想」は無意味なる優越感となり。外国軽侮となり、敵性国家の排撃となって居った。底〔低〕劣なる唯我独尊、切り捨て御免の思想となり態度となって、支那、南方に於ける我軍隊の行為は実に言語仝〔道〕断であって、進駐当初は南京でも香港でもシンガポールでもマニラでも虐殺、殺戮、強盗、掠奪、強姦、暴行、収賄、不正等、殆ど悪魔の軍隊であったのは事実である。日本人が何時如何にして斯程迄堕落したか殆ど想像も付け得なかった。戦争に依る一時の昂憤〔奎〕として片付ける訳には行かぬ。
  軍は、日本人は俘虜とはならぬ、俘虜は認めないのであるから敵の俘虜も認むるに及ばぬ、と云ふ思想を有つて居る。日本が景気の好い戦争初期に於ては上下を挙げて気嬌〔驕〕り何者をも眼中になかったのが軍である。軍だけではない。軍以外のものも食糧不足の此際何故敵国人を優遇する必要ありやと叫ぶ道路の人あり、又戦意昂揚の為めに無差別空襲をやったものは勿論。俘虜は之を殺して可なりと論じた内閣員たる政治家もあった。斯る思想の下に軍は軍刑法に依って無差別空襲を行った敵国俘虜を軍法会議に附して処罰することとして一九四二〔年〕の四月十八日〔に飛来した〕ドリツルの飛行士は死刑に処せられた。当時米国は真珠湾の攻撃と共に此の日本の行動に対して報復を誓ったと報ぜられたのである。
  記者は此の日本人の堕落した考え方を痛憤した。俘虜及敵国人に対しては日本は無条件に有ゆる角度より仝情を表し優遇すべきである。彼等は日本にとっては大切なる客人である。日本が俘虜に関するセネバ〔ジュネーブ〕条約に加入したるや否やは問題ではない。日本には昔から武士道がある。日露戦争後、日露の国交が早く回復せられたのは日本に於ける俘虜の待遇が良好であった事が一大原因をなして居る。水師営に於ける乃木大将が降将ステッセルを迎へて居る絵には頭が下る。然し山下〔奉文〕将軍が昭南に於てパーシバル敵将に応接して居る写真は日本人が見ても嘔吐を催す、と云ふのが記者の意見であって、之を何人にも説き且つ実行せんと努力した。
  南京に於ては何とかして南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた。敵国人の収容所の設備、待遇等、最善の措置を講ぜしめたのであった。米国飛行士の処刑問題(ドリツルの飛行士は支那に於て捕はる)が軍の内部にあることを聞き、軍の嘱託、守屋〔和郎〕公使等をも通じ極力之を阻止せんとした。
  外務大臣として東京に帰ってから、敵側からの度重〔な〕る抗議を見て捨て置き難い重大事であることを認め、其の取扱主任鈴木〔九万〕公使、松本〔俊一・外務〕次官、上村〔伸一・政務〕局長等を督励し、機関を充実し軍を説得して大分改善を実現することを得た。山川〔端夫〕顧問の活動は大に期待せられた。然し何分にも此の問題は陸海軍共馬耳東風であり、閣議に於ても手ごたへはなかった。
  記者は日本人は堕落した〔と〕感じた。此戦争の結果が如何になり行くかに付て何等錯覚を有ってなかった記者は俘虜及敵国人待遇の問題が将来大問題となることを極度に憂慮し、且つ日本精神に反するものとして痛憤した。陛下に対しても度々意見を申上げ、陸海軍に対して聖諭を御願ひしたこともある。
  軍部も漸次改善はした。中立国代表の収容所参観も、又敵国側救恤品の分配問題も多大の困難を克復して円満に片付け得た(敵の阿波丸の撃沈は此努力に致命的の打撃を与へた)。
  然し俘虜及敵国人収容の実務は、内地は陸軍の俘虜収容所、海外は陸海軍出先部隊の管轄する所で、外務省は単に敵側抗議の取次ぎ場所に過ぎぬ。夫れでも鈴木公使を中心とする努力は実に甚大であって、日本人中に尚堕落せざる人士の多数あることを実証したのは窃かに満足した所であった。
pp.294-296

※「戦争犯罪」項

  議会に於ては進歩党の斎藤隆夫氏は近衛公を東条大将と列べて其の責任を問ひ、近衛公等が三日の指令になきことが一般に不思議に思はれた失先、六日に至って更に九名の戦争犯罪人名簿が発表せられた。之には近衛公、木戸侯、酒井〔忠正〕伯等の近衛グループの外に伍堂卓雄及大河内正敏二氏の如き軍事生産関係者及大島大使、須磨〔弥吉郎〕公使、緒方竹虎、大達茂雄の前大臣も附加せられた。
  茲に於て戦争犯罪人に関する世間の関心は最高調〔潮〕に達するに至った。
  而してマニラに於ける軍法会議は七日、山下大将の絞殺死刑を宣告した。之と仝時に開戦紀念日の八日を期して、マ司令部は太平洋戦争史と題して満州事変の発生よりミズリ降伏文書調印迄の米国より見たる経緯を発表して、戦争犯罪人逮捕の背景を説明した。戦争勃発に至る我国内事情を説明せる点及南京事件及比島逆〔虐〕殺事件の叙述は特に注目すべきものがある。
  此記述は素より米国の立場より見たものであり、且つ其の立場を強化せんとの企図に出でたものであるが、日本人の反省には好適の材料である。之に依って日本軍閥及軍隊の暴状が能く判り、日本人として民族の堕落を恥かしく思ふ。南京事件の真相も之に依って遂に日向に出された。仝様な遣り口が南方各地に於て行はれ、何等改められて居なかったことを知って、勝つことの出来ない戦争であったことが益々判明するに至った。
  米国の発表で見ると、比島は最初占領した時の「死の行軍」の時代と共に最後のマニラ籠城の惨〔残〕虐も想像以上であったことが明とされた。
  斯くして比島最初の慘虐行為責任者たる本間中将外四名は十二日、梨本宮殿下以下の犯罪容疑者と入れ換りに巣鴨より引き出されてマニラの軍法会議に送られた。
  而してケゼリン(マリアナ)に於ける軍法会議は日本将校四名に絞殺刑、他の数名に終身刑及長期刑を判決した。 (十二月十二日)
pp.364-365

※「戦争犯罪」項

  記者〔重光〕は日本民族を信じ、日本精神、武士道を奉じて居たものであった。団匪事件、日露戦争の際に示した日本精神は、満州事変以来の見苦しい排外行動があったにも拘らず、未だ消滅して居ないと思って居た。然し駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。
  日支間の融和を以て東亜の安定及世界の平和の基礎であることを信条として居る記者にとりては、南京事件を筆頭とする支那に於ける日本軍隊の行為には云ふべからざる悲痛の感を抱かされた。或は支那の他の部分、広東、香港は勿論、南方方面即比島、馬来〔マレー〕其の他も押〔推〕して知るべきのみと深く考ゑさせられた。更に又軍隊のみでなく、軍隊に便乗して居る実業家、在留民も軍隊に劣らぬ実蹟を有つものの少からざるに至って殆ど絶望感を抱くに至り、此戦争が敗北に終っても日本民族として尚正義を主張し得る立場を残さねばならぬことを痛切に思った。(略)
pp.366-367

『重光葵手記 続』伊藤隆・渡辺行男編 中央公論社 1988年

福田篤泰

※K-K註:福田篤泰氏は中華民国在勤外交官補(1937年3月1日付)で、12月14日に南京に入り、領事館業務を開始した。

福田篤泰証言(『一億人の昭和史3』より)

ティンパレー報道の真相
福田篤泰
(当時、外交官として中華民国在勤。現衆議院議員)
  私が南京城内に入ったのは、陥落の翌日で、まだ市街戦が行われていた。上海から日本軍の進撃に同行したのは、南京に残留している外国人を保護するために外務省の人間が必要だという軍の要請があったためだ。
  私と、上海から同行した満鉄職員四人とは、入城後ただちに新街口の中国銀行南京支店に入り、ここで特務機関といっしょに領事館業務が再開する三月ころまで合宿して電気、水道などをはじめ、市内の復旧にあたった。日高信六郎参事官らが船で上海から南京へ到着したのは陥落から四日後だと記憶している。
  さて、問題の”残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。
  残虐行為の現場は見てないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。
  当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで来る。
「いま、上海路何号で一〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
  また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。
  ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。(注・『中国に――』の序文には「本書作成に当っては、南京国際委員会の協力を得た」とある)
  陥落直後の日本軍が非常に殺気立っていたことは確かだった。中国軍の抵抗は激しかったし、急な進撃で兵隊のなかにはボロボロの夏服でふるえている者もいた。途中、食糧は不足し、やせて悲惨な状況だったことが略奪の一因といえる。さらに、安全地区の難民に便衣兵が交しっていたことも事実て、日本軍がある家を捜索したら天井から鉄砲がゴッソリ出て来たこともあった。事件は、戦場という異常な状況が生んだ異常な出来事といえよう。
  しかし、東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことはない。クリークに浮かぶ死体を見たことはあった。またマギー証言に登場する田中領事は、田中正一氏のことで、彼は陥落一ヵ月後くらいに漢囗から来た人だ。(注・外務省人事課によれば田中正一氏は、昭和一三年二月二八日付で南京領事となっていて、昭和三二年に死亡している)。証言にある「一二月一八日」には南京にいなかったし、着任後もそんな話を聞いたことはなかった。※
  ただ、各国の大使館もかなり荒らされて、これには困った。各国外交団が南京へ戻るというので、二日間寝ずに修復したり、盗まれたオートバイや自動車を弁償したり、えらい苦労したものだ。軍のなかには、強姦している兵隊を見つけて、軍刀が曲がるほど殴りつけた参謀もあったというが、「殺せ、焼け」と言った師団長がいたという話を、中国人や参謀の一人から聞きもした。
  入城後、松井軍司令官は、師団長を集めて「皇軍の赫々たる戦果はこの事件で水泡に帰した。陛下にご迷惑をかけて申し訳ない」と、泣いて訓示したと御厨(正幸)参謀から聞いた。この話を束京裁判で話したら、記録してくれなかったのが強く印象に残っている。(談)

※K-K註:マギー証言の「田中領事」は、田中正一領事ではなく、田中末雄理事官であり、福田氏は誤解しているとみられる(洞富雄『南京大虐殺の証明』pp.26-27)

『一億人の昭和史3』毎日新聞社 1979年 p.261

福田篤泰証言(板倉由明氏聞き取り)

…幸い、南京事件研究の先輩、田中正明氏が福田氏に紹介してくださるという。ところがここでまた、私は、田中氏から驚くべき話を聞いた。福田氏が「ティンパーリーは南京にいた」と田中氏に語った、というのである。

  福田篤泰氏に資料を送り面会を求めてから数日後、私は福田氏から電話をいただいた。ちょうど衆議院選挙でとても時間がとれぬ故、電話でお話しくださるとのこと。私の質問に対する答を次に要約する。
@委員会からの公文書についてのはっきりした記憶がないので、第六号文書の真偽の判定はできない。
A委員会からの申し入れや抗議の多くは、裏づけも証拠もないいい加減なもので、こちらからもしばしば抗議をした。私も外人が被害届を、よく調べもせず片っ端からタイプしているのを見て怒ったことがある。掠奪中というので、参謀を連れて現場に急行したが、全くその気配もなかったことがある。この時はアメリカ領事が陳謝した。
B関口という海軍士官についての記憶はなく、一緒に行動したこともないと思う。
C日ははっきりしないが、入城直後(十三日夜か十四日)上海の日高信六郎参事官から電話で「ティンパーリーが結婚するので、大至急南京から出してやってくれ」と依頼され、参謀に取り計らってくれるよう頼んだ。
Dその後どうなったかは記憶にないが、他の記者たちと上海へ帰ったのではないか。ティンパーリーと会ったことはない。
E後に日高氏が「あんなに骨を折ってやったのに、こんな本を書いてひどい男だ」とこぼしたのを聞いている。

  この福田氏の話に裏づけはない。しかし、重要なことは、福田氏は近頃ティンパーリー南京滞在説を出されたのではない、ということである。田中氏はかなり前に聞いたと言われるが、福田氏は初めからそう記憶されていたのである。(※)

板倉由明「「南京大虐殺」の真相(続)―ティンパーリーの陰謀― 」
(『じゅん刊世界と日本』昭和59年6月15日号No420)pp.77-80

※K-K註:ティンパーリー南京滞在説について。本証言では、ティンパーリーの南京出発について、日高氏から福田氏に依頼があり、福田氏が軍と折衝して実現したと述べているが、一方で、『一億人の昭和史3』の福田証言では、「日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させた」と述べており、軍との折衝者(福田氏か日高氏)、その目的(南京出発か「出国」)とで齟齬が出ている。洞富雄氏はこの点について、「(ティンパーリーは)上海にいて、出国の斡旋を日本の外交官に頼んだ」ことと判断し、ティンパーリーの南京滞在説および板倉インタビューの信憑性について疑問を呈している。(『南京大虐殺の証明』p.48)

福田篤泰証言(田中正明氏聞き取り『南京事件の総括』)

 こうした要望や告発の日本側の窓口は、当時外交官補の福田篤泰氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、筆者とも昵懇の間柄である(東京・千代田区在住)。福田氏は当時を回顧してこう語っている。
「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が十五、六の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団でおし入り物をかっぱらっている』等々。その訴えをマギー神父とかフィッチなど三、四人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されてもこまる』といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。
  ある朝、アメリカの副領事から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と三人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の九時ころである。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。『困るね、こういうことでは!』とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。
  ティンパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フィッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただとぼくは思っている」。

『南京事件の総括:虐殺否定十五の論拠』田中正明 謙光社 1987年 pp.171-172

福田篤泰証言(田中正明氏聞き取り『”南京虐殺”の虚構』)

  ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会と折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日木兵が婦人に暴行を加えた――といったようなレポートをしきりに打っている。「君!だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。あとから考えてみると、テンパーレーの例の本の材料を作っていたふしがある。支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ(原注略)。
  ぼくは彼らの文句の受付け役で、真偽とりまぜ、何んだかんだと抗議してくる。全くうんざりする思いであった。その抗議を軍に伝え、こういう事件が起きた、何んとか処理してくれと交渉するのがぼくの役目である。
  ある時こんな例があった。アメリカの副領事がやってきて、今下関で日本兵がトラックで、アメリカの倉庫から木材を盗んでいる、というのだ。それはいかん、君も立会え、というので、参謀に電話し、急いで三人で出掛けた。朝九時ころだったネ、雪がどんどん降って来て寒い朝だった。三人は自動車で現地へ向った。ところが現場には人の子一人もいない。倉庫は鍵が閉っており、開けたような様子もない。「どうもなっていないじゃないか。おかしいじゃないか。参謀までわざわざ来てもらったのに、これからは確かめてからにし給ヘ!一つの事件でも軍は心配して、このようにおっとり刀で駈けつけてくれるのだ、気をつけ給え」といって叱ったことがある。副領事も「これから気をつけます」といって頭をかいていた。
  こんな事件は度々あった。アメリカもイギリスも、しょっちゅう軍の作戦を妨害していた。全く敵意を抱いていたネ。でたらめというか、一方的な点が相当あった。テンパーレーがあることないこと一ぱい書いているが、その内容自身ほとんどが伝聞である。あの時の難民区にいたマギー牧師外二〜三人が、ポンポンとタイプを打っていたが、支那人が言ってきたこと、噂をしていること、それをそのままタイプにし、それが彼の文章になっている。どうもそれに違いないとぼくは思う。
  日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし、二〇万、三〇万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。あの狭い城内に日木の新聞記者が一〇〇人以上も入っていたのである。その上、外人記者も外国の大公使館の人々も見ている、船も外国の艦船が五隻も揚子江に入っている、いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である。
  ぼくは南京が陥落した十三日に入城した。馬渕(誠剛氏)と二人で、日本大使館の国旗をあげた。そしてぼくら二人が大使館の鍵を開けて最初に入ったのだ。そのあと岡崎(勝男)大使、福井(淳)総領事等がだんだんやってきた。その夜(十三日)、鼓楼の近くにある中国銀行で、電気はないのでローソクをともし、持ってきた缶詰を開け、一升瓶の栓を抜いて、原田熊吉、長勇、佐々木到一といったつわものと祝盃をあげたことを覚えている。
  一番の難問題は、難民区の中に逃げ込んだ便衣隊をどう摘出するかということであった。委員会では普通の良民が引っぱられたといって訴えてくる。ぼくらは軍に気をつけてくれと申し入れる。帽子のあとがあるとか、丸坊主頭だとか、手に銃を持ったタコがあるとか、ともかく数千の敗残兵が難民区に逃げ込み、委員会がこれを許してかくまった。しかも、何らの識別もしなかった。それがのちのちの問題になったわけである。
  上海戦、南京戦では、老婆や子供までが抗日戦に協力し、老婆だと思っていたわってやると、うしろから手榴弾を投げる、子供は手旗や花火をあげて日木軍の所在地を知らせる。百姓姿の常民が急に日本兵を狙撃する。そのため多くの犠牲者か出している。戦友が殺されている。難民区に逃げ込んで、平服を着ているからといって決して油断できるものではない。ブチ殺せ!やっちまえ!という気持になるのも当然である。それが戦場心理である。まして便衣隊は戦時国際法の違反であり、即時射殺も構わないことになっている。この処刑問題があっただけで、それも数からいえば一、〇〇〇人足らずと思う。
  ぼくは翌年春まで、大使館の苦情処理係のような役日を果し、国際委員会と折衝し、市中も見て歩いたが、伝えられるような大虐殺など絶対になかったことを、くり返し申しあげたい。

『”南京虐殺”の虚構』田中正明 日本教文社 1984年 pp.35-38

参考:ラーベによる福田氏らの評価

  ポツダム広場にある交通銀行の前で、ある日本の民間人がわれわれを呼び止め、日本大使館の書記官福田だと自己紹介し、ごく元気な私に出会った喜びを表しました。
  私はすぐにいま見たばかりの略奪を知らせたところ、かれは、言葉どおり再現しますとこう答えました――「日本軍は街をひどい目にあわせるつもりです。しかしわれわれ大使館はそれを阻止しようと思っています」。
  その後私は福田氏とその同僚の福井と田中の両氏によく、というよりほとんど毎日会う機会がありました。彼らはいつも丁重で、振る舞いも非のうちどころがありませんでしたが、日本軍にたいしては全く無力で成果をあげられませんでした。われわれの多くの苦情にたいする彼らの口頭の回答(文書による回答は決しておこなわれなかった)は、「われわれは軍当局に通知いたします」だった。しかしそれっきりでした。

「南京事件・ラーベ報告書」ジョン・H.D. ラーベ 片岡哲史・訳 p.50-51
季刊 戦争責任研究 第16号(1997年夏季号)

滝川政次郎

※略歴=1897年〜1992年。九州帝国大学法文学部教授(九州帝国大学法文学部内訌事件で免職)、中央大学法学部教授(大化の改新を巡る論文が右翼の攻撃を受け免職)、満洲国司法部法学校の教授兼司法部参事官、日中戦争を期に満洲国総務庁嘱託・満鉄調査部嘱託の身分で北京へ移住、その後、中華民国・満州国で法律関係の職業につく。戦後は東京裁判の弁護人となる。

『東京裁判を裁く 下巻』

遺憾なり「南京大虐殺」
  しかし、この段階のヤマは何といつても南京における日本軍の大虐殺行為である。故に中国代表検事官向哲濬氏は、八月十五日、南京虐殺事件だけの冒頭陳述を行った。

 人道に対する日本軍隊の犯罪は、あらゆる占領地域において行はれたが、その顕著たる一事例は、昭和十二年十二月、南京陥落以後において行はれた「南京大虐殺」である。中国軍があらゆる抵抗を中止し、南京市街が全く被告松井石根指揮下の軍隊の制御下におかれた後、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、それが止むことなく四十余日に亙つて統行せれた。南京における日本兵の暴行は孤立的事例ではなく、中日事変中中国の全域に行はれたものであつて、南京の暴行はその典型的なものに過ぎない。中国司法当局の調査したところによれば、日本兵の暴行事件は九万五千余の多数に上つてゐる。これらは日本兵の暴行は、これを指揮する将校及び東京の統帥首脳部の完全なる諒知と同意の下に行はれたものであつて、日本はかゝる残虐行為を行ふことによつて、中国民衆のあらゆる抗戦意識を永久に破砕しようと企図した。
 また日本の指導者等は、麻薬を使用することによつて、中国民衆の侵略に対する反抗を無能力ならしめんとした。傀儡政権は麻薬取引の元締となり、新しい制圧地は直ちに「和平」を称する麻薬攻勢の行動基地となつた。かくして占領諸地域においては、阿片窟が増加し、傀儡政府は阿片専売制のからくりによつて莫大なる収入を掌中にをさめた。

 南京虐殺の事実を立証するために検察側が提出した書証、人証は莫大な量に達してゐる。南京事件の主なる証人を列挙すれば

南京虐殺事件当時南京大学に在職してゐた米人医師ロバート、ウィルソン氏
南京陥落後国際委員の一員として難民救済に当つた紅卍会副会長許伝音博士
南京にあるアメリカ監督派基督教伝導師ジョン・ガスピレー・マギー
南京陥落後司法院にゐた南京市の警官伍長徳氏
南京市民陳福宝氏
同尚徳義氏

等である。七月二十九日、証人台立つた徐節俊氏は、昭和十七年五月に行はれたビルマ・雲南公路における日本兵の残虐行為について言及した。
私はこれらの証人が語った残虐行為を茲に載録するに堪へない。これらの証人の中には危く日本兵の虐殺の手から逃れた人々も交つてゐるから、彼等は南京占領後に繰りひろげられた地獄図をまざまざと描いてゐる。怨恨と復讐の念とに燃え上つてゐるこれら証人の言に虚偽と誇張のあることは、その反対訊問の速記録を見ただけでもわかる。しかし、彼等の言に多少の誇張があるにしても、南京占領後における日本軍の南京市民に加へた暴行が相当ひどいものであつたことは、蔽ひ難き事実である。■強姦・放火■当時私は北京に住んでゐたが、南京虐殺の噂があまり高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通つて南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けてゐるので、私は日本軍の爆撃によつて焼かれたものと考へ、空爆の威力に驚いてゐたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いづれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語つたところによると、現在南京市内にゐる姑娘で日本兵の暴行を受けなかつた者はひとりもないといふ。国民政府の首都南京をおとし入れて講和の機を掴まうといふのは、随分馬鹿気た考へであつた。首都抜かれて国に何の面目があるか。相手が死物狂いになってトコトンまで抗戦するのは知れたことである。国民軍は首都南京の防禦には死力を竭して戦つた。激戦のあつた南京の城壁は、私が行つたときまでも、日本兵の血で彩られてゐた。南京虐殺は、この国民軍の頑強なる抵抗によつて沸き立つた日本兵の敵愾心にも一囚がある。通州事件による中国兵の残虐行為が南京攻囲軍の将兵の間に知れ渡つたことも亦その一因である。しかしその最大の原因は、軍の統率が失はれ、軍紀が紊乱したことにある。大元帥陛下をないがしろにした将官達は、佐官逹にないがしろにせられる。将官達をないがしろにした佐官達は、尉官達にないがしろにせられる。一般行政権を離れて独立した統帥権は、軍を私兵化した。朝鮮越境を敢へてした軍は、軍人の軍であつて国民の軍ではなくなつてしまつてゐた。私兵化した軍隊に下剋上の風が行はれるのは、必然の成行きである。軍の実権はやがて佐官級に移り、尉官級に移り、果ては下士官級に移つて行つた。将校の言ふことを聴かなくなつた下士官級によつて統率される兵卒が、暴行、掠奪を行ふに至つたのは是非もない次第である。私は南京視察後東京に帰り、私が九大で教授をしてゐた時の法文学部長であつた美濃部達吉先生にお目にかゝり、「今日において日本を匡救する途如何」と問うたところ、先生は「林銑十郎大将を処刑しない限りは、日本を匡救する途はない」と言はれたが、今にしてその正理なることを痛感する。下剋上の風によって仆れる大厦は、松井大将の一本の能く支へ得るところではない。南京虐殺の責を一身に背負はされて絞首台の露と消えた松井石根大将個人は、むしろ同情に値するものと言へよう。今次の戦争において行はれた日本軍の残虐事件が、軍首脳部の諒知と同意とに依つて行はれたものであるといふ中国検察官の見解は、復讐に血迷つた見解である。向哲濬氏も検察官としての立場においてかく諭告したのであつて、内心その非なることは自認してゐたのかも知れない。軍の首脳者が、部下将兵の残虐行為を制圧し得なかつた責任は免れ得ないと思ふが、彼等が捕虜を虐殺してもよいといふやうな乱暴な命令を出したといふのは、人を誣ふるの甚しかものである。彼等がそれほど猛悪な意思をもつてゐたとしたならば、俘虜収容所などは設けなかつた筈である。中国において軍隊ならざる民衆が多く殺戮を被つたのは、軍隊が便衣を着用し、難民に化けて日本軍を攻撃する卑劣なる戦法をとつたからである。便衣隊と難民とをゆつくり区別してゐる暇のない日本軍が、難民を射殺したことは自衛上巳むを得ない。難民虐殺の責のみが問はれて、便衣隊の交戦法規違反が咎められないことは、正理に反してゐる。故に弁護側は、これらの証人の反対訊問にあたつて、便衣隊の活動を鋭く衝いてゐる。

『東京裁判を裁く 下巻』滝川政次郎 東和社 1953年 pp.112-116


矢次一夫

※略歴=1899年〜1983年。労働運動家、政治活動家、フィクサー、民間の国策研究機関「国策研究会」の創立者の一人、常任理事。戦時中は企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを歴任する。

『昭和動乱私史 上』

 私はこの頃から事変の現地視察を思い立ち、十一月五日、大陸旅行に出発した。当時、企画院その他各省委員を数多く引き受けていた関係上、満洲旅行は満鉄の招待で、また朝鮮は総督府の招待を受けたので、朝鮮鉄道も、満鉄もすべて無料であり、満洲各地にあった大和ホテルも招待、さらに陸軍省からの計らいで、行く先々の軍司令部に連絡して貰ったため、軍の支配する地域の飛行機も無料で乗せてくれるということだったから、万事好都合である。
pp.318-319

 南京空港では、前に書いた千田大佐に紹介されて後、南京駐在の海軍武官中原大佐に迎えられ、岡大佐とともに彼の官舎に行くのだが、この中原は、事変前には、蒋介石を校長とする軍官学校の教官として、中国側に信望の厚かった人物だったという。車が市内に入ると、蕭条たる冬枯れの空のもと、南京城壁の近く、四ツ辻の角に、中国人の老翁が一人、四、五歳位の孫の手を引き、片手に日章旗を持つたまま、ただ呆然と立ちつくしていたのが、何となく敗戦のあとの象徴のように見えて、いまも瞼に残っているほどだ。それから城内に入ったが、国民政府の引き揚げがいかに慌しいものであったかを物語るように、器物や、書類がいたるところに散乱しており、また風のぐあいであろうか、屍臭の漂うているのが、時々鼻をつくのには閉口した。
  屍臭といえば、これの一番ひどかったのは、下関を通過したときであった。私が、ハンカチを出して鼻を押えたのを見て、中原大佐が、この辺が一番戦さの激しかったところだと言い、いま通っている道路の下には、何万と数知れぬ中国兵の屍体が埋められている、とも言い、この辺で戦死した中国人は、十数万と伝えられているほどだと言う。南京陥落の末期、雪崩を打って敗走する中国軍隊に対し、日本軍は、空からと、揚子江上の軍艦からと、陸上の三方から、砲爆撃と、機銃掃射とで大殲滅戦を敢行したので、文字通り屍山血河だったらしい。しかしその後始末が大変で、十数万の屍体というものは、焼くにせよ、揚子江に捨て流しにするにせよ、さらに地下に埋めるにしても、並大低の働きでは出来ない。だから、この地下には、おそらく七、八万以上の屍体が埋められていると考えられるが、いくら穴を掘っても掘り切れるものではないので、自動車が通るとき、ふわ、ふわっとしていたのはそのせいですよ、という。私は、かつて関東大震災のとき、本所被服廠跡に焼死した二万余の屍体を見た経験があるだけに、その四、五倍にも及ぶ屍体の山というものに、いくらか見当がつくような気がするし、中原大佐の話だけで、凄惨の状況が想像し得られて、慄然としたものである。
これが後日、このときの方面軍司令官松井石根大将が、戦争裁判において「南京大虐殺事件」として責任を問われ、死刑の宣告を、受くるにいたった理由であったろう。
pp.342-343

『昭和動乱私史 上』矢次一夫 経済往来社 1971年


伊藤述史

※略歴=1885年〜1960年。1909年外務省入省、外交官としてリヨン、イギリス、フランス等で勤務。南京事件当時は無任所公使として上海で勤務。

東京裁判証言

東京裁判速記録 第44号 1946年8月8日
〇パーキンソン検察官 あなたは上海でどう云ふことをして居られたでせうか。
〇伊藤証人 無任所公使として当時上海に於ける外交団並に外国新聞記者団との交渉に当つて、其の情報を取ることをやつて居りました。
〇パーキンソン検察官 それでは其の資格で、其の期間南京に於ける日本軍の行動に付て外交官に依つて色々忠告を受けたことがありましたでせうか。
〇伊藤証人 当時外交団並に新聞の人から南京に於て日本軍が色々の残虐行為をしたと云ふ報告を受けたのであります。
○パーキンソン検察官 あなたはそれ等の報告を更に確めようとなすつたことがありますか、日本軍から……
○伊藤証人 確めようとは致しませぬでした
○パーキンソン検察官 あなたの聴いたことを本国政府に報告致しましたでせうか
○伊藤証人 私は外交国や新聞社の人から聴いたことの大要を報告致しました
○パーキンソン検察官 さうしてあなたは、それを誰に報告なすつたのでせうか
○伊藤証人 はつきり記憶に残つて居りませんが、何かの形式で報告したと云ふことは覚えて居ります、其の以外に誰にどう云ふ形式報告したかと云ふことは今記憶に残つて居りませぬ
○パーキンソン検察官 それを外務大臣に報告したことを思ひ出しませぬでせうか
○ローガン弁護人 裁判長閣下抗議致します、証人は前言で思ひ出さないと云ふことを申して居るのであります
○ウエツブ裁判長 彼は其の大事な報告をした人を記憶して居るべきです、さうして証人はそれを答へるやうにすることが出来ると思ひます
〔伊丹モニター 訂正、証人に対して其の答へを要求しても宜しいと思ひます〕
○伊藤証人 私の報告は総て外務省に宛てた報告でありますからして、法律的に申せば、私の報告は総て外務大臣に宛てた報告であります、唯具体的の方法として誰に宛てたかと云ふことをはつきり記憶しないと云ふことを申上げたのであります。
○ウエツブ裁判長 是で充分でせうか
〔伊丹モニター 訂正、是で充分な筈である〕

『極東国際軍事裁判速記録 第1巻』極東国際軍事裁判所編 雄松堂書店 1968年 pp.548-549
https://dl.ndl.go.jp/pid/3447625/1/279


佐藤安之助

※略歴 佐藤安之助=1871年〜1944年。陸軍軍人(最終階級は少将)、後に衆議院議員。小川平吉=1870年〜1942年。衆議院議員、司法大臣、鉄道大臣。

『小川平吉関係文書1』

(小川平吉日記 1938年)
四月十八日 十時佐藤安之助氏来訪。昨日香港より帰京す。一月廿一日出発より約三ケ月弱なり。
其言を略記すれば、
(略)
軍紀の頽廃はやはり予想以上なり、南京にては入城後に耶蘇学校避難の婦人を兵営に拉し来りて暴行を加へ、宣教師並に副領事の婦人同伴兵営訪問、副領事殴打せらるゝ等の件あり、中島師団長は北行に際し松井の注意に対し強姦の戦争中は已むを得ざることなりと平然として述べたるが如きその頽廃可驚云々。

『小川平吉関係文書1』小川平吉文書研究会編 みすず書房 1973年 p.376

徳川義親

※略歴=1886年〜1976年。尾張徳川家第19代当主。戦前は、徳川生物学研究所、徳川林政史研究所を設立、貴族院議員、右翼活動家の支援、1942年第25軍の軍政顧問としてマラヤに赴任。

『最後の殿様 徳川義親自伝』

あれを撃て
  ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くん(※)が語っていた。長くんとはぼくも親しい。
  藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。
  日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃だなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじや」
  と、軍刀でその兵士を袈裟がげに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
  と厳重に囗どめしたという。ぼくら慰問団は海軍のランチで漢囗に行き、十一月二十七日にまねかれて松井石根大将の軍司令部がある音楽学校に行った。松井さんがそのとき、書いてくれた詩が現存する。

拝受紹勅 即吟
孤峯
湖東戦局日漸収
遙望妖気西又北
何時皇道沿亜州
徳川侯檠正

 孤峯は松井さんの号である。なにか孤独感がある。松井さんは終戦後、戦犯として処刑された。好まぬ戦争であったが、命じられれば軍人として戦わぬわけにいかぬだろう。だが処刑が正当か否かは別である。ぼくは真の戦争責任者は巧妙にのがれて、処刑された六割は無実ではないか、との疑問を持つ。

※K-K註:藤田くん=藤田勇。1887年〜1955年。東京毎日新聞社社長、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。

『最後の殿様 徳川義親自伝』徳川義親 講談社 1973年 pp.172-174


八角三郎

※略歴=1880年〜1965年。大湊要港部司令官(海軍中将)の後に予備役編入。政友会から出馬して衆議院議員。

『中・北支那を視察して』

※K-K註:本書は、1937年12月27日〜1月11日の日程で北支・中支を視察旅行した後、国政一新会例会で行った講演の要旨をまとめた小冊子である(はしがき及び本文より)。

  上海から南京までの川筋を飛行機の上から見ると、江陰から下流は川に添ふて一面に塹壕が掘つてあつて、各村々には要塞のやうな防禦陣地があります。江陰はあまり戦闘が行はれなかつたにも拘らず、屋根が焼け落ちて建物の残骸ばかりであります。之は支那兵が逃げる時に焼いて行つたものらしいのですが、鎮江に行つて見ても同様であります。非常に壊されてをり、焼かれてをります。南京の方は下関が可成り痛んでゐます。下関から行く第一の門は、門の壁の厚さだけ土嚢を積んで、上の方は孔をあけて、非常に堅固なものであります。町の中を歩くと公共防空壕が所々にあります。其処へは上から爆弾でも落ちれば一堪りもないのであるが、とにかく破片や何かゝら人間を隠す為であります。少し小高い所は横に穴をあけて中に入れるやうになつてゐます。町の中の大きな建物は殆んど爆弾でやられてゐます。司令部は「首都飯店」にあり、其の脇の小さい家が朝香宮殿下の御宿舎になつてゐる所でありました。元の国民政府は昔の督軍府のあつた所でありますが、その後林森などが居つたといふ新しい洋館が師団司令部になつてゐます。
  南京の町から出て、激戦のあつた光華門の方に行つて見ると、数日前までは死体の上を自動車が通つてゐたそうであります。土嚢が城門を一杯に塞いでゐましたので、自動車が通るだけの穴を明けて、やうやく自動車が通れるやうにしたのであります。それから出て行くと大校場飛行場がありますが、之は爆撃してさんざん壊しました。現在は海軍で使つてゐて、千田飛行隊長などは「こつちで使ふのだと初めから判つて居れば、もう少し大切にして置けば宜つたが、あまり酷く壊して了つて困つて居ります」といつて居りました。蒋介石の居つた軍官学校も可成り痛んでゐます。その後の富貴山は蒋介石が大本営にして居つた所だといはれてゐますが、恰もヴエルダンの要塞のやうに、すつかりコンクリートで固められ縦横に道があつて堅固な上に、またまるでホテルのやうに電話・電灯・水道の設備まであつて便利な所ですが、其処で指揮して居つたわけであります。北極閣の附近にもそう云ふ所があるそうであります。
  併し南京は上海ほど滅茶/\に壊されてゐません。国民政府の建物にせよ、首都飯店にせよ、道具などはすつかり其のまゝ残つてゐるので人が住める状態であります。然るに上海の方は非常な壊れ方で、松井大将の司令部は音楽学校の中にありましたが、之も大分荒らされてゐました。官舎のやうなものを拵へて松井司令官が二十九日に引越すので、晩には話さうといふことで出掛けて行きましたが、電気が来ないので、蝋燭の火で話したといふ有様でありました。

『中・北支那を視察して』八角三郎 国政一新会 1938年発行 pp.18-21