日 本 国 内


畑俊六日記 (畑俊六教育総監)

〔38年1月29日〕
 支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面 にある松井大将も現役をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。

笠原十九司『南京事件』岩波新書 P212




続・重光葵手記

 然し俘虜及敵国人に対する日本人の考え方は日露戦争当時の考え方とは全然異なつた方向にあつた。軍及右翼を中心とする思想の動き方は戦争前、特に満州事件前後より急激に反動的となり、「日本精神」「皇軍思想」は無意味なる優越感となり、外国軽侮となって居った。底(低)劣なる唯我独尊、切り捨て御免の思想となり態度となって、支那、南方に於ける我軍隊の行為は実に言語道断であって、進駐当初は南京でも香港でもシンガポールでもマニラでも虐殺、殺戮、強盗、掠奪、強姦、暴行、収賄、不正等、殆ど悪魔の軍隊であったのは事実である。日本人が何時如何にして斯程迄堕落したか殆ど想像も付け得なかった。戦争による一時の昂憤(奮)として片付ける訳には行かぬ。
(略)
 南京に於ては何とかして南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた。敵国人の収容所の設備、待遇等、截然の措置を講ぜしめたのであった。

P293-294

 記者(重光)は日本民族を信じ、日本精神、武士道を奉じて居たものであつた。団匪事件、日露戦争の際に示した日本精神は、満州事変以来の見苦しい排外行動があったにも拘らず、未だ消滅して居ないと思つて居た。然し駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。(略)
昭和二十年十二月十四日記

P366-367