事典における「南京大虐殺」


 

『現代アジア社会事典』(1975年12月10日 第1版第1刷発行 大和学芸図書)

P.315
南京虐殺事件 1937年12月の南京占領にさいし,日本軍が中国軍の兵士および一般市民多数を虐殺した事件。軍命令による中国軍民の大虐殺が行われたのは,日本軍が同市を占領した37年12月13日から,中支那方面軍松井石根大将を迎えて入城式があげられた同17日の前夜までの4日間であった。だがその後も「敗残兵狩り」と称して虐殺は続けられた。また市内全域は2か月にわたり,個々の日本兵によって,いわれのない虐殺・略奪・放火が行われた。
 この事件は,日本敗戦後,極東軍事裁判でもとりあげられ,判決ではこの事件の中国人犠牲者の総数を20万人前後といっている。このほか,極東軍事裁判ではとりあげられなかったが,南京付近の長江(揚子江)一帯では13万人の避難民と兵士が虐殺され、死体が長江に投げこまれ,川の水は鮮血でまっかになっていたといわれている。この事件は,当時南京にいた外国人記者3人によって詳しく報道され,たちまち全世界に知れわたったが、日本では敗戦の日までその事実がひたかくしにかくされていた。

 
 
『第二次世界大戦事典』(1991年12月15日 初版発行  朝日ソノラマ)

P.388
なんきん・南京/Nanking 1928年から1937年に日本軍によって占領された蒋介石が漢口に退却するまで中国の首都だった。松井石根司令官の指揮したこの占領では25万名の市民が虐殺された南京大虐殺がおこなわれた。1940年に南京は日本により設立された傀儡(かいらい)政権である汪兆銘の新国民政府の首都となった。

 
 
『地域からの世界史 第20巻 世界史を読む事典』(1994年1月30日 第1刷 朝日新聞社)

P.128
●1582 南京大虐殺 なんきんだいぎゃくさつ 日中戦争中の1937年12月、南京を占領した日本軍は、中国軍撤退後の南京市内に入りこれを占領し、翌年2月まで市民に対する虐殺・暴行・略奪・放火などの残虐行為を行い、死者は数十万人にのぼった。この行為は国際的な非難を浴びたが、日本では報道を禁止されたため、日本人の多くは東京裁判でその事実を知らされた。

 
 
『グローバルライブラリーシリーズU アジア・アフリカ事典』(1997年7月1日 第1刷発行 教育出版センター)

P.716
なんきんぎゃくさつじけん 南京虐殺事件 日華事変(日中戦争)中の1937年(昭和12)12月13日〜15日に,南京を占領した日本軍が引き起こした虐殺・略奪事件。さまざまな矛盾に直面した近衛内閣は,「国内相剋の解消」を侵略戦争によって解決しようとはかった。こうして政府および軍部は,中国大陸への侵略を本格化した。日本軍は当初,長期戦争を予期してはおらず,当時国民政府のあった南京を占領すれば,中国は抗戦を断念するであろうと判断していた。しかし,中国は,共産党の働きかけによる国共合作を成立させ,持久戦にもちこんだ。その結果,日本軍は三光作戦(殺しつくし,奪いつくし,焼きつくす)を展開し,中国全土で強姦,虐殺,略奪をほしいままにした。その典型が南京事件である。エドガー=スノーの『アジアの戦争』によれば,南京だけで4万2,000人以上,南京への進撃途上で30万人以上が,殺された。そのうちのほとんどは,「無抵抗」の婦人・子供であった。

 
 
『角川 世界史辞典』(2001年10月10日初版発行  角川書店)

P.687-688
南京事件 @1927年に南京で発生した国際事件。27年3月24日,国民革命軍が南京に入城した際に日本,イギリス,アメリカなどの領事館が襲撃されたのに対して,長江上のアメリカとイギリスの軍艦が城内に威嚇砲撃を加えた。襲撃したグループについては,国民党軍あるいは共産党軍など諸説ある。A1937年12月,日本軍が南京の中国軍民に加えた大規模な残虐事件,南京大虐殺といわれる。37年7月,日中全面戦争に突入するや日本は12月13日に中国の首都南京を占領した。その際住民を巻き込んだ包囲殲滅作戦を実施,すでに戦闘を放棄した膨大な数の敗残兵,投降兵,捕虜,負傷兵を集団で殺害した。さらに残敵掃討作戦を実施し,敗残兵狩り,便衣兵(市民服の兵士)狩りを行って成年男子市民を集団虐殺した。軍紀の乱れから中国女性を強姦する婦女凌辱行為や食料・物資の略奪,人家を放火・破壊する不法行為も多発した。南京城内とその周辺の農村を含め20万人前後の中国軍民が犠牲になったと推測されている。(笠原)

 
 
『歴史学事典 7 戦争と外交』(平成11年12月30日初版第1刷発行 弘文堂)

P.542-543
南京事件 なんきんじけん  日中戦争初期,当時の中国の首都南京を日本軍が攻略・占領した際に中国軍民にたいしておこなった,虐殺,強姦,掠奪,放火,拉致・連行などの戦時国際法と国際人道法に反した大規模な残虐行為の総体。南京大虐殺事件,略称として南京事件という。単に南京大虐殺ともいう。
 1937年(昭和12)12月1日の大本営の下令によって正式に開始された南京攻略戦は,もともと参謀本部の作戦計画にはなかった。激戦3カ月におよび,甚大な損害を出した上海派遣軍を独断専行で南京に進撃させたのは,中支那方面軍司令官の松井石根大将と,参謀本部から出向して同軍の参謀副長となった拡大派の武藤章大佐らであった。上海派遣軍は,疲弊して軍紀も弛緩していたうえに,休養も与えられず,補給体制も不十分なままに,難行軍を強いられたため,中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ,虐殺,強姦,掠奪,放火などの残虐行為を重ねながら南京に進撃していった。
 12月4日前後に中支那方面軍は,中国軍の南京防衛陣地(南京特別市行政区に重なる)に突入,南京の県城・農村地域から日本軍の残虐行為が開始された。南京城区には40〜50万人(南京攻略戦以前の人口は100万人以上),近郊の6つの県には100万人前後(同じく150万人以上)の市民が残留していたが,日本軍はこれらの膨大な中国民衆を巻き込んで,南京防衛軍に対する徹底した包囲殲滅(皆殺し)作戦を実施した。同作戦は,戦時国際法に違反して,自ら武装解除した投降兵・敗残兵あるいは武装解除された捕虜までもすべて殺害することになった。一般民衆も敵対行為,不審行動をする「敵国民」と判断された場合は殺害された。日本軍は,12月13日南京城を占領した後、17日の南京入城式に備え,徹底した残敵掃蕩作戦を展開,長江沿岸などで捕虜および投降兵の大量処刑を行った。武器を捨て,軍服を脱ぎ捨てても,中国兵であった者,中国兵と思われた者はすべて殺害したので,多くの市民,難民が巻き添えにされて犠牲になった。さらに,日本軍には戦勝の「慰労」として10日間前後の「休養」が与えられ,総勢7万以上の日本軍が南京城内に進駐,勝利者,征服者の「特権」として,強姦,掠奪,暴行,殺戮,放火などの不法行為を行ない,南京事件は頂点に達した。その後,第16師団が駐屯して軍事占領を続け,38年3月28日に中華民国維新政府が成立するまで,日本軍の残虐行為は続いた。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)では,南京事件による中国軍民の死者を20万以上とし,不作為の責任を問われ松井石根が死刑となった。中国国民政府国防部戦犯軍事法廷(南京軍事法廷)では,犠牲者30万以上とし,4人の将官が死刑となった。1970年代から80年代末にわたり,歴史事実か「虚構」「まぼろし」かをめぐっていわゆる「南京大虐殺論争」が展開され,家永教科書裁判の争点にもなったが,いずれも否定論が敗れた。犠牲者数の確定は困難であるが,現段階の日本側の研究では,十数万から20万人の中国軍民が犠牲になったと推定する説が有力である。(笠原十九司)

 
 
『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(2004年1月21日 第1版第1刷発行  山川出版社)

P.497
南京事件 @〔1927〕1927年3月24日,南京で起きた暴動に端を発した国際的事件。中国共産党指導下の国民革命軍は,北方の軍閥軍を破り南京を占領。軍閥軍は敗走するが,その際大衆も加わりイギリス,アメリカなどの領事館,居留地を襲撃,略奪。イギリス,アメリカなどは居留民保護を理由に南京城内を砲撃。中国側に2000人あまりの死傷者を出した。イギリス,アメリカなどはその後,蒋介石に大衆暴動の鎮圧を要請。日本は幣原外交の内政不干渉主義により砲撃には加わらなかったが,事後処理ではイギリス,アメリカに同調した。蒋は事件の背後に共産党の扇動があったとし,これ以上の諸外国との対立はかえって列強の軍事侵攻を増長させると判断し,四・一二クーデタに踏み切った。A〔1937〕南京大虐殺ともいう。日中戦争初期に,中国国民政府の首都南京を攻略した日本軍が,中国軍民に対して大規模な残虐行為を行った事件。1937年12月13日に南京を占領した日本軍は,住民を巻き込んだ包囲殲滅戦,残敵掃蕩戦を展開した。この時,すでに戦闘部隊の体をなさず,戦意を喪失した膨大な数の投降兵,敗残兵,捕虜,負傷兵を,戦時国際法に違反して処刑,殺害した。日本軍の軍事占領は翌3月まで続き,この間に敗残兵狩り,便衣兵(私服になった兵士)狩りを行い,兵士の嫌疑をかけた成年男子市民も殺害した。中国女性の強姦,食物や物資の略奪,人家の放火・破壊など軍紀の乱れによる不法行為も多発した。南京城内とその周辺さらに付近の農村を含めて十数万の中国軍民が犠牲になったと推測されている。