中国国内


南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書

 部外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあった者である。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔が青くなり、足が折れているのは、大勢の者から殴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンを付けていない者は、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯を食いしばり、足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。
 毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると草むらに隠れたり、田のほとりに隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると、すぐ弾丸が飛んでくる。中には婦人がいると手で止まれと合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聞かないと殺されるし、言うことを聞いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声がいっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それゆえ、農村部落の遭難者は都市部より多い。

笠原十九司『南京事件』P94〜95



陳光秀(当時二〇歳)の証言  本多勝一「南京への道」より

 山へ避難した光秀さんら女性たちが村へもどったのは一四日だが、あくる一五日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家もやかれないし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。(中略)

 一六日の午後、村はずれで見張りに出ていた親戚のおじが「日本軍が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男たちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の両側に並んで出むかえた。光秀さんは寝台の下に隠れ、その前に木の肥たごを置いた。(中略)

 外は騒然となっていたが、かくれているので何が起きているのか分からない。しばらくすると、光秀さんの家の戸口の石にすわっていた通 称「蘇老太」という四〇歳くらいの女性が、一人の日本兵に捕まって家の中へ連れこまれた(「自分はもう年寄りだから大丈夫と彼女は油断していたのです。当時四〇歳ならもう年寄り、五〇歳なら死んでもいい年でした」と光秀さん)。二、三軒離れた家の蘇仁発の妻である。
 その日本兵は、光秀さんの隠れている寝台に蘇おばさんを押し倒した。日本兵の足と革靴が見える。恐怖の余り、蘇おばさんは声も出さないようだ。(中略)

 約一〇〇人のこの青年たちを、日本軍は少し離れた道路ぞいの田んぼに連行した。殺されるのではないかと老人たちが心配してあとをついていった。すると日本軍は、ブタやニワトリの徴発に応ずるようにと、それぞれの家に追い返した。
 田んぼに連行された青年たちは、互いに向き合ってひざまずく格好で二列に並ばされた・・・そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺し殺した。死にきれず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。(中略)

 集団虐殺が行われたのは午後四時ごろだった。女たちは家で寝台の下などへ隠れていたが、午後五時ころになって「沈」の妻(三十五,六歳)は夫のことが心配になり、様子を見るために虐殺現場のそばの「史」の家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫もその弟も殺されて、彼女は声を上げて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見つけ、虐殺現場に近い池のそばへ連行し、強姦してから殺した。(中略)

 光秀さんの母は九人の子供を産んでいたが、男ばかり四人が死に、育った五人のうち光秀さんは最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東さんも夫も殺されてしまったため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭に腫れ物ができ、翌年の春死んだ。

笠原十九司『南京事件』P103〜105



フォースター文書  夏淑琴他からマギー牧師が聞き出す

 日本軍の南京城侵入最初の日(12月13日)、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、8歳と3歳あるいは4歳の二人の子供だけを残してその家にいた者全員、13名を殺した。これは、8歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。
 この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、76歳の祖父と74歳の祖母、母親と16歳と14歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それからもっとも残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒きれを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが、日本兵のやり方さ」と言った。
 私はこれらの死体を撮影した。母親が一歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの一歳の子供の死体は、家主の子供だといった。その子供は日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた。

笠原十九司『南京事件』P150



陳頤鼎氏の証言
笠原十九司「南京防衛軍の崩壊から虐殺まで」

 日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと八人が板に乗り、長江に乗り出した。夕方五時ごろだった。(中略)

 そのころ、日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射し始めた。さまざまな機材に乗り、あるいはつかまって長江の流れに漂う中国軍将兵が日本軍の機関銃の餌食となった。また、日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくり返され、溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体が絶えず近くを流れていく。長江の水は血に染まり、凄惨な光景は見るに耐えなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。この時の怒りは、生涯忘れることができない。

笠原十九司『南京事件』P160