安全区委員会
フィッチの談話(1) / (2)
(『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』38年3月16日)
フィッチの日記

ラーベの報告書 (1) / (2)

 

『ヴォーリントン文書』

ベイツの手紙 ---- アメリカのキリスト者へ
ベイツ



フィッチの談話(1) 【サウスチャイナ・モーニング・ポスト】38年3月16日

 12月14日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げ込んだ六千の元中国兵――彼の情報ではそうなっている――の身分と居場所を教えるように要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国の制服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。
 安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(12月13日に日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は1300人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の河岸で処刑された。

笠原十九司『南京事件』P177



フィッチの談話(2) 【サウスチャイナ・モーニング・ポスト】 38年3月16日

 酒の入っていない日本兵は、特別勇猛な兵士でもなさそうだった。押し入ろうとして委員会のメンバーに見つかり、「カイレ!(でていけ)」「ハヤーク!(さっさとしろ)」と大声をあげられると、みんなきまって立ち去っていった。
 ところが、銃剣の刃先を突きつけて暴行に夢中になっている酔っぱらいが相手のときは、ことはそう簡単には行かなかった。

笠原十九司『南京事件』P197


『ラーベの報告書』(1)
「南京事件・ラーベ報告書」ジョン・H・D・ラーベ(片岡哲史訳)『季刊・戦争責任研究』16号、1997年6月

 安全区の北の角で私は、充分に武装したおよそ四〇〇人の中国兵の部隊に最初に出会いました・・・・私は遠方から機関銃で武装して進撃してくる日本軍と、その危険性を喚起し、武器を捨てて、私に武装解除させてから、安全区のキャンプに入るように勧めたのです。彼らはしばし熟考してから同意しました。

笠原十九司『南京事件』P178



『ラーベの報告書』(2)
「南京事件・ラーベ報告書」、ジョン・H・D・ラーベ、片岡哲史訳、『季刊・戦争責任研究』16号、1997年6月

 武装解除された部隊の各人、またこの日(12月13日)のうちに武器をもたずに安全区に庇護を求めたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群のなかから分けだされたのでした。手が調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人ならば、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果 、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく短く刈られていないか、なども調べられました。何千人もの人がこうして機関銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開されました。とりわけ、見つけだされた元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎると思われたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。
 しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑されたもののうち少なからぬ 者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれたのです。これほどひどい目にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運び込まれて、死亡する前に残忍な処刑について語ることができました。私自身もこれらの報告を受けました。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮影し、記録として保存しました(前述のマギー牧師撮影のフィルム)。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、又は多くの小さな沼の岸で行われました。

笠原十九司『南京事件』P182〜183



フィッチの日記

 十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて千人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別 の婦人は五ヶ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。

笠原十九司『南京事件』P194



ヴォーリントン文書

 一二月一六日までに難民は四千人以上にふくれあがり、もう収容限界を超えていると思われました。
 しかし、私たちは収容を四千人でストップしませんでした。それは私たちが、女性が家に残っていることが大変危険であることを知っていたからです。日本兵たちは若い女性を探しては野蛮にふるまっていました。そこで私たちは大学の門を開けて婦女子の難民の流入を受け入れたのです。その後数日間、状況はますます悪くなり、女性の避難民は夜明けとともに流れ込んできました。(中略)

 最高時には、私たちのキャンパスに一万人の婦女子を受け入れなければなりませんでした。
 避難民たちはキャンパス内に入れてさえもらえれば、室内に宿泊することを求めず、室外でも満足していました。市内では、一二歳の少女も、五〇歳さらには六〇歳の老女でも日本兵の陵辱から逃れられなかったのです。
 私たちのキャンパスに入る妻や娘を校門で見送る彼女たちの夫や父親の顔を、私は決して忘れないでしょう。彼らが私たちに「室外でもけっこうですから彼女たちに眠る場所を与えてください」と頼むとき、彼らの頬には涙が流れていました。

 女性は女性でこの数日間、悲壮なジレンマに苦しんでいました。それは、彼女たちが強姦から救われようとしてここに来たことは、〔家族と離れて男だけになった〕彼女たちの夫や息子が連行されて殺害される危険がいっそう強まったからでした。そのため、この危険な時期にもかかわらず、私たちは年寄りの婦人に対して、たとえ陵辱を受けるおそれがあっても、夫と息子と一緒に家に残留するように説得しました。そして比較的若い女性を私たちのキャンパスに来させて保護するようにしたのです。
 女性にたいする恐ろしい野獣の行為は、あいかわらず続き、それは安全区においてさえ進行しています。

笠原十九司『南京事件』P195〜196



ベイツの手紙 ---- アメリカのキリスト者へ

 有能なドイツ人の同僚たちは(安全区国際委員長ラーベのこと)強姦の件数を二万件とみています。私にも八〇〇〇件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。われわれの職員家族の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、一〇〇件以上の強姦事件の詳細な記録がありますし、三〇〇件ほどの証拠もあります。
 ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも、十一歳の少女から五三歳になる婦人まで強姦されています。ほかの難民グループでは酷いことにも、七十二歳と七十六歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、一七名の日本兵が一人の女性を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。

笠原十九司『南京事件』P199



『ベイツ』

 元兵隊であるろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告白した人間にたいしては復習すると公然と言明したのである。

笠原十九司『南京事件』P205