市民殺害・便衣兵摘出(その他)


東京裁判 許伝音証言 市民に対する日本軍の態度

●サトン検察官 市内に侵入して来た日本兵の中国国民に対する態度はどう云ふものでありましたか。
 〜 略 〜
●許証人 南京を占領しました日本軍は非常に野蛮でありまして、人を見当り次第に射撃したのであります。例へば街を歩いて居る者、若しくはそこ等に立止って居る者、若しくは戸の隙間から覗いて居る者も悉く射ったのであります。
〔宮本モニター それに一寸附加へます。「若したは逃亡中の者」〕

『日中戦争史資料8』P24



東京裁判 許伝音証言 市内の状況

●サトン検察官 あなたは個人として、日本兵の殺人行為を御覧になりましたか。若しさう云ふことがありましたならば、例を挙げて仰しゃって下さい。
 〜 略 〜
●許証人 三日目に私は日本兵を伴ふと云ふ条件の下に市内を通ったのでありますが、此の目的は路上に若しくは家の中に死んで居た、若しくは死なんとして居る者の数を略略決める為めでありました。【注】
〔宮本モニター 一寸附加へます。「日本陸軍将校の許可を得て」〕
●許証人 私は屍体が到る処に横(た)はって居るのを見ましたが、其の中の或る者は酷く斬り刻んであったのであります。私は其の屍体が殺された時の状態の儘に横(た)はって居るのを見たのであります。或る屍体は身体を曲げて居り、又或る者は両足を拡げて居りました。さうして斯り云ふ行為は皆日本兵に依って行はれたのでありまして、私は日本兵が現にさう云ふ行為を行って居る所を目撃したのであります。或る主な大通りの所で私は其の屍体を数へ始めたのでありますが、其の両側に於て約五百の屍体を数へました時に、もう是れ以上数へても仕方がないと思って止めた程であります。其の時私の車に、もう一人中国人が乗って居ったのでありますが、此の人は日本に於て教育を受けた人であります。さうして自動車に乗って此の人のに行きました時に、其の人の兄弟が殺されまして、さうして此の家の入口の所にまだ片付けてない彼の屍体が横(た)はって居るのを見たのであります。私は南京市の南の方------南市、又北の方、東の方、又西の方に全然同じ状態が起って居るのを見ました。さうして日本の兵士達は人々に何等の考慮を払はないで、若し私の車の中に日本語を話す中国人が乗って居らず、又同乗して居った日本人が許可証を示さなかったならば、私も非常な困難に遭遇したでありませうが、此の人達が助けて呉れたのであります。此の時南京市内には中国の兵隊は全然居りませぬのでありまして、私の見ました屍体は老若男女の市人、普通の人間であります。一人も軍服を着て居った者はないのであります。

【注】 許伝音の宣誓口供書には、「南京陥落後三日目に私は市街を自動車で通りました。それは日本兵が卍協会に死体埋葬の相談をしに来たからであります。私はどんな様になって居るかを見に出かけました」とある。(洞富雄)

『日中戦争史資料8』P25



東京裁判 ベーツ証言 市民殺害 殺害数推計

●ベーツ証人 日本軍入城後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました。此の虐殺行為の及ぶ全範囲と云ふものは非常に広いのでありまして、全体のことを申上げることの出来る人は一人も居りませぬ。我々は安全地帯及び其の附近の地方に付て出来るだけ調査したのであります。『スミス』教授及び私は、色々な調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します。
〔林モニター 男女及び子供を含む非戦闘員〕
 其の他市内で多数殺された者がありますが、我々は其の数を調査することは出来ませぬ。又、市外でも殺された者が相当居ります。今まで申したことは、中国の兵隊であり或は曾て中国の兵隊であっくことのある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。

『日中戦争史資料8』P49



東京裁判 マギー証言(1) 占領後の市民・中国軍の抵抗

●サトン検察官 あなたは一九三七年の十二月及び翌三四(八)年の一、二月を通じて南京に居られましたか。
●マギー証人 居りました。
●サトン検察官 それでは一九三七年十二月十三日以降の南京市内に於ける中国軍隊乃至は一般中国人民の抵抗、若し斯かるものがあったとするならば、どんな工合でありましたか。
●マギー証人 私の知って居る限りに於きましては、さう云ふ抵抗は全然ありませぬでした。

『日中戦争史資料8』P87



東京裁判 マギー証人(8) 市内の状況

●マギー証人 (略) 十二月八(十八)のことであります。私は日本大使館の田中領事(田中末雄理事官)と一措に同行することを要求されて、一緒に行ったのでありますが、それは南京の市内の外国人の住んで居る場所へ行って、外国の財産を一々それを指示すると云ふ為でありました。
〔宮本モニター 一寸訂正致します。田中領事が言はれるのには、外国人の所有物を指摘し、それを保護する為に掲示をなすと云ふ意味でありました〕

※ 「市内の外国人の住んで居る場所」と通訳しているが、これほマギー師の宣誓口供書(検証二二二七=法廷には提出せず)に、「下関市の端にある外国人所有地」とあるのが正しいと思われる。(洞富雄)

 南京の城壁外に出ると云ふことは非常に困難でありまして、唯一の方法は自動車に乗って行くと云ふことであったのであります。私共は進んで行きますと、到る勉に屍体がゴロゴロして居りますので、私共が廻って行かうとした近道を結局廻って行かないで、引返したやうな状態でありました。
〔宮本モニター 一寸訂正します。私が城壁外に出ることは殆ど不可能であったのであります。唯田中領事と同伴の下でありましたので、城壁外に出ることが出来たのであります。私は近道をしようと思って、横道に入りましたけれども、屍体が多くて、屍体の上を運転して行かなければ通れないのでありまして、到頭私達は其の横道を引返した程でありました
 丁度私共は「バターフィールド・アンド・スワイア」会社のある海岸の「バンド」の所まで行ったのでありますが、其処へ来ますと、田中領事は何か用事があって其の建物の中に入ったのであります。私が待って居ります間に、海岸の所に行って下を見下しますと、其処に約三つになって居る屍体の固まりかあるのを見たのであります。
〔宮本モニター 一寸附加へます。田中領事は日本人の警官と一緒に其の店に入ったのであります〕
 私は其の屍体が正確に、どの位であったかと云ふことは申上げ兼ねますが、大体の見当では約三百から五百と思ふのであります。是は多分実際よりも少かったと思ふのであります。其の屍体の着て居りまする衣類は非常に焼けて居りました。さうして身体の到る処に傷があったのでありまして、其の状況から見ますと、彼等は殺された後焼かれたと云ふことが分るのであります。

『日中戦争史資料8』P90



東京裁判 マギー証人(9) 市内の状況

●マギー証人 (略)十二月二十一日に私は再び下関へ参ったのであります。其の際は田中領事の御厚意に依りまして、領事館警察が同行して呉れたのであります。其の目的は私が先程御話致しました少年の行方を探す為でありました。
〔宮本モニター 一寸附加へます。田中領事は誠実を以て其の少年の行方を探すやうに努めたやうに思ひました〕(略)
 私共の自動車はそれから少し小さな横道に入ったのでありますが、其処で私は屍体が転がって居るのを見たのであります。其の中には私の探して居りました少年の屍体は勿論ありませぬでした。それから私共は鉄道停車場の方に行く大きな道であります「チャハル・ロード(察哈爾路)」を真直ぐに進んで行ったのであります。
〔宮本モニター 其の屍体の中には、中国兵らしき者は認められなかったのであります
 間もなく其のゴロゴロと転がって居る屍体が余り沢山なので、結局私達は進むことが出来なかったのであります。其の時に警察官の人は、もう下関に行っても中国人は居らぬだらうと云ふ風に言ひましたが、私は死んだ中国人ならば沢山居るぢゃないかと云ふ風に言ったのであります。

『日中戦争史資料8』P90〜91