東京裁判 ベーツ証言 便衣兵摘発・摘出(状況)
●ベーツ証人 (略) 安全地帯の中でも日本軍の将校は市内に多くの兵隊が居ることを予期して居た為め、重大な問題が起りました。所が斯り云ふ兵隊が市内で発見することが出来ませぬでしたので、此の将校は是等の兵士が安全地帯に階れて居るものであって、我々が彼等を隠して居る責任を有すると主張したのであります。斯う云ふ仮定の下に日本軍の将校及び下士官は、三週間の間、毎日々々、安全地帯内に進入し、中国人の避難民の中に斯う云ふ兵隊を発見し拉致しようとしたのであります。是等の将校の習はしは、安全地帯内居る者を全部拉致したのであります。私は斯う云ふ検閲の場合立会ったことが二、三回の或る地域或は一つの避難民収容所の中で、体の健康な男子を全部検閲の為に並ばして、手に銃を持つたあとの瘤があり或は頭に帽子を冠ったあとの線が残ってあります。そして其の検閲を初めから終ひまで見たのであります。此の避難民の中には以前兵士であった者で武器を棄て、又其の軍服を棄て、何等かの方法に依って地方人の服を求めた者が数名居ったことは事実であります。又漸う云ふことも事実であります。さう云ふ風に兵士であったと云ふことを主張され、そして拉致されて行った者の大多数は苦力或は労働者であり、さう云ふ手に瘤があったり、頭に帽子の線があったりする正当な理由を沢山持ち得る人間でありました。さう云ふ人間は直ちに拉致され、多くの場合は直ちに市街で団体で射殺されたのであります。
『日中戦争史資料集』P49〜50
東京裁判 ベーツ証言 便衣兵摘出 背信行為による摘出
●ベーツ証人 (略) 或る場合に於ては彼等が以前兵隊であったと云ふことを認めさせる為に、一つの裏切行為がなされたのであります。
〔林モニター 卑怯なる手段を以て〕
日本軍が南京を占領する以前に、松井大将の布告せる文書、是は飛行機に依って広く分布されたのでありますが、此の布告の文書の要旨は、日本軍は中国の平和的な臣民に対しては唯友好を以て臨むのみであって、抵抗せざる者には害を加へないと云ふやうなものでありますが、之に依って日本の将校は、中国人に自ら進んで日本軍を援助する労働者団体を作ることを説いたのであります。
〔林モニター 訂正。其の前の証人の答の所を訂正いたしましたが、其の訂正を訂正致します。卑怯なる手段と申しましたが、それは特殊なる方法を以てと訂正して戴きます〕
或る場合では日本の将校が中国人に向って斯り云ふことを言ひました。若し君達が以前支那の兵隊であり或は中国軍隊の為に労役に服したことがあるにせよ、若し今此の労働奉仕団体に進んで参加するならば、さう云ふことを総て忘れて上げようと言ったのであります。斯くの如くして一日の午後で南京大学校内より二百名の健康な人間を拉致し、直ちに何処かへ伴れて行って、同日夕方、安全地帯内の他の地域から同様な手段を以て拉致した人間と共に射殺したのであります。
『日中戦争史資料8』P50
東京裁判 マギー証言(3) 便衣兵摘出・殺害
●マギー証人 十二月十四日のことでありますが、私の雇って居ります料理人、それは十五歳の子供でありますが、其の子供が約百名の中国人と共に、南京の街の城壁の外部に、約五十名づつに団になって連れて行かれたのであります。其の際彼等は手を括られたのであります。前で括られ、前の方から日本兵がそれを殺し始めたのであります。其の際此の料理人は、丁度鉄道の外の穴の中に逃げ隠れた為に助かったのであります。其の際にどうして逃げたかと申しますと、手を括られて居った縄を或る苦心した結果、漸く解いた為めであります。彼は丁度拉致されてから、約三十八時間後に逃げて帰って来たのであります。それに依って初めて、是等速れて行かれた中国人がどう云ふ運命に遭遇して居るかと云ふことの最初の証拠を得たやうな訳であります。
『日中戦争史資料8』P88
東京裁判 マギー証言(4) 便衣兵摘出・殺害(事例)
●マギー証言 (略) 其の晩でありましたか、其の翌日の晩でありましたか、私は能く記憶して居りませぬが、私の見ました所に依りますと、中国人の二列縦隊が連れて行かれるのを見たのでありますが、其の数は私の見た所では数千に上ったと思ふのであります。さうして手は総て縛られて居ったのであります。
〔宮本モニター 其の数は千若くは二千に上ったであらうと思ひます〕
私は其の団体の中に、中国の兵隊が居るのを一人も見なかったのでありまして、全部便衣を着て居ったのであります。其の中の負傷した者が逃げて帰って来たのでありますが、それは全部私の監督して居りまする教会の病院に入れられたのであります。どう云ふ風にして帰って来たかと云ふと、全部銃剣で突かれたのでありますけれども、死んだやうな真似をして居た為に、逃げて来たと云ふことであります。斯う云ふ事実に依りまして、其の日にどう云ふ事柄が行はれて居ったかと云ふことの確たる証拠が挙ったと私は思ったのであります。
『日中戦争史資料8』P88
東京裁判 マギー証言(5) 便衣兵摘出・殺害(事例)
●マギー証言 (略) 十二月の十六日のことでありますが、私は避難民収容所の方に行きましたが、其処に……
〔英語速記者朗読〕
是等日本軍は避難民収容所に来たのであります。其の避難民収容所の中には、私の能く知って居りまする教区があったのでありますが、其の教区から信者を約十四名拉致したのであります。其の十四名の中には、十五歳の中国の少年が居りましたが、其の少年は、私の能く知って居る中国人宣教師の子息であります。其の後四日経ちまして、私はどう云ふことが起ったかと云ふことを発見したのであります。即ち其の十五歳の少年は約千名の他の中国市民と共に、揚子江の岸に道れて行かれたのであります。其の揚子江の岸に於きまして是等の一千名の市民は日本軍に依って両端から、徐々に殺され始めたのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正致します。四日の後に一人の苦力が逃れて来て、斯う云ふ事実を私達に告げたのであります。其の十四名は千名の中国人と一緒に一団とされ、揚子江の沿岸で機関銃の十字火を浴びて殺されたのであります〕
此の少年はどう云ふ訳で帰って来たかと申しますると、多数の中国人が機関銃に依って殺された時に、自分の周りに人間の身体がバタバタと倒れて来る際に、其の中に隠れて居って暗くなるに伴ひまして、見付からないやうに逃げて帰ったのであります。
『日中戦争史資料8』P88〜89
東京裁判 マギー証言(6) 便衣兵摘出(状況)
●マギー証人 (略) 此の十四人の中国人が拉致された同じ日でありまするが、私の運転手の兄弟の二人が拉致されたのでありますが、それは何処へ連れて行かれたかと申しますると、他の多数の中国人と共に、少し離れた所の市内の広場に連れて行かれたのであります。さうして其の広場に於ては、多数の中国人が其処に集められて居ったのであります。約五百の中国人が集まって居ったのを見たのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正致します。本人の運転手は私と同行しようとしないで、彼の妻が私と同行したのであります〕
私は其の五百人の団体の端に立って居って、見て居ったのでありますが、其の中に私の今申しました婦人の兄弟が居るのを見付けたのであります。それで私は其の近くに居りました日本軍の軍曹の所に其の婦人と一緒に行って話し掛けました所が、軍曹は非常に激怒致しましたので、是は到底話した所で駄目だと思って引き退ったのであります。
『日中戦争史資料8』P89
東京裁判 ジョージ・A・フィッチ供述書(1)便衣兵摘出・殺害(事例・状況)
数百の無垢(辜)の人民が或は射殺される為に、或は銃剣で刺殺される為に我々の目前に連出される。吾々は彼等を殺す銃声を聞かねばならぬ。走る者は誰でも射殺するか、銃剣で刺殺するかが此処の規則であるらしい。私共は偶々当時陸軍省の側に居たが、多くの無垢(辜)の人民を交へた数百の憐れな武装解除された兵隊達に対し死刑執行が進行中であったことは余りにも明白であった。
『日中戦争史資料8』P114
東京裁判 ジョージ・A・フィッチ供述書(2)便衣兵摘出・殺害(事例)
十二月十五日私は私共の本部近くの吾々の野営所の一つから連れ出されたばかりの平服を纏うた約一千三百名の人々が着剣した銃を持った兵隊によって約百名の集団別に整列させられ互に縄で縛られて居るのを見受けた。私が隊長に抗議したにも拘らず、彼等は射殺される為に連れて行かれた。
『日中戦争史資料8』P114〜115
東京裁判 ジョージ・A・フィッチ供述書(3)便衣兵摘出(状況)
日本人は吾々の野営所から人々を捕へる場合何等規則に従はない。手の胼胝や坊主刈であることが其の男が曾て兵隊であったことの十分な証拠であるとされて死刑にされること請合ひである。私共の野営所の殆ど全部が度々射殺したいと思ふ者を引出しに来る兵隊の群の侵入を受けた。
『日中戦争史資料8』P115
東京裁判 マッカラム日記・手記(1)便衣兵摘出・殺害(事例)
生命を助けてやるからと約束して日本軍に身を任せた沢山の人々の中の一人(此等の人々の中帰った者は極く少数でした)が生命永らへて仲間の運命を語りました。彼は日本軍は彼等の頭上に石油を注いで、それから放火しましたと公言して居ります。此の男は他に何らの負傷もしてをりませんでしたが、頸部や頭部の周囲が恐ろしい程火傷して居りましたので、とても此の世の人とは思はれませんでした。同日に身体が半分火傷した他の一人が病院に入って来ました。此の男は又銃で射たれた。多分全く彼等の群は機銃射撃され身体を横み上げられ焼かれたのでありませう。
私共は詳報を得ることは出来ませんでしたが、此の男は明らかに匍ひ出てどうやら救助を求めに病院へ来ましたのでせう。此等の者は二人共死亡しました。此の故に私は諸君が数日間食慾を失ふ様なこんな恐ろしい物語を話すことが出来ました。
それは全然信ぜられぬことでありますが、然し数千(の)人々が残忍にも屠殺されました。----幾人あるか想像するも困難です。----其の数が一〇、〇〇〇人に近いだらうと信じて居る人々も有ります。
『日中戦争史資料8』P118〜119
東京裁判 マッカラム日記・手記(2)便衣兵摘出(状況)
数名の男子が兵士であったとの嫌疑で「マギー」氏居宅の金陵や其他の場所から連れて行かれました。此等の男達は其の仲間に彼等が兵士で無いと証明することの出来る友達が居たのですが、此等の者が手に胼胝があると云ふ理由で、抗議を発言したけれども更に進んだ調査もせずに、兵士であると格印を押されました。
多くの人力車曳や艀の船頭等が他の労働者達と同様に、単に彼等の手に真面目な勤労の印があるので射殺されました。
『日中戦争史資料8』P119
東京裁判 許伝音証言 便衣兵摘出・殺害(事例)
●サトン検察官 日本兵は安全地帯内に侵入し、そこから中国の国民を拉致致しましたか。
●許証人 此の家屋委員会上京ふのは一つの規則を持そて居りまして、武器を携帯して居る老は此の安全地帯に入ることを許されなかったのであります。さうして又如何なる人にもあれ、武装して居る者は此の中に入って行くことをも許されなかったのであります。兵隊も入って来ることを許さないと云ふ規則があったのであります。十二月十四日の朝八時頃、位置(地位)の高い日本の将校が国際委員会の本部に入って参りましたのでありますが、其の時丁度私だけが此の本部に居ったのであります。此の日本将校の目的は安全地帯を捜索する許可を得たいと云ふことでございまして、さうして彼の申立てましたのは、安全地帯に支那の兵士連が隠れて居ると云ふことでありました。「ラビー(John
H. D. Rabe)」氏も「フィッチ(George A. Fitch)」氏も私も共に此の申出を拒みまして、さうして此の安全地域内には、一人も武器を携帯して居る中国兵士は居ないと云ふことを申したのであります。それにも拘らず次の日、日本将校及び兵士達が参りまして、さうして此の「キャンプ」や或は私人の家から兵士であると云ふ名目の下に人々を連れて行かうとしたのであります。
〜略〜
●許証人 日本兵は安全地帯に入って来て、さうして捜索した結果、種々の「キャンプ」及び家から大勢の一般市民を連れて行きました。
〔伊丹モニター 訂正。一般中国市民〕
或る日私は卍協会の他の者と共に、是等の罹災者に対して食糧を配って居りました。
〔伊丹モニター 訂正。「パン」やお菓子を配付して居りました〕
我々が此の仕事を終り掛けた時、二人の日本兵がやって来まして、さうして門を固く閉めました。
〔伊丹モニター 訂正。我々が丁度其の仕事を終へやうとした時に、日本兵がやって参りまして、其の中の二人は門の護衛に就きました〕
日本兵は入って来、さうして縄を以て是等の中国人市民の手を縛り、十人或は十五人の一団に固めまして連れ去ったのであります。私は其処に立って居りました、さうして此の状景に胆を潰しました。此の建物の中には千五百人の躍災者が居ったのでありますが、是等は皆此のやうにして連れ去られたのであります。彼等は此の卍協会の職員までも連れ去らさとしやしたが、我々が説明しましたので、是等の者を放したのであります。私は国際委員会の「ラビー」氏に、此のことを報告するやうに人に頼みました。「ラビー」さんと「フィッシュ」さんは直ちに私の請に応じて参りましたが、併しながら是等の中国人市民は、日本兵に依って連れ去られちしまったのであります。
〔伊丹モニター 訂正。 「フィッシュ」でなく「フィッチ」〕
そこで「ラビー」さん、「フィッチ」さん、私及び日本語を話すことの出来る中国人は、一緒に日本の特務機関の司令部に参ったのであります。「ラビー」さんは抗議を申込みまして、何が故に日本兵が此の安全地帯の中に入り、さうして是等の一般中国市民を連れ去り、さうして何処に連れて行ったかを聴き、更に直ちに連れ戻すやうに抗議を申立てたのであります。此の抗議に対する返事と致しまして、日本の特務機関は知らぬと答へました。それで我々は何処に連れ去ったかを知るが為に、一時間其処に待ったのであります。我々は彼等から何等の満足すぺき返事を得ることは出来ませぬでした。彼等は朝までに返事することを約しました。併しながら其の約束を果しませぬでした。翌日の七時か八時頃、我々は国際救済委員会及び卍協会(紅卍字会)の建物の附近で、機関銃の音を聞きました。そこで我等が何が起って居るかを人に探索させました所、是等の中国人市民が機関銃に依って悉く殺され、さうして其の死骸が散らばって居ると云ふ報告を得たのであります。後程、我等は其の死骸を集め、さうして死骸の中の或る者の氏名が判明致しました。其の後どの「キャンプ」に於きましても、毎日日本の兵が入って来まして、さうして中国人の市民を探索し、さうして拉致したのであります。【注】
〔伊丹モニター 訂正。中国の兵隊を探しに来たのであります〕
【注】 安全区から狩りたてられた一五〇〇人の男たちの末路について、許伝音はその宣誓口供書では、「私の受けた情報によれば、彼等は機関銃で殺され、彼の死体は池の中に投げ込まれた。それは後日、引揚げられ、『すわすちか』会員の手に依って埋葬されました」と言っている。(洞富雄)
是等の「キャンプ」に於きまして、或る日には十数人、或る日には数百人の一般中国人市民が連れ去られたのであります。さうして後程彼等は全部殺されたことが分りました。日本側の之に対する弁明は、是等の一般市民が兵隊であると云ふことであったのであります。さうして是等の知識を色々の所から集めたのだと申立てました。併し実際の所、是等のものは総て一般市民なのであります。一人として此の中に兵士は居らず、又武装して居った者はないのであります。
〔モニター 訂正。此の中の一人と雖も、軍服を着たり、武器を持ったりした者は居りませぬでした〕
『日中戦争史資料8』P25〜27
東京裁判 許伝音証言 便衣兵摘出・殺害(弁護側反対尋問)
●伊藤弁護人 証人は午前中避難所の中に居ったものの中には軍人は一人も居らなかったと言はれて居りましたが、其の通りでしたか。
●許証人 避難所の中には兵隊、即ち武装したり、武器を持った兵隊が一人も居なかったと云ふことは私は茲に断言出来ます。何となれば委員会の規則に依りますと、武装をして居る兵隊は避難所の中に入って来ることが出来ないのであります。若し武装した兵隊が避難所の中に入って来る場合には、武装を解除した後に入って来ると云ふことになって居るのであります。
〔伊丹モニター 訂正。委員会、即ち国際救済委員会〕
●伊藤弁護人 支部兵は戦ひに敗れると逃げる、逃げ損ふと武器を匿し、軍服を脱いで普通の服を着て民家に潜伏して居って、さうして隙を見て敵軍に襲ひ掛る、即ち便衣隊と云ふものになることを御存じですか。
●ウェッブ裁判長 それは事実であるかどうかは別問題と致しまして、非常に小さな問題であります。
〔伊丹モニター 訂正。質問をする場合は、それは事実であるかと聴いて、事実ではないかと聴かない方が宜いと思ひます〕
●伊藤弁護人、さう云ふ事実がありますか。
●許証人 さう云ふことはあるかも知れませぬが、さう云ふ場合でも私共はそれを普通の市民と見倣すのであります。彼等が非常に沢山集まって公に敵対行為をするまでは市民であるのであります。
〔伊丹モニター 訂正。彼等が再び団結して敵対行為を執るまでは非戦闘員と考へられます〕
若しさうでないと致しますれぱ、是等の人々は私が茲で普通の人間であると同じやうに普通の非戦闘員であります。
●伊藤弁護人 それならあなたの預かって居った避難所にはさう云ふ種類の人が沢山居ったのではないですか。
●許証人 斯くの如き者は居なかったのであります。先程私が申しましたやうに、一度武器を棄ててしまったものは、私共は兵隊と見倣さないのであります。
〔伊丹モニター 訂正。彼等は便衣隊員としては見られて居りませぬ。武器を一度棄てたら軍人としては見られませぬ〕
●伊藤弁護人 此の証人から私の能力では真実を訊き出すことが出来ませぬから、遺憾ながら是で私の訊問を終ります。
●ウェッブ裁判長 あなたは証人に対して批判を加へることは許されませぬ。若しさう云ぶことをなされば応分の処置を執らなければなりませぬ。反対訊問は是れ以上ありますか。
●ワーレン弁護人 もうございませぬ。
『日中戦争史資料8』P40
東京裁判 尚徳義宣誓口供書 便衣兵摘出・殺害(事例)
姓名 『尚徳義』
住所 『南京 城西 昇州路 彩霞街 五間庁 第六号』
年齢 三十二
在籍 南 京
職業 雑貨小売業
事実始末
私は一九三七年に『上海路華新巷一号』(避難民地区内)に住んで居りました。其年の十二月十六日午前十一時頃日本の兵隊(中島部隊の兵かと思はれます)に依りて拘引せられました。同時に拘引せられましたのは、私の兄徳仁、元嘉興航空站書記を勤めて居たもの、又私の従兄徳全、元絹物商なりし者、及氏名不詳の隣人五人とでありました。二人づつ一本の縄を以て手を縛り合され、揚子江岸の下関(シャアクヮン)に連行されました。其処には千人以上の一般男子が居りました。皆座(坐)はる事を命ぜられました。其私達の前四、五十ヤードの所には、十余基の機関銃が私達に面して居りました。四時頃になって一人の日本将校が自動車に乗って来まして、日本兵に私達に対して機銃射撃を始める様命令しました。射撃に先だって私達は起立を命ぜられました。私は、射撃の始まる直ぐ前に地上に仆れました。忽ち私の上に屍骸が覆ひ被さりまして私は気を喪ひました。
約五分後に私は死骸の山から這ひ出して、さうしてそこから逃げ私の家に帰ることが出来ました。
『日中戦争史資料8』P41
東京裁判 伍長徳宣誓口供書 便衣兵摘出・殺害(事例)
私、伍長徳は次の通り証言致します。
私は三十八歳で、中国南京市の食料品商であります。千九百三十七年(昭和十二年)十二月及ぴこれから先多年の間南京市の警官をして居りました。私は一度も中国軍の一員であったことはありません。私は南京市の陥落後凡そ三百人の他の警官と一緒に司法院に居りました。我々の武器を全部南京安全地区国際委員会に引渡してあったので、我我は武装して居ませんでした。司法院は難民収容所になってヰて、警官の外に多数の一般民衆が居りました。千九百三十七年(昭和十二年)十二月十五日日本兵が司法院にやって来て、其所に居たすべての人に彼等と同行するやうに命じました。国際委員会の委員二名が日本兵に我々が前軍人でないことを告げましたが、日本兵は此の二人に出て行くことを命じ、我々を無理やりに市の西大門へ行進させました。
我々は其所へ着くと丁度門の内側に坐るやうに命ぜてれました。数台の機関銃が日本兵に依って門の丁度外側と、その両側にすえつけられました。此の門の外側に運河とその下流に到る急な坂とがありました。其の運河には橋が掛ってヰましたが、直接門の向ひ側ではありませんでした。百人以上の一団をなしていた此等の人々は銃剣を突きつけられて一時に門を通ることを強制されました。彼等は外部へ出ると機関銃で射たれ、その体は坂を転げて運河の中へ落ちました。機関銃掃射で殺されなかった者は日本兵に銃剣で刺されました。各組百人以上の約十六組が門を通ることを強ひられ、此等の人々は殺されました。
凡そ百人以上の私の組が門を通るやうに命ぜてれた時、私は出来るだけ早く走り、機関銃が発射される寸前にうつ伏せになり、機関銃弾には射たれませんでした。すると日本兵が来て銃剣で私の背を刺しましたが、私は恰も死んでいる様に動かず、倒れてヰました。日本兵は幾許の死体にガソリンをかけ、火をつけ、立去りました。其の時は暗くなり始めてヰました。死体は河岸に散乱してをり、ガソリンは私にはかかってヰませんでした。私は日本兵が立去るのを見て、死体の間から這ひ上って、一軒の空家に這道入り、其所二十日間居りました。其の附近の或る人が毎日、私に一碗の粥を届けてくれました。それから私は市内に這入込み、大学病院へ行きました。『ウヰルソン』医師が私の手当にあたってくれました。私は五十日以上入院し、退院して江蘇北部の私の郷里へ行きました。私が以上述べた事件の折に、約二千の前警官と一般人が殺害されました。
上記陳述書は真実でありまして、私は、千九百四十六年(昭和二十一年)六月十八日、それに対し供述書を作り茲許署名致します。
(漠字で) 伍 長 徳
『日中戦争史資料8』P42〜43
東京裁判 陳福宝宣誓口供書 便衣兵摘出・殺害(事例)
●モロー検察官 証人、どうかあなたの名前を申述べて下さい。
●陳証人 陳福宝と申します。
●モロー検察官 あなたは何処に住んで居られますか。
●陳証人 南京白下路東井巷二二号に住んで居ります。
●モロー検察官 私は只今から華語で書いてあります証拠物件を証人の前に提出致します。此の中に書いてあることは正確でありますか。
●陳証人 正確であります。
●モロー検察官 英語で読まして戴きます。
〔モニター朗読〕
一九四六年四月七日
南京白下路東井巷二二号
陳福宝の陳述
日本軍南京入城の第二日即ち十二月十四日日本軍は避難地域から三十九人の者を引き出した。それ等は総て常民であった。日本軍は之等を取調べた。そして額に帽子の跡のある者又は手に銃を操縦して出来た胼胝のある者は小さな留置所に入れられ反対側から引き出された。私と今一人は一方の側に入れられた。そして日本兵は軽機関銃を用ひて自分等以外の者を殺した。斯くの如くして殺された者が三十七名あったのだ。私は現にそれを見たのである。其の人々の大部分は常民なのだ。私は南京の住民であり夫等の人々の数名が南京の常民であることを知って居る。其の内の一人を私は特によく知って居る。其人は南京の警官であった。私は其の時十八歳であり南京に住んで居た。それ等の人々は四箇月後に紅卍会(紅卍字会)の手により埋葬された。其の間死骸は抛り込まれた池の中にあった。私も日本兵の命令で死骸を池に抛り込む手伝ひをした。之は米国大使館の附近で朝、白日の下に行はれた。
『日中戦争史資料8』P43〜44
東京裁判 梁廷芳宣誓口供書 便衣兵摘出・殺害(事例)
国際検事局 書類番号一七四三番
梁廷芳大尉の陳述 一九四六年(昭和二十一年)四月七日
私達は赤十字章が何の防衛の役にも立たないことが判ったので、日本軍が同市を占領しました時は庶民服を着て避難民収容所に居りました。十六日に我々は南京にある揚子江岸の下関( )に赴く様に日本軍に命ぜられました。私は、四列に並んで五千人以上の者が行進して居ったと推定します。そしてその行列は四分の三哩の長さでした。私達が其処に到着した時に、江(揚子江)に近く一列に並べられましたが、列の両側及前面に機関銃及日本兵が居りまして、機関銃は列の方を向いて居ました。綱を載せた二台の貨物自動車がありまして、人々は後ろ手に五人宛を一団として縛られました。そして、其の様な団体の中の者で最所(初)に日本人に小銃で撃たれ、江に投げ込まれた人達を私は目撃しました。其処にはセダン型自動車に乗って居る将校及其の他の将校を含めて約八百人の日本人が居合せてヰました。私達は江の縁りに沿ふて並ばせられましたが、手を縛られ前に私の友人が此の様にして死ぬのなら寧ろ河に飛び込んで死んだ方が良いと言ひました。私達は午後五時頃避難者収容所を出発して、午後七時頃に江岸に到著(着)しましたが、捕虜を縛ったり射撃したりするのは、二時迄続きました。その時は月が輝いて居ました。そして其処の有様が見えましたし、又時計は手首に在りました。射殺が四時間続けられた頃に、私の友人と私は逃げることに決心しました。そして十一時頃友人と私は江の方に駈け出して跳び込みました。私達に向って機関銃を打って来ましたが中りませんでした。江岸に峻しい崖があり、水が僅か腰の深さ位なので、その峻しい岸の下に隠れましたが蔭の為に日本兵に見付かりませんでした。然し日本兵は機関銃を以て私達を撃ちまして、私は肩を撃くれました。捕虜を射つことは午前二時迄続きました。
私は貧血のため、気が遠くなり朝気がついた時は友人は居ませんでした。彼は後になって私が死んだものと思ったと語りました。それから私は江岸を匍ひ上って、近くの小屋に隠れました。此の時は二時過ぎで日の出前でした。私は飲食物無しに三日間此の小屋に居りました。すると日本兵がやって来てその小屋を焼きました。小屋が燃えてヰる時、私は匍ひ出したので、日本兵が私を見付けました。将校の一人が私を訊問したので、私は常民で荷物を運ぶ為に日本軍に雇はれた苦力であると答へました。其の将校は私の傷については尋ねませんでした。其の将校が家に帰る通行証を呉れたので帰へりました。
彼等が避難者収容所で皆の者を並ばせて居た時に姓名の判らない数人のアメリカ人が来て、日本人が私達を江の方に行進させることを止めさせようとしましたが、退去する様に命令され、此の鏖殺を止めさせることに成功しませんでした。
江り跳び込んだ者が他に数名ありましたが、日本兵が直ちに射撃したので、私はその中で逃げ逐(果)せた者があるか存じません。私の知って居る限りでは私の友人と私の唯二人だけが逃れたものと思ひます。
射殺の行はれて居る間に、一人の青年が「支那万歳」と叫ぷのを聞きましたが、その外は発砲の音だけで何も聞えませんでした。
私はもう一度捕へられてから終に非占領地域に帰って来ました。一九三八年(昭和十三年)六月に非占領地域に房って釆ました。
私は杜大佐に此の陳述を翻訳して貰ひました。そして其の陳述には間違がありません。
証 人
トーマス・エイチ・モロウ
杜 イン クワン大佐
一九四六年(昭和二十一年)四月七日
『日中戦争史資8』P72〜73
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