東京裁判 陳福宝宣誓口供書 市民殺害 事例
十二月十六日、私は再度日本兵に捕へられた。そして数多の壮健な若物(者)も引立てられた。日本兵は彼等を群集の中に入れ彼等と相撲を取った。そして相撲で勝てない連中を銃剣で殺したのである。私は彼等日本兵が此の理由で一人の者を殺すのを見た。其の同じ日の午後私は太平路に連れて行かれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火してるのを見た。其の一軒はホテルであり、他の一軒は商店で家具商であった。其の放火をした日本兵の名は、向井部隊桑田隊の馬屋原伍長及村上伍長である。
『日中戦争史資料8』P44
東京裁判 陳福宝宣誓口供書 弁護側反対尋問
●モロー検察官 反対訊問がありますか。
●伊藤弁護人 松井石板の弁護人伊藤清であります。証人の陳述書の中には、日本文で見ますと、二行目の所三十九人の者が引出されたが『それ等は総て常民であった』と書いて居る。それから十行目の所には、『其の人々の大部分は常民なのだ』と書いて居る。それから十一行目の所に『夫等の人々の数名が南京の常民であることを知って居る』と書いてある。それから其の次に『其の内の一名を私は特によく知って居る。其の人は南京の警官であった』。斯り云ふやうに常民であったかどうかと云ふことに付きまして四通りに書いてあるのですが、どれが本当なんですか。
●陳証人 平民と言ったのは難民のことであります。それから警官とに言ったのは、其の住んで居る区域の警官と云ふ意味であります。
●伊藤弁護人 警察官と常民、さう云ふことではなくして、三十九人の人が引出されたが、是がみんな普通の人であったと云うて居るかと思へば、其の中の大部分の者が普通の人であると云ひ、それから又其の次に数名の者は常民であったことは知って居る、外の人は知らないやうにも言うて居る。さう云ふやうに三通り、もう一つ言へば四通りにもなるが、少くとも三通りの言ひ方を此処に見ることが出来る、どれが本当なんですか。
●陳証人 皆常民であります。そして難民区の者でありますから、皆難民であります。
●伊藤弁護人 今の御答へが私には分らないのですが、私の質問があなたに御分りにならないのではないのですか。
●ウェッブ裁判長 返事は非常にはっきりして居ります。全部常民であると言って居るのでありますから、其の通り受入れて戴かなければなりませぬ。
●伊藤弁護人 それぢゃ、二番目に言って居る大部分の人とか、数名とか、是が間違って居る訳ですか。
●陳証人 私は初めから報告をやり直しますが、宜しいですか。
●ウェッブ裁判長 そんなことは必要でありませぬ。私としては現状の儘で宜いと思ひます。それで其の儘にして置いて、我々判事と致しまして、今証人のなした証言と此の宣誓口供書とを比べますから、其の儘にして置いた方が宜いのではありませぬか。
●伊藤弁護人 それから日本文で二枚目の半頃に、日本兵が放火をした、其の人の名前まで挙げて居りますが、此の放火をしたと云ふのは、当時伝染病があるので、其の伝染病を根絶する為に、消毒の為に共の家を焼いたと云ふことを知って居りますか。
●陳証人 私はそれに関しては知りませぬ。
『日中戦争史資料8』P44〜45
東京裁判 ベーツ証言 市民殺害 事例
●サトン検察官 日本軍が、南京を支配し始めて後に於ける日本軍の対中華民国民衆の態度は如何でありましたか。
●ベーツ証人 あなたの質問が非常に範囲が大きいので何処から姶めて宜いか分りませぬ。自分自身全然理由もなく民間人の個人が銃殺された事件を数々知って居ります。又、中国人で私自身の家から連出され射殺された者もあります。私の隣人の家では彼等の妻が強姦されたので、二人の男が驚いて起きました所、私の家の庭の角にある池の先きで二人とも射殺されました。
〔林モニター そして其の池の中へ投げ込まれました〕
『日中戦争史資料8』P49
東京裁判 マギー証言(2) 市民殺害 状況
●サトン検察官 それでは一九三七年十二月十三日、日本軍が南京を占領しました後に、日本兵の中国一般人に対する所の態度はどう云ふ所で、どんな行動を取りましたか。
●マギー証人 日本軍の暴行は殆んど信用することの出来ない程ひどいものでありました。最初其の日本軍に依りまする中国人の殺戮が始まりましたのは、色々な方法で行はれたのでありますが、先づ最初には日本軍の兵隊が個々別々に凡ゆる方法に依って中国人を殺したのでありますが、其の後になりまして三十名若しくは四十名の日本軍が一団となって、其の殺戮行為を組織的にやって行ったのであります。是等の日本兵は其の市(手)中に全く中国人の生命即ち死活の権を全然握って居ったやうに思はれるのであります。間もなく是等の日本軍に依りまする殺戮行為は到る処で行はれたのであります。暫く致しますると南京の市内には到る所に中国人の死骸がゴロゴロと横(た)はって居るやうになったのであります。是等の殺戮行為は或は機関銃に依り死んだ者もあり、其の他の方法に依って殺されたのでありますが、時々中国人が列を作って引張られて行く、さうして殺されるのを私は目撃したのであります。例へば或る一例を述べますると、一人の婦人が自分の主人が手を縛られて引張てれて行って殺され、さうして池の中に放り込まれるのを見たけれども、其の女の人は主人を助けることを許されなかった事例もあったのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正致します。日本兵に連行された中国人は機関銃や小銃で殺され、銃剣で刺殺されたと云ふ例が沢山ありまして、或る婦人が私に洩した所に依りますと、此の婦人の夫を縄で縛り上げ、池の中に放り込んで溺死するのを、其の目前で日本兵がやったと云ふことを聞きました〕
『日中戦争史資料8』P87
東京裁判 マギー証言(7) 市民殺害 事例
●マギー証人 (略) 其の次の日の出来事でありますが、私は他の三人の外国人、其の外国人の二人は「ロシヤ」人、一人は私の同僚の「フォスター(Ernest
H. Forster)」さんでありましたが、私共是れだけの外国人は家の「バルコニー」から外を見まして、実際中国人が一人殺されるのを目撃したのであります。それは中国人が私の家の前を歩いて居ったのでありますが、それは何れも絹の着物を着て居りました。それを日本の軍人が後から誰何したのであります。さうしますると此の中国人は非常に驚きまして、歩行を早めて逃げ去らうとして、丁度其の先の所にありました角の所を曲らうと致しました所が、其処には丁度竹垣がありまして行詰りになった為に、逃げることが出来なかったのであります。それを日本の兵隊が追掛けまして、さうして殺したのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。「一人の支部人が私の家の前を歩いて」と訳しましたが、「一人の支那人が通りを歩いて居る」と云ふやうに訳します。あとの方で、日本人の兵隊が此の支那人の顔に向けて発砲して殺したのであります〕
まるで彼等は何事も起らなかったやうに、さり気なく煙草を吹かしながら歩き続けて行ってしまひました。恰もそれは野鴨狩りできして居ったやうな平気な態度でありました。
『日中戦争史資料8』P89
東京裁判 マギー証言(10) 市民殺害 事例
●マギー証人 (略) 或る夕方のことでありますが、午後四時三十分頃でありましたが、私の居りました所に一人の日本兵が入って来まして、其処に居る中国人の妻を強姦しようとしたのであります。其の際、其の中国人の主人は窓から逃げて行ったのでありますが、其の日本兵は明かに其の主人が、其処に逃げて隠れて居ると云ふことを知らなかったやうでありました。
〔英語速記者朗読〕
〔通訳 訂正致します。或る日のことでありまするが、私は四時三十分頃に或る中国人の家に呼ばれて行ったのであります。それは其の家で一人の日本兵が、其処の中国人の妻を強姦せんとして居ると云ふ情報があると云ふことの為に、私は其処に呼ばれて行ったのでありますが、其の際、其の女の主人は、自分の妻を何処かに逃がさうと思って大いに努力したのであります。そして其の家の後尾にあった日本兵が、知らなかった戸口から逃がさうとしたのであります〕
其の日本兵は其処に入って来た時には、武器を持って居てなかったのでありますが、一応立去って今度帰って来た時には武器を持って居りました。さうして其の婦人の主人を殺したのでありました。其の婦人は私を其の家の裏庭に連れて行って其の夫の死骸を見せたのであります。
『日中戦争資料8』P91〜92
東京裁判 マギー証言(11) 市民殺害 事例
●マギー証人 (略) 聖書会に属する婦人即ち私共の教会に属して居る「エヴァンジェリスト」の牧師さんであったのでありますが、此の方が約八十歳以上の年取った老母と一緒に住んで居る----七十八歳か七十九歳になる中国人の老母と一緒に住んで居られたのでありますが、其の家へ或る日に、日本の兵隊がやって来て、外へ出ろと云ふ話で、外へ出ますると、其の着物をまくり上げろと云ふ命令を出したのであります。共の老母は自分はもう非常に婆さんだからと言ひました所が、兵隊は直ぐに老母を射殺したのであります。
『日中戦争史資料8』P95
東京裁判 マギー証言(12) 市民殺害 事例
●マギー証人 (略) 一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番(地)の家で起った事件であります。
●サトン検察官 それは何年のことですか。
●マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあったのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住そで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入って来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治って居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮って参りました。約三十名の日本兵がやって来まして入口の所で大きな声で怒鳴ったのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の人の奥さんが少し……
〔宮本モニター 訂正。其の後ろに脆づいて居る男を殺し、又共の妻を殺したのであります〕
それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立った其の祖母は、其の部屋に行って、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。
〔宮本モニター 追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります〕
其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居った為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居った為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居ったのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました一歳の少女の脛の中に棒を突込んだのであります。
〔通訳 其の女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまったのでありますが、後程行って見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあったのであります〕
其の小さな女の子は更に外の事件を私に話したのでありますが、もう一人「他の一人の女の子供は刀に依って首を斬られたのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分りませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります〕
其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行った時は丁度其の事件が起ってから約六週間後のことでありましたが、到る処に血が散乱して居ったのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持って居ったならば、其の時の血の色の工合をハッキリと写し取ることが出来たらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居ったのであります。
其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行って案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。
『日中戦争史資料8』P95〜P96
東京裁判 マギー証言(13) 市民殺害 事例
●マギー証人 或る日、仏教の尼さんでありましたが、それが私共の教会の病院に連れて来られたのであります。其の尼さんは日本軍の弾に依って傷を付けられて居ったのであります。其の尼を連れて来た中国人の洋服屋の話に依りますると、其の尼さんの家のあったお寺の後ろで二十五人の中国人が殺害されたと云ふことを言って居りました。其の時の話に依りますと、見習尼さんでありまする約十歳か十二歳の女の子が非常に怪我をして居ったのであります。それは銃剣に依って傷を付けられて居ったのであります。さうして之を病院へ連れて参りまして、世話をした後、私は彼女を家へ連れて来たのであります。其の傷は非常に悪くなりつつあったので、私共は数回病院に連れて帰らなければならなかったのであります。其の尼さんと私は数回に亙って話を致しましたから、能く覚えて居りまするが、其の話に依りますと、一月の五日のことでありますが、其の尼さんの一番上の尼さんであった六十五歳の中国の婦人が日本兵に依って殺され、又十歳の見習尼さんである尼さんが又、日本兵に依って殺されたのであります。
『日中戦争史資料8』P97
東京裁判 マッカラム日記・手記(1)市民・便衣兵殺害・強姦状況
然し一週間は経過したが、それは此の世の地獄でありました。述べようと試みることさへも恐しい物語であります。----私は全く何処から始め何処で終って宜いのか解りません。私は今迄に一度も斯の様な残忍を開いたことも、読んだこともありません。強姦----強姦----又、強姦----私共は一夜に少くとも一、〇〇〇件を算へ日中も多くの事件があるのです。苟も抵抗或は不承諾見えた事が有れば銃剣で突き殺すか、小銃で射殺するのです。私共は一日に数百件を書き上げることが出来た。民衆はヒステリーに罹って居ります。----即ち彼等は私共外国人を見ると膝まずき時には所謂叩頭さへも致します。彼等は救助を求めるのです。兵士の嫌疑の有る者は(其他の者と同様であるが)市街の外部に率れて行かれて何百人となく銃殺されました。
ペン、時計、金銭----某地区の貧困な避難民すらも再三、再四掠奪されて、最後の一 「ペンス」殆んど最後の一枚の着物或は最後に残った一寝具迄も奪はれて了ひました。そして此等の物は間も無く処分されるかも知れない。
女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られます。日本軍は凡て何処へでも好きな処に出入出来、又、勝手な振舞をしても自由な様である。亜米利加国旗は屡々金陵大学(南京大学)や「ヒルクレスト(Hillcrest)」学校等から引剥されました。
神学校(ビー・ティ・ティ・エス、バプテスト教教師訓練学校)大学、金陵大学(南京大学)、中学校、養蚕「ビルディング」、図書館、其他数十の場所に於て毎夜、強姦、強奪、射殺、銃殺事件等が起ります。外国人が其場に居合せた時は大概斯様な事件を防ぐことが出来ます。然し利用し得る私共十五人或は二十人では到底、常時全ちの建物内に居ることは出来ません。
『日中戦争史資料8』P117
東京裁判 マッカラム日記・手記(2)市民・強姦状況
然し民衆に対してもっと悪いことが起って居りました。彼等は恐怖の中に在りました。これも不思議ではありません。彼等の多くの者は現在彼等の肩の周囲に纏ふたった一枚の着物しか残されてありません。
身寄りなく武器のない彼等は兵士の為すが儘になって居りました。而して兵士連は好きな処に自由に排掴することを許可されて居りました。何らの規律も無く兵士達の多くの者は洒に酔って居りまつた。日中彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区に在る建物内に入って来て、夜になると婦女を連れに帰って来ます。若し婦女が隠れて居らないと責任ある者は現場で銃剣で殺されます。十一、二歳の少女と五十歳の婦人連は逃げられませんでした。抵抗すると生命に関します。最悪な事が病院にやって来ます。
抵抗した妊婦六箇月の婦人が顔面や身体二十六箇所の「ナイフ」創と、腹部に一箇所の突傷を受けて、私共の所に参りました。彼女は赤子を亡くしましたが、彼女の生命は助かるでせう。
『日中戦争史資料8』P118
東京裁判 マッカラム日記・手記(3)市民殺害・事例
江安乗合自動車停留所の附近の一独逸人の住宅に居る一老年の管理人が昨日殺害されたと云ふことが報道されて居ります。日本兵は道路上に居る若者を労働に徴用しようとしても発見出来ません。其男は自ら進んで労働に行くことに異議を申立てました。
『日中戦争史資料8』P119
東京裁判 マッカラム日記・手記(4)市民殺害・事例
其後、市街の東南部に在る寺院の尼さんが一人我々の所に連れて来られました。彼女は12月14日に傷を受けたのでした。彼等の五名は地下濠内で安全を求めたのですが、日本兵が各入口から侵入して五名の中三名を殺し、他の二名を傷つけたのでした。此等の二名----即ち此の尼さんと十歳になる小さな徒弟の少女は後で友達の死体の下に身を隠して助かったのでした。彼等は実に十八日間も治療を受けず、又五日間も食物無しに過したのでした。近隣の一人の男がこの酷く負傷した尼さんをやっとのことで病院迄連れて来たのでした。此の少女は背中を刺されたので、病院車をやって連れて来たのですと尼さんは語りました。彼女の傷は大変良くなって居りました。で彼女が必要な凡ては食物と入浴それに居心地の良い環境でした。市街の南東地区に住んでヰた民衆は日本兵に包囲されて居て怖しい運命の者達です。(中略)
『日中戦争史資料8』P122
東京裁判 マッカラム日記・手記(5)市民殺害・強姦事例
一人の男が昨日の午後、救済本部の附近で殺されました。午後には一日本兵が婦人を強姦しようとしました。彼女の良人は之を妨害して彼女を助けて抵抗した。然し午後に此兵士が良人を殺さうとして戻って来ました。
『日中戦争史資料8』P123
東京裁判 マッカラム日記・手記(6)市民・強姦事例
未だ北夏路の我々の屋敷内には一死体が有ります。他の一死体が我我の南門女子用建物の一階に、又、一死体が「ブロパ」氏の囲内にあります。即ち此等の死体は十二月十三日頃、運命に会った。「プライス」氏の庭に生後六ヶ月位の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。
『日中戦争史資料8』P125
東京裁判 マッカラム日記・手記(7)市民・強姦状況
建設団が電気と水道を回復するべく希望します。「ラビ(John H. Rabe)」氏を通じて職人を仕事に就かせる様に最後の取極めが為された前日に、下士官を長とする陸軍の一隊が英国輸出会社の工場へ行きました。そして電気会社所属の傭人四十三名を整列させて彼等を機銃掃射しました。
此の電気会社は個人経営の団体でした。該兵士達は、調査もせずに射殺された者達は政府の傭人であると主張しました。斯んなことが一ヶ月後の一般的な状態で、殆んど恢復の望みはありません。
『日中戦争史資料8』P125
東京裁判 マッカラム日記・手記(8)市民暴行・強姦事例
二日前に私は施薬所へ行くと胃袋の一部と腸の若干が露出した十五歳の男の児が机の上に居るのを目撃しました。傷は二日前のものでした。彼は和平門の近くに生き延びてヰる。兵が彼を野菜運搬の労働者として連行したのでした。彼が仕事を終了した時に彼等は彼の衣類を調べで発見した六〇セントを奪ひました。それから銃剣で数回彼を突き刺しました。我々の英国大使館の友人は我々の話を殆んど信用しなかった。彼等は経験が無く、物語を了解することが出来たので可成り和らげねばならなかった。
然し彼等は自身で可なり怖しい事件に衝き当って直接に体得しました。彼等は英国所属の財産を調査に旅行をして、和平門の、エーピースィー附近でゴルフ打球棒を無理に内部り入れられた一婦人の身体を発見しました。そしてその一部が露出して居りました。
『日中戦争史資料8』P127〜8
|