強    姦
 


東京裁判 許伝音証言(1) 事例

●サトン検察官 南京市に日本軍が入城しましてから、南京市の婦人は如何に取扱はれましたか。
●許証人 日本兵は婦人に対してはより悪い、さうして日本兵は婦人を強姦し、さうして又非常な女好きなのであります。
〔伊丹モニター 訂正。婦人に対して執った日本兵の行動は、前述のものより更に悪く、文明の世界に於ては到底夢想だに出来ないやうな程度のものでありました。日本兵はさうして女が非常に好きで、信ずべからざる程の女に対する嗜好を示して居りました〕
●ウェッブ裁判長 証人、あなたが御存じならば、日本軍が南京で婦人をどう取扱ったか、それさへ申立てれば宜いのであります。
●許証人 私は多くの場合を知って居ります。何となれば日本兵が「キャンプ」にやって来て女を連れて行き、さうして強姦する時には、必ず私の所に先づ最初にやって来たのであります。私は 「スパーリング(Eduard Sperling)」さん或は他の外国人と共に、日本兵に会って居ったのであります。一つの「キャンプ」に於きましては、日本兵は三台の「トラック」を連ねてやって来、さうして総ての女を廊下に連れて行き、其処に於て全部強姦したのであります。私は是等の日本兵を阻止しようとしたのであります。併しながらそれは無駄に終りました。連れて行かれた婦人は十二、三歳から四、五十歳の間であったのであります。私は自分の限でも目撃したのであります。或る場合には日本兵は浴場で中国婦人を強姦したのであります。後から我々が其の浴場に入った時婦人は裸になって居り、涙を零してガッカリして居りました。
〔伊丹モニター 訂正。私が其の浴場に行った時、着物が外に掛けてあり、「ドアー」を押して入ると、裸の女が泣いて非常に悄然とした姿で居りました〕

『日中戦争史資料8』P27




東京裁判 許伝音証言(2) 事例・領事館員の対応

●許証人 (略) 或る時福田さん───其の時、南京の日本の副領事、只今の内閣の書記官をして居ります。
〔伊丹モニター 訂正。只今此の東京で内閣の書記官をして居ります〕
 我々は「キャンプ」に行き、さうして二人の日本人を捕へようとしました。其の時我々は一人の日本人が腰を下して、さうして部屋の隅に一人の中国婦人が泣いて居るのを目撃したのであります。
〔伊丹モニター 訂正。強姦をして居ると伝へられた日本人二人を捕へる為に行きました〕
 私は福田さんに此の日本兵が強姦したのであると申しました。福田さんは、一体あなたは何をして居るか、さうして此処でどんな用があったのかと尋ねました。
〜略〜
●許証人 福田さんは此の日本兵を叱り、さうして彼を押し除けたのであります。日本兵は去りました。福田さんはニコニコと笑ひました。私は更に中国文で書いて福田さんに次のやうな「ノート」を渡しました。此の日本兵を押し除けるだけでは十分でない、彼等は又帰って来るかも知れない、それよりも、日本兵は一切彼等の「キャンプ」に立入ってはならないと云ふ掲示をすべきであると云ふ「ノート」を渡したのであります。福田さんは此の掲示を「キャンプ」に掲げましたが、併しながらそれは何等、役に立ちませぬでした。
〔伊丹モニター 訂正。福田さんは此の掲示を書いて下さいましたので、我々はそこに貼出しましたが、何の役にも立ちませぬでした〕

『日中戦争史資料8』P28




東京裁判 許伝音証言(3) 事例・憲兵の対応

 其の後傀儡政権が打立てられて、そこの警視総監になった人は私が能く知った人でありました。
〔モニター 訂正。警視総監でなく、警察の頭〕
 或る時私達は一人の日本兵を捕へました。彼は裸で寝て居りました。さうして我々は直ちに彼を警察に連れて行ったのであります。
〔伊丹モニター 訂正。一人の日本兵を強姦の廉で捕へました〕
 是等の我々が逮捕した兵隊に付ては、唯彼等が日本軍の司令部に連行されたと云ふことを聞いたのみであったのであります。

『日中戦争史資料8』P28




東京裁判 許伝音証言(4) 事例 強姦殺人

●サトン検察官 其の犠牲者は日本兵に依って攻撃された後に、殺害されたと云ふやうなこともありましたか。
〔伊丹モニター 訂正。攻撃でなく、強姦〕
●ウェッブ裁判長 ……
●サトン検察官 ……
〔通訳 あなたの今訊ねて居ることは、婦人が強姦されたか、或は強姦された後殺されたかと云ふことを質問して居りますかと云ふ裁判長の問に対し、検察側はさうでありますと答へました〕
●許証人 或る時私は南京の南門の東の新開路の第七番に「ミスター・マギー(John G.magee)」さんと一緒に参りました。
〔伊丹モニター 訂正。新開路第七番の或る一家庭に「マギー」さんと一緒に参りました〕
 其の家の中で我々は十一人の者が殺され、三人の者が強姦されて居たのを発見しました。是等の強姦された婦人の中一人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。強姦してから日本兵は是等の女子の膣の中に異物を差込……、
〔伊丹モニター 訂正。其の少女のお祖母さんがそれを見せて呉れました〕
 此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れて居るのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放ってあったのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居ったことがはっきりして居ったからであります。
〔伊丹モニター 訂正。「マギー」さんの代りに「マギー」嬢になる訳であります。訂正致します。今の「マギー」嬢はやはり「マギー」さん、或は 「マギー」氏であります〕【注】

【注】
 許伝音はその宜誓口供書で、この新開路の事件について、もっと具体的に、つぎのように記述している。
「十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵〈に〉凌辱されました。屡々続けざまに凌辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に凌辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は〈れ〉たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の「シンカイ路七番地」の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。兵隊が戸口に来た時に、年よりの祖父が応待に出ました。彼はその場で射殺されました。七十を超えたその妻は何事がはじまったのかと思って且に出て来ました。彼女は自分の夫から数歩の所で射殺されました。彼等の娘が赤ん坊を抱いて出て来ました。兵隊はその母と赤ん坊を二人共殺したのであります。その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に凌辱を受け〈た〉揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横〈た〉はって居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて「ベッド」の血の中に横〈た〉はって居たのでありました。五人の他の女も此の家で殺されたのであります。即ち日本兵がその家で見付けた全員が殺されましく。一人の少女は家の近くに、皆が殺されて後、一日一晩かくれて居て助りました。」
(洞富雄)

『日中戦争史資料8』P28〜29




東京裁判 許伝音証言(5) 事例 伝聞

●許伝音証人
〜略〜
 私は他の事件を又知って居ります。卍協会の一人でありますが、彼は船の上で次のやうなことが起ったのを私に語って呉れました。
●ウェッブ裁判長 ……
〔通訳 裁判所は是等の人から伝へて聞いたことをどの程度まで受取るかを、此の際相当深刻に考へなければなりませぬ、と裁判長は申しました〕
●許証人 続けませうか。
●ウェッブ裁判長 続行して下さい。
●許証人 非常に尊敬すべき一家の家族があったのであります。彼等は船に乗って河を横切らんとした時、河の真中で日本兵に止められたのであります。
〔伊丹モニター 訂正。日本兵に名に〕
 是等の日本兵は此の船を検索しようとしたのであります。さうして若い女を見た時に彼等は此の女を強姦したのであります。老人の見て居る所而も又夫の見て居る前で、
〔伊丹モニター 訂正。若い女二人を見て強姦を始めたのであります。而も老人の見て居る前で、更に而も二人の一人は、自分の主人が見て居る前で強姦されました〕
強姦してから是等の日本兵は其の家族の老人に対して大変面白いぢゃないかと申しました。さうしました所、此の老人の息子であり、さうして是等の婦人の一人の夫であった者は非常に怒りまして、日本兵を叩き始めました。此の老人は此のやうなことに我慢出来ず、さうして又難かしいことになると云ふことを恐れて、河の中に飛び込みましく。さうしますと彼の年取った妻、又此の若い夫の母親である婦人は泣き始め、さうして彼〈女〉も夫に次いで河の中り飛び込みましく。私は一寸申すことを忘れましたが、日本兵は此の老人に対して面白いぢゃないかと申しました時、実は此の老人に若い女を強姦することを勧めたのであります。若い女達は之を聞いて驚き、河の中に飛び込みました。斯くして一家全部溺死してしまったのであります。
是は何も古臭い話ではありませぬ。是は真実の本当の話であります。私達は此の話を私達が長いこと知って居る船乗りから直接聞いたのであります。
〔伊丹モニター 訂正。古臭い話と云ふのではなくて、是は決して人伝てに開いた話でもなければ、所謂「セコハン」の話ではないと云ふ意味であります〕

『日中戦争史資料8』P29〜30




東京裁判 陳福宝宣誓口供書(1) 事例

 之は支那軍の朱大佐が説明して呉れたことで間違ひのない事実なのだ。其の同じ日の午後私は三人の日本人が十六歳の唖娘を学校の校舎で私のめの前で強姦するのを見た。

『日中戦争史資料8』P44




東京裁判 陳福宝宣誓口供書(2) 事例

 私は又一日本兵による今一つの強姦事件を見た。此の婦人の主人は写真師である。之は日本兵南京入城後の第三日、南京に於て白昼行はれたのである。其の時私は此の婦人と同じ家に住んで居た。そして一人の日本兵が這入って来て其の家には婦人の主人を入れて四人居たのであるが総ての之等の人々を部屋から追ひ出した。私は其の日本兵がそれから其の婦人と一緒に部屋に這入って行き部屋の戸を締めるのを見た。私は隣の部屋に居てそれを見た。其の婦人は其の時妊娠をして居た。日本兵は十分位で部屋を出た。私は其の時、婦人が部屋を出るのを見たが彼の女は泣いて居た。

『日中戦争史資料8』P44



東京裁判 陳瑞芳宣誓口供書(1) 事例

 「ヴァウトリン(Minnie Vautrin)」女史は、此処を監督してヰる外国の婦人で兵達により私共の娘達が運び去られることを引き止めるのに大した仕事をなした。
 彼女と私と他の者達が昭和十二年十二月十七日の夜間も勤務して居たに拘はらず、兵達が校庭に入り、十一名の娘達を運び去った。此等の娘達九名が日本将校により恐ろしたも強姦、汚辱せられ、後に枚庭へ逃げ返って来た。「ミルズ(W.P.Milles)」氏は彼女達を見た。私達は其の他の二人の娘達に就いてそれ以上何も聞かなかった。一人の娘は校庭に連れもどされた。彼女は歩く事も出来ない程恐ろしく傷(つ)いて腫れてそして彼女は四名又は五名の兵により繰返し、強姦され汚辱された事を告げた。彼女は恐怖症に襲はれてヰた。

『日中戦争史資料8』P115〜116




東京裁判 陳瑞芳宣誓口供書(2) 状況

 最初の四週間と云ふものは毎晩兵隊達が私共の娘達を手に入れる為やって来た。「ヴァウトリン」女史は、助力の限り娘達から(に)兵隊達を近づけない様にした。
 最も悪かった時は最初の四、五週間であった。ある時は私はある兵を部屋から追ひだした。昼間彼は其の室に入って一人の娘を襲って強姦した。他の兵隊共も公然と大学校庭に居る娘達を強姦しやうと試み、「ヴァウトリン」女史並びに保護者連中に追ひ返へされた。「ヴァウトリン」女史は何度も日本領事に行き兵隊共の行為を報告し、娘達に対する保護を求めた。其の様な行為が下火になる迄には四、五週間かかり、危険が過ぎ去る迄には数箇月かかった。

『日中戦争史資料8』P115〜116