強    姦
  

東京裁判 ベーツ証言(1) 事例

●サトン検察官 南京市内に於ける婦人に対し日本兵は如何なる行動に出ましたか。
●ベーツ証人 それは此の事件に関して最も残虐なことの一つであり、又、最も悲しい事実の一つであります。私の隣近所の三人の中からも、女子が伴れ去てれ強姦されたのであります。其の中には大学教授の奥さんも居たのであります。私は現に強姦して居る兵隊の其の現場を見て、そして其の兵隊の五回に亙る強姦の現場を通り合せました。其の詳細は尤も御希望でありましたら申述べますが、私は其の強姦して居る兵隊を強姦されて居る女達から引き退けたのであります。

『日中戦争史資料8』P50




東京裁判 ベーツ証言(2) 被害者数推計

●ベーツ証人 (略) 此の安全地帯の委員会の報告及び自分自身の調査でも、南京大学構内に居った三万人の避難民の中、数百の強姦の事件が書いてあります。其の正確なる詳細が全部報告として日本軍将校に渡されたのであります。占領後一箇月して国際委員会委員長『ラーベ』氏及ぴ其の同僚は 『ドイツ』官憲に対して、少くとも二万人の強姦事件があったことを信じて居ると報告しました。それより少し前私はもっとずっと内輪に見債りまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は八千と見積もったのであります。

『日中戦争史資料8』P50




東京裁判 ベーツ証言(3) 日本兵の状況

●ベーツ証人 (略) 殆ど毎日毎晩、日本軍兵隊の団体の多数は街を歩き廻り、さうして特に安全地帯内を歩き廻ったのであります。是は当時市民の大多数が安全地帯内に居りましたが、約十五名から二十名の兵隊の団体は、其の強姦すべき人間を求めて方々歩き廻って居ったのであります。又人の家の中にも侵入したりしたのであります。

『日中戦争史資料8』P50




東京裁判 ベーツ証言(4) 事例

●ベーツ証人 (略) 二つの事件、此の事件は私は其の事件で殆ど生命を失ったので非常にはっきり覚えて居りますが、二つの場合では、大学の構内で、斯り云ふ強姦事件に日本軍の将校までが参加したのであります。
〔林モニター 訂正。殆ど命を失ひ掛けたので〕
 此の強姦は夜も、又多くの場合昼もされたのでありまして、路傍でされた場合が多くありました。南京神学院の構内で私の友人が見て居る前で一人の中国の婦人が、代る代る十七名の人に依って強姦されたのであります。
〔林モニター 訂正。十七名の日本兵士に依って〕
 此の強姦に関して狂人じみた或は残虐的な事件を特に此処で申述べることは差控へますが、大学の構内だけでも九歳の小さい子及び七十六歳のお婆さんが強姦されたと云ふことを附加へます。

『日中戦争史資料8』P50〜51




東京裁判 ベーツ証言(5) 事例

●ベーツ証人 私が日本大使館に居ります日本の官憲に報告しましたものを、より正確に申上げると云ふのが其の目的なのであります。私は、南京大学から多くの婦女子を九月十六日、日本軍が拉致してしまった、 さうして又、翌日、三十人の婦女子を其の前の晩に強姦したと云ふことを報告したのであります。 
〔林モニター 訂正。十二月十六日〕 
●ベーツ証人 十二月十七日附の日本官憲宛の報告文の中に、私は「あなたの見ゆる所と、さうして又、あなたの隣人の見える所で引続き戦慄すべき残虐な行為が続行されて居ります」、又、十二月十八日の手紙には、其の前夜、南京大学の中に於て六件の強姦事件があったと云ふことを報告して居ります。 
〔林モニター 訂正。一寸訂正致します。南京大学構内の六つの建物の中に於て強姦事件が続けられたと云ふことを報告致しました〕 
 又三日三晩に亙って数千人の婦女子は大学に於て寝られず、又其の後引続いて起った戦慄すべき、さうして「ヒステリックな」状態の為に…… 
〔林モニター 訂正。訂正申上げます。一千名以上に上る女子は、此の大学の構内に於て三日三晩に亙って全然寝ることが出来ませぬでした。其の理由は今後起るであらう所の「ヒステリック」であり、且つ戦傑すべき事件を予想して居たが為であります。それからもう一つ訂正申上げます。先程、南京大学と申上げましたが、それは金陵大学の間違ひであります〕

『日中戦争史資料8』P53




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(1) 状況

 然し一週間は経過したが、それは此の世の地獄でありました。述べようと試みることさへも恐しい物語であります。───私は全く何処から始め何処で終って宜いのか解りません。私は今迄に一度も斯の様な残忍を開いたことも、読んだこともありません。強姦───強姦───又、強姦───私共は一夜に少くとも一、〇〇〇件を算へ日中も多くの事件があるのです。苟も抵抗或は不承諾見えた事が有れば銃剣で突き殺すか、小銃で射殺するのです。私共は一日に数百件を書き上げることが出来た。民衆はヒステリーに罹って居ります。───即ち彼等は私共外国人を見ると膝まずき時には所謂叩頭さへも致します。彼等は救助を求めるのです。兵士の嫌疑の有る者は(其他の者と同様であるが)市街の外部に率れて行かれて何百人となく銃殺されました。
(略)
 女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られます。日本軍は凡て何処へでも好きな処に出入出来、又、勝手な振舞をしても自由な様である。亜米利加国旗は屡々金陵大学(南京大学)や「ヒルクレスト(Hillcrest)」学校等から引剥されました。
 神学校(ビー・ティ・ティ・エス、バプテスト教教師訓練学校)大学、金陵大学(南京大学)、中学校、養蚕「ビルディング」、図書館、其他数十の場所に於て毎夜、強姦、強奪、射殺、銃殺事件等が起ります。外国人が其場に居合せた時は大概斯様な事件を防ぐことが出来ます。然し利用し得る私共十五人或は二十人では到底、常時全ちの建物内に居ることは出来ません。

『日中戦争史資料8』P117




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(2) 状況

 身寄りなく武器のない彼等は兵士の為すが儘になって居りました。而して兵士連は好きな処に自由に排掴することを許可されて居りました。何らの規律も無く兵士達の多くの者は洒に酔って居りまつた。日中彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区に在る建物内に入って来て、夜になると婦女を連れに帰って来ます。若し婦女が隠れて居らないと責任ある者は現場で銃剣で殺されます。十一、二歳の少女と五十歳の婦人連は逃げられませんでした。抵抗すると生命に関します。最悪な事が病院にやって来ます。

『日中戦争史資料8』P118




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(3) 事例

 二人の男が「マギー」氏の屋敷から走って来ました。(で「マギー」氏は避難民で一杯になった三箇所を所有してヰたのです)───此の二人の男は日本兵二名が侵入して女子を求めて居ると申しました。私共は待機の自動車に乗り「ピッチ(George A. Fitch)」氏が「マギー」及「フォスター」両氏をつれて行きました。時経て彼は二人の婦人を病院へ連れて来ました。一婦人は強姦され、ひどく殴打された他の婦人は父の助力に依ってどうやら逃げることが出来ましたが、彼女が窓から跳んだ時に負傷しました。彼等2人はヒステリ(ー)的病状を呈して居りました。

『日中戦争史資料8』P122




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(4) 事例

一人の男が昨日の午後、救済本部の附近で殺されました。午後には一日本兵が婦人を強姦しようとしました。彼女の良人は之を妨害して彼女を助けて抵抗した。然し午後に此兵士が良人を殺さうとして戻って来ました。

『日中戦争史資料8』P123




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(5) 事例

 今日他の一婦人が憐れな有様で而も恐しい物語を持って来ました。彼女は日本軍が衛生部隊の一隊へ連行した五名の女子の一人であった───即ち昼間は日本兵の衣類を洗濯し夜は強姦するために。彼女等の中二名は無理に十五名乃至二十名の兵士を満足せしめられ、一番美人の婦人は毎夜四十名もの日本兵を満足せしめられた。私共の処へ来た此の婦人は三名の日本兵に離れた場所へ呼び入れられて、其処で彼等は彼女の頭部を切り落さうと計画しました。頭部の筋肉を切ったが、兵士達は脊髄を切り隔すのに失敗しました。彼女は死んだ風を装って、病院迄やっとのことでたどり着きました。───即ち此れは日本兵の残忍さを立証する多くの事件の他の一つです。
 「ウィルソン」博士は彼女の傷を縫ひ合せようと試みてヰます。さうすると彼女は生くる機会を得るかも知れません。毎日毎日私共の仲間は此等の怖るべき事情を其の筋へ報告しました。其の筋の者は緊張して命令を出しましたが、然し毎日暴行が起ります。

『日中戦争史資料8』P123




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(6) 事例

未だ北夏路の我々の屋敷内には一死体が有ります。他の一死体が我我の南門女子用建物の一階に、又、一死体が「ブロパ」氏の囲内にあります。即ち此等の死体は十二月十三日頃、運命に会った。「プライス」氏の庭に生後六ヶ月位の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました(以下略)

『日中戦争史資料8』P125




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(7) 事例

一月八日
 四、五名の新聞記者が収容所の入口へ来て菓子や林檎を配給し、避難民へ若干の金銭を手渡した。そして活動写真が此の親切な行為を映写しました。
 同時に日本兵の一団が囲内の裏壁をよぢ登って来て十二人位の女子を強姦しました。取り消された写真は少しもありませんでした。

『日中戦争史資料8』P125




東京裁判 マッカラム宣誓口供書(日記・手記)(8) 事例

 二日前に私は施薬所へ行くと胃袋の一部と腸の若干が露出した十五歳の男の児が机の上に居るのを目撃しました。傷は二日前のものでした。彼は和平門の近くに生き延びてヰる。兵が彼を野菜運搬の労働者として連行したのでした。彼が仕事を終了した時に彼等は彼の衣類を調べで発見した六〇セントを奪ひました。それから銃剣で数回彼を突き刺しました。我々の英国大使館の友人は我々の話を殆んど信用しなかった。彼等は経験が無く、物語を了解することが出来たので可成り和らげねばならなかった。
 然し彼等は自身で可なり怖しい事件に衝き当って直接に体得しました。彼等は英国所属の財産を調査に旅行をして、和平門の、エーピースィー附近でゴルフ打球棒を無理に内部り入れられた一婦人の身体を発見しました。そしてその一部が露出して居りました。

『日中戦争史資料8』P127〜128