強    姦
  

東京裁判 マギー証言(1) 状況

●サトン検察官 それでは日本軍が、南京を占領しました後に、日本軍の婦人及び子供に対する行為はどんなものでありましたか。
●マギー証人 それは先程申しましたと同じ話であります。即ち殆ど信じれないい程恐るべき状態であったのであります。強姦は到る処に於て行はれ多数の婦人及び子供が殺されたのであります。若し婦人が拒絶するとか或は反抗する場合こは、それは突殺されたのであります。私はさう云ふ写真及び活動写真を撮ったのであります。即ちそれに依りますると、婦人が首の所を切られ、若しくは全身に亙って突刺されて居ったのであります。若し其の婦人の夫が妻を助けようとすれば其の夫も亦殺されたのであります。

『日中戦争史資料8』P91




東京裁判 マギー証言(2) 事例

●マギー証人 (略) 或る夕方のことでありますが、午後四時三十分頃でありましたが、私の居りました所に一人の日本兵が入って来まして、其処に居る中国人の妻を強姦しようとしたのであります。其の際、其の中国人の主人は窓から逃げて行ったのでありますが、其の日本兵は明かに其の主人が、其処に逃げて隠れて居ると云ふことを知らなかったやうでありました。
〔英語速記者朗読〕
〔通訳 訂正致します。或る日のことでありまするが、私は四時三十分頃に或る中国人の家に呼ばれて行ったのであります。それは其の家で一人の日本兵が、其処の中国人の妻を強姦せんとして居ると云ふ情報があると云ふことの為に、私は其処に呼ばれて行ったのでありますが、其の際、其の女の主人は、自分の妻を何処かに逃がさうと思って大いに努力したのであります。そして其の家の後尾にあった日本兵が、知らなかった戸口から逃がさうとしたのであります〕
 其の日本兵は其処に入って来た時には、武器を持って居てなかったのでありますが、一応立去って今度帰って来た時には武器を持って居りました。さうして其の婦人の主人を殺したのでありました。其の婦人は私を其の家の裏庭に連れて行って其の夫の死骸を見せたのであります。

『日中戦争史資料8』P91〜92




東京裁判 マギー証言(3) 事例

●マギー証人  (略)私が最初の事件として遭遇致しました強姦事件のことを申しますと、或る日のことでありましたが、私が私の同僚の「フォスター」氏と同行して町を歩いて居ります時に、一人の婦人が駆付けてどうか助けて呉れと云って懇願したのであります。
〔宮本モニター それは暗い夜の中でありました〕
 其の婦人の話に依りますると、夕方の六時頃に其の婦人は拉致されて、自動車に乗せられて三哩若したは四哩の郊外に連れて行かれ、其処で日本兵に強姦されたと云ふことでありました。
〔宮本モニター 三名の日本兵……〕
 彼女は強姦された後に、自分の家の方へ送り屈けられたのでありますが、丁度彼女の家から一哩位離れた所で自動車から逃出して、さうして私共に助けて呉れとに云ふことを懇願したのであります。
〔英語速記者朗読〕
〔通訳 訂正致します。彼女は強姦された後、自分の家に送り返されたのたありますが、其の際自分の家から約一哩位来た所で又、日本の兵隊に依って声を掛けられたので、驚いて私共に助けて呉れと云ふことを言つたので、私共は助けたのであります。丁度其処は私が行かけとして居る場所であったのであります〕

『日中戦争史資料8』P92




東京裁判 マギー証言(4) 事例

●マギー証言 十二月十八日に私は私共の委員会の委員の一人であった「スパーリング(Eduard Spering)」氏と一緒に其の南京の住宅街の方に行かうとしたのであります。其の周囲に於きましては、総ての家に日本の兵隊が闖入して居る形勢でありました。私共が丁度入りました家に於きましては一人の婦人が泣いて居りましたが、彼女は強姦されたのであります。此の婦人の話に依りますと、其の家の三階にまだ日本兵が居ると云ふことでありましたから、私共は上って三階まで行って見たのでありますが、其の時に其の「ドア」は中から閉ぢられて居りました。私共は其の「ドア」を叩き、又、大きな声で怒鳴り付けました。さうして私と同行して居りました「スパーリング」氏も私と一括に上って来て加勢をしたのであります。間もなく中から日本の兵隊が出て来ましたが、其の中には中国の女が二人居りました。
〔宮本モニター 一寸訂正します。其の女を部屋に残して日本兵が外に出て来たのであります〕

『日中戦争史資料8』P92




東京裁判 マギー証言(5) 事例

●マギー証人 (略) 私は十二月二十日に或る一軒の家に呼ばれて行ったのでありますが、其処では約十歳から十一歳位の中国の少女が強姦されたのであります。それで私は其の少女を病院に連れて行きました。さうして私が其処に行ったが為に、三人若しくは四人の日本兵が更に強姦を続けることを防ぐことが出来たのであります。
〔宮本モニター 訂正。中へ三名の日本兵が侵入しようとするのを止めることが出来たのであります〕

『日中戦争史資料8』P92




東京裁判 マギー証言(6) 事例

●マギー証言 (略) 其の病院から私が帰って参りまして、更に他の一軒の家に呼ばれたのでありますが、其処に於きましては、三人の日本の兵隊が二階に侵入しようとして居るのを其処で私が追出したのであります。其処に居りまする中国人が私共に或る一つの部屋を指示致しまして、其処へ行って見ろと云ふことでありましたから、私共入って見ました所が、其処では現に一人の日本兵が強姦をやって居る現場であったのであります。私は其の日本人を部屋から引摺り出し、更に家の中から引摺り出して其の外の小さな道に追出したのであります。
〔宮本モニター 其の女は其の部屋から出て来て……〕
〔英語速記者朗読〕
〔通訳 私は彼を其の家から引摺り出し、其の廻りの小さな通りから外へ追払ったのであります〕

『日中戦争史資料8』P93




東京裁判 マギー証言(7) 事例

●マギー証人 (略) 或る日即ち一月の一日に私は或る「アメリカ」人の家に招待されたのであります。それは新年の「ディナー」の為めであります。私共三人はいつも警戒状態に居りまして、一人絶えず立って居りまして、若し私共の居ります家の前を日本の兵隊が通るやうなことがあれば、直だに駈出して其の兵隊が入って来ないやうに止める必要があったのであります。一月一日に「アメリカ」人が一名やって参りまして、我々を招待致しました。さうして私が言ひました。それは家を明けたくはないと言ひました所が、彼はたった一時間ばかりのことであるから何にも起る筈はないと言ひました。其の場所は丁度若い少女を沢山預かって居る所でありましたが、私共が食事を致して居ります時に、二人の中国人が走って来まして、日本の兵隊が女の子を探しに来て居ると云ふことを告げたのであります。私共は全力を尽したのでありますが、結局二人の中国人が共の被害者となったのであります。其の一人は約三十歳位の婦人、もう一人は若い少女でありましたが、其の三十歳位の婦人の話に依りますと、一人の日本兵が入って来て、銃剣の平たい方の面で押へ付けて其の少女を強姦したと云ふことでありました。
〔宮本モニター 一寸訂正致します。其の三十歳の中国の婦人は少女に手を掛けないやうに敢闘した所、此の日本兵は銃剣の平たい方で彼女の頭を殴りつけて置いて、女を強姦したのであります。其の婦人は私は三十年以上も知って居る友達であります〕

『日中戦争史資料8』P93




東京裁判 マギー証言(8) 事例

●マギー証人 (略)  私共の安全地帯委員会委員長の「ラベー」さんは、或る日、日本の将校と一緒に自分の家に帰られたのであります。「ラベー」氏は自分の家の中に小さな小屋を立てて、其処に約二、三百人の中国人の婦人を匿って居ったのでありますが、「ラベー」さんが日本の将校と一緒に自分の家に帰りました時に、一人の日本兵が小屋の中で現に其処に居る中国の婦人を強姦して居るのを見たのであります。日本の将校はそれを見てどう云ふことをしたかと云ふと、唯其の強姦して居る兵隊に「ビンタ」を与へただけでありました。さうして「ラベー」さんは後程になって斯う云ふ事実があったと云ふことを委員会に報告されたのであります。

『日中戦争史資料8』P94




東京裁判 マギー証言(9) 状況

●一月の三十日以後になりまして、私共に取って又、新しい困難な問題が起って来たのであります。それは日本兵が私共の所に参りまして、私共が匿って居る女を安全地帯へ返せと云ふことを言ったからであります。
〔宮本モニター 安全地帯より其の家へ返せと云ふことであります〕
●サトン検察官 それは何年の一月三十日ですか。
●マギー証人 日本軍は是等の女共が、私共の保護下にあることを望まなかったからであります。私共は己むを得ず其の要求を容れるやうな素振を見せたのであります。即ち私共は私共の匿って居った婦人の団体を解放して、唯其の中で割合に年を食った年長の婦人のみを家に返して、若い娘達は引続き保護するやうにしたのであります。
〔宮本モニター 一寸付加へます。私達は此の安全地帯が日本軍の為に解除されてしまふだらうと云ふ虞があったので、斯う云ふことをしました〕
 さう云ふ周にして年長の婦人を送り帰しました所が、案の条、又、強姦が行はれたので、それ等の女は又、再び私共の懐ろに逃げ帰ったのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。私達が安全地帯で知って居た中国人の女が、強姦され始めたと云ふ情報に再び接しました〕

『日中戦争史資料8』P94




東京裁判 マギー証言(10) 事例

●マギー証人 (略) 私は南市にあります或る一軒の家へ行ったのでありますが、其の家の前で一人の婦人が泣いて居りました。それは彼女の夫が日本兵に依って殺されたからでありますと云ぶことを私は彼女から聴きました。私は其の家の裏庭の方に廻って見ました。其処には其の家の所有主である一人の年取った寡婦が十二歳の娘と七十七歳になるお母さんと一緒に住んで居ったのであります。彼女等の私共に話します所に依りますると、其の寡婦は日本兵に依って連続強姦されたのであります。其の強姦された後、其の家から数回に亙って安全地帯に逃げ出さうと試みたと云ふことであります。其の安全地帯へ行く途中に、其の寡婦と娘とは其の年を取ったお母さんと離ればなれになってしまったのであります。さうして後程になって、お母さんが帰って来ての話に依りますと、其のお母さんは或る家へ連れて行かれて強姦されたと云ふことであります。其のお母さんは先程申したやうに七十七歳の老母であります。其の寡婦が金陵大学(金陵女子文理学院)に帰って来てからの話に依りますと、此の寡婦は度々強姦されたと云ふことでありまして、其の話に依りますと、少くとも十七回から十八回に亙って強姦されたと申して居りました。

『日中戦争史資料8』P94〜95




東京裁判 マギー証言(11) 事例

●マギー証人 (略) 聖書会に属する婦人即ち私共の教会に属して居る「エヴァンジェリスト」の牧師さんであったのでありますが、此の方が約八十歳以上の年取った老母と一緒に住んで居る───七十八歳か七十九歳になる中国人の老母と一緒に住んで居られたのでありますが、其の家へ或る日に、日本の兵隊がやって来て、外へ出ろと云ふ話で、外へ出ますると、其の着物をまくり上げろと云ふ命令を出したのであります。共の老母は自分はもう非常に婆さんだからと言ひました所が、兵隊は直ぐに老母を射殺したのであります。

『日中戦争史資料8』P95




東京裁判 マギー証言(12) 事例

●マギー証人 (略) 一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番(地)の家で起った事件であります。
●サトン検察官 それは何年のことですか。
●マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあったのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住そで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入って来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治って居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮って参りました。約三十名の日本兵がやって来まして入口の所で大きな声で怒鳴ったのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の人の奥さんが少し……
〔宮本モニター 訂正。其の後ろに脆づいて居る男を殺し、又共の妻を殺したのであります〕
 それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立った其の祖母は、其の部屋に行って、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。
〔宮本モニター 追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります
 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居った為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居った為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居ったのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました一歳の少女の脛の中に棒を突込んだのであります。
〔通訳 其の女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまったのでありますが、後程行って見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあったのであります
 其の小さな女の子は更に外の事件を私に話したのでありますが、もう一人「他の一人の女の子供は刀に依って首を斬られたのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分りませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります〕
 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行った時は丁度其の事件が起ってから約六週間後のことでありましたが、到る処に血が散乱して居ったのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持って居ったならば、其の時の血の色の工合をハッキリと写し取ることが出来たらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居ったのであります。
 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行って案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

『日中戦争史資料8』P95〜P96




東京裁判 マギー証人(13) 事例

●マギー証人 (略) 二月の一日に私は私の同僚の「フォスター」氏と昼食を共にして居りました。其の時に中国の一人の少年が飛込んで参りまして、日本の兵隊が女の子を探し廻って居ると云ふ話でありました。
●サトン検察官 是は何年の二月一日ですか。
●マギー証人 一九三八年であります───私共は其の儘飛出しまして、約百「ヤード」程離れた所にある一軒の家に行ったのであります。所が其の入口の戸が閉められて居ったので、私共はそれに体を投付けて、其の「ドア」を破ったのであります。二人の日本の兵隊が寝台の上で十五歳になる娘と一緒に居りました。私共は其の中に飛込みまして、大きな声で吸鳴り付けました。さうすると其の兵隊は非常に驚き、さうして一人の兵隊は「ピストル」と薬莢とを掴んで逃げて行ったのであります。もう一人の日本兵は非常に泥酔して居ったので、私共は其の日本兵を家の外に押出したのであります。私は其の泥酔した兵隊の後を蹤いて行きました。さうすると其処に日本の歩哨が立って居る所に参りましたかを、私共はどう云ふことが起ったかと云ふことを漢字で書いて見せた。所が其の歩哨は唯笑ふだけでありました。其の娘の父の私に申します所に依りますと、其の娘は既に五回に亙って強姦されて居りました。私共が行った時にはもう既に遅かったのであります。二月のことであります。それはハッキリと日附は覚えて居りませぬが、約十五歳になる一人の少女を私は大学の病院に連れて行ったのであります。

『日中戦争史資料8』P97




東京裁判 マギー証言(14) 事例

●マギー証人 私は此の少女を一九三八年の二月頃であったと思ひますが、病院へ連れて行きまして、それから何度も話をし、さうして診察致しました。其の女の子は南京から約六十四哩位の所にあります浦口の者でございました。そこへ日本の兵隊が参りました。彼の女の父は店舗を持って居りましたが、彼の女の兄弟が兵隊であると日本の兵士が無理に申しました。さうして彼の女は、自分の兄弟は兵隊でないと云ふことを申しました。所が其の兄弟の妻が暴行を拒んだので殺されました。又もう一人の姉が、やはり暴行を拒んだので殺されました。其の間、父と母は兵隊の前に脆いて哀願して居りましたが、何れも其の面前で殺されました。
〔小野寺モニター 是等は皆銃剣に依って刺し殺されたのであります〕
 彼の女は気絶致しました。所が何処か分らない営舎に連れて行かれまして、二箇月間監禁されました。最初の月は毎日暴行を受けました。着物を剥が(さ)れて暴行を受けたのであります。其の後彼の女は性病がひどくなりまして、兵隊はそれ以上暴行することを止めました。さうして或る日泣いて居りました所へ日本の一士官が参りまして、どうしたのかと尋ねましたので、其の事情を話しましたら、同情しまして、約六十哩ある南京の金陵大学へ連れて行きました。
〔小野寺モニター 此の日本の士官は、我々が此の金陵大学へ中国の婦女子を匿まって居ると云ふことを知って居ったのでありませう〕
そこで私は彼の女を見付けまして、教会の車で病院へ連れて行きました。

『日中戦争史資料8』P98




東京裁判 マギー証人(15) 状況

●マギー証人 (略) それから一月でありましたか、二月の初めでありましたか、其の当時、私は 「チーシャーシャン」と云ふ南京の城外の十五哩の所へ参りました。其処にはセメント工場がありまして、それは「ドイツ」(人)と「デンマーク」人の共同経営になって居りますが、「ドイツ」の国旗が掲げてありました。此処には約一万の避難者が居りまして、十人乃至二十人の村長格の者が其の周囲を取囲んで居りました。南京に行はれて居ると同じやうな状態が、此処にも行はれて居ったのでありまして、年寄格の───村長格の申しますには、男は此の避難所を出て行くことを恐れて居った。日本の兵隊がやって来て、さうして女を出すことを要求し、聴かなかったならば、それに対して暴行をするとと云ふ状態でありました。

『日中戦争史資料8』P98〜99