南京の人口
国際安全区委員会
第6号文書 (37/12/17)
NEW 第7号文書 (37/12/18)
第9号文書 (37/12/21)
第14号文書 (37/12/27)
第19号文書 (38/1/14)
第22号文書 (38/1/17)
NEW 第23号文書 (38/1/18)
NEW 第24号文書 (38/1/19)
NEW 第26号文書 (38/1/28)

ラーベの日記
11月25日
11月28日
12月 6日
12月 7日
12月 8日
12月10日
12月25日
12月26日
1月17日
NEW 2月12日 ラーベからヒトラーへの電報(37/11/25)

ラーベからジーメンス中国本社へ電報(37/11/25)
NEWヒトラーへの上申書=ラーベ 1 (38/6/8)
NEWヒトラーへの上申書=ラーベ 2 (38/6/8)
ラーベからW・マイヤー(ジーメンス中国本社社長)へ手紙(38/1/14)

シャルフェンベルクの記録(ドイツ大使館南京分室事務局長)(38/1/13)
  南京における戦争被害 L・C・S・スミス(38/6)
同 第1表 調査家族と推定人口(市部地区別)

南京における救済状況 ベイツ(38/2/14)
南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告--一九三八年冬季 ベイツ(38/2/18)
アメリカのキリスト者へのベイツの回状 ベイツ(38/11/29)

東京裁判 マギー証言(1)
東京裁判 マギー証言(2)

東京裁判 ウィルソンの証言

東京裁判 マッカラム日記・手記

東京裁判 許伝音証言


南京市庁編刊「Nanking's development, 1927-1937.P.5」より『首都志』1935年刊行

『南京市政府行政統計報告』 民国24年度(同26年4月刊)

南京市政府(馬超俊市長)が国民党政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡(37/11/23)

文藝春秋 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)

『The National Geographic Magazine』 February, 1938 P223

参考資料




●国際安全区委員会文書

第六号文書

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十七日

南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う

(略)
もし市内の日本兵のあいだでただちに秩序が回復されないならば、二〇万の中国人市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(略)
委員長 ジョン・ラーベ

(ティンパーレー『戦争とは何か・中国における日本軍の暴虐』 付録D:安全区委員会と日本当局との公信より)

『日中戦争史資料9』P128



第七号文書

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十八日

南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う

(略)
当方の補助食料委員ソーン氏(Mr.Sone)(神学教授)は、彼の南京神学院に家族づれで避難していた二五〇〇名の難民をおいて、トラックで米を運ばねばなりませんでした。昨日の白昼、神学院にいた数人の女性が、女・子供で満員の大きな部屋の真中で強姦されたのです!わたわれ二二名の西洋人だけで、二〇万の中国市民に給食し、かつ日夜彼らを保護することはできません。
(略)
委員長 ジョン・H・D・ラーベ

『日中戦争史資料9』P129-130



第九号文書

中国、南京
一九三七年十二月二十一日
南京日本帝国大使館 御中

拝啓
私たちは人道の名のもとに、南京二〇万市民の福祉のために以下の措置がとられるよう嘆願致します。
(略)
3 略奪と放火によって、市の経済活動が停止するにいたり、その結果、全市が一つの広大な避難民収容所と化したという事実を考え、また、国際委員会が二〇万市民に配給する食糧はあとわずか一週間分しかないという事実を考えれば、市民生活の正常な状態を回復する諸措置を直ちに取って頂き、市内の食料と燃料の配給が再び十分に行き渡るようにすることを心から希望致します。
(略)
南京在住外国人一同(二二名の外国人による署名)

(ティンパーレー「戦争とは何か・中国における日本軍の暴虐」 付録D:安全区委員会と日本当局との公信より )

『日中戦争史資料9』P134



第十四号文書

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月二十七日

南京日本帝国大使館 御中
福井氏の配慮を乞う

(略)
十二月十五日正午の会見で、この手紙に対する回答として、貴軍特務機関長は、既に輸送した一万担の米は自由に使用してよいこと、そして他の倉庫にかんしてはその場所を調査し警備にあたる旨を述べたのでした。今日にいたるまで、われわれは市の他の場所へトラックを運行させて貯蔵米を確保する許可を得ておりません。中国軍は一〇万担の米(当方の三万担とは別 に)を南京郊外に保管しておりましたが、その大部分は南京占領のさい貴軍の手中に落ちました。それで、二〇万市民を養うために、前記二万担の米をわれわれが確保することを、許していただけるようお願い致します。
(略)
委員長 ジョン・H・D・ラーベ

(ティンパーレー『戦争とは何か・中国における日本軍の暴虐』 付録D:安全区委員会と日本当局との公信より)

『日中戦争史資料9』 P138



第十九号文書

南京、寧海路五号
一九三八年一月十四日

南京日本大使館 福田篤泰殿
(略)
 貴下が登記した市民は一六万人と思いますが、それは十歳以下の子供は含まれていないし、いくつかの地区では、年とった婦人も含まれていません。ですから、当市の総人口は多分二五万から三〇万だと思います。これだけの人口を普通並の米の量で養うとすれば、一日に二〇〇〇担の米(あるいは一日に一六〇〇袋)が必要となるでしょう。このことから、貴下が提案した三日ごとの一〇〇〇袋というのは、必要な量の三分の一にも足らないことが明らかです。
(略)
南京安全区委員会委員長 ジョン・H・D・ラーベ

(ティンパーレー『戦争とは何か・中国における日本軍の暴虐』 付録D:安全区委員会と日本当局との公信より)

『日中戦争史資料9』P143



第二十二号文書

南京安全区委員会
寧海路五号
一九三八年一月十七日

南京日本帝国大使館御中
福井氏の配慮を乞う
(略)
追伸 今朝この手紙を書いたのですが、その後、昼になって、(1)の点に関しては、日本軍当局が自治委員会に対して米一〇〇〇袋を割当てたこと、その引き渡しが今朝始まったことを知りました。この量 が早急に一日米一〇〇〇袋に増量されて、二五万人の需要をもっとよく満たすことができるようになるものと信じます。
J・R

(ティンパーレー『戦争とは何か・中国における日本軍の暴虐』 付録D:安全区委員会と日本当局との公信より)

『日中戦争史資料9』P145


第二十三号文書

ボイントン氏 上海全国キリスト教総会気付(Boynton,National Christian Council Shanghai)

 住民に定期的に配給できず、食料問題さらに重大化す。十二月十三日以来、二五万人に対し、在庫多量なるもわずか米二二〇〇袋、小麦粉一〇〇〇袋を、売却用として放出せるのみ。
(略)
フィッチ 一九三八年一月十八日午後三時

『日中戦争史資料9』P146



第二十四号文書

一九三八年一月十九日
南京
 アメリカ大使館 アリソン殿
 イギリス大使館 プリドー=ブリュン殿
 ドイツ大使館 ローゼン博士殿

 拝啓
 あなた方は、当市二五万市民に食をあたえるという問題について、それぞれあたたかい関心を寄せてくださいました。
(略)
(1)ほぼ一日あたり二〇〇〇担(一六〇〇袋)の米か同量の小麦粉を定期的に配給する。(大人一〇〇人の一日の普通の消費量を一〇担として、二五万人では二五〇〇担になる。しかし、幼児は一日にそれほどは必要としないであろう。)
(略)
南京安全区国際委員会委員長
ジョン・H・D・ラーベ

『日中戦争史資料9』P146-147



第二十六号文書

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三八年一月二十八日

南京イギリス大使館 H・プリドー=ブリュン殿
(略)
 南京の二五万難民のうちほとんどが、南京市内と近郊で起きた広域にわたる放火のために家を失いました。そして一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が幾千と言わないまでも、幾百とあります。
(略)
 当委員会が救援のためにもっている資金は当然のことながら非常に不十分であります。南京市内に当方の手持ち分として一〇万ドルあり、さらに上海に五万七〇〇〇ドルあります。しかし、この一五万七〇〇〇ドルという金額をもってしても、現在市内にいる二五万人の難民を救うのには焼け石に水であります。
(略)
委員長 ジョン・H・D・ラーベ

『日中戦争史資料9』P149




●ラーベの日記

37年11月25日

 今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれどもここらでもういい加減に安全区が作れるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。

『南京の真実』 P63


37年11月28日

 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。  二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通 りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く」  つまり、ずらかるということだな!

『南京の真実』 P69


37年12月6日

  黄上校との話し合いは忘れることが出来ない。黄は安全区には大反対だ。そんな物を作ったら、軍紀が乱れるというのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。良いですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今そこに逃げ込もうとしている連中を我が兵士たちの役に立てることが出来たのですぞ!」  これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句が告げない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官と来ている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようと言うのか!なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ? (中略)  なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬ よりほか何も役に立たないというわけか!

『南京の真実』 P85〜86


37年12月7日

 城門近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めることになっていたのだ。たった今、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされたという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。
 十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり、中華門の近くに住む人達はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まることころが見つからない。凍え、泣きながら、女の人や子供たちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通 れるかどうかは判らない。

『南京の真実』 P88


37年12月8日

 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人達が街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き上げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬ けに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が上がらないからだ。

『南京の真実』 P89


37年12月10日

それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。 

『南京の真実』 P94


37年12月25日

 難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。
 早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別 された。兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。

『南京の真実』 P143〜144


37年12月26日

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しか持たないだろうとスマイスは言っているが、私はそれほど悲観的には見ていない。

『南京の真実』 P148


38年 1月17日

 昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通 り、イルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ!いったいだれが元通 りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。
 日本軍は安全区から出るようにとくりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。

『南京の真実』 P190


1938年2月12日

 かくして、私はつきあうことになった。すると、信じがたいことがおこった。私がその家に入ったとたん、男の子が生まれたのだ。母親は笑い、赤ん坊は泣き、みなは喜んだ。張のやつめ。またしてもこいつのいうとおりになった。しかも私はこの茶番劇に十ドル払うことになってしまった。お祝いをやらなくてはならないからだ。これが知れ渡ってみろ、破産してしまうじゃないか。なにしろ、町には難民が二十五万人もいるんだからな!

『南京の真実』P249




ラーベからヒトラーへの電報 (上海ドイツ総領事館経由) 37年11月25日

 総統閣下
 末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部党員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたしますものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が危機にさらされることになります。
 ナチ式敬礼を持って。 ジーメンス・南京 ラーベ

『南京の真実』 P62




ラーベからジーメンス中国本社(上海)へ電報 (ドイツ大使館経由)37年11月25日

 ジーメンス・上海へ。ラーベより。十一月二十五日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。二十万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引く受けました。

『南京の真実』 P63




ラーベからW・マイヤー(ジーメンス中国本社社長)へ手紙 38年1月14日

  〜 W・マイヤー社長の1938年1月3日付けの書状に関して 〜
 ドイツ大使館を通じてお手紙いただきまいした。去年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間に合いませんでした。電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。また韓さん一家を始め、中国人従業員は皆オフィスに避難しておりましので、彼らを見捨てることは出来ないと考えておりました。あのときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した国際委員会の代表を引き受けました。現在はここに二十万人もの中国人非戦闘員の避難場所になっています。これを組織するのはかなずしも容易な仕事ではありませんでした。しかも日本から全面 的には承認を得られず、中国上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出すまで部下と共にここに駐留していたために、いっそう困難になりました。
 今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。ところが今度、「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」との命令が日本軍から出されたのです。市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。今のまでのところ、申請は全て却下されています。
 安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ、我々外国人の存在が大勢の人々の禍福を左右するからです。十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。
 ナチ式敬礼を持って     ジョン・ラーベ

『南京の真実』 P183〜184



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 私が七月に発ったときには、南京の人口はおよそ百三十五万人でした。その後、八月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍事顧問はまだ全員残っていました。

『南京の真実』P296



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない六万五千人を、二十五の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千六百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。

『南京の真実』P300




シャルフェンベルク(ドイツ大使館南京分室事務局長)の記録 38年1月13日

【 南京の状況 一九三八年一月一三日 】
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、全て機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館の中だけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通 じていない。
 なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいま誰も住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、彼らはここから出ていくことはできない。

『南京の真実』 P185




東京裁判 ウィルソン証言

 日本軍の南京占領以前、南京の人口は百万ありました。併し占領後市民の大部分は市を去りまして、人口の総計は五十万以下となったのであります。

『日中戦争史資料8』 P21




東京裁判 許伝音証言

○サトン検察官 安全地帯内に居りました中国国民の数はどれ程でありましたか。
○許証人 勿論公式の数字はございませぬが、此の安全区域に居りました人達は二十万から略略三十万二及ぶ程でありました。

【注】 許伝音がみずから書いた宣誓口供書(検証一七三四・法廷証拠としては拒否)には、「大略二十九万の人が安全地区に集って来ました」とある。(洞富雄)

『日中戦争史資料8』 P24




東京裁判 マギー証言(1)

○ブルックス弁護人 日本軍が十二月三十日に、南京に人った時の南京の人口は大体どの位でありましたか、二百万位でありましたか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。十二月十三日に二十万位でありましたか〕
○マギー証人 それは一寸幾ら居ったかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々の委員会の「メンバー」の委員の推定に依りますと、安全地帯には約二十万、或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはモットモット沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。我々委員会で推定した所では、安全地帯に入ったのは少くとも二十万は入ったと思ふ。其の外に安全地帯に来なかった者がどの位あったかは到底推定出来ないと思ふ。けれども三十万は最低の見境りであらうと思ふ。兎に角城外に居った者、市外に居った者がどの位居ったかと云ふことは到底推定出来兼ねる
○ブルックス弁護人 日本軍入城後数週間経った後に、城外に逃避して居た人口が、段々帰って来た訳でありますが、帰って来たことに依って人口は増加して、結局約五十万位になったのではありませぬか。
○マギー証人 (通訳なし)
○ブルックス弁護人 私の申して居るのは一般市民のことであります。
○マギー証人 同市に帰って来たのは五十万とはどうしても言へないと思ひます。二、三の例を除いては、大部分田舎の方へ逃げて行ったのが多いのであります。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。数週間経って城内に帰って来た人は殆どありせせぬでした。二、三人私の知って居るのだ帰って来ましたが、他の人は全部奥地へ逃げたのであります。ですから、数週間経って五十万居ったなどと云ふことは絶対に言へないと思ひます〕

『日中戦争史資料8』 P100〜101




東京裁判 マギー証言(2)

○ブルックス弁護人 私の言ふのは、勿論あなたの御会ひになったのは、二、三人の帰って来た避難民であるかも知れないが、兎も角逃避して居た中国人が沢山帰って来たと思ふのでありますが、其の際に其の帰った避難民の中に、中国の兵士が居たかどうか、其の兵士も便衣を着た兵士が居たかどうかと云ふことを御聴きしたいのであります。
○マギー証人 ……
○ブルックス弁護人 ……
○マギー証人 私は兵隊が帰って来たかどうかと云ふことに付きましては、個人として知りませぬ。
〔小野寺モニター 一寸其の前に、証人から、あなたの仰しゃったのは、私自身が知って居る帰って来た人のことですか、それに対し弁護人から、いや、それと同時に、兎に角あなたの開いたかどうかして知ったことか、斯う言った訳です〕
○ブルックス弁護人 帰って来たのは大部分市民であって、其の中に兵士は殆ど居なかったと言って宜い訳でありますか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。併しながら帰って来た人の中に、必ずしも兵隊が居ないとは言へないのではありませぬか〕
○マギー証人 私はそれを調べる方法を持ちませぬでした。又話し掛けた人で、自分は兵隊だったと言うた人には会ひませぬでした。

『日中戦争史資料8』 P101




東京裁判 マッカラム日記・手記

一月八日
(略)
我々は食物として慮州府産の桃や支那産の「キャベツ」から換へるのを大歓迎することが出来た。良質の「バター」や鶏卵は何んな良い味覚がすることか!! 然し我々は多量の小麦粉・米を所有し、又庭園には未だに萵苣・人参・甜菜が生じて居ります。若し軍部に依って利用されるならば冬中、弐拾万人の人口を養ふに足る充分の米が都市にある筈であらう。

『日中戦争史資料8』 P125〜126




南京における戦争被害 L・C・S・スミス

1.人口
 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12〜13日)の人口は20万から25万であった。我々が3月に行った抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬ ところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ。)
 2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所にすんでいたもので、調査人員の12パーセントに当たる。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31パーセントを占めている。調査の記述によれば建物数のわずか4パーセントがあるだけであり、また城内総面 積のおよそ8分の1にすぎなかった地域に、市の陥落以降、14週もたった後でも、住民の43パーセントが住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持ちを示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している。

『日中戦争史資料9』 P219

第1表 調査家族と推定人口(市部地区別)

地  区
調査した
家族数
調査した
家族の
家族員数
家族員数
平均
家族数
推定合計
家族員数
推定合計

A.城  内

906 
4252
4.7
4,5300
21,2600

 1.安全区

298 
1358
4.6
1,4900
6,7900

 2.難民収容所

114 
550
4.8
5700
2,7500

 3.城 西

115 
544
4.7
5750
2,7200

 4.城 東

55 
232
4.2
2750
1,1600

 5.城 北

51 
243
4.8
2550
1,2150

 6.門 西

126 
631
5.0
6300
3,1500

 7.門 東

103 
451
4.4
5150
2,2600

 8.菜 園

44 
243
5.5
2200
1,2150

B.場  外

43 
171
4.0
21510
8550

 9.下 関

13 
46
3.5
650
2300

 10.中華門外

16 
79
4.9
800
3950

 11.水西門外

14 
46
3.3
700
2300
全 地 区
949 
4423
4.7
4,7450
22,1150

 【 注 】
 12月末から1月末にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約25万であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上まわるものである。中国の半官半民筋はほぼ30万と推定していた。2月・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、おそらくそれは転出者をわずかながら上まわっていた。これもあきらかに重要なことであった。われわれが推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手のとどかぬ人々もあり、また移動中の人々もあった。調査した人員は22万1、150人である。5月31日には市政府公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。1年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市内は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。

『日中戦争史資料9』 P251




『南京における救済状況』一九三八年二月十四日 ベイツ

 日本当局による自宅帰宅者の登録の報告に基づけば、一月に二五万人であったのに対して、現在は一五万人が安全区内に残っている。しかし、帰宅した家族の多くの引き続いての必要から、これらの家族を援助するために、再生委員会(Rehabilitation Committee)の事務所がそれぞれの新設地域に設けられている。

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P173




『南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告----一九三八年冬季』
一九三八年二月十八日 ベイツ(もしくはベイツとミルズ)

 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨な目にあることになった。

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P182




『アメリカのキリスト者へのベイツの回状』
一九三八年十一月二十九日 ベイツ

 現在、南京の人口は事実上四〇万人におよんでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。最近の増加は、大きくは田舎からの難民によっています。彼らのある部分は、南京市からそこへ安全を求めて行ったのが、今はゲリラとそれに対する報復襲撃で危険にされされる後背地となり、そこで彼らは有り金全部(ときには衣服も)を使い果たしてしまったか、あるいは奪われてしまったのです。

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P341




南京市庁編刊 (”Nanking's development, 1927-1937”P.5より)

首都警察部1935年12月発表
    南京の人口101万3320人(男61万838人、女40万2482人、19万5545家族)

『南京大虐殺の証明』 P169




『首都志』P500〜501より 1935年刊行

首都警察概況  
 
1927年  
36万500人
1930年  
57万7093人
1933年  
72万6131人
1935年1月
81万1005人
1935年4月
99万8942人

 

 


   
   
『南京大虐殺の証明』 P169〜170




『南京市政府行政統計報告』 民国24年度(同26年4月刊)

1936年6月 97万3158人

『南京大虐殺の証明』 P170




南京市政府(馬超俊市長)が国民党政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
(37年11月23日)

調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約五〇余万である将来は、およそ二〇万人と予想される難民のための食糧送付が必要である。」(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺』)

笠原十九司『南京事件』 P220




『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)

 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。
 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。

※渡辺さんより提供して頂きました。どうも、ありがとうございます。




『The National Geographic Magazine』 February, 1938 P223
題名:THE RISE AND FALL OF NANKING 著者/写真:Julius Eigner

【本文】
The Bureau of Vital Statistics of Nanking gives the following figures for the 1935-36 period.These figures are all the more interesting because there are scarcely any statistics available in China.
Nanking's total population then was 1,013,320.
The total number of deaths for this period was 17,806, making, roughly, a death rate of 17.6%, while the number of births was 23,148, representing 22.8%.

【訳文・渡辺さん訳】
  1935年から1936年の期間について、下記のような数字を南京人口統計局はあげている。中国には統計がほとんどないので、これらの数字は特に興味深い。
当該期間の南京の総人口は 1,013,320人である。この期間の総死亡者数は 17,806人で死亡率はおよそ17.6%になる。一方、新生児数は 23,148人で(総人口の)22.8%になる。
[訳註]死亡率は 17.6%ではなく1.76%、新生児の割合は 22.8%ではなく 2.28%の誤りと思われます。

※渡辺さんより提供して頂きました。どうも、ありがとうございます。