夏淑琴関連

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夏淑琴証言

少女輪姦殺人事件
----夏淑琴さんの体験----

 夏淑琴さん(五七)は当時七歳だった。九人家族は労働者の父(当時四〇歳、以下年齢はいずれも当時)を中心に、母(四〇)、長姉(一五)、次姉(一三)、妹(四)、末妹(生後数カ月の乳児)のほか、母方の祖父母(いずれも六〇代)がいた。つまり子供は女ばかりの五人姉妹である。一家のいた新路口付近の住居は、六、七家族がひとつの塀でかこまれた図のような長屋で、共通の門をはいるとT字型の中庭の両側にそれぞれの間借り世帯の部屋が並んでいた。

 しかしながら日本軍が南京城に到達したときには、この六、七家族のうち夏さん一家を含め二家族以外は難民区へ避難していた。夏さんの家には九人のほかに伯父夫婦もいたが、この二人も避難ずみだった。残ったもう一軒は隣りの四人家族である。また夏さん一家がなぜ避難しないでいたのかも、七歳だった夏さんには事情がよくわからないが、老人と子供が多いので動きがとれなかったのだろうと想像している。

 一二月一三日(一九三七年)の朝九時ごろ、夏さん一家は朝食がすんでそれぞれの家事をしていた。夏淑琴さんは何とはなしに中庭へ出ていた。

 突然、門の扉をはげしくたたく音がした。隣りのおじさんがとびだしてゆき、観音扉(両開き)のカンヌキをあけようとした。夏さんも父につづいてとびだし、中庭の門の方へ走った。つぎの瞬間、カンヌキがはずされて扉が開き、日本兵が何か日本語で言った。何のことか分からぬままに隣りのおじさんがまごまごしていると、ただちに撃たれて倒れた。かけつけようとした父がこれを見て驚愕し、逃げようとふりかえったとたんに背後から射殺された。

 仰天した夏さんは、家にとびこむと一番奥の部屋に走っていって、赤ん坊以外の姉妹と一緒に四人かたまって寝台にもぐりこみ、一枚のふとんをかぶった。この寝台は蚊帳がついていて、冬でもつりっぱなしにしておく習慣だ。家にとびこむとき夏さんは動転していたので戸も閉めなかった。

 まもなく、家の中へ大勢がはいってくる気配がした。木の床をふみならす皮靴の音やざわめき。ほとんど同時に銃声がした。ふとんの中では見えなかったが、このとき入り口近くにいた祖父が射殺されたのだった。

 その直後、ふとんが剥ぎとられた。日本兵が銃剣の先ではいだのだ。八畳ほどの部屋に日本兵がぎっしり立っていた。寝台の上にかたまる四人の子供をかばおうと、祖母がその前に立ちはだかった。すぐにピストルで撃たれ、祖母の頭から白っぽい脳ミソがとび出すのが見えた。

 そして日本兵は、寝台の上から姉二人を連行しようと手をかけた。恐怖のあまり夏さんは叫び声をあげた。とたんに銃剣で刺された。気絶した。このときは分からなかったが、夏さんは左肩と左脇と背中の三カ所を刺されたのである。そのあとで起こったことは、気絶していたため直接見ることができなかった。

 どれほど時間がたったか、四歳の妹の泣く声で気付いた。夕方になっていたが、外はまだ明るかった。壁ぎわにつくねられたふとんの下で妹は泣いていた。どうやら日本兵が銃剣で蚊帳とふとんを剥いだとき、剥がれたふとんが妹の上にかぶさったものらしい。あたりに日本兵の姿は見えず、静まりかえっていたが、部屋のなかは恐ろしい光景となっていた(第三図)。同じ寝台の一方に、下の姉(一三)が上半身のせて死んでいる。下半身ははだかにされ、両足が床に投げだされた状態だ。寝台の前に祖母の死体。戸口近くに祖父の死体。そして上の姉(一五)は、寝台と反対側の壁ぎわの机に上半身をのせたまま死んでいた。これも下半身はだかにされ、両足が床に投げだされている。母と赤ん坊の姿は見えなかった。姉二人が刺されて殺されたのが撃たれてなのかなどは、外見からは分からなかった。

 夏さんは妹をつれて中庭に這いだした。銃剣で刺されて重傷を負っていながら、あまりのことに動転していて痛みなどほとんど感ずる余裕さえなかった。中庭を這いながら、妹は歩いて、家主の内庭にある防空壕の方へ行った。防空壕といっても、これは地下壕式に穴を掘ったものではなく、頑丈な机を四個ならべて上に戸板をのせ、下に干し草を敷いたていどのものである。日本空軍機による南京市内への無差別爆撃があったため、飛行機の爆音がきこえるとここに避難していた。

 母親と赤ん坊(末の妹)の死体がそこにあった。机をならべた壕のすぐ前に、母はやはりズボンをおろされ、下半身はだかにされて横たわっていた。赤ん坊はそのそばにころがっている。幼い二人は、机の下の干し草にもぐりこんだ。以後二週間ほどをそのまま過ごすことになる。寒いので家からふとんをもってきてかぶった。

 昼間は怖いので机の下からほとんど出なかったが、夜になると家にもどって暗がりで食べ物をさがした。祖父母の部屋に大きな鉄なべがあり、これに焦げ飯の厚い層がついていた。これはわざと焦がしてつくる料理の一種(■巴)で、長もちさせるため避難用とか非常用とかの目的でつくられる。(これがつくられていたことから推すと、この一家も難民区へ避難すべく用意したばかりだったかもしれない。)二人はこれを机の下にもってきては食べていた。水は共同炊事場の大ガメにあった。しかし小さな二人にはカメのなかの水面までとどかないので、箱の類などを置いて踏み台にしなければならなかった。

 二週間ほどたったとき、近所のおばあさんが二人をみつけた。このおばあさんを二人は知らなかったが、剪小巷にある「老人堂」へつれていってくれた。それから数日して、さきに難民区へ避難していた伯父が老人堂へ捜しに現れ、難民区へ一緒に行った。

「殺された家族たちの死体がどうなったのかはわかりません。親の墓さえないので、墓参りもできなくて、今も淋しい思いをしています」

 九人家族のうち七人が殺され、そのうち母と姉二人は輪姦殺人だった事件について、夏淑琴さんは以上のような体験を語った。なお隣りの四人家族は夫婦と子供二人だったが、これも全部殺されたという。

『南京大虐殺の現場へ』P191-196



王芝如と夏淑琴の証言

王芝如(王芝如、女、72歳)と夏淑琴(夏淑琴、女、55歳)の証言
王芝如:日本軍が入ってくる前は、家は少荷花巷でした。中国侵略日本軍が南京で大虐殺をやった時に、我が家で中華門の内新路口の家に留まっていた九人の内、七人殺害されました。小さい女の子が二人残りましたが、七歳のが刺されて傷し、三歳のが脅えておかしくなりました。刺されて傷したこの姪が今は中山門外の竹林新村にいる夏淑琴なのです。
 日本軍が南京を占領した時、わたしは夫に付いて小さい子供二人を連れて難民区へ避難しに行き、父と母と、夫の姉とその主人、それに姪五人とが家に留まっていました。難民区へ着いてから、家にいる者を迎えに夫に戻ってもらうつもりでいたのですが、何とそこに着いたら出て来れなくなったのです。二十何日かして家に帰って見たら、家には死体が七つ転がっていたのです。父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、一番上の姪(二十歳)と二番名の姪(十八歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ殺されていて、七歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、三才の姪が恐さに気が変になっていて、一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです。その時の惨状は言葉ではとても形容できません。夫はそれらの死体を見て狂わんばかりに気忙しく走りまわり、とうとう棺桶を一つ見つけて来て、卍字会が板を四枚下さり、それに家の大きな戸棚を使って、草々に弔い事を片付けたのでした。

夏淑琴:王芝如はわたしの叔母で、今言ったのはみんな事実です。日本軍が中国を侵略した時、わたしたち大きな門の中に二軒の家で住んでいて、一軒が回族で、四人いて、我が家が九人で、合わせて十三人でした。日本軍はほんの十何分かの内に、わたしたち二軒で十一人、お隣の四人と我が家の七人(母方の祖父と祖母、父と母、一番上の姉と二番目の姉と一番下の妹)を銃殺したのです。わたしと妹一人とだけが生き残ったのですが、その時わたしは七歳で、妹は三歳でした。わたしは背中を二太刀突っつかれ、左腕を一太刀突っつかれて、今になっても傷痕が残っています。(孫宝珍と劉順河などが記録)

『この事実を…』P114-115



マギーフィルムの解説文(抄) 英文

9.On December 13, about thirty soldiers came to a Chinese house at #5 Hsing Lu Kao in the southeastern part of Nanking, and demanded entrance. The door was opened by the landlord, a Mohammedan named Ha. They killed him immediately with a revolver and also Mr. Hsia, who knelt before them after Ha's death, begging them not to kill anyone else. Mrs. Ha asked them why they had killed her husband and they shot her dead. Mrs. Hsia was dragged out from under a table in the guest hall where she had tried to hide with her one-year old baby. After being stripped and raped by one or more men, she was bayonetted in the chest, and then had a bottle thrust into her vagina, the baby being killed with a bayonet. Some soldiers then went to the next room where were Mrs. Hsia's parents, age 76 and 74, and her two daughters aged 16 and 14. They were about to rape the girls when the grandmother tried to protect them. The soldiers killed her with a revolver. The grandfather grasped the body of his wife and was killed. The two girls were then stripped, the older being raped by 2-3 men, and the younger by 3. The older girl was stabbed afterwards and a cane was rammed into her vagina. The younger girl was bayonetted also but was spared the horrible treatment that had been meted out to her sister and her mother. The soldiers then bayonetted another sister of between 7-8, who was also in the room. The last murders in the house were of Ha's two children, aged 4 and 2 years respectively. The older was bayonetted and the younger split down through the head with a sword. After being wounded the 8-year-old girl crawled to the next room where lay the body of her mother. Here she staid for 14 days with her 4-year-old sister who had escaped unharmed. The two children lived on puffed rice and the rice crusts that form in the pan when the rice is cooked. It was from the older of these children that the photographer was able to get part of the story, and verify and correct certain details told him by a neighbor and a relative. The child said the soldiers came every day taking things from the house, but the two children were not discovered as they hid under some old sheets.
All the people in the neighborhood fled to the Refugee Zone when such terrible things began to happen. After 14 days the old woman shown in the picture returned to the neighborhood and found the two children. It was she who led the photographer to an open space where the bodies had been taken afterwards. Through questioning her and Mrs. Hsia's brother and the little girl, a clear knowledge of the terrible tragedy was gained. The picture shows the bodies of the 16 and 14 year old girls, each lying in a group of people slain at the same time. Mrs. Hsia and her baby are shown last.

『Eyewitnesses to massacre』 P290-210

 



マギーフィルムの解説文(抄) 石田勇治訳

資料51
添付書類
一九三八年二月一〇日付南京分館報告(文書番号二七二二/一一一三/三八)に添付
内容----マギー牧師の解説書

(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

 このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区へ避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者〔の私〕を、死体が後に持ち去られた広々とした場所を案内してくれた。

 彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

BA−R九二〇八/二二〇八/一四一−一五二

『ドイツ外交官の見た南京事件』P176-177



マギーフィルム解説文(抄) 東中野修道訳

 十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。

 玄関を、@マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、マアの死体に跪いて頼むAシアさん Mr.Hsia をも殺した。なぜ夫を殺したのかとBマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。

 Cシアの妻はD一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、銃剣で胸を刺されて殺された。その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。

 それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻のE七十六歳とF七十四歳になる両親、それにG十六歳とH十四歳になるシアの娘がいた。この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。

 それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。

 それから、兵士たちはもう一人のI七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。

 この家の最後の殺人はJ四歳とK二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註:性別不明)の殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。

 Lその八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせたM四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。

 写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、確認と訂正ができた。

 兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、二人は古い敷布(シーツ)の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。

 このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来るN老女性 the old woman が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋 an open space where the bodies had been taken afterwards に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんのO弟(または兄) Mrs. Hsia's brother と、この小さな女の子にたいする質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』P240-242



マギー日記1月30日(英文)

Jan. 30th
This past week I saw the most terrible sight and heard the most awful story, the truth of which there can be no doubt in its main features as I got it direct from the neighbors and from a little eight year old girl who was in house eastern part of the city when they first entered the city. They killed all the people in the house, thirteen in all, except two children aged eight and three or four respectively, the eight year old with whom I checked the story of her uncle and an old woman neighbor. This little girl was bayonetted in the back and side but was not killed. The dead included an old man 76 and old woman 74, a mother and three daughters, aged 16,14 and 1. Both girls were raped about three times each and then they were all killed in the most horrible fashion, although the an unspeakable way. I have heard of four such horrible cases happening in Nanking, the secretary of the German Embassy telling of one woman having had a golf stick rammed into her body. He said, "It is the Japanese technique." i took a picture of the dead bodies, the mother lying with her one year old child. The little girl said one of the landlord's children, aged one(not the one mentioned as with her mother) had his head split in two by a Japanese sword. The eight year old girl after being wounded crawled to the body of her mother in another room and stayed there with her little sister for fourteen days living on puffed rice and the rice crust left in the cooking pan the Chinese call "Go-ba" and water from the well. Everybody had fled from this area to the safety zone established by the foreigners but they were rescued by an old woman neighbor when she came back fourteen days later. japanese solders kept coming in and then the children hid under some old sheets.

『Eyewitnesses to massacre』 p190



マギー日記1月30日(抄) 加藤実訳

1月30日、日曜日

 この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。その8歳になる子の話すのを、そのおじさんの話や隣の年取った婦女の話と付き合せて、ぼくが確かめたんだが、8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。死んだ人の中には、76歳のおじいさんと74歳のおばあさんに、母親に三人の娘が含まれていて、娘三人の年齢は16歳に14歳に1歳だ。娘さん二人はそれぞれ三回ほど強姦され、それから日本兵が、もっとも残忍でとても口にはできないようなやり方で二人を殺し、1歳の小さな子もいっぺんに刺し殺された。似たようなケースを南京でぼくは、みんなで四件聞いている。ドイツ大使館の書記官が、ある婦女がゴルフのクラブを体内に挿し込まれたと話して、「日本的ナ手法デス」と言っている。ぼくその母親が、1歳の子供といっしょに死んでいる写真を撮った。あの小さい女の子が言うんだが、大家さんの子供たちの一人で1歳の(上に述べた母親といっしょにいた子供ではないが)が、頭を日本兵の刀で二つに割られ、この8歳の子は、傷つけられてから、母親の死体の転がっている別の部屋まで這っていき、そこで小さな妹と14日間いっしょに過ごし、ふやけたお米と、中国人が”コーパ”[Go-ba 鍋巴]と呼んでいるお釜の底に残ったおこげとを食べ、井戸の水を飲んでいた。そこでは、ほかの人たちはみんな安全区に逃げてしまっていたんだ。14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。日本兵が絶え間なくやってきたが、そうするとこの二人の子は、古い敷布の下に隠れたのだった。

『この事実を……2』P328-329



マギー日記1月30日(抄) 笠原十九司訳

 もう一人は、本人ではなく、彼女の一家が惨殺され、戸外に筵をかけて並べられた一〇数体の死体がフィルムに撮影されている。その中に一四歳と一六歳の少女と母親と赤ん坊の死体が写されている。フィルムのキャプションには「老婆が家に戻ると、全家族が虐殺されていた。目撃者によれば、二人の娘は強姦され、体を切り刻まれ、残忍に殺された」とある。この一家惨殺の悲劇から生き残ったのが、当時七歳(中国風の数え年で八歳)の夏淑琴で彼女も南京に存命である(前述の毎日放送記者にこのフィルムを見せられ、自分の家族の惨殺場面であることを確認している)。

 彼女の家は新路口五番地にあった。事件が発生して二週間以上たってから、生き残った七歳の夏淑琴が四歳の妹とともに難民区に連れてこられ、その時にマギーは彼女からこの話を聞き、その現場に行って、戸外に運び出された家族の遺体を撮影したのである。

 マギーは、殺害現場の家の中にいた当の夏淑琴から話を聞き、さらにフィルムに登場する近所のお婆さん(彼女が事件から二週間後に自分の家にもどって夏家の惨劇を発見し、夏淑琴と妹を救出する)や夏淑琴のその時難民区に避難していた叔父からも話を聞き、「私が聞いたうちでも最も恐ろしい話であり、身の毛のよだつ場面だった」とフィルムに撮影したのである。マギーが聞いた惨劇というのは、こうである。

 日本軍が南京城侵入最初の日〔一二月一三日〕、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した※1。これは、八歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。

 この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、七六歳の祖父と七四歳の祖母、母親と一六歳と一四歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それから最も残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒切れを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが、日本兵のやりかたさ」と言った。

 私はこれらの死体を撮影した。母親が一歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの一歳の子どもの死体は、家主の子どもだといった。その子どもは日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた。

 その八歳の少女は重傷を負っていたが、母親の死体がある隣の部屋まではっていき、そこで彼女の小さい妹と一緒に二週間隠れていた。彼女らは家にあったポップ・コーンのようにした米と、鍋に残されていた"鍋巴 グオパ"という焦げ飯ご飯を食いつなぎ、それと井戸の水を飲んで生き延びた。その後も日本兵は時々部屋に入ってきたので、二人は古い布団の中に隠れていた。

 その付近の人たちはみんな外国人が運営する安全区へと逃げてしまっていたが、二週間たって近所のお婆さんがもどってきた時に発見され救出された(「フォースター文書」)。

笠原十九司『南京難民区の百日』P253-255

 ※1 この部分は誤訳であることが判明している。「家にいた者全員、一三名を殺害した」ではなく、「家にいた者」の総計が「一三人」であり、「八歳と三歳あるいは四歳の二人の子ども」以外の全員を殺害したという意味。



マギーのマッキム宛書簡(抄) 英文

As from 99 D.jessfield Road
Shanghai
April 2nd, 1938

The Rev. J. C. McKim
c/o Dr. John W. Wood
281 Fourth Acenue
New York City

I went another time to a house where 11 people had been killed, all of them women and children except three men, one of whom was a 76 year old man. Of the children I remember that one was less than a year old. Only one person was spared, a child of five ( Chinese count ) while a girl of nine was bayoneted in the back and side but recovered. This child's mother was raped and then had a bottle rammed up her vagina. Two daughters of this woman, aged 14 and 16, wer stripped, raped several times apiece and then killed, the older girl having a stick rammed up into [her] in the same barbarous manner as the mother had been treated. Before they were killed their grandparents, aged 76 and 74, who had tried to protect them, had been shot dead. If this awful tragedy had been an isolated event one might say that it was the work of sadists but there have been may authentic stories of such horrors, although this was the worst tragedy that I have personally been brought into contact with.

『Eyewitnesses to massacre』 p199-200

 
 
マギーのマッキム宛書簡(抄) 加藤実訳

上海霞飛路99号
1938年4月2日

マッキム牧師様(Rev. J. C. McKim)
ニューヨーク市、第四大道281号 J. W. Wood 博士気付

それに一度、わたしがある家に行きましたら、そこでは11人殺されていて、男の人3人のほかは、みんな婦女と子供で、そのうちの一人は76歳のおじいさんでした。子供では一人が1歳にも満たない赤ちゃんだったのを覚えています。5歳(中国の数え年)の幼い子一人だけが助かり、9歳の女の子が銃剣で背中と脇とを刺されたのですが、なんとか快復しました。この子の母親は強姦され、それから陰部に瓶が突っ込まれていました。この婦人の娘二人が、14歳と16歳で、衣服を剥ぎ取られ、めいめいなんども強姦され、それから殺されたのですが、上の娘も陰部に棍棒が突っ込まれていて、母親がやられたのと同じ残忍なやり口でした。二人が殺される前に、76歳と74歳の祖父母が、二人を護ろうとして、撃ち殺されたのでした。もしもこの凄まじい悲劇が、それだけ単独に生じた出来事でありましたならば、加虐性変態性欲者のしわざと人が言うかもしれませんが、実際には、そんなにも戦律すべき物語がたくさんあるのでして、これは私が個人的にじかに接触するにいたった、もっとも残酷な惨劇なのです。

『この事実を…A』P343-344



フォスター 夫人への手紙 1月26日 英文

John went today to a house in which fourteen occupants were killed by the soldiers soon after their entry into the city. Eleven were women all of whom had been raped and then killed. The bodies are still there. John has adequate evidence of that.

『Eyewitnesses to massacre』P137



フォスター 夫人への手紙 1月26日 加藤実訳

マギーがきょうある家屋に行ったが、そこに住んでいた14人が、日本軍の入城後まもなく全部殺されたんだ。そのうち11人が婦女で、誰もが強姦されてから殺害された。その人たちの屍がまだそこにあるんだ。マギーにはこれについて、証拠が充分ある。

『この事実を……A』P241



東京裁判 マギー証言(抄)

○マギー証人 (略)
 一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起つたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。
○サトン検察官 それは何年のことですか。
○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の人の奥さんが少し……
〔宮本モニター 訂正。其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります〕

 それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、其の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。
〔宮本モニター 追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります〕

 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の子の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました一歳の少女の膣の中に棒を突込んだのであります。
〔通訳 其の女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります〕

 其の小さな女の子は更に外の事件を私に話したのでありますが、もう一人、他の一人の女の子供は刀に依つて首を斬られたのであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれでも、頭から日本刀で斬られたのであります〕

 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間後のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居つたならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来たらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。
 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

『日中戦争史資料8』P95-96



暴行事件報告第219件(ティンパーリ『戦争とは何か』 附録Cより)

附録C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告

第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕

『日中戦争史資料9』P116



ローゼン報告1938年2月1日

資料42
報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者----ローゼン(南京)
一九三八年二月一日付南京分館第五号
文書番号二七二二/一〇七六/三八
一九三八年一月二〇日付報告第二号(文書番号二七二二/一〇一一/三八)に関連して
写し二
[(一)外務省、(二)写しを漢口、東京、上海、(三)保存]

内容----南京市自治委員会の抱える困難
    打ち続く日本兵の暴行

 当分館通訳に先ほど伝えられたところによると、当地の南京市自治委員会の会長陶錫山氏が辞表を提出した。その原因は、委員会が日本軍からたえず受ける妨害にある。委員会は難民を安全区から他の市区内に連れ戻す問題に漸次的かつ慎重に取り組みたいと望んでいるが、日本軍は暴力に訴え、今月四日には兵士を使って安全区から難民を追放し、その粗末な家屋と売店を破壊させようとしている。

 難民がいまだに〔安全区から〕市内に戻ろうとしないのは、日本兵の暴行が依然として連日起きているせいである。たとえば、ある女性が娘二人と家に戻ったところ、二人の娘は、彼女が強姦に抵抗したさいに日本兵に突き殺された。それで母親はふたたび安全区に戻ってきたのである。

 ラーベ氏の敷地内に避難していた二四歳の女性は叔父の家に食糧を取りに戻り、そこで強姦された。

 先の一月三〇日の日曜日、教会へ向かう途中のラーベ氏は、助けを求める中国人から呼びとめられた。酔っ払いの不埒者から身を守ってほしいというのだ。その酔っ払いは、女性を司法院付近の、棺のなかまで空っぽの空家に拉致し、そこで強姦に及んだのである。ラーベ氏はその兵士を追い払った。

 自治委員会は浴場を再開した。すると日本兵が侵入してきて職員から金を強奪し、そのうち一人に発砲して殺害し、二人を負傷させた。

 ラーベ氏は、皆殺しにあった一三人家族の最後の生き残りである二人の子どもを隣の住民から引き取った。その子たちは、自分の目の前で凌辱され残忍なやり方で殺害された母親の死体のかたわらで一四日間耐え続け、その後、隣人に保護されたのであった。

 こうした状況下では、「わが家で」苦しみ続けるくらいなら、いますぐ安全区で自殺したほうがましだと、多くの難民が言うのも無理はない。

 漢口との郵便連絡が劣悪のため、本報告を外務省に直接提出する。漢口と東京のドイツ大使館および上海ドイツ総領事館は、本報告の写しを確実な方法で受け取る。

ローゼン(署名)

BA−R九二〇八/二二〇八/一九〇−一九一

『ドイツ外交官の見た南京事件』P140-141



ラーベ日記 1月29日(抄)

 マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親戚は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉妹が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。

『南京の真実』P213



東京裁判 許伝音証言(抄)

○許証人 或る時私は南京の南門の東の新開路の第七番に「ミスター・マギー(John G. Magee)さんと一緒に参りました。
〔伊丹モニター 訂正。新開路第七番の或る一家庭に「マギー」さんと一緒に参りました〕

 其の家の中で我々は十一人の者が殺され、三人の者が強姦されて居たのを発見しました。是等の強姦された婦人の中二人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。強姦してから日本兵は是等の女子の膣の中に異物を差込み
〔伊丹モニター 訂正。其の少女のお祖母さんがそれを見せて呉れました〕

 此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れて居るのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放つてあつたのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居つたことがはつきりして居つたからであります※。
〔伊丹モニター 訂正。「マギー」さんの代りに「マギー」嬢になる訳であります。訂正致します。今の「マギー」嬢はやはり「マギー」さん、或は「マギー」氏であります〕

※許伝音はその宣誓口供書で、この新開路の事件について、もっと具体的に、つぎのように記述している。

「十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵<に>凌辱されました。屡屡続けざまに凌辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に凌辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は<れ>たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の『シンカイ路七番地』の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。

 兵隊が戸口に来た時に、年よりの祖父が応待に出ました。彼はその場で射殺されました。七十を超えたその妻は何事がはじまつたのかと思つて見に出て来ました。彼女は自分の夫から数歩の所で射殺されました。彼等の娘が赤ん坊を抱いて出て来ました。兵隊はその母と赤ん坊を二人共殺したのであります。その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に凌辱を受け<た>揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横<た>はつて居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて『ベッド』の血の中に横<た>はつて居たのでありました。五人の他の女も此の家で殺されたのであります。即ち日本兵がその家で見付けた全員が殺されました。一人の少女は家の近くに、皆が殺されて後、一日一晩かくれて居て助かりました。」

『日中戦争史資料8』P29



参考資料

  • 『日中戦争史資料8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行)
  • 『日中戦争史資料9 南京事件2』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月30日初版発行)
  • 『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編著、朝日新聞社
    (1988年12月20日第1刷発行、1991年12月10日第3刷発行)
  • 『南京の真実』ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳、講談社
    (1997年10月9日第1刷発行)
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道、展転社
    (平成10年8月5日第1刷発行)
  • 『この事実を…』侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館編、加藤実訳
    (2000年2月11日第1刷発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)
  • 『Eyewitnesses to massacre 』Zhang Kaiyuan編、M.E. Sharpe
    (2001年刊行)
  • 『この事実を…2』章開元編、加藤実訳、ストーク
    (2006年2月11日初版第1刷発行)