南京の人口・マスコミ関連資料

NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/7)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/8)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/9)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/12)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/12)=ハレット・アベンド
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/17)=ハレット・アベンド
NEW ニューヨーク・タイムズ(37/12/19)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(38/1/9)=F・ティルマン・ダーディン
NEW ニューヨーク・タイムズ(38/1/31)=ハレット・アベンド

A・T・スティールによる報告(37/12/30)

文藝春秋 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)

『The National Geographic Magazine』 February, 1938 P223




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月7日
「敵の侵攻を遅らすべく中国軍抗戦中」

F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月七日、火曜日、南京発。

 湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢一〇から一二歳、軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。
 南京東方の村落はどこも無人の巷と化していた。住民は守備隊に代わられ、公路上には難民があふれている。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P388




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月8日
「南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか」

F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月八日、水曜日、南京発。

 南京防衛軍の司令長官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し、すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可所有者を除いて、禁じられる。
〜略〜
 中国軍による防衛戦内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の広壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。
 南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍の半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。
 本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。
〜略〜
 南京には数万人の難民が雪崩れ込んでおり、安全区委員会は本日、正式に安全区の成立とその完全な非武装化を宣言する予定になっていた。
 本日、高射砲中隊一と多数の軍事機関が安全区から退去した。同地区非軍事化の約束を実行しようという、中国軍の意志をいっそうはっきりと示すものであろう。
 難民はとりわけアメリカとイタリアの大使館周辺地区に群がり、付近の道路は混雑していた。安全区委員会は食糧調達の方面で大きな成果をあげ、いまや二万五千人の貧民に一週間食べさせるのに十分な米を持っている。
 昨日、旗と印で地区の境界標示を取り付けることから、安全区はスタートした。司法行政部、陸軍大学その他の学校など公共の建物は貧民に開放されつつあり、必要とあれば無人の邸宅も接収されるであろう。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P390-391




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月9日
「日本軍の放つ火に囲まれ、山頂で中国兵三〇〇虐殺さる」

F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月九日、木曜日、南京発。

 南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P394




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月12日
「南京城の重防御に攻略軍阻まれる」

F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電。
十二月十二日、日曜日、南京発。

 広間と中庭が連なる迷宮「朝天宮」は、ほぼ十年にわたって兵工廠または軍の集結中枢の役を果たしてきており、最近は周囲の近代的兵舎とともに重要な駐屯軍の中枢、武器庫になっていた。寺院のある丘は市内でも最も人口稠密な地区の中心にあたるが、その一般住民の多くはまた安全区に避難していない。太平路が商業中心である。
〜略〜
 南京の住民は金曜日に比べて緊張も解けパニック状態もなくなっている。日本軍の城内進入撃退によって、中国軍が攻撃軍に十分持ちこたえているということを立証したからだ。現在の気持ちは一種の諦めであって、何千という人々がまだ安全区に避難しているが、彼等の恐怖心を表わさず、いかなる戦禍をも耐え忍ぶ用意があるかに見える。
 下関門(悒江門)は朝方再び明けられ、一日中、自由通行が許された。門は夕方早くにはまた閉じられた。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P401-402




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月12日
「南京城の重防御に攻略軍阻まれる」

ハレット・アベンド
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電。
十二月十二日、日曜日、南京発。

 南京の安全区委員会は金曜日に日中双方に向け、委員会が三〇万の市民に避難所を設け、かつ安全区内からの中国側軍事物資の完全撤去を行うために三日間の停戦をするように求める、哀れなほど空しい提案を行った。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P403




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月17日
「日本軍、三路に分かれ中国軍前線に進撃中」

ハレット・アベンド
12月16日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP)。

 日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないよう努めてきた。一〇万以上の中国人が地内に避難した。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P416




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月19日
「南京における外国人の役割称賛される」

F・ティルマン・ダーディン
上海発 十二月十八日発
ニューヨーク・タイムズ宛無線

 それにもかかわらず、この地域は暫くのあいだ、かなりの規模にわたって非武装地域となり、そのため日本軍もあえてこの地域を砲爆撃する必要性を認めなかった。その結果、一〇万人を超す非戦闘員たちは、安全区の上を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。

 それ弾、損害を与える
 日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。それ弾による死者はほかにも一〇〇人はいると思われる。一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、しの死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P423




『ニューヨーク・タイムズ』1938年1月9日
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」

F・ティルマン・ダーディン
上海十二月二十二日発
ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 しかし、日本軍は安全区を狙って集中砲撃や空襲をしたことはなかったので、そこに避難した市民は、比較的に安全だったといえる。市の西部地区に三、四マイル四方を占める安全区に避難した市民は一〇万人いたものと思われる。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P439




『ニューヨーク・タイムズ』1938年1月31日
「南京の無秩序、収束中との報」

ハレット・アベンド
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
一月三十一日、月曜日、上海発。

 南京から日本側への報告は、南京の情況はそこにいない者の理解を超えるほど困難であることを示している。新聞、ラジオその他すべての外界の事業から切り離され、真夏には人口一〇〇万以上であった町は荒廃し、いまや残っている中国人は二〇万人に満たない。中国人の多くは一文無しで、救済に頼っている。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』




添付書類
一九三七年一二月三〇日付北平分館報告(文書番号二七二二/四三七九/三七)に添付
A・T・スティールによる報告

中国、南京発。

私は、下着一枚にテイルコートという出で立ちで得意げに街頭をうろつく兵士を見かけたが、それはおそらく中国の役人の家からくすねてきたものであった。歩兵銃は壊され、山と積まれて燃やされた。通りには捨てられた軍服と武器、弾薬が散乱した。平時なら、一般市民----まだ約一〇万人が市内にいた----は、そうした値打ち品を奪い合ったことだろう。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P33




『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)

 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。
 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。

※渡辺さんより提供して頂きました。どうも、ありがとうございます。




『The National Geographic Magazine』 February, 1938 P223
題名:THE RISE AND FALL OF NANKING 著者/写真:Julius Eigner

【本文】
The Bureau of Vital Statistics of Nanking gives the following figures for the 1935-36 period.These figures are all the more interesting because there are scarcely any statistics available in China.
Nanking's total population then was 1,013,320.
The total number of deaths for this period was 17,806, making, roughly, a death rate of 17.6%, while the number of births was 23,148, representing 22.8%.

【訳文・渡辺さん訳】
  1935年から1936年の期間について、下記のような数字を南京人口統計局はあげている。中国には統計がほとんどないので、これらの数字は特に興味深い。
当該期間の南京の総人口は 1,013,320人である。この期間の総死亡者数は 17,806人で死亡率はおよそ17.6%になる。一方、新生児数は 23,148人で(総人口の)22.8%になる。
[訳註]死亡率は 17.6%ではなく1.76%、新生児の割合は 22.8%ではなく 2.28%の誤りと思われます。

※渡辺さんより提供して頂きました。どうも、ありがとうございます。

  

参考資料

  • 『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)