南京の人口・安全区委員資料
シャルフェンベルクの記録(38/1/13)
一九三八年一月一三日の南京情勢=シャルフェンベルク(38/2/1)
一九三八年一月二〇日の南京の状況=シャルフェンベルク(38/2/7)

南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日〜一九三八年一月一三日=クレーガー(38/1/13)

目前に迫ったG・フィッチ氏の合衆国講演旅行=アルテンブルク(38/3/3)

南京における戦争被害 L・C・S・スミス(38/6)
同 第1表 調査家族と推定人口(市部地区別)

南京における救済状況 ベイツ(38/2/14)
南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告--一九三八年冬季 ベイツ(38/2/18)
アメリカのキリスト者へのベイツの回状 ベイツ(38/11/29)

東京裁判 マギー証言(1)
東京裁判 マギー証言(2)

東京裁判 ウィルソンの証言
金陵大学病院からの手紙=ウィルソン(37/12/9,12/14)

東京裁判 マッカラム日記・手記
一九三七−三八年冬季の日本軍の南京虐殺に関する報告(マッカラム日記)(38/1/9)

南京における救済問題に関するメモ=フィッチ(38/2/22)

東京裁判 許伝音証言




シャルフェンベルク(ドイツ大使館南京分室事務局長)の記録 38年1月13日

【南京の状況 一九三八年一月一三日】
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、全て機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館の中だけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通 じていない。
 なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいま誰も住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、彼らはここから出ていくことはできない。

『南京の真実』 P185




添付書類
駐華ドイツ大使館(漢口)一九三八年二月一日付報告第六七号に添付
作成者----シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京)
文書番号二七二二/一六一二/三七
一九三八年一月一三日の南京情勢

 南京では、電報、郵便、電話がいずれも不通で、バス、タクシー、人力車も走っていない。水道は止まっており、電気は大使館の建物に通じてはいるが、階上から光が漏れることは許されない。英国大使館にはまだ電気も通じていない。
 交通は途絶えている。なぜなら市の城外地区がすべて中国軍によって、また城内の大部分が日本軍の手で焼き払われてしまったためである。城内にはもはや誰一人住んでいないが、残りの約二〇万の市民は安全区(旧住宅街)に収容され、家や庭でその日暮らしの生活をしている。筵で覆われた大テントに、一張当たり六百人近くが暮らしており、安全区外に出ることも許されない。安全区は保証によって封鎖されている。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P83




添付書類
作成者----シャルフェンベルク(南京)
一九三八年二月七日付駐華ドイツ大使館報告第七六号(文書番号二七一八/一七一五/三八)に添付
一九三八年一月二〇日の南京の状況

 われわれの状況は先週いくらか良くなった。しかし、安全区の二五万人(人数はラーベ委員会の発表による)の難民の状況はひどく悪化している。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P111




外交資料(私的報告)
一九三八年一月一三日付
作成者----クレーガー(南京)
文書番号なし
南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日〜一九三八年一月一三日

日本軍は難民区を承認しなかったが、戦闘中にはこれを尊重したからだ。難民区に加えられた砲撃はごくわずかで、戦闘の犠牲者も非常に少なかった。事実、南京に残った全住民、つまり約二〇万から二五万の人々が難民区に逃げ込んだ。大きな難民収容所に人々を受け入れるための十分な準備がなされた。二か月分の米が運び込まれ、潤沢な資金も自由に使用できた。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P52




報告
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者----アルテンブルク(駐華ドイツ大使館参事官、広東)
一九三八年三月三日広東総領事館
文書番号二三八/八三一/三八
写し三
目前に迫ったG・フィッチ氏の合衆国講演旅行
テーマは「南京における日本兵」

 G・フィッチ氏は、二五万人の中国人難民のための南京「安全区」を管理する国際委員会のメンバーであったが、講演では個人的経験だけを語った。本人が意図したことではなかったが、講演では〔国際
〕委員会のドイツ人メンバーのことや、かれらに信頼を寄せた一般市民を守るために、軍紀の乱れた日本軍兵士に立ち向かったかれらの勇敢な行動について繰り返し言及され、少数ながらも南京で頑張ったドイツ人の存在を示す大変より証拠となった。この講演は、領事代理のケンペ博士も聴いていたが、そのレポートによれば、客観的かつ冷静で印象深いものであった。これを決して残虐宣伝などといって片づけることはできない。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P216




南京における戦争被害 L・C・S・スミス

1.人口
 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12〜13日)の人口は20万から25万であった。我々が3月に行った抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬ ところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ。)
 2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所にすんでいたもので、調査人員の12パーセントに当たる。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31パーセントを占めている。調査の記述によれば建物数のわずか4パーセントがあるだけであり、また城内総面 積のおよそ8分の1にすぎなかった地域に、市の陥落以降、14週もたった後でも、住民の43パーセントが住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持ちを示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している。

『日中戦争史資料9』 P219

第1表 調査家族と推定人口(市部地区別)

地  区
調査した
家族数
調査した
家族の
家族員数
家族員数
平均
家族数
推定合計
家族員数
推定合計

A.城  内

906 
4252
4.7
4,5300
21,2600

 1.安全区

298 
1358
4.6
1,4900
6,7900

 2.難民収容所

114 
550
4.8
5700
2,7500

 3.城 西

115 
544
4.7
5750
2,7200

 4.城 東

55 
232
4.2
2750
1,1600

 5.城 北

51 
243
4.8
2550
1,2150

 6.門 西

126 
631
5.0
6300
3,1500

 7.門 東

103 
451
4.4
5150
2,2600

 8.菜 園

44 
243
5.5
2200
1,2150

B.場  外

43 
171
4.0
21510
8550

 9.下 関

13 
46
3.5
650
2300

 10.中華門外

16 
79
4.9
800
3950

 11.水西門外

14 
46
3.3
700
2300
全 地 区
949 
4423
4.7
4,7450
22,1150

 【 注 】
 12月末から1月末にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約25万であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上まわるものである。中国の半官半民筋はほぼ30万と推定していた。2月・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、おそらくそれは転出者をわずかながら上まわっていた。これもあきらかに重要なことであった。われわれが推定してみたところでは3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手のとどかぬ人々もあり、また移動中の人々もあった。調査した人員は22万1、150人である。5月31日には市政府公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。1年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市内は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。

『日中戦争史資料9』 P251




南京における救済状況
一九三八年二月十四日
ベイツ

  日本当局による自宅帰宅者の登録の報告に基づけば、一月に二五万人であったのに対して、現在は一五万人が安全区に残っているしかし、帰宅した家族の多くの引き続いての必要から、これらの家族を援助するために、再生委員会(Rehabilitation Committee)の事務所がそれぞれの新設地域に設けられている。・・・・・・

 この二五万人の人口を食べさせるためには、一日につき一六〇〇袋の米が必要である。さらに家族の個人的な蓄えが急速に減少しているため、現在の米の配給率はきわめて不適切なものになるだろう。日本軍の入城以来、公式に放出された量はぎりぎり一週間の需要を満たすにすぎない。・・・・・・

 二五万の市民の全年齢層に対して、学校一つもなければ、映画館も戸外でのスポーツもないが、われわれには小学校教育やレクリエーションなどの「贅沢」について、考えることができない。・・・・・・

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P173,177,179




南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告----一九三八年冬季
一九三八年二月十八日 ベイツ(もしくはベイツとミルズ)

 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。・・・・・・

 二五万人の人々の大部分は、密集した、異様な環境のなかで生活しています。なぜならば、安全区は市の城内区域のわずか八分の一ほどの面積しかないからです。これらの家族の多くはその一員を殺されて失っています。多くの場合、彼らの家に静かにしていた人々が、理由もなく殺害されたのです。・・・・・・

 いくつかのセンターの記録を参照にしてM・S・ベイツとW・P・ミルズが準備した。
一九三八年二月十八日

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P182,183,185




アメリカのキリスト者へのベイツの回状
ロイド・トリエスティノ 聖「コンテ・ベルデ」(Lloyd Triestino SS."Conte Verde")
香港近くのマドラスへの道沿いにて
一九三八年十一月二十九日

 しかし、私は大部分の日々、複数の仕事をやっているので、救済以外の仕事もやりました。昨年の十二月、国際委員会は、二五万人の民衆に(相対的に高い安全性を備えた)避難所を提供し、うち七万人を二五の難民キャンプに収容いたしました。後者の難民の多くには食べ物を提供する必要がありました。それは、部分的に秩序が回復して難民の数が漸次減少したとはいえ、五月まで必要でした。これまでに中国通貨で三四万五〇〇〇元が主として食糧に出費されました(春までは一アメリカ・ドルが三・四〇元でしたが、現在は一ドルは六元以上)。・・・・・・

 現在、南京の人口は事実上四〇万人におよんでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。最近の増加は、大きくは田舎からの難民によっています。彼らのある部分は、南京市からそこへ安全を求めて行ったのですが、今はゲリラとそれに対する報復襲撃で危険にさらされる後背地となり、そこで彼らは有り金全部(ときには衣服も)を使い果たしてしまったか、あるいは奪われてしまったのです。・・・・・・

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P340-341




東京裁判 マギー証言(1)

○ブルックス弁護人 日本軍が十二月三十日に、南京に人った時の南京の人口は大体どの位でありましたか、二百万位でありましたか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。十二月十三日に二十万位でありましたか〕
○マギー証人 それは一寸幾ら居ったかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々の委員会の「メンバー」の委員の推定に依りますと、安全地帯には約二十万、或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはモットモット沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。我々委員会で推定した所では、安全地帯に入ったのは少くとも二十万は入ったと思ふ。其の外に安全地帯に来なかった者がどの位あったかは到底推定出来ないと思ふ。けれども三十万は最低の見境りであらうと思ふ。兎に角城外に居った者、市外に居った者がどの位居ったかと云ふことは到底推定出来兼ねる
○ブルックス弁護人 日本軍入城後数週間経った後に、城外に逃避して居た人口が、段々帰って来た訳でありますが、帰って来たことに依って人口は増加して、結局約五十万位になったのではありませぬか。
○マギー証人 (通訳なし)
○ブルックス弁護人 私の申して居るのは一般市民のことであります。
○マギー証人 同市に帰って来たのは五十万とはどうしても言へないと思ひます。二、三の例を除いては、大部分田舎の方へ逃げて行ったのが多いのであります。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。数週間経って城内に帰って来た人は殆どありせせぬでした。二、三人私の知って居るのだ帰って来ましたが、他の人は全部奥地へ逃げたのであります。ですから、数週間経って五十万居ったなどと云ふことは絶対に言へないと思ひます〕

『日中戦争史資料8』 P100-101




東京裁判 マギー証言(2)

○ブルックス弁護人 私の言ふのは、勿論あなたの御会ひになったのは、二、三人の帰って来た避難民であるかも知れないが、兎も角逃避して居た中国人が沢山帰って来たと思ふのでありますが、其の際に其の帰った避難民の中に、中国の兵士が居たかどうか、其の兵士も便衣を着た兵士が居たかどうかと云ふことを御聴きしたいのであります。
○マギー証人 ……
○ブルックス弁護人 ……
○マギー証人 私は兵隊が帰って来たかどうかと云ふことに付きましては、個人として知りませぬ。
〔小野寺モニター 一寸其の前に、証人から、あなたの仰しゃったのは、私自身が知って居る帰って来た人のことですか、それに対し弁護人から、いや、それと同時に、兎に角あなたの開いたかどうかして知ったことか、斯う言った訳です〕
○ブルックス弁護人 帰って来たのは大部分市民であって、其の中に兵士は殆ど居なかったと言って宜い訳でありますか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。併しながら帰って来た人の中に、必ずしも兵隊が居ないとは言へないのではありませぬか〕
○マギー証人 私はそれを調べる方法を持ちませぬでした。又話し掛けた人で、自分は兵隊だったと言うた人には会ひませぬでした。

『日中戦争史資料8』 P101




東京裁判 ウィルソン証言

 日本軍の南京占領以前、南京の人口は百万ありました。併し占領後市民の大部分は市を去りまして、人口の総計は五十万以下となったのであります。

『日中戦争史資料8』 P21




金陵大学病院からの手紙
ロバート・O・ウィルソン医師

十二月九日 木曜日
国際委員会は、その五人のメンバーがこの家に留まっていて、素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果の程ははかばかしくない。日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万人の人々が群がり住んでいる。彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。・・・・・・

十二月十四日
 南京に残留している一五万から二〇万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。・・・・・・

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P276-278




東京裁判 マッカラム日記・手記

一月八日
(略) 若し軍部に依って利用されるならば冬中、弐拾万人の人口を養ふに足る充分の米が都市にある筈であらう。

『日中戦争史資料8』 P125-126



一九三七−三八年冬季の日本軍の南京虐殺に関する報告
一九四二年三月ワシントンDC

(マッカラム日記)
一月九日
(略)もし日本軍が使用を許可するなら、この冬二〇万人用の米は市内に十分あるはずだ。しかし、今後の経済見通しは暗い。生産は皆無で、消費あるのみ。

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P266




南京における救済問題に関するメモ
一九三八年二月二十二日

 しかしながら、南京の秩序は以前よりずっとよくなり、およそ五分の二の人たちが前の安全区外の自宅に戻りつつあり、市はやや平常の様相を呈しつつあると言うことができる。しかし、自分の家に帰りつつあるのは、ほとんどが老人と幼児だけだ。

(「ジョージ・フィッチの公演メモと思われる」編訳者注)

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P189




東京裁判 許伝音証言

○サトン検察官 安全地帯内に居りました中国国民の数はどれ程でありましたか。
○許証人 勿論公式の数字はございませぬが、此の安全区域に居りました人達は二十万から略略三十万二及ぶ程でありました。

【注】 許伝音がみずから書いた宣誓口供書(検証一七三四・法廷証拠としては拒否)には、「大略二十九万の人が安全地区に集って来ました」とある。(洞富雄)

『日中戦争史資料8』 P24

  

参考資料

  • 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行) 1973
  • 『日中戦争史資料 9 南京事件2』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行) 1973
  • 『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『南京の真実』ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳、講談社
    (1997年10月9日第1刷発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)