南京の人口・ラーベ資料
ラーベの日記      
1937年      
1938年      
   

ラーベからヒトラーへの電報(37/11/25)
ラーベからジーメンス中国本社へ電報(37/11/25)
ラーベからW・マイヤー(ジーメンス中国本社社長)へ手紙(38/1/14)
W・マイアー社長の書簡(一九三八年一月三日付)にたいする返事(38/1/14)
南京日本大使館福田篤泰宛、発信者ラーベ (38/1/14)
ヒトラーへの上申書=ラーベ 1 (38/6/8)
ヒトラーへの上申書=ラーベ 2 (38/6/8)




●ラーベの日記

37年11月25日

 今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。ここらでもういい加減に安全区が作れるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。

『南京の真実』 P63


37年11月28日

 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。  二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通 りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く」  つまり、ずらかるということだな!

『南京の真実』 P69


37年12月6日

  黄上校との話し合いは忘れることが出来ない。黄は安全区には大反対だ。そんな物を作ったら、軍紀が乱れるというのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。良いですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今そこに逃げ込もうとしている連中を我が兵士たちの役に立てることが出来たのですぞ!」  これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句が告げない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官と来ている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようと言うのか!なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ? (中略)  なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬ よりほか何も役に立たないというわけか!

『南京の真実』 P85-86


37年12月7日

 城門近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めることになっていたのだ。たった今、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされたという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。
 十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり、中華門の近くに住む人達はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まることころが見つからない。凍え、泣きながら、女の人や子供たちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通 れるかどうかは判らない。

『南京の真実』 P88


37年12月8日

 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人達が街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き上げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬ けに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が上がらないからだ。

『南京の真実』 P89


37年12月10日

それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。 

『南京の真実』 P94


37年12月25日

 難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。
 早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別 された。兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。

『南京の真実』 P143-144


37年12月26日

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しか持たないだろうとスマイスは言っているが、私はそれほど悲観的には見ていない。

『南京の真実』 P148


38年 1月17日

 昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通 り、イルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ!いったいだれが元通 りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。
 日本軍は安全区から出るようにとくりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。

『南京の真実』 P190


1938年2月12日

 かくして、私はつきあうことになった。すると、信じがたいことがおこった。私がその家に入ったとたん、男の子が生まれたのだ。母親は笑い、赤ん坊は泣き、みなは喜んだ。張のやつめ。またしてもこいつのいうとおりになった。しかも私はこの茶番劇に十ドル払うことになってしまった。お祝いをやらなくてはならないからだ。これが知れ渡ってみろ、破産してしまうじゃないか。なにしろ、町には難民が二十五万人もいるんだからな!

『南京の真実』 P249




ラーベからヒトラーへの電報 (上海ドイツ総領事館経由) 37年11月25日

 総統閣下
 末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部党員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたしますものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が危機にさらされることになります。
 ナチ式敬礼を持って。 ジーメンス・南京 ラーベ

『南京の真実』 P62




ラーベからジーメンス中国本社(上海)へ電報 (ドイツ大使館経由)37年11月25日

 ジーメンス・上海へ。ラーベより。十一月二十五日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。二十万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引く受けました。

『南京の真実』 P63




ラーベからW・マイヤー(ジーメンス中国本社社長)へ手紙 38年1月14日
<同一資料>

  〜 W・マイヤー社長の1938年1月3日付けの書状に関して 〜
 ドイツ大使館を通じてお手紙いただきまいした。去年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間に合いませんでした。電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。また韓さん一家を始め、中国人従業員は皆オフィスに避難しておりましので、彼らを見捨てることは出来ないと考えておりました。あのときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した国際委員会の代表を引き受けました。現在はここに二十万人もの中国人非戦闘員の避難場所になっています。これを組織するのはかなずしも容易な仕事ではありませんでした。しかも日本から全面 的には承認を得られず、中国上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出すまで部下と共にここに駐留していたために、いっそう困難になりました。
 今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。ところが今度、「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」との命令が日本軍から出されたのです。市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。今のまでのところ、申請は全て却下されています。
 安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ、我々外国人の存在が大勢の人々の禍福を左右するからです。十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。
 ナチ式敬礼を持って     ジョン・ラーベ

『南京の真実』 P183-184




書簡
シーメンス中国本社上海取締役会宛、発信者----ラーベ(南京)
一九三八年一月一四日付
文書番号一二/九七九
W・マイアー社長の書簡(一九三八年一月三日付)にたいする返事
<同一資料>

 電報でのお問い合わせにお答えしましたとおり、私はここ南京に発足した、難民区設立のための国際委員会の代表を引き受けました。この難民区は、二〇万の中国の市民にとって最後の避難場所となりましたが、その設置は容易ではありませんでした。なにしろわれわれは、中国軍指導部が南京脱出の寸前まで区内にとどまっていたために、日本軍の全面的な承認を得ることができなかったのです。
(略)
 私たちの委員会はこれまで、難民区内にひしめく二〇万人の住民、炊き出しや米、小麦粉の配給所を設けるなどして養ってきました。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P96




書簡
南京日本大使館福田篤泰宛、発信者ラーベ
(南京安全区国際委員会委員長、寧海路五番地、南京)
一九三八年一月一四日付
文書番号二七二二
<同一資料>

 私たちは、貴方が一六万人の住民を、一〇歳以下の子どもと、いくつかの地区では年配の女性を含めずに登録したことを承知しています。したがって、市内にはおそらく二五万から三〇万人の市民がいるでしょう。この人口を通常の米の量で養うためには、一日二〇〇〇担〔約一〇〇トン〕の米(一日一六〇〇袋の米)が必要になります。三日に一〇〇〇袋というご提案は、本来必要な米の量の三分の一にも満たないことが明らかです。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P100




ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 私が七月に発ったときには、南京の人口はおよそ百三十五万人でした。その後、八月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍事顧問はまだ全員残っていました。

『南京の真実』 P296




ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない六万五千人を、二十五の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千六百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。

『南京の真実』 P300

  

参考資料

  • 『南京の真実』ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳、講談社
    (1997年10月9日第1刷発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)