「 虐 殺 」 命 令

■ 一般市民虐殺命令 ■

福田治夫 第16師団歩兵第9連隊 第2大隊
野田典吾 第16師団歩兵第33連隊 連隊本部
安藤猛治 第16師団歩兵第33連隊 大隊砲
大川護男 第16師団歩兵第33連隊 大隊砲
外山武雄 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
鬼頭久二 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南泰吉 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
小沢小次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
徳田一太郎  第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
町田義成  第16師団歩兵第33連隊 第3大隊
吉川定国  第16師団歩兵第33連隊 第1機関銃中隊
依田修  第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊
中田清次 第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊
山田忠義  第16師団歩兵第38連隊 第3機関銃中隊
吉川克己  第6師団歩兵第45連隊 第1大隊
内村和郎  中部第38部隊第2碇泊所

 

■ 無差別掃蕩命令 ■

田中次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
松田脩一 第16師団歩兵第38連隊 第1大隊
小沢小次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
徳田一太郎 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
朝倉正男 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
上西義雄 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
井上益男 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
小田利吉 第16師団歩兵第33連隊 第3大隊
後藤忠信 第16師団歩兵第33連隊 第3大隊
境昌平 第16師団歩兵第33連隊 第3大隊某中隊本部付き
河田義一 第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

参考資料


■ 一 般 市 民 虐 殺 命 令 ■


福田治夫(1915年10月生まれ)
第16師団歩兵第9連隊 第2大隊

 一週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。聯隊で下がりました。そこは夜でもうっかり寝てることできませんのやで。子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。二人とか三人とかの百姓を捕まえてきて、「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して地形を聞いて、後は殺してしまうんです。クリークの縁に連れ出して、そこに座らせました。将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りをするんです。私ら兵隊は突き殺しました。鉄砲の弾できるだけ使うなと言われてました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P173




野田典吾(1915年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 連隊本部

 上海の白茆口に上陸した時すぐ松井石根大将が、この地方は共産党思想が強いのであらゆる者は殺せと指示したと聞きました。その時、野田聯隊長がそれを聞いてだめだと言ってました。十七日の入城式は朝香宮が南京に入ってこられましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P77




安藤猛治(1915年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 上海から南京までの間には、共産党が多かったんで、あんまりいい命令は出なんだな。「見付けしだいにやっちまえ」ちゅうようなことでな。じかに聞いた話ではないけども、そんなふうに感じたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P208




大川護男(1916年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 駐屯してからな、慰安的な女の子をさがしてきたこともあったな。その場でやったな、その時分は少々悪いことしても、後でわかったらいかんというので、殺してしまやいいんや、自分らが悪いことしたら殺してしまえと部隊の中で言ってる者がいた。反日の思想が強いので全部殺してしまえという部隊があったと聞いている。その証拠に武器なんか隠してるかちょっとおかしかったら家を全部焼いてたわな。上海から南京に行くまで、自分らはいつも後方部隊やから、燃え落ちた後の部落を通った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P325




外山武雄(1914年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 上海の近くで敵前上陸して南京に向かったな。途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので大変やった。工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。南京へ攻めていって、揚子江でたくさんの死体が流れていくのを見たな。女や子どもも入っとるやろね。いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。ただ上から「男見たら殺せ」と命令されたことだけはよう憶えとる。南京へ行くまでに、常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が出ていたな。部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。あるいは「人見たら殺せ」とな。何しろ、喰うか喰われるかの戦争や。うっかり見逃したら、こっちがやられるからな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160




鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271




南泰吉(1913年7月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 行軍が早くてどんどん進むもんでね。部落は日本軍が火をつけて焼けてますやろ。上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中でそりゃもう、部落をどんどん焼いてました。放火分隊って、上陸の時はうちの中隊もありましたな。中隊長があの部落焼いてこいって。家の中には、住民が隠れていてますわな。それを殺さなならんのですわな。それで兵隊嫌がってましたな。その命令が出ると。おると殺さないかんのです。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302




沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。だから北支は戦争しにくかったです。
 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314




徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京に向かう途中どこの戦闘だったかは忘れたけれど、部落があってあそこに共産党がいるということで、上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」と命令してきたんです。それで部落に火を点けるとな、後ろから煙が上がってきました。その中から「オギャーオギャー」と赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P135




町田義成(1913年生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 昭和十二年八月松、大召集を受けて、九月に久居を出発し、大阪港から出航しました。
 九月、十月、十一月は河北の戦闘で韓家頭や八里荘で初めて戦闘を体験しました。
(略)
 韓家頭ではやられたので、部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出ました。それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。これこそと攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。粗末な一軒の農家の中のアンペラがコソコソと動くのでめくり上げると、四十歳位の妊婦が二人の幼児を両脇にだきしめて隠れていました。コノーと引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後にしがみついている。母親はもう一人の子をクリークの中につっこんだ。××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で三人を撃ち殺してしまった。その時は気がたっていたというか、女子どもなのにひどいことをしました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P56-57




吉川定国(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1機関銃中隊

 私ら行った時は白茆江やったかな。弾飛んで来えへんかったということは敵おらへんかった。上陸の時命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで。家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも放火班があったで。十人ぐらいで火をつけたけども常熟の前やったか、一日ぐらいで止めた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P69




依田修(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口という所に着きました。そこでは敵前上陸で、そこからどんどん追撃して南京まで行ったんです。その時、私は上からの命令文を見ました。「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。その命令は白茆口を上陸する前日に出たんです。
 当時、大連で船に乗った時はもう内地に帰れるかなぁと思っていました。でも、なかなか日本に着かないなぁと思っていると上陸の命令が来たんです。「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と言う命令でした。
 (略)
 上陸してから常熟で一晩泊り、翌日の出発前に家を全部焼き払いました。民家の中のタンスやらを積んで火を点けたら全部燃えましたな。結構広い部落が全部燃えました。そうしたら、後方部隊が来るようになったので「家を焼くな」という命令が再び出たんです。それは無錫の手前でした。その命令は小隊長から聞きました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P95




中田清次(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。白茆口へ上陸した時です。「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」とも言いました。私も上陸してから露営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな。「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるとこがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫からは焼くのはやめました。
 中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。それが問題になったわけです。反日運動が盛んやとは聞いてましたけど、「徹底抗戦」とか「抗日」とか白壁に書いてました。南京に行くまでの至る所に書いてましたな。「日本悪鬼」って書いてましたな。
 命令授与で「風紀・軍紀厳正」という命令はいつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時にはあんまりやかましく言われませんでした。
 日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州戦の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P343-344




吉川克己(1913年12月生まれ)
第6師団歩兵第45連隊 第1大隊

 兵隊も民間人も同じような服装をしていたから区別できませんでした。みんな灰色やら黒やらの服を着て、百姓の格好をしているんですわ。実際やられた者もおりましたし。普通の格好していても、何を持っているかわかりませんからね。南京にくる途中で女の兵隊をつかまえたという噂も耳にしました。とにかく「人をみたら敵と思え」と言われていました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P116




山田忠義(1914年7月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第3機関銃中隊

 無錫の時は雪で道がぬかるんでね。それで聯隊の被害が大きかったです。敵の抵抗があってね、それで聯隊長がカーッと頭にきたんですね。せやから民家を全部焼いてしもてね。そしたら部隊が寝る所がなくなって苦情が出たんです。
 夜襲もありましたよ。敵は一般民衆の服装してるからわからへんのですわ。どれが兵隊やら普通の人やらね。せやから男と見たら兵隊と思えちゅうことでね。せやから南京でも虐殺や言うてますけどね……。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P188




内村和郎(1915年10月生まれ)
中部第38部隊第2碇泊所

 戦いはもう市民も女も子どもも考えていないもん。もうめちゃくちゃやもん。「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、隊長が言うとったとその時、南京にいた歩兵から聞いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P251






■ 無 差 別 掃 蕩 命 令 ■


田中次郎(1908年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 十二月十四日、揚子江岸で捕虜を千二百人いっぺんに処分しました。日記に書いているように惨いことでした。処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。(略)捕虜剔出には人数を数える暇なく、どんどん捕まえました。捕虜といっても中国服を着た男ばっかりでしたよ。掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と上部の命令として言われていました。直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か大隊長が発したのだろうと思っています。実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなどしませんでした。おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P83-84




松田脩一(1913年8月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第1大隊

 南京の和平門に着いた。門が閉まっていて野砲がどんどんと砲を撃った。抵抗がやんだので縄梯子で登った。中にいた敗残兵が、次々と手を挙げて出てきました。大隊長は「切れ」という仕草をして両手を振り下ろしました。命令ですのでみんなで突き殺しました。門を入ると捕虜を集めていました。捕虜は、固まってこちらに十五、六人、あちらにまた十五、六人とたくさんいました。それを集めていましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P182




沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 「人間だったら全部殺せ」の感じでした。家の門の所とかは女や子どもはいなかった。皆ずっと奥の方に避難しているので、そんなにいなかったんです。だから女や子どもの死体はあんまり見ませんでした。でも男はとにかく捕まえました。その処理はどこの部隊がどんなふうにしたのか分からないけど、まず揚子江の入り江で銃殺したと思います。「捕虜は処分しろ」という命令は直接聞いてないけれど、処分したという想像はできますね。南京に入るまでにはこっちも相当やられましたしね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314




徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 十二月十三日南京陥落後の翌日、朝八時頃に南京の太平門に入りました。そこで十四日、十五日と二日間警備をしましたな。入った日の前々日の攻撃で死んだ死体がそのまま放ったらかしてありました。
 松井司令官の命令で各師団長に、師団長から各中隊長に伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで勝手にやってはならんからな。当時分隊長が「男は皆殺してしまえ!」と言って話は覚えていますよ。そして南京に入ってから「外国権益のある所は絶対入るな」と注意されました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P130




朝倉正男(1915年3月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 陥落してから、二日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぼんと銃でやってしまうこともあった。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P221




上西義雄(1914年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 捕虜の処分は師団命令です。実際に私ら兵隊に命令を下したのは、中隊長で、「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。どのぐらいの人数を殺したか、数は分かりません。一日にだいたい、一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを処分しました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P230



井上益男(1915年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京の手前で中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐに掃蕩に入った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P300




小田利吉(1913年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

紫金山を二晩ぐらいして、十三日の払暁、北から下りて。私ら自身は南京城内で駐屯しとらんが。城外の防衛やった。下関という記憶はある。その日のうちに下関へ警備みたいな状態でいった。
 城内の記憶はないということもないな。城内のどの辺りだったかは分からん。それは二日ほどで、十五日ぐらいに下関へいった。
 その時起きたのが、やかましゅう言われる南京大虐殺というやつやな。あれは、十六師団、中島師団が関係しておるというかちになっておるな。これは大事な問題や。
 その時、兵隊と良民というものが区別つかんので、「おかしな者は皆殺せ」という、上からの指示は確かにあった。ところが、殺すにも、向こうがそんなことしているのを見たら殺せるけども、何でもない者は殺せんわ。それでも、なんていうのか、部隊命令で「おかしな者は一か所に寄せよ」と。そしてこうやってガーッと寄せて、そしてもう三百人〜四百人の単位があちこちあった。他の部隊が殺すのも見た。
 「撃て」ちゅう指示が出たな。これは確かや。「おかしな者」というのは区別がつかんから、寄せたわけ。撃つともうベターッと倒れているから、当たったか当たってへんかわからん。
 掃蕩戦は、二日ほど南京におって、すぐ下関から外へ出て、外回りの警備に入ったわけ。城内掃蕩にも参加ということになるやろ。隠れている者がいるからというので、「家のなかにいるから気をつけよ」という命令があったことは事実なんや。
 はっきりした命令ではなくて、「『おかしな奴は集めて殺してしまえ』と言われてるで」というて、一か所に集めて機関銃中隊が殺したのもあった。確かにおかしのがいたことは事実や。私自身もそういう目に遭うてる。手榴弾が不発やったんだが、窓から放られて。それは常熟、無錫と上がってきてから、そういうゲリラ的なものがあったな。あれはもう、何というか、中国の人民も非常に抗日がきついというか。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P145-146




後藤忠信(1914年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 敗残兵の処理は、連れてきて、捕虜収容所へ入れとるもんな。収容所は下関にありましたでしょ。倉庫……、下関の港の倉庫やでさぁ、大きいですなぁ。自分の分隊でも処理しとったんでしょうな。上官の命令でな。いや、その場では私らねぇ、手ぇかけて殺したっていうこと……。まぁとにかく、男は生かしとくなっていうことはよう聞いてはおりましたけどなぁ。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P219




境昌平(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊某中隊本部付

悒江門には土嚢に馬と人間の死体が混じっていた。土嚢や死体を除けて通ったね。南京の掃蕩は、どこから出た命令かは知らないが「十六歳から六十歳までの男はみな連れてこい」という命令があったね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P224




河田義一(1915年1月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 私らは小銃中隊の兵隊と一緒に入城しました。小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを目撃しました。男はみんな捕まえてましたな。でも、私ら重機関銃隊はそんなことをしてません。
 実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」という命令が私ら第三機関銃中隊に来てましたけれど、各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P236


参考資料

  • 『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環(編著)、社会評論社
    (2002年8月15日初版第1刷発行)