中支那方面軍高級指揮官の人事考課
eichelberger_1999氏の投稿

 以下に提示するデータ分析そのものは、「南京大虐殺の証明」に直接つながるものではさらさらありませんが、このような人事がなされたことは、陸軍中央が中支那方面軍の統帥に対してきわめて辛い評価を下していたことを示すと考えてまちがいないと思われます。


 日中戦争の初期、ほぼ同じ頃に中国で戦闘活動に従事した日本陸軍には、華北の北支那方面軍と華中の中支那方面軍の二つがありました。中支那方面軍が活動していた時期(37.8〜38.2)の、それぞれの師団長以上(方面軍参謀長、旅団長などで中将以上の指揮官を含む)の顔ぶれは以下のとおりでした。

 なお、北支那方面軍には、内モンゴルで作戦を展開した関東軍のチャハル兵団(東条兵団)とその後身である駐蒙兵団を含めています。 すべて階級は中将以上であり、士官候補生の期数と当時の階級、役職、その後進級または予備に編入された年月を()内に記しておきました。

◎北支那方面軍(含む駐蒙兵団)の高級指揮官(中将以上)

  • 北支那方面軍司令官(37.8〜38.2)
      寺内寿一(11、大将35.10、37.8北支那方面軍司令官、43.6元帥)
  • 同参謀長
      岡部直三郎(18、少将34.8、37.8北支那方面軍参謀長、37.11中将、43.2大将)
  • 第5師団長
      板垣征四郎(16、中将36.4、37.3第5師団長、41.7・大将 )
  • 第109師団長
      山岡重厚(15、予備中将35.8任官・37.3予備、37.8第109師団長、39.1召集解除) 
  • 支那駐屯混成旅団
      山下奉文(18、少将34.8、37.8支那駐屯混成旅団長、37.11中将、43.2大将)
  • 臨時航空兵団
      徳川好敏(15、中将35.8、37.7臨時航空兵団司令官、39.8予備)
  • 第1軍司令官(37.8〜38.2)
      香月清司(14、中将33.3、37.8第1軍司令官、38.7予備)
  • 第6師団
      谷寿夫(15、中将34.8、35.12第6師団長、39.9予備)
  • 第14師団
      土肥原賢二(16、中将36.3、37.3第14師団長、41.4大将)
  • 第20師団
      川岸文三郎(15、中将35.8、36.12第20師団長、39.12予備)

  • 第2軍司令官(37.8〜38.4)
      西尾寿造(14、中将33.8、37.8第2軍司令官、38.8大将、43.5予備)
  • 第10師団
      磯谷廉介(16、中将36.12、37.3第10師団長、39.12予備)
  • 第16師団
      中島今朝吾(15、中将36.3、37.8第16師団長、39.10予備 )
  • 第108師団
      下元熊弥(15、予備中将34.8任官・37.8予備、37.8第108師団長、38.6召集解除)
      
    関東軍チャハル兵団・駐蒙兵団・駐蒙軍
  • 関東軍参謀長
      東条英機(17、中将36.12、37.3関東軍参謀長、41.10大将44.7予備)
  • 独立混成第1旅団
      酒井鎬次(18、中将37.8、37,3独立混成第1旅団長、40.1予備)
  • 独立混成第11旅団
      鈴木重康(17、中将36.12、36.3独立混成第11旅団長、38.12予備)
  • 駐蒙兵団
      蓮沼蕃(15、中将35.8、37.12駐蒙兵団司令官、40.12大将45.11予備)
  • 第26師団
      後宮淳(17、中将37.8、37.10第26師団長、42.8大将)

  
◎中支那方面軍の高級指揮官(37.8〜38.2)(中将以上)

  • 中支那方面軍司令官
      松井石根(9、予備大将33.10任官・35.8予備、37.8上海派遣軍司令官、38.10中支那方面軍司令官、38.3召集解除)
  • 上海派遣軍司令官
      松井石根
      朝香宮鳩彦王(20、中将33.8、37.12上海派遣軍司令官、39.8大将、45.12予備)
  • 第3師団
      藤田進(16、中将36.8、37.8第3師団長、41.1予備)
  • 第11師団
      山室宗武(14、中将36.3、37.8第11師団長、41.1予備)
  • 第9師団
      吉住良輔(17、中将37.8、37.8第9師団長、39.12予備)
  • 第13師団
      荻洲立兵(17、中将37.3、37.9第13師団長、40.1予備)
  • 第101師団
      伊東正喜(14、予備中将34.8任官・37.8予備、37.9第101師団長、39.4召集解除)
  • 第16師団
      中島今朝吾
  • 第10軍
      柳川平助(12、予備中将31.12任官・36.9予備、37.10第10軍司令官、38.3召集解除)
  • 第6師団
      谷寿夫
      稲葉四郎(18、37.8中将・騎兵集団長、37.12第6師団長、41.12予備)
  • 第18師団
      牛島貞雄(12、予備中将31.8任官・35.3予備、37.9第18師団長、38.7召集解除)
  • 第114師団
      末松茂治(14、予備中将34.3任官・37.3予備、37.10第114師団長、39.3召集解除)

これをまとめると、次のようになります。

◎北支那方面軍の高級指揮官
 方面軍司令官1、軍司令官2、兵団司令官1、参謀長2、師団長9(内2は中支那方面軍へ)、独立混成旅団長・航空兵団長4:計19人
 現役大将1、現役中将16、予備中将2:計19人、現役率17/19(88%)

◎中支那方面軍の高級指揮官
 方面軍司令官1、軍司令官2、師団長10:計13人(内2は北支那方面軍から転入)、
 予備大将1、現役中将8、予備中将4:計13人 現役率8/13(61%)

 両方面軍の高級指揮官たちが、その後どの程度出世したのかをみてみましょう。予備役だとほぼ進級の余地がないので、現役の中将、大将の進級ぶりを見ます。

 北支那方面軍では、現役の大将1人がのちに元帥となり、中将8人が大将に進級しています。9/17ですから進級率は53%。途中で中支那方面軍に転出した2人は、大将に進級していないので、これを控除した、純粋に北支那方面軍傘下指揮官をとれば、9/15すなわち60%にあがります。なお、駐蒙兵団等を分離した純北支那方面軍だけをとっても、6/10(60%)、ちなみに駐蒙兵団等は、3/5(60%)となります。
(元帥:寺内寿一、大将:西尾寿造、蓮沼蕃、板垣征四郎、土肥原賢二、東条英機、後宮淳、山下奉文
、岡部直三郎)

 いっぽう、中支那方面軍では、現役中将8人のうちその後大将にまで進級したのは、わずか1人です。1/8、すなわち進級率は12.5%にとどまります。
 北支那方面軍に比べこの差は有意といわざるをえません。

 中支那方面軍で唯一大将に進級したのは、皇族の朝香宮鳩彦王(上海派遣軍司令官)のみ。皇族ですので戦場での功績による進級とはいえません。大将に進級できなかったので、朝香宮以外の7人はすべて中将のまま予備役に編入されました。100から進級率を引いた87.5%が予備役編入率となります。

 次に両軍の予備役編入者をリストにすると、以下のとおりです。△はノモンハン事件による予備役編入と見なしたほうがよい人事です。

○北支那方面軍
   38年中予備編入2(香月、鈴木重)
   
39年中予備役編入3(川岸、△磯谷、徳川)
   40年中予備編入1(酒井)

○中支那方面軍
   38年中予備役編入0
   39年中予備役編入3(谷、中島、吉住)
   40年中予備役編入1(△荻洲D)
   41年中予備編入2(山室、藤田、稲葉)

 皇族を除いて一人も大将に進級する者がいなかったのですから、高級指揮官クラスの人事考課をみるかぎり、大激戦の上海・南京戦を戦い、敵の首都を陥落させる大功績をあげたはずの中支那方面軍に対する、陸軍中央の評価はかなり辛かったことがわかります。
 これが何に由来するのかは皆さんのご想像にまかせましょう。中支那方面軍で最初に予備に編入されたのが、第6、9、16師団すなわち南京攻略戦の主力師団の指揮官であったことは大いに示唆に富みます。

 最後にめでたく大将に進級できた朝香宮ですが、彼はどうやら干されていたのではないかと思われます。彼のその後の経歴を士官学校で同期であった兄弟の東久邇宮と比べるとそのことがよくわかります。同い歳の2人の陸軍内での昇進はそれまでまったく同じように進むのですが、日中戦争以降に微妙に変わってきます。

東久邇宮稔彦王:
士官候補生20期、 1933・8中将・第2師団長、 34.8第4師団長、 35.12軍事参議官、 37.8兼航空本部長、 38.4第2軍司令官、 39.1軍事参議官、 39.8大将、 41.12兼防衛総司令官、 45.4軍事参議官、 45.8内閣総理大臣

朝香宮鳩彦王:
士官候補生20期、 1933.8中将・近衛師団長、 35.12軍事参議官、 37.12上海派遣軍司令官、 38.3軍事参議官、 39.8大将、 45.12予備)

 1933年の段階では、朝香宮が近衛師団長で、東久邇宮は第2師団長。この配置から、ここまでの軍人としての部内評価は朝香宮のほうが上だったはずだと考えてまずまちがいないでしょう。
 だからこそ、日清戦争以来40年ぶりの皇族の外征軍の軍司令官就任の話も、東久邇宮でなくて、朝香宮のところにいったのだと考えると、よく納得できます。
 ところが、朝香宮は凱旋後は軍事参議官という名誉はあるが、実質的には何の権限もない職についたまま、ついにその軍歴を終えます。上海派遣軍司令官を拝命した時点で彼はまだ満50才ですから、老け込む年齢ではありません。
 いっぽう、同い年の東久邇宮は入れ替わりで第2軍司令官となり、武漢作戦に従軍します。彼の率いる部隊はもとの上海派遣軍の構成師団(3D、13D、16D)を含んでいました。
 その任務をすませたあと、2人とも仲良く大将に進級し、軍事参議官となりますが、わかれめは太平洋戦争を前にしての防衛総司令官(内地の陸軍の総司令官)に朝香宮ではなくて、東久邇宮がなった点です。
 ここで、陸軍内の評価が1933年時点とでは、はっきりと逆転しているのがわかります。この2人に対する評価のちがいは、もちろん中国での軍司令官としての統率ぶりに対する評価の差に由来するとみても、大きな間違いとはならないでしょう。

 ちなみに南京攻略戦に参加したのは、以下の部隊でした。

上海派遣軍:
第3師団先遣隊(歩兵第68聯隊)、天谷支隊(第11師団の歩兵第10旅団基幹)、第9師団、第13師団、第16師団の3ヶ師団半

第10軍:
第6師団、第18師団、第114師団、国崎支隊の3ヶ師団半。

 以上のうち、天谷支隊、第13師団主力(欠山田支隊)、第18師団、国崎支隊は南京城内には入っていません。

 それ以外の第3師団主力(欠第66歩兵連隊)と第101師団は上海から蘇州、無錫方面にとどまります。
 さらに第11師団(欠天谷支隊)と重藤支隊は12月初旬に第5軍の指揮下に入り、台湾へ移動。広東作戦中止後、重藤支隊は上海方面へ転じ、第11師団は内地に帰還しました。
 また、国崎支隊は12月末に第5師団に編入され、青島へ。翌年1月に第16師団、2月に第114師団が北支方面軍の戦闘序列に編入されます。


(この文章はeichelberger_1999氏のものです。氏のご好意により掲載させていただきました)



誤記訂正 2005年6月30日