中国軍の数

中国側資料
・国民党第3戦区作戦経過概要 南京会戦
憲兵司令部 在京抗戦部隊之戦闘詳報
劉斐「抗戦初期的南京保衛戦」 国民政府軍事委員会 軍令部第1庁(作戦)庁長
宗希濂「南守城戦」 第78軍軍長兼第36師師長
譚道平「回憶一九三七年唐生智衛戌南京之戦」 南京防衛司令長官部 参謀処第1科科長
欧陽午 「南京保衛戦側記」 第78軍 第36師 第108旅 第216団 第1営営長
杜聿明「南京保衛戦中的戦車部隊」 陸軍装甲兵団司令
将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部抗日禦侮 第三巻」

 

日本側資料
・飯沼守陣中日誌 上海派遣軍参謀長 少将
・中沢三夫手記 第16師団参謀長 大佐
・佐々木到一私記 第16師団 佐々木支隊長 少将
・三好捷三『上海敵前上陸』P226(図書出版社,1979年)

NEW 東京朝日新聞 昭和十二年十二月十一日 朝刊 (一面)
・NEW 東京朝日新聞 昭和十二年十二月十一日 夕刊 (一面)

参考資料



国民党第3戦区作戦経過概要・南京会戦

12月初、南京守備軍約十五師強
(中国第二歴史档案館編『抗日戦争正面戦場 上』江蘇古籍出版 P415 1987年)

『南京大虐殺の証明』 P248




憲兵司令部 在京抗戦部隊之戦闘詳報

(撤退時に)10余万の大軍が長江岸に雲集・・・・悒江門から10余万の大軍が退出した。
( 中国第二歴史档案館編『抗日戦争正面戦場 上』江蘇古籍出版 P433 1987年)

『南京大虐殺の証明』 P248




劉斐「抗戦初期的南京保衛戦」
国民政府軍事委員会 軍令部第1庁(作戦)庁長

蒋介石は可能な限りの兵力を南京防衛に動員し、合計10余万人に達した
(中国人民政治協商会議全国委員会・文史資料研究委員会『南京保衛戦』中国文史出版社 P11 1987年)

『南京大虐殺の証明』 P248




宗希濂「南守城戦」 第78軍軍長兼第36師師長

(当初の七万人前後に加えて)3個軍の実戦兵力計約4万人前後を新たに増加し、南京防衛の総兵力は約11万余人になった。
(中国人民政治協商会議全国委員会・文史資料研究委員会『南京保衛戦』中国文史出版社 P233 1987年)

『南京大虐殺の証明』 P248




譚道平「回憶一九三七年唐生智衛戌南京之戦」
南京防衛司令長官部参謀処 第1科 科長

一二月八日・・・・・ここにいたり、南京防衛に参加した部隊はすでに一〇万人ほどに達した。
(中国人民政治協商会議江蘇省委員会 『江蘇文史資料選輯 第一六輯』江蘇古籍出版 P27 1985年)

『南京大虐殺の証明』 P248




欧陽午「南京保衛戦側記」
第78軍 第36師 第108旅 第216団 第1営営長

(南京外囲陣地と南京複廓陣地の)両戦線に配備し、合計兵力約十一万人、二〇万人と公称した
(中国人民政治協商会議江蘇省委員会『江蘇文史資料選輯 第一六輯』江蘇古籍出版 P99 1985年)

『南京大虐殺の証明』 P24




杜聿明「南京保衛戦中的戦車部隊」 陸軍装甲兵団司令

南京防衛の十余万の将士は、蒋介石の投降主義のため、不必要で報われない犠牲となった。
(中国人民政治協商会議全国委員会・文史資料研究委員会編『文史資料選輯 第一二輯』中国文史出版社 P39)

『南京大虐殺の証明』 P249




将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部・抗日禦侮 第三巻」 P104

“第八章野戦戦略” 十一月二十六日に唐生智上将を南京防衛司令長官に任命し、上海から撤退して南京に来た約十四個師(すべて残存部隊)の兵力を指揮させ、南京を守らせた。

『南京大虐殺の証明』 P249




飯沼守陣中日誌 上海派遣軍参謀長 少将

〔十二月十七日〕
(前略)  今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約二十コ師十万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及び第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込みなるも未だ調査完了せす。 (略)

『南京戦史資料集2』 P159




中沢三夫手記 第16師団参謀長 大佐

“敵の兵力、敵に与へたる打撃” (基本部隊は)計八−九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八−九万。以前(上海派遣軍)軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ20師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か10師分ある故二−三千と見て二,三万、総計十−十二(三−原文)万の守備兵力なるへし。
(「第16師団関係綴」(防衛庁防衛研究所戦史部所蔵) 第16師団参謀長中沢三夫大佐手記)

『南京大虐殺の証明』 P249




「佐々木到一少将私記」
第16師団 歩兵第30旅団・陸軍少将18期

◇一月五日
  査問会打ち切り、此日迄に城内より摘出せし敗残兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を捕虜として収容。
 城外近郊に在って不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於いて処分するもの数千に達す。
 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる。

『南京戦史資料集1』 P276




三好捷三『上海敵前上陸』(図書出版社、1970年) P226

 こうして日本軍は、各方面より進出して南京の百キロ圏内にせまり、その包囲網を圧縮していったが、同時に南京の中国防衛陣も急激に整備されていた。このときの南京の周辺に配置展開していた中国軍の兵力は約三十五万といわれていた。

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東京朝日新聞 昭和十二年十二月十一日 朝刊 (一面)

【上海十日發同盟】 焦土抗戦を豪語して南京城を死守せんとした支
那軍第八十七師、第八十八師、教導総隊の約三萬
は十日午後一時
半を期して行われた総攻撃僅か二時間にして早くも動揺崩壊の色を現
し、我が軍は一斉に累壁の敵を撃破し城内に突入したが、敵は尚も
家屋を盾に執拗なる抵抗を試みて居り炎々たる猛火に包まれた城内
は銃砲銃声街路に谺し凄愴を極めてゐる

[引用者註] 笠原氏は、八七師第二六一旅旅長からの聞き取りとしてこのように述べている。
「当時国民党軍の一旅は七〇〇〇の兵員からなり、戦闘兵が五〇〇〇人、運送などにあたる後勤部隊が二〇〇〇人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。」 [『南京大虐殺の研究』(晩聲社、1992年)笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」P.256]
なお、八七師、八八師など、通常は2旅から成り、教導総隊は3旅ある他に、砲兵団、騎兵団などから成る。

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東京朝日新聞 昭和十二年十二月十一日 夕刊 (一面)

敵兵十萬籠城す
死物狂ひの防衛強化
(途中省略)
【上海十日發同盟】外人方面の情報によれば南京衛戍司令唐生智は
昨九日午後二時各国大使館に対して残留外国人の即時避難撤退を要求
午後五時に至るや、下関に通ずる城門を固く鎖し城内
と城外を連絡する電信電話を一切断ち斯くて城内十萬の敵
は完全に籠城状態に陥つた。

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参考資料

  • 『南京戦史資料集 1』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 『南京戦史資料集 2』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)

  • 『南京大虐殺の研究』編者洞富雄・藤原彰・本多勝一、晩聲社
    (1992年5月1日初版第1刷発行)