埋葬関係資料
ジョン・ラーベ日記
1937年12月16日
      12月26日
      12月28日
1938年 1月 5日
       1月 7日
       1月12日
       1月21日
       1月26日
       2月 7日
       2月15日
ミニー・ボートリン日記
1938年 1月20日
       1月26日
       1月29日
       2月 2日
       2月15日
       2月16日
       2月25日
       2月28日
       4月 2日
       4月 6日
       4月15日
       4月22日

国際安全区委員会
 第四号文書(Z6)
 第六号文書(Z9)
 第十七号文書(Z28)

南京救済国際委員会報告書

東京裁判 ベイツ証言
「南京における救済状況」ベイツ 1938/2/14

一九三七年一二月八日から一九三八年一月一三日までの南京における出来事に関する、あるドイツ人目撃者の報告=ラーベ
W・マイアー社長の書簡(一九三八年一月三日付)にたいする返事=ラーベ 1938/1/14
ヒトラーへの上申書中の講演草稿=ラーベ 1938/6/8
ラーベのヒトラー宛て報告書

宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙=フォスター 1937/12/28

在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録 1938/2/10

南京分館の執務再開、南京の状況=ローゼン1938/1/5
南京の状況=ローゼン 1938/3/4
南京ドイツ人財産の運び出し=ローゼン 1938/3/7
一九三八年四月下旬の南京情勢=ローゼン

現在の状況に関するメモ=スマイス 1938/3/21

東京裁判 マッカラム日記及び手記 1938/1/7

東京裁判 フィッチ宣誓口供書

ウィルソンの家族への手紙 1938年3月7日

アルバート・N・スチュワードの日記 1938年12月11日

東京裁判 判決
東京裁判 検察側最終論告
東京裁判 許伝音証言(検察側立証段階)

東京裁判 許伝音宣誓口供書
東京裁判 紅卍字会報告(検察側証書)

南京特別市政府衛生局 六月分事業報告書抄録
南京市衛生局抄報 草鞋峡の農民、金国鎮の死体埋葬報告書 一九三八年

ゼイ芳縁・張鴻儒・楊広才が中華門、花神廟一帯における日本軍の市民集団虐殺を陳述した証言文

占領下南京三か月の記録=蒋公穀 1938/2/13

衆志復善堂の埋葬について

南京特務機関の報告 一九三八年二月
南京特務機関の報告 一九三八年三月

昭和13年4月16日『大阪朝日新聞』北支版 『南京便り』第5章

東京裁判 中沢三夫口供書(個人弁論段階)

梶谷健郎日記 12月26日

紅卍字会12月28日埋葬に関する洞富雄の見解

 

埋葬表
紅卍字会埋葬統計表
崇善堂埋葬活動一覧表
南京衛生局埋葬隊
紅十字会第1隊埋葬表
紅十字会第2隊埋葬表






崇善堂
崇善堂の成り立ち
崇善堂埋葬隊の構成
南京市崇善堂難民区内埋葬工作従事者一覧表
高瑞玉(高瑞玉、男、80歳)の証言
崔金貴(崔金貴、男、70歳)の証言
南京市崇善堂埋葬活動一覧表
南京市崇善堂報告書《南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表》付属文書
崇善堂埋葬隊隊長周一漁が南京市自治委員会に宛てた書簡
崇善堂堂長周一漁が補助金請求のため江蘇省振興委員会に出した報告書抄録
南京市崇善堂堂長周一漁の陳述記録
長生慈善会主席舒敦甫が補助金支給を要求して南京市政監督公署に出した報告書
南京市慈善団体概況(二十四年度)
南京市政公署補助慈善団体情形表
南京市慈善団体調査表
埋葬隊の組織、二十七年半年度掩埋露棺屍体及修理バイ墓統計表
南京市社会事業団体一覧表(昭和十六年末調)
南京市公益慈善団体一覧表



◎ジョン・ラーベ日記

(1937年)
十二月十六日

 下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通 部は中国人の手で焼きはらわれていた。ユウ江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯 は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会が手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。

『南京の真実』 P121

十二月二十六日 十七時

 そこいらじゅうに転がっている死体、どうかこれを片づけてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を十日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。

『南京の真実』 P146

十二月二十八日

 フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。
(略)
このときとばかり私は福井氏に、十二月十三日に射殺された中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。

『南京の真実』 P151〜153

(1938年)
一月五日

 またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。

『南京の真実』 P167

一月七日

 南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。

『南京の真実』 P169

一月十二日

 南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。

『南京の真実』 P176

一月二十二日

 竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。しばっていた縄が切れて、竹の担架が二メートルほど先にころがっただけだ。いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと望んでいる。だがその一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。もうこれ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。ただ、ときどき、あの兵士が死んだまま、まだこの世にいることを思い出すことにしよう。

『南京の真実』 P198

一月二十六日

 中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。

『南京の真実』 P205

二月七日

 紅卍字会の使用人二人に案内されて、午前中、ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原にいった。ここは二つの沼から中国人の死体が百二十四体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げこまれたのだ。近くのもうひとつの沼には二十三体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。

『南京の真実』 P236

二月十五日

 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。

『南京の真実』 P254




◎ミニー・ボートリン日記

(一九三八年)
一月二〇日 木曜日

 中国赤十字会のG氏の話では、彼は、一月一七日、米を手に入れに出かけたさい、漢中路の外側に男の死体が堆く積まれているのを目撃した。付近にいた人たちが言うには、一二月二六日ごろ現場に連行されてきて、機関銃で射殺されたそうだ。登録のさいに、かつて兵士であったことを告白すれば、労務要員として賃金を支払ってもらえるという約束で、おそらく、事実を認めた人たちなのだろう。

『南京事件の日々』 P127

一月二六日 水曜日

 廃墟からの帰還、知り合いの女性に出会った。彼女はわたしに、楊□の池に多数の死体があることを知っているか、と尋ねた。そのことは多少聞いているので行ってみたい、と答えると、同道しよう、と言ってくれた。しばらくして彼女の夫に出会い、彼が、わたしとわたしの使用人を案内してくれることになった。わたしたちは問題の池を見つけた。黒焦げになったたくさんの死体が岸辺に転がり、燈油かガソリンの空き罐二缶 が死体に混じっていた。死人の両手は、背中のうしろで針金を使って縛られていた。死体が何体あるのか、また、最初に機関銃で撃たれ、そのあと焼かれたのかどうかはわからない。だが、そうであればよいと思う。これ以外にも焼け焦げた死体は、西側の小さいほうの池におそらく二〇体ないし四〇体あった。履いていた靴のなかには兵士の靴ではないものもあり、それらは一般 民間人の靴のようだった。焼かれていない死体が丘陵地全体に見られる。

『南京事件の日々』 P137〜138

一月二九日 土曜日

 ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ−クラブに行くと言ってきかなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は二〇〇〇体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬してほしいと懇請した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。

『南京事件の日々』 P143

二月二日 水曜日

 この訪問のあとにわたしは紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体----とりわけ、二つの池の岸に放置された焼け焦げ死体のことを伝えた。〔南京〕占拠以来、紅卍字会は一〇〇〇体を超える死体を棺に納めてきたのだ。

『南京事件の日々』 P151

二月一五日 火曜日

 南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ三万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、きょうの午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまった−−−−渡河しようにも船がなかった−−−−という別 の情報を聞いた。何とかわいそうに。

『南京事件の日々』 P170

二月一六日 水曜日

 五時から六時の間にY・G・厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁にわたしのところへやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対ない、などと、どうしてそんなことが言えようか。

『南京事件の日々』 P172

二月二五日 金曜日

 きょうの午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこでわたしは、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員がいまも追われている場面 を目撃した。むしろにくるまれて壕のなかに置かれた、というよりは引きずり込まれた死体だ。臭気がとてもひどいので、いまでは作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。

『南京事件の日々』 P184

二月二八日 月曜日

 兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の一人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。

『南京事件の日々』 P188

四月 二日

 きょう、紅卍字会だけで、一月二三日から三月一九日までに三万二一〇四体の死体を埋葬し、そのうち三分の一は民間人の死体であったという報告が作成された。

『南京事件の日々』 P240

四月六日

 国際委員会は救済事業を推進している。二〇〇人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

『南京事件の日々』 P240

四月一五日

 紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた----彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八〇パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三河の地域は含まれていない。

『南京事件の日々』 P240

四月二二日

 金陵大学の馬文煥(音訳)博士が訪ねてきた。彼と彼の家族は、およそ五カ月にわたって農村地域で避難生活を送ったが、強姦、殺害、放火、掠奪が同地ですべておこなわれた。くわえて地方の警官が逃げたあとでは匪賊に苦しめられるという辛い、悲痛な体験をした。(中略)彼は、長江河岸にそって膨大な数の死体が埋葬されない恐ろしい状態で現在も放置されたままであり、いまでも多くの死体が長江を漂って流れていると、確証にもとづく話をした。

『南京事件の日々』 P240





第四号文書(Z6)

特務機関長との会見の覚え書
 一九三七年十二月十五日正午、交通銀行において。
 通訳 福田氏。(会見は機関長による一方的言明であって、何ら質問も話し合いもおこなわれなかった。それは十二月十四日付のわれわれの手紙にたいする回答であった。手紙は当日の朝、福田氏に手渡され、日本軍隊長に提出されたものである。)
(略)
8 われわれは労務者の確保を切望している。明日から市内の清掃をはじめる。委員会は援助されたい。賃金は払う。明日、一〇〇人ないし二〇〇人の労務者を必要とする。
(略)
南京安全区国際委員会書記
(署名) ルイス・S・C・スミス
会見に出席した委員会のメンバー
委員長 ラーべ氏
書記 スミス博士
監査 スパーリング氏

『日中戦争史資料9』p.123-124




第六号文書(Z9)

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三七年十二月十七日
南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う
(略)
 この回答にもとづき、当方は警官に進んで職務につくことをすすめ、当方から日本軍将校に事情を説明したから住民はこれでよい待遇をうけることになると彼らに保証し、また米の移送をはじめました。ところが、西洋人が乗車していないトラックが路上に出ると、必ず徴発をうけております。火曜日の朝、紅卍字会(当委員会の指示に従って仕事をしている団体)がトラックを出して遺体を収容しようとすると、トラックが奪われたり奪われる寸前の破目になったりしており、昨日は一四人の労務者が連行されました。 当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる死後は正規の警察官----昼夜兼行で部署についていた----よりも大きいように見えました。)これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカウトといったようなものでした。十四日に当方の四台の消防自動車が日本兵によって徴発され、輸送用に使われました。
(略)
委員長 ジョン・ラーベ
(略)

『日中戦争史資料9』p.125-126




第十七号文書(Z28)

南京
一九三八年一月七日
南京日本大使館 福田篤泰殿
(略)
 当委員会は主として救援組織であり、いや救援組織に過ぎないと言ってもよいでしょう。それも、戦争の被害を受けた住民の世話をするという特殊な目的のために作られたものです。いたるところで被災者の状態がきわめて悲惨なために、同情や憐れみをひき起しているということが認められています。同様な目的の委員会がこの危機状態のなかでいくつかできており、そのひとつの上海委員会に対して、松井大将は自ら一万ドルの寄付をされ、これによって、日本軍最高当局はこのような委員会の活動に対し賛意を表明されました。
 当委員会に寄付された資金と物資は、特に前述したような目的のために使用することを委任されたものですから、なおさらのこと全力をつくして、この信頼にそわねばならないという義務があるように思います。ですから、当委員会の資金や物資を他の委員会に譲るべきではないと思います。当委員会は、現在、紅卍字会や赤十字会と協力してやっているように、他の組織と喜んで協力して救援活動をしていくつもりです。しかし、物資の活用については、当委員会が全面的に責任を負うべきです。貴下もこうした立場が理にかなったものであることをきっとわかって下さると思います。
 さらに、当委員会の資金や物資は、実際の需要に比べれば非常に少ないと言えます。当委員会にできることは、せいぜいほんの補い程度にすぎず、さらに大きく適切な計画を自治委員会の方で進めてくれるものと、私も希望しています。現在、紅卍字会および赤十字会がやっていることと同じように、当委員会にできることはわずかですが、自治委員会は当委員会や先にあげた二つの組織のどれよりもはるかに多くの仕事をすることを信じています。日本軍当局が、現在以上に自治委員会と協力して、難民に食物や燃料を供給することも希望します。たとえそうなって、全機関が努力を結集したところで、ほとんど必要には追いつかないでしょう。
(署名) 委員長 ジョン・H・D・ラーべ

『日中戦争史資料9』p.139-140



南京救済国際委員会報告書

Report of The Nanking International Relief Committee
W. Work Relief
Period T
Appropriations were made in the form of cash plus some wheat, for wages of workers on approved projects. The direct expenditure on work relief in money was $7,662 of which only $158 was used for field staff and servants, and less than 3 per cent for materials. Several of the larger projects were in the form of subsideies to other organizations or institutions, with which they provided the supervision and materials, subject to the International Committee's approval of detailed budgets and its inspection at will. For example, $2,540 was used to complete the necessary burial enterprises undertaken by the Red Swastika Society, which covered over 40,000 bodies otherwise uncared for During some 40 working days, this employed nearly 170 men. On this and a number of other work relief jobs, forty cents per day of actual work was taken as the standard wage. Other important projects included over $1,500 in sanitary and street cleaning work under the Committee's own management of casual labor; $1,430 in grading undertaken by the Univercity of Nanking; some hundreds each in dyke work labor on farms otherwise uncultivated, road repair, and the transport and cleaning of the Committee's large purchase and distribution of wheat.
Over 18,000 wage-days were paid for in cash, representing approximately the employment of 720 men for a month. The Committee would have been willing to expend more in work relief if it had been able to securre the time and any of sufficiently competent managers, within or without its own organization. However, it must be recognized that in a situation of general distress for an emergency period, work relief is relatively costly and gives direct benefit to a small number of people unless vast public resoures are available.

『Eyewitnesses to massacre』 p.426-427

太字部分の訳:たとえば必要な埋葬事業の全てが紅卍字会によって行われ、放置されたままの遺体四万体以上が片付けられたが、その埋葬完了のために二五四〇ドルが使われた。実働約四十日間に紅卍字会はおよそ一七〇人を雇った。この仕事や他の多くの救済活動の仕事は実働一日あたり四〇セントの標準賃金で請け負われた。(『「南京虐殺」の徹底検証』 p.313)




東京裁判 ベイツ証言 第三十六号(昭和二十一年七月二十九日)(抄)

●サトン検察官 日本軍が、南京を支配し始めて後に於ける日本軍の対中華民国民衆の態度は如何でありましたか。
●ベーツ証人  あなたの質問が非常に範囲が大きいので何処から始めて宣いか分りませぬ。自分自身全然理由もなく民間人の個人が銃殺された事件を数々知って居ります。又、中国人で私自身の家から連出され射殺された者もあります。私の隣人の家では彼等の妻が強姦されたので、二人の男が驚いて起きました所、私の家の庭の角にある池の先きで二人とも射殺されました。
(林モニター そして其の池の中へ投げ込まれました)
 日本軍入城後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がごろごろして居りました。此の虐殺行為の及ぶ全範囲と云ふものは非常に広いのでありまして、全体のところを申上げることの出来る人は一人も居りませぬ 。我々は安全地帯及び其の附近の地方に付て出来るだけ調査したのであります。「スミス」教授及び私は、色々な調査・観察の結果 、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します。
(林モニター 男女及び子供を含む非戦闘員) 
 其の他市内で多数殺された者がありますが、我々は其の数を調査することは出来ませぬ 。又、市外でも殺された者が相当居ります。今まで申したことは、中国の兵隊であり或は曾て中国の兵隊であったことのある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。 

●サトン検察官 前の兵隊又は兵隊であった者が殺された、どう云う状態で殺されましたか。
●ベーツ証人 中国兵隊の大きな一群は城外の直ぐ外で降伏し、武装を解除され七十二時間後、機銃掃射に依って射殺されたのであります。是は揚子江の畔であります。国際委員会は三万人の兵士の亡骸を葬る為め労働者を雇ったのであります。是は我々の労働救済対策として行ったのであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数へることが出来ませぬ 。
(林モニター 埋められた屍体) 

『日中戦争史資料8』 P49



「南京における救済状況」シール・ベイツ 一九三八年二月十四日

2 他機関との折衝ならびに協力
 われわれの救済事業はすべて、南京安全区に組織された国際委員会のもとで行われている。一月下旬以後、難民人口の五分の二が彼らの家に帰ったことにより、安全区と市の他地域とのはっきりした区別 が相殺された。したがって、国際委員会は、特定地域の委員会としてでなく、純粋に私的な救済組織として活動を続けることになった。
 当初から委員会は、中国赤十字社の地方組織と大きな無料食堂の運営において、素晴らしい協力を行ってきた。そして紅卍字会とは二つの大きな無料食堂の活動と死体埋葬活動において、協力してきた。この後者の役目は簡単なものではなかった。彼らが一日に二百体埋葬しても、まだ埋葬すべき三万体があることがわかっている(ほとんどが下関)。

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P174 




一九三七年一二月八日から一九三八年一月一三日までの南京における出来事に関する、あるドイツ人目撃者の報告  ラーベ

添付書類
一九三八年二月一六日付駐華ドイツ大使館報告第一一三号に添付
作成者不明(ジョン・ラーベ)
文書番号二七一八/一九九五/三八
機密

 脱ぎ捨てられた多数の軍服は、日本軍に、難民区には多くの中国兵士がいると主張する格好の口実を与えた。かれらは再三にわたって難民収容所を徹底捜索したが、兵士とおぼしき者を真剣に探す努力はせず、まずすべての若者を無差別 に、次に何らかの理由で目についた者を全員連行した。城内で中国人が日本軍に発砲したことは一度もなかったにもかかわらず、日本軍は少なくとも五〇〇〇人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。こうして射殺された者ののなかには、市政府や発電所、水道局で働く何の罪もない職員たちも含まれていた。交通 部庁舎脇の通りには、一二月二六日まで、縛られて射殺された三〇人ものクーリーの死体が転がっていた。また、山西路からほど近い池のなかには五〇人、寺院には二〇人、江西路の端には一九三八年一月一三日時点でなお二〇人の遺体が散乱していた。
(略)
 すべてのヨーロッパ人は南京城から離れることを禁じられ、城内の移動は日本人警備兵の警護つきでのみ許された。それでも、一二月二八日には棲霞山に行って食料の買い出しに成功した人物がいた。かれはそれまで、日本軍は抗日運動の拠点である首都南京だけに懲罰を加えたとばかり思っていたが、周辺の田舎ではもっとひどいことがおこなわれていることを目の当たりにした。中国軍は退却時に軍事的な理由から一部の村や農家を焼き払ったが、日本軍はこの放火を組織的に続行した。畑地や道路沿いに水牛、馬、ラバの死体がおびただしく倒れている。虐待、強姦、射殺は日常茶飯事である。住民は主に山に逃げ込み、そこに身を隠している。かれが一時間にわたって車を走らせている間、どんな大きな村でも人を見かけることがなかった。棲霞寺には約一万人の難民収容所ができていた。しかしここでも日本兵は野獣のごとく荒れ狂っている。中国人の話では、上海か蕪湖までの地域は似たような状況にあるという。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P8〜9




W・マイアー社長の書簡(一九三八年一月三日付)にたいする返事 ラーベ

書簡
シーメンス中国本社上海取締役会宛、発信者−ラーベ(南京)
一九三八年一月一四日付
文書番号一二/九七九

射殺されたり、虐殺された人の死体はいまでも城内に放置され、私たちの手で葬ることは許可されていません(理由は不明です)。
私の家から五〇メートルのところには、一二月一三日以来ずっと竹で編んだ台の上に一人の中国兵の死体がくくりつけられています。難民区内のあちこちの池には五〇体もの中国人射殺死体が漂っているというのに、私たちにはこれを埋めてやることもできないのです。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P96




ヒトラーへの上申書中の講演草稿 ジョン・ラーベ

 あの十二月の日々(クリスマス前後がいちばんひどかったのですが)、私たちは文字通 り屍を乗り越えて進んでいきました。二月一日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通 りに放り出されていました。十二月十三日から一月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。二月一日に、ようやくなくなりました。
 このような残虐行為についてお話ししようと思えば、まだ何時間でも続けられるますが、このへんでやめておきます。
 中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。 

『南京の真実』 P317 




ラーベのヒトラー宛て報告書

「一九三八年二月一日まで埋葬を許されなかった多くの屍体」
「私たちは二月一日まで屍体を埋葬することすら許されませんでした
「私は一二月一三日から一月末までこの屍体を埋葬するか、搬出するか、許可を申請しましたが、無駄 でした。二月一日になって屍体はやっと消え失せたのでした」
(片岡哲史訳「南京事件・ラーベ報告書」『季刊 戦争責任研究』第一六号、一九九七年六月、四六、五二−五三頁)

『南京大虐殺否定論 13のウソ』 P128




宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙

 ジョージへ!
 鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかな?もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
 よろしく!

『南京の真実』 P151




漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録 一九三八年二月十日

 というわけで、この点では状況はよくなり始めている。紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。ラーベはこれを目撃したという。私はといえば、日本兵たちがその沼で飯盒に水を汲んでいくのを一度ならず見た覚えがある。どうぞお上がり下さい!暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。

『南京の真実』 P247




南京分館の執務再開、南京の状況 ローゼン

報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年一月一五日付南京ドイツ大使館分館
一九三七年一二月二四日付報告(文書番号二七七二/八四三二/三七)に関連して
文書番号二七二二/一〇〇一/三八

 私は先の報告で、日本軍は自ら引き起こした残虐行為が公的証人の目に触れるのを避けるため、われわれの帰還を引き延ばしたのではないか、との憶測を記したが、それは実証された。信頼すべきドイツ人および米国人の情報提供者の話によると、外国代表者の南京帰任の意向が明らかになるや、民間人・女性・子どもにたいする無意味な大量 殺戮で生じた、一部は路上にまるで「ニシンのように」積み重ねられたおびただしい死体を片づける除去作業が大慌てで始まったのである。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P66




南京の状況 ローゼン

報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八
写し二

 紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通 り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量 処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路のなかに見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い街角にさえ)何週間も散らばったままである。
(略)
 外国人の個人的な移動の自由は、本年一月一五日付報告(二七二二/一〇〇二/三八)で触れた本郷少佐が突然解任され、もっと適任な将校である広田中佐に替わったあと、とくに拡大した。私はまだ憲兵の同行なしに外出することは許されていないが、少なくとも日に一、二時間は、紫金山の山腹に連なる郊外の森に出かけることができる。まだ埋葬されていない中国兵(の死体)の散乱する、見捨てられた陣地にうっかり足を踏みいれることさえなければ、のんびりと静養できるのだが。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P218〜22




南京ドイツ人財産の運び出し ローゼン

報告
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月七日付南京分館
文書番号五七一九/二一一一/三八
写し一

 資産の運び出しは当面の間、不可能である。というのも箱や釘も梱包材もないため荷造り自体がひどく困難で、しかも日本軍は駅と港への外国人の立ち入りを禁じている。川港の下関に日本軍の大量 処刑による中国人犠牲者の死体がいまだに約二万体も横たわっているためで、無理からぬ ことである。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P228




一九三八年四月下旬の南京情勢 ローゼン

報告
ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年四月二九日付南京分館報告第五三号
文書番号二七一八/三一〇〇/三八

 玄武湖公園内と、孫文の墓のある中山陵に、高さ二・五メートルほどの四角い木柱が建立された。そこには、「大日本陸軍使用地」と記されている。日本軍使用地が何を意味するかは、−−奉天の満州皇帝陵と同じように、−−かつてあれほど美しく整備されていた中山陵のいまのひどい荒廃ぶりにうかがえる。この周辺は、瓶の破片、ストロー、缶 詰の空き缶が散乱し、遊歩道はトラックが踏み荒らし、草花や木々は引き抜かれてしまったのである。
 木柱のすぐ脇では、一二月の戦いで落命した中国人の遺体が朽ち果てている。ある軍隊の精神の気高さを、たおれた敵にたいする敬意の度合いではかるとすれば、「大日本」の評点はまったく感心できるものではない。中山陵周辺に散乱する中国人の屍を野犬とカラスが食い荒らすままにしておくのではなく、回収して、国民的英雄顕彰碑を囲む緑地公園に合同埋葬してやることはたやすいこおとだったはずだ。一方、日本兵の場合はみな、戦死した場所に細長い木の墓標が立てられ、絶えず花が手向けられている。かれらの遺灰は故国に送られるのである。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P263〜264




現在の状況に関するメモ スマイス

記録
一九三八年三月二一日付
作成者−南京国際救済委員会(スマイス)

死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般 市民であると見積もっている。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P233




東京裁判 マッカラム日記及び手記

一月七日
 未だ北夏路の我々の屋敷内には一死体が有ります。他の一死体が我々の南門女子用建物の一階に、又、一死体が「プロパ」氏の囲内にあります。即ち此等の死体は十二月十三日頃、運命に会った。「プライス」氏の庭に生後六ヶ月位 の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。(以下略*)

※ 略箇所
埋葬許可証は手に入りませんでした。私は自分で病院の地下壕に38以上の死体を埋めました。死体は附近の街路から集め、彼等の大部分は兵隊でした。生命の損失は恐しいものである。凡ゆる年頃の男・女・子供が恐るべき価値を支払った。何故に戦争は斯の様に残忍にならねばならぬ のか。日本人は支那民衆を夫々の家に帰へして再び商売を始めさせ、日本商品を大量 に持って来るのだと云ひます。外交団体は市政府を樹立する希望を持ってヰる。然し軍は其れを許可しません。(略)」

『日中戦争史資料8』 P125




東京裁判 フィッチ宣誓口供書

 一九三七年(昭和十二年)十二月二十二日、私は私の事務所の東方四分の一哩の地点にある池中に約五十個の死骸を見受けた。孰れも平服を纏ひ、其の中の多くは手を後に縛り上げられ、尚一名は頭の上半部を完全に斬取られて居た。其後私は数百の支那人の死骸を、それ等は殆んどが男で女は少かったが、同様な状態で池中や、街路上や、家の中に見受けた。
 吾等の委員会は毎日、日本大使館に残虐行為の報告を出した。

『日中戦争史資料8』 P115




ウィルソンの家族への手紙 1938年3月7日

原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]

[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。

※日付「1938年5月7日」は誤りでした。




アルバート・N・スチュワードの日記
( Albert N. Steward Excerpts of Diary)

原文:
December 11th.
 The Japanese had attacked the city on three sides,but apparently had left the side next to the River at Hsiakwan open.When the Chinese soldiers poured out that gate to the bank of the River 40,000 or so of them were mowed down with machine guns as they entered the trap. On the occasion of his first trip outside the city after the occupation Mr. Fitch rode over human bodies packed to a depth of 6 ft.or more.Then the Japanese began searching the city, even inside the neutral zone,for soldiers in disguise,and any man was liable to be taken as such.In most instances such men were taken to the bank of the River in companies of 100 and shot with machine guns,after which their bodies were dumped into the River. In at least two or three cases such groups of men,tied together were doused with kerosene and burned alive.Altogether, it is estimated that 60-70,000 people lost their lives when the city fell into the hands of the Japanese. [Zhang Kaiyuan "Eyewitnesses To Massacre", An East Gate, 2001, p.319]

[渡辺訳]
(1938年)12月11日。
(途中省略)
日本軍は三方から市を攻撃したが、明らかに下関の揚子江に接した方面は開放されていた。中国軍が揚子江岸に溢れ出たところ、彼らの約四万は包囲され、機関銃でなぎ倒された。フィッチ氏は、占領後市外に出た最初の機会に6フィートあるいはそれ以上の厚さに積み重なった死体の上を(車で)運転した。日本軍は(軍服を脱いで)紛れている兵士やそれらしいと思われる男たちを求めて、中立地帯の中まで市を捜索し始めた。※1ほとんどの場合、そのような男たちは百人づつ一緒にされて揚子江河岸に連れられて行き機関銃で撃たれたが、その後、遺体は揚子江に投棄された。そのような男たちの集団の少なくとも二、三の事例では、一緒に縛られてケロシンを掛けられて生きたまま燃やされた。市が日本軍の手に陥ちたときに、全部で六、七万の人々が生命を失ったと見積られている。

【 アルバート・N・スチュワードの日記について 】
アルバート・N・スチュワード(Albert N. Steward Ph.D)はメソジストの教育宣教師(educational missionary)として、1930年より金陵大学で植物学を教えた。
1937年8月に、疎開のために家族とともに中国を離れたが、1938年9月に戻り、12月10日に南京へ汽車で帰還した。
スチュワードは、陥落一周年をひかえた南京で1年前に何があったのかそこで知り、11日の日記に書いた。
[典拠: Zhang Kaiyuan "Eyewitnesses To Massacre", p.318]

※1 五番街氏訳
"Then the Japanese began searching the city, even inside
the neutral zone,for soldiers in disguise,and any man was liable to be taken as
such."
日本軍は変装した兵士(軍服を脱ぎ市民の服装をした兵士)を求めて、中立地帯の中まで市を捜索し 始めた。そして、どの男性でも、日本軍によって変装した兵士(軍服を脱ぎ市民の服装をした兵士)と見なされてしまう可能性が強かった 




東京裁判 判決

五 判決
第二章 法(昭和二十三年十一月四日)朗読
(ハ)起訴状(抄)

 後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般 人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られたいたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

『日中戦争史資料8』 P396




東京裁判 検察側最終論告

第三七六号(昭和二十三年二月十八日)(抄)
E 検察側最終論告(一)

J−61
 一九三七年十二月十三日、南京が陥落した時、同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました(a)。同市に入城した日本兵は街路に居た民間人達を無差別 に射撃しました(b)。一度、日本軍が同市を完全に支配するや、強姦・殺戮・拷問及掠奪への耽溺が始まり、それが六週間続きました。最初の二、三日間に二万以上の人々が日本軍に依り即座に死刑に処せられました(c)。六週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、二十六万乃至三十万で、全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります(d)。この概数の正確性は紅卍字会と崇善堂の記録がこの二つの団体で十五万五千以上の死体を埋葬したことを示してゐる事実に依って示されて居ります(e)。六週間の同期間に於て二万名を下らざる婦人と少女は日本軍に強姦されたのであります(f)。

『日中戦争史資料8』 P300 




東京裁判 許伝音証言

第三十五号(昭和二十一年七月二十六日)
検察側立証段階(二)

○許証人
 三日目に私は日本兵を伴ふと云ふ条件の下に市内を通ったのでありますが、此の目的は路上に若しくは家の中に死んで居た、若しくは死なんとして居る者の数を略々決める為めでありました。
(宮本モニター 一寸附加へます。「日本陸軍将校の許可を得て」)

○許証人
 私は屍体が到る処に横〈た〉はって居るのを見ましたが、其の中の或る者は酷く斬り刻んであったのであります。私は其の屍体が殺された時の状態の儘に横〈た〉はって居るのを見たのであります。或る屍体は身体を曲げて居り、又或る者は両足を拡げて居りました。さうして斯う云ふ行為は皆日本兵に依って行はれたのでありまして、私は日本兵が現にさう云ふ行為を行って居る所を目撃したのであります。或る主な大通 りの所で私は其の屍体を数へ始めましたのでありますが、其の両側に於て約五百の屍体を数へました時に、もう是れ以上数へても仕方がないと思って止めた程であります。其の時私の車に、もう一人中国人が乗って居ったのでありますが、此の人は日本に於て教育を受けた人であります。さうして自動車に乗って此の人の家に行きました時に、其の人の兄弟が殺されまして、さうして此の家の入口の所にまだ片付けてない彼の屍体が横〈た〉はって居るのを見たのであります。私は南京市の南の方----南市、又北の方、東の方、又は西の方に全然同じ状態が起って居るのを見ました。さうして日本の兵士達は人々に何等の考慮を払はないで、若し私の車の中に日本語を話す中国人が乗って居らず、又同乗して居った日本人が許可証を示さなかったならば、私も非常な困難に遭遇したでありませうが、此の人達が助けて呉れたのであります。此の時南京市内には中国の兵隊は全然居りませぬ のでありまして、私の見ました屍体は老若男女の市人、普通の人間であります。一人も軍服を着て居った者はないのであります。

『日中戦争史資料8』 P25


○許証人
 日本兵は安全地帯に入って来て、さうして捜索した結果、種々の「キャンプ」及び家から大勢の一般 市民を連れて行きました。
(伊丹モニター 訂正。一般中国市民)
 或る日私は卍協会の他の者と共に、是等の罹災者に対して食糧を配って居りました。
(伊丹モニター 訂正。「パン」やお菓子を配付して居りました)
 我々が此の仕事を終り掛けた時、二人の日本兵がやって来まして、さうして門を固く閉めました。
(伊丹モニター 訂正。我々が丁度其の仕事を終へやうとした時に、日本兵がやって参りまして、其の中の二人は門の護衛に就きました)
 日本兵は入って来、さうして縄を以て是等の中国人市民の手を縛り、十人或は十五人の一団に固めまして連れ去ったのであります。私は其処に立って居りました、さうして此の状景に胆を潰しました。此の建物の中には千五百人の罹災者が居ったのでありますが、是等は皆此のやうにして連れ去られたのであります。彼等は此の卍協会の職員までも連れ去らうとしましたが、我々が説明しましたので、是等の者を放したのであります。私は国際委員会の「ラビー」氏に、此のことを報告するやうに人に頼みました。「ラビー」さんと「フィッシュ」さんは直ちに私の請に応じて参りましたが、併しながら是等の中国人市民は、日本兵に依って連れ去られてしまったのであります。
(伊丹モニター 訂正。「フィッシュ」でなく「フィッチ」)
 そこで「ラビー」さん、「フィッチ」さん、私及び日本語を話すことの出来る中国人は、一緒に日本の特務機関の司令部に参ったのであります。「ラビー」さんは抗議を申込みまして、何が故に日本兵が此の安全地帯の中に入り、さうして是等の一般 中国市民を連れ去り、さうして何処に連れて行ったかを聴き、更に直ちに連れ戻すやうに抗議を申立てたのであります。此の抗議に対する返事と致しまして、日本の特務機関は知らぬ と答へました。それで我々は何処に連れ去ったかを知るが為に、一時間其処に待ったのであります。我々は彼等から何等の満足すべき返事を得ることは出来ませぬ でした。彼等は朝までに返事することを約しました。併しながら其の約束を果 しませぬでした。翌日の七時か八時頃、我々は国際救済委員会及び卍協会(紅卍字会)の建物の附近で、機関銃の音を聞きました。そこで我等が何が起こって居るかを人に探索させました所、是等の中国人市民が機関銃に依って悉く殺され、さうして其の死骸が散らばって居ると云ふ報告を得たのであります。後程、我等は其の死骸を集め、さうして死骸の中に或る者の氏名が判明致しました。其の後どの「キャンプ」に於きましても、毎日日本の兵が入って来まして、さうして中国人の市民を探索し、さうして拉致したのであります。
(伊丹モニター 訂正。中国の兵隊を探しに来たのであります)
 是等の「キャンプ」に於きまして、或る日には十数人、或る日には数百人の一般 中国人市民が連れ去られたのであります。さうして後程彼等は全部殺されたことが分りました。日本側の之に対する弁明は、是等の一般 市民が兵隊であると云ふことであったのであります。さうして是等の知識を色々の所から集めたのだと申立てました。併し実際の所、是等のもは総て一般 市民なのであります。一人として此の中に兵士は居らず、又武装して居った者はないのであります。
(モニター 訂正。此の中の一人と雖も、軍服を着たり、武器を持ったりした者は居りませぬ でした)

『日中戦争史資料8』 P26〜27


○サトン検察官
 紅卍会(紅卍字会)は南京で死亡した市民の埋葬に従事致しましたか。

○許証人
 卍協会は此のやうな博愛的な仕事に従事して居ったのであります。併し此の際、あまり多くの死骸でありましたので、
(伊丹モニター 訂正。紅卍協会(紅卍字会)は金に窮して、自費で埋葬出来ないやうな人々の埋葬を普通 取扱って居りましたが、其の当時余りにも屍体が多くて、持て余した訳でありました。併し日本軍当局より人が参りまして、お前達は死体埋葬の仕事をして居るのだから、我我に手伝って死体の引取りをやって呉れと申しました)
 日本軍は我々に許可を与へてから市中を歩き廻る許可証、或は通行証を呉れました。さうして此の仕事をなす為に、我々は二百人の労働者を抱へて居ったのであります。我々は此の屍体を直ちに埋葬しました。是等の死体の数は実に四万三千と言はれて居りますが、是は余りにも過少(小)評価であります。私達は真の数がどの位 であったかはっきり申すことは出来ないのであります。
(伊丹モニター 追加。其の理由は正確な数字を発表することを許されませぬ でした)
 初め我々は此の数字を出し、さうして公の文書にして遺すことは敢て出来なかったのであります。そこで我々は私の文書として之を記録して置いたのであります。此の数は我々が埋葬した屍体の数であります。是等の屍体は全て一般 中国市民であって、一人として其の中に兵隊は居らなかったのであります。
(伊丹モニター 追加。私達は軍人とは何等関係はありませぬでした)


○サトン検察官
 それでは一般市民の埋葬に関係をして居った外の団体が南京にありましたか。

○許証人
 はい、他にもさう云ふ団体がありました。是等は主として博愛慈善の為めの団体でありました。紅卍協会は其の一つでありました。


○サトン検察官
 それでは紅卍協会の方で処理をして埋葬した屍体と云ふものは何処で見出されたのですか。

○許証人
 是等の屍体は自分達に依って発見され、或は周囲の人々が、私達に告げ、或は日本の将兵が私達に其の所在を示したのであります。日本軍は伝染病を非常に恐れました。
(伊丹モニター 訂正。此の流行病蔓延の危険は特に一月、二月、三月、四月に激しかったのであります)
 是等の屍骸は或は河の中から、或は建物の中から引出したのであります。是等の屍体は殆ど総て手を結へられて居ったのであります。或は、時には「ロープ」に依って縛られ、時には電線に依って縛られて居ったのであります。
(伊丹モニター 訂正。是等の屍体は手と手、詰り多くの屍体が一緒に手と手を繋ぎ合はせるやうにして、綱又は「ワイヤー」で縛り付けられてありました)
 此の屍体が若し縛られて居る時には、之を解き放すと云ふことが我々の神聖なる仕事なのであります。さうして是等の屍骸を一つ一つ埋葬するのが我々の仕事です。併しながら是等の屍体が電線に依って縛られて居る時には、之を解き放すことは殆ど不可能なのであります。多くの場合に於て是等の屍体は既に腐敗し去って居ったのであります。斯う云ふ場合には我々は一つ一つそれを放して埋葬することが出来ず、随て一固まり一固まりと埋葬して居ったのであります。

○ウェッブ裁判長
 もう凡ゆる詳細な点に亙ってまで証言する必要はありませぬ。
(伊丹モニター 訂正。屍体をどう云ふ風に処理したかと云ふことは関係ありませぬ )

○許証人
 或る場合にはすっかり焼け爛れた屍体を発見したのであります。

○サトン検察官
 此の救済会が屍体埋葬に付て活動したと云ふことに付きまして、あなたが一月、二月、三月、と云ふ月を挙げられましたが、是はどの年のことでありますか。

○許証人
 一九三七年から一九三八年に掛けてであります。

『日中戦争史資料8』 P30〜31




東京裁判 許伝音宣誓口供書

南京陥落後三日目に私は市街を自動車で通りました。それは日本兵が卍協会に死体埋葬の相談をしに来たからであります。私はどんな様になって居るかを見に出かけました。」

『日中戦争史資料8』 P25


「私の受けた情報によれば、彼等は機関銃で殺され、彼の死体は池の中に投げ込まれた。それは後日、引揚げられ、『スワスチカ』会員の手に依って埋葬されました。」

『日中戦争史資料8』 P27


「私の最善の推定によれば、南京市内外で陥落後、且つすべての抵抗がやまって後に、日本兵の手によって殺戮された中国人の一般 人の総数は二十万人内外であります。」

『日中戦争史資料8』 P31




東京裁判 検察側不提出証書
日本軍に依る支那地方民及び武装解除された軍人の南京に於ける虐殺並に南京紅卍字会に依る屍体埋葬の実況(検証一七二八)

三、埋葬
 殺戮後、屍体は南京及其の近郊に山積して居た。紅卍字会は彼等を埋るため埋葬隊を組織することを申出た。日本側は約一ヶ月後迄それを許さなかった。そのため実際に仕事を始めた時には、屍体は殆ど腐爛し、変形して居て識別 が不可能であった。他の多くの屍体が大塘及び河溝に於て河中より引き上げられた。しばしば、日本軍は十若くはそれ以上の屍体に長い針金を通 し、繋ぎ合せて、河中に投じた。紅卍字会によって葬られた屍体の総数は四三、〇八一であった。
 屍体埋葬作業 月日、屍体の種別、屍体発見箇所、埋葬地の表を添付する。

世界紅卍字会南京分会之印
会 長(署名捺印)呉仲炎
副会長(署名捺印)許伝音

『日中戦争史資料8』 P386




南京特別市政府衛生局  六月分事業報告書抄録

一九三九年六月
 村民が報告するところによると、中山門外の霊谷寺・馬群・陵園・茅山一帯に三千体余りの遺骨があり、埋葬隊が埋葬した。あわせて四〇日間作業してやっと埋葬を完了した。全部で九〇九元の費用がかかった。霊谷寺の東側の空地も埋葬場所として、この骨を埋葬することにした。青れんがを使って、石段のついた円形の大きな墓を作り、外側はセメントで白く塗り、非常に堅固で壮麗なものとなった。高市長自作の「無主孤魂の碑」を墓の前に立てて記念とした。また、五月二八日には供養をおこなった。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260 




南京市衛生局抄報  草鞋峡の農民、金国鎮の死体埋葬報告書 一九三八年

草鞋峡の農民代表金国鎮の報告
 宝塔橋、草鞋峡、浜江一帯の白骨は野ざらしになっているので埋葬することを請求した。届け出により経費が許可されたので、財源を都合して埋葬人員四名を率い、二〇名を臨時の人夫として募り、その地に住まわせた。六月十三日から七月六日まで二四日間作業をし、全部で野ざらしの白骨三五七五体を埋葬・改葬した。地勢の比較的高いところで、長江から少し離れたところに大型の墓を一座つくり、碑を建て、記念とした。また男女の死体一二体、子どもの屍体三七体を埋葬し、大きな棺を一二個と小さな棺一個を施した。
〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕 

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P260




ゼイ芳縁・張鴻儒・楊広才が中華門、花神廟一帯における日本軍の市民集団虐殺を陳述した証言文

一九四五年十二月八日
 私は謹んで、自分の目でしかと見た敵の罪行を事実に基づいて陳述します。
 民国二十六年旧暦十一月十三日、日本侵略軍の中島部隊の入城後、沙洲ウに避難していた人々が帰ってきました。沿道には見渡す限り死体が横たわり、悲惨さは目を覆うばかりでした。そこで初四日にゼイ芳縁が中国紅卍字会に相談して、埋葬工作をおこなうことにしました。
 紅卍字会の責任者の紹介により第一区公所救済班に行き、紅卍字会の旗と符号を受け取りました。後に、避難先から帰ってきた熱心な人々三十人余りを奉仕埋葬隊に組織し、初六日より埋葬工作を始めました。南門外附廊から花神廟一帯まで、四十日余りの積極的な工作を経て難民の死体約五千体余りを埋葬しました。また兵工廠内の宿舎の二階、三階で、国軍兵士の死体役二千体余りを埋葬し、分けて雨花台の麓、および望江磯、花神廟などに埋葬しました。今ある骨の山がその証となっています。

〔『侵華日軍南京大屠殺トウ案』より〕

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P286




占領下南京三か月の記録  蒋公穀

(民国二十七〔一九三八年〕二月)
十三日
 金陵大女子難民収容所では、しばしば敵兵の強姦・略奪騒ぎがあり、アメリカ人が敵に抗議してからは、毎晩一名の特務員が歩哨に来た。子良は同所の管理員として接待役を勤めていたので、彼らの中に知合いができた。今日の昼、一人の人相の悪い中国服を着た中山と名乗る男が、突然子良を訪ねて来てむだ話をし、何時間か話してようやく出て行った。我々はこの獣がきっと何かをたくらんでいるものと見て、皆怖くてびくびくし別 の場所に移ろうという者もいたが、ただ静かに待つのみだ。
 市内いたるところに殉難死体があり、とりわけ池と空屋がもっとも多い。数日前、紅卍字会が埋葬を始めた。金銀巷の金陵大学農場で深い壕を掘り、死体を幾重にもかさねて葬り、土をかけて終りというもの。話では数えて記録したところすでに一二万体にのぼるとのこと。

『南京事件資料集2 中国関係資料編』 P101〜102




衆志復善堂の埋葬について

 さらに、前掲の『中華民国二十七年度南京市政概況』のなかにある 「南京市政公署振務委員会収支表(中華民国二十七年五月至十二月枌)」 には、 衆志復善堂に対して「送診施薬施材掩埋費」として二〇〇元支出したことが明記されている。

『南京事件を考える』 P101




南京特務機関の報告 一九三八年二月

紅卍字会屍体埋葬隊(隊員六百名)は一月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当たり二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙げつつあり 
(『華中宣撫工作資料』P153)

『南京大虐殺否定論 13のウソ』 P129




南京特務機関の報告 一九三八年三月

「尚各城外地区に散在せる屍体を尠からず、然して積極的作業に取りかかりたる結果 、著大の成績を挙げ三月十五日現在を以て既に城内より一、七九三、城外より二九、九九八計三一、七九一体を城外下関地区並上新河地区方面 の指定地に収容せり」
「本会〔紅卍字会〕の屍体収容工作開始以来既に三ヶ月」
(井上久士編・解説『華中宣撫工作資料』(十五年戦争極秘資料集13)不二出版、一九八九年、一六四頁)

『南京大虐殺否定論 13のウソ』 P125




東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)

南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』

 戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。

 そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。


 防疫方面についてはわが現地当局者間に防疫委員会が生れ、十月には大掃除を市内全部にわたって行ふが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ、所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立札を立てたり、ドブを埋めたり、死体を収容したり、相当努力をしてをり、将来は「防疫病院」の設立、衛生事務所(衛生組合のやうなもの)の設置、種痘施行その他を企画してゐる。

『日中戦争史資料8』 P393




東京裁判 中沢三夫口供書

第二九二号(昭和二十二年十月十四日)
個人弁論段階(二)

十三、検察側証拠に表示された埋葬屍体の存在したと言はるる場所は、「中山門・・・・馬群」間の如く、支那軍が陣地に拠って防戦した所であり、又は太平門・富貴山其他、城内各所の如く、支那軍が陣地に対する死傷者収容設備の存在したるべき地点である。此等の附近で彼我多数の戦死者が出たことは事実である。然し決してこれ等の地点で虐殺が行はれたことはない。

『日中戦争史資料8』 P245



梶谷健郎日記(南京・第二碇泊場司令部・騎兵軍曹)

十二月二十六日 晴
(略)
 午后死体清掃の為め苦力四十名を指揮し悪臭の中を片附く。約一千個に及べり。目を明けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり。
(略)

『南京戦史資料集U』 p.437



紅卍字会12月28日埋葬に関する洞富雄の見解

 以上で、田中正明氏のあげた四つの疑点に対する批判をおえたが、氏はまた、紅卍字会の埋葬隊の埋葬数についても、疑義をただそうとするのである。田中氏はこう言う。

《それでは紅卍字会の埋葬数は信用できるかというと、これまた信憑性に欠ける。一日平均五〇体前後を処理していたものが、十二月二十八日になるとガゼン六、四六八という数字が出てくる。しかもこの欄にかぎって埋葬場所も、死体のあった場所も、納棺の有無も書いてない。空欄にポツンと(男)六、四六六、(女ゼロ)、計六四六八と数字だけがあるのみである。マギー日記(?)によると、二十八日は珍しく朝から大雪になったとある。大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない》(『虚構』三二八ページ)

 ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている六四六八体の埋葬例であるが、これについては、一九八四年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市档案館に収蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の八文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。「下関江辺推下江内」は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味するものと思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、舟で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字をかくしたのは、そこには、便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。
 次に十二月二十八日という「大雪の日に六、〇〇〇体の埋葬など到底考えられない」という難点であるが、水葬は土葬とはちがって処理がたやすかったことを見おとしてはなるまい。
 それに、約六、〇〇〇体は一日の処理数ではなかったということが考えられはしないか。この件の前の二八〇体埋葬は十二月二十二日のことであるから、二十八日まで、あいだに五日間の空白がある。その五日間、埋葬隊は遺体処理の仕事を休んでいたわけではあるまい。死体処理場所が同一だったので、六日分を一括して十二月二十八日分として記録したのかもしれないのである。

『南京大虐殺の証明』 p.82-83


参考資料

  • 『日中戦争史資料8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月25日初版発行)
  • 『日中戦争史資料9 南京事件2』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社
    (昭和48年11月30日初版発行)
  • 『南京事件を考える』藤原彰・本多勝一・洞富雄編著、大月書店
    (1987年8月20日第1刷発行、1988年6月30日第2刷発行)
  • 『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『南京事件資料集2 中国関係資料編』南京事件調査研究会編訳、青木書店
    (第1版第1刷1992年10月15日発行)
  • 『南京の真実』ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳、講談社
    (1997年10月9日第1刷発行)
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道、展転社
    (平成10年8月5日第1刷発行)
  • 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房
    (1999年10月25日第1刷発行)
  • 『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』岡田良之助・伊原陽子訳、大月書店
    (1999年11月19日第1刷発行、2000年7月3日第2刷発行)
  • 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治編集・翻訳、大月書店
    (2001年3月19日第1刷発行)
  • 『Eyewitnesses to massacre』 Zhang Kaiyuan編、M.E. Sharpe
    (2001年刊行)