日本軍の阿片売買



東京裁判 ウィルソン証言

●ウェッブ裁判長 是が昨日の最後の質問であります。「日本軍が南京を占領しました以降、麻薬、阿片の売高に何か増減がございましたか」と云ふのが昨日の最後の質問であります。
〔宮本モニター 一寸附加へます。一九三七年の十二月、南京陥落直後と云ふことを付け加えます〕
●ウィルソン証人 日本軍占領以前に於きましては、南京に於て阿片窟の外に「阿片売ります」と云ふ看板が掛って居るのを見たことはなかったのであります。阿片を売ることは重大な犯罪の一つとなってい居りました。丁度日本軍が南京を占領致しましてから一年後一九三九年の春、私は自転車に乗りまして南京の大通りを走って居りました。神州路の江塘街の「メソジスト」教会から約1哩程の間に阿片窟が二十一箇所あったことを認めたのであります。其の二十一箇所の店には総て外に「黄土」と書いた看板が出て居るのであります。
●サトン検察官 其の「黄土」と云ふ漢字の意味は何ですか。
●ウィルソン証人 是は阿片に関しまして附けられた名前の一つでありまして、その訳は「官許の土」と云ふことであります。

『日中戦争史資料8』 P20





東京裁判 許伝音証言

●サトン検察官 一九三七年十二月、日本軍が南京を占領する以前に阿片が同市内に於て公然小売られたことがありますか。
●許証人 一九三七年十二月以前に於きましては、阿片と云ふものを公然と販売することは禁ぜられて居ったのであります。それ以前に既に阿片と云ふものをなくして居ったのであります。
●サトン検察官 日本軍に依って南京が占領された以後阿片は公然と売られましたか。
●ウェッブ裁判長 あなたは既に証人が、公然と売られて居る、其の店は二十もあると云ふことを既に陳述したことを御忘れになって居ります
●サトン検察官 それは 「ウィルソン」博士であります。
●ウェッブ裁判長 さうでした。
●許証人 一九三七年十二月以後に於きましては、阿片は公然と売てれたのであります。私が丁度住んで居りました町の近くにもさう云ふ阿片窟は沢山にありました。私は一度、
〔伊丹モニター 訂正。私は時々〕
 何の気なしに其の一つに入つて状況を見てみましたが、其の場合には何等警察の干渉もなく「オピアム」が公然と吸はれて居ったのであります。更に「ヘロイン」を手に入れると云ふことは非常に容易くなったのであります。私は市民が「ヘロイン」を非常に容易く吸って居るのを見たのであります。さうして其の場合に「ヘロイン」 の入って居る「シガレット」が売られて居りまして、私は現に二、三種類の「ヘロイン」の入った「シガレット」を買ったことがあるのであります。
〔伊丹モニター 訂正。「ヘロイン」 の喫煙は以前にも増して更に公然と行はれるやうになりました。さうして「ヘロイン」の入った煙草も売られるやうになりました。私はさう云ふ種類の煙草を一、二種類手に入れたことがあります〕
 只今お話しましたやうな「ヘロイン」の入った「シガレット」を現に提供せられたことがあります。さうして特に労働者、即ち苦力に対しては是が非常に提供せられたのでありまして、其の場合に苦力は十歳以上の若い者、又は他の者は三十歳位の者までもさう云ふものを吸はせられたのであります。さうして其の時分の日本軍のやり方としては、苦力を傭ふ其の方法として此の「シガレット」を便って居ったやうな現状でありました。
〔伊丹モニター 後の半分訂正。日本側の使った手段なるものは、苦力の歓心を買はんが為に、よく仕事が済んだ後斯うした煙草を与へたのであります〕
 此の「シガレット」を売ると云ふのは特別の手段として行はれたのでありまして、一般の他の日用品よりも此の「シガレット」を売る方が非常にやり易いと云ふ理由一に依ったやうであります。日本軍が参りましてから、例へば蕪湖であるとか、安慶であるとか、南京であるとか云ふ風な場所には、斯う云ふ特別の「シガレット」を売る場所が出来たのを私は現に経険したのであります。

『日中戦争史資料8』 P34〜35




東京裁判 ベーツ証言

●サトン検察官 あなたは日本軍が占領して居りまする地域に於ける阿片及び麻薬の取扱に関して、特別の御研究をなさったことがありますか。
●ベーツ証人 はい、一九三八年の夏及び秋に亙って救済事業をして居る際に、阿片及び『ヘロイン』に付て、紫驚くべき事情に付て特別の研究を致しました。多くの可哀想な避難民に、露店商がやって来て阿片を差出し、之を摂ればもう身体は良くなると言はれると云ふ事件を数々聞きました。
〔林モニター 露店商の代りに行商人とします〕
 それから少し経って『ヘロイン』が同様に行商されました。其の行商するに当り、之を少し摂れば疲れが癒り山を飛び越えるやうな元気が出るであらうと言はれました。暫くして此の麻薬に付ての商売は公益企業とされたのであります。そして外見的には傀儡政権の営業せるものでありました。阿片が公の店、即ち政府の店で売られるやうになり、又阿片窟の広告が南京の唯一の新聞、即ち政府の新聞に出て来るやうになりました時、私は是は調査せねばならぬと決心しました。

●サトン検察官 あなたが只今の研究を、調査をなさいましたのは、あなた御自身の為でありますか、それとも米国政府の為になされたのでありますか。
●ベーツ証人 米国政府は是等と全然関係がなく、私の報告が発行されるまでは何も之に付て知らなかったのであります。

●サトン検察官 一九三七年日本軍が、南京を占領致します前に於ける南京市内に於ける阿片及び麻薬の状態は、どう云ふ工合でありましたか。
〔林モニターモニター一九三七年十二月〕
●ベーツ証人 一九三七年支那事変以前の約十年間と云ふものは、麻薬が公に公然と売られることもなく、公然と使用されることもありませぬでした。阿片が使用される場合は奥の部屋で使用され、大概老人、又其の階級は紳士或は商人階級のものでありますが、斯う云ふ人達に依って使用され、公然と吸はれたこともなければ、若い人達の前で吸ふこともありませぬでした。私は一九二〇年から一九三七年まで南京に滞在して居る間阿片を見たこともありませねですし、其の臭ひがどう云ふ臭ひであるか見分けるやうにもなりませぬでした。

〜 略 〜
●サトン検察官 あなたの御返事を御続けになって結構でございます、ベーツ博士。
●ベーツ証人 此の麻薬の販売に付て情報を得ることは容易くはありませぬでした。何となれば麻薬は公然と売られましたけれども、誰が管理して居るか、又、其の財政状態などに付ての情報は勿論隠されて居りましたし、公の明確にしち正直な報告はありませぬでした。一九三八年の十一月私は古くからの友達と共に、多くの公式の店及び阿片窟を訪問しました。
〔宮本モニター 一寸訂正します。数名の私の友達と数箇所の販売所又は阿片窟〕
 又、我々は官営独占機間が、各販売者の為に作った規定の写しを数枚、及び此の販売者が納めた納税証書の写しをも手に入れました。此の時の規定では官設を以て営業出来る阿片窟が百七十五あり、それに阿片を販売する店が三十ありました。
〔宮本モニター 四十二訂正します〕
 公式の規定では毎日六千『オンス』程売ることになって居りましたが、是は販売者の報告に依ると是れ以上売って居ったさうであります。何となれば地方での需要が非常に多かったからであります。
〔宮本モニター 一寸訂正します。南京街の地方に於ける需要が著しかったからであります〕
 一『オンス』に対する公定価格が十一『ドル』でありました。是は中国の貨幣であります。そして之を一日六千『オンス』としますと一箇月二百万『ドル』の売れ高になるのであります。同時に特務機間に依って販売された『ヘロイン』の売れ高が一月三百万『ドル』に上ると特務機間の中国人の嘱託が我々に報告致しました。
〔宮本モニター 一寸訂正します。一中国特務機関員が斯かる報告を私達にしました〕
 私は結局当時、南京の市民の中で、五万人の者が『ヘロイン』を使用して居ると云ふ計算を致しました。是は市全人口の八分の一に相当するものであります。但し市警察の麻薬課で作った統計は、私の数字よりも更に多いのであります。『ヘロイン』使用者の数百名に依る所の盗難事件が多くなって来ましたので、誰もに取って重大な問題となりました。特に金陵大学の者に取ってさうであります。官営阿片独占磯関の官吏は『ヘロイン』使用者を阿片使用者に転換せしめる為に、『ヘロイン』使用者を逮捕し法廷で訴追したのであります。私は完了した報告書を日本総領事に通達し、何か意見を述べることがあり或は訂正すべき事項があれば、して下さいと云ふことを附加へました。併しながら何も訂正はありませぬでしたので、十日程経ってから、上海で此の報告書を発行致しました。それ以後も何も訂正の要求はありませぬでした。次の秋には此の 麻薬販売の組織は非常に好く組織されて居りましたが、我々は再び質問を致しました。今度目の調査には、我々は市内百七十五箇の鑑札ある阿片窟の首席検察官の調書を暫く見ることが出来ましたし、又当時市内で販売されて居た三千『オンス』を小さく切って居る少女からも『ステートメント』を得ることが出来ました。斯くの如くして得ました所の消費及び財政に関する統計と云ふものは、当時の維新政府の財務部から発行された統計と非常に近いものでありました。
〔宮本モニター 財政の代りに納税と訂正致します〕

※ この阿片使用の調査に関して、ベーツ教授は、その宣誓口供書で、『私は日本人旅行者で人格の高潔な衆議院議員田川大吉郎氏に、貴衆両院議員の委員会で使用したいから正確な調査報告をなさいと励まされました。此の貴衆両院議員の委員会は、大した効果はありませんでしたが、(日本の)軍隊が朝鮮や満洲で麻酔剤を悪用するのを止め様と長年努めしてヰたのでした。』と言っている。

 当時の発行されざる謄写判刷の報告書に依れば、其の維新政府は一九三九年度に於ては毎月三千万『ドル』の収入を持って居ったのであります。是は百万『オンス』に対して三『ドル』の税金を掛けて割出したものであります。
〔宮本モニター 訂正致します。三百万『ドル』〕
 又、財政部の官吏は此の正式の機関以外に売れる阿片が非常に沢山あると云ふことに付て文句を言って居りました。此の百万『オンス』と云ふものは、当時、維新政府が支配して居った三省の一部分で販売されて居ったものであります。一九三九年夏、私は東京を訪問し、友達に依って外務省の阿片専門家と会見致しました。此の人即ち芳賀氏は丁度其の時、二箇月に亙る中国の視察旅行から帰った所でありました。
〔宮本モニター 中国を中支と訂正致します〕
 彼は私に斯り云ふことを告げました。漢口及び揚子江流域の他の町に於て、非常に使用が殖えて居ったと云ふことに付て嘆いて居ると言はれました。私は何か此の状態が良くなる望みはあるかと彼に尋ねました所、悲しく頭を振って、いや、同地方の将軍連は、私に此の戦争が続く限りは斯り云ふ状態は良くならないだらうと言ひました。と云ふのは維新政府の財源は是れ以外にないからだと告げて居ったと私に伝へました。私が日本官憲に対してなした報告書、是は後に発行致しましたが、此の報告書で私は次の如きよとを言ひました。此の阿片からの三百万『ドル』と云ふ収入は、日本及び中国の両方の官吏が一致して言って居りますが、是は維新政府の主なる財源であって、現在の状態では同地方で政府を建てるならばどうしても必要であると言ひました。当時の阿片の小売価格は一『オンス』二十二『ドル』でありました。其の内八『ドル』は大連からの基本供給に対する代金、二『ドル』は他の日本商社に対する運賃代金、三『ドル』は所謂税金、そして残りの九『ドル』が利益となるのであります。此の利益は特務機間及び憲兵隊員が分け合ったものであります。当時の憲兵隊は之に対して文句を言ひやって、私の此の言明を撤回するやうに言って来ました。又私が何処から斯う云ふ情報を得たか、其の人の名前を示して呉れと云ふ要求もありました。私が何か事実に相違があって、其の相違が証明されたならば喜んで訂正は致しますが、それ以外には訂正は出来ませぬと答へました所、彼等はそこで問題を打切りました。数十年の間、中国に於ける宣教師は阿片に対して教育的又時には政治的運動に従事したのであります。
〔宮本モニター 一寸附加へます。必要の場合には阿片に対する政治的運動に従事したのであります〕
 支那事変以前の十年と云ふものは、期う云ふ努力の必要が非常に減じたのでありますが、一九四〇年以後状態が非常に悪化しましたので、中国国民『キリスト』教会議の発行する中国『キリスト』教年鑑が、私に中国全体に於ける麻薬に付ての問題に関して報告書を作成することを願ったのであります。
〔宮本モニター 一寸附加へます。編輯者が私に斯かることを求めて来ました〕
 私は中国各地に居住せる約四十人の友人に、私が南京で編輯した所の報告書の写を送り、それと共に質問書を附け添へたのであります。そして之に依って彼等が共の各々の分野に於て調査を行ふことを希望したのであります。
〔宮本モニター 此の質問書は南京に於て準備されたのであります〕
 検閲其の他色々な心配事にも拘らず、此の四十名の中半分以上は、相当注意して返事を送って下すったのであります。例へぱ北京の燕京大学の社会学の教授『セーラー(Sailor)』教授は、一九四〇年の春北京に於て阿片の鑑札ある阿片販売店が百以上、『ヘロイン』使用者は阿片使用者より更に多いことを報告しました。
〔宮本モニター 百を六百の阿片販売店に訂正致します〕
 漢口の『ギルマン(Gilman)』司教は、鑑札ある阿片窟が三百四十もあり、阿片を売る鑑札を持って居る『ホテル』が百二十戸もあることを告げました。是は総人口四十万人口過ぎない町に付てのことであります。

〜 略 〜
●ベーツ証人 (略) 『ギルマン』司教は非常に強く戦前の状態と、一九四〇年の状態を比較し、非常にこれを欺いたのであります。即ち戦前は麻薬の販売が非常に制限されて居り、弾圧されて居ったのでありますが、一九四〇年には公然と売られ、又公然と公告されて居ったのであります。他の省の人並り他の地方の町に付て同様の統計がありますが、今殊更是は読み上げませぬ。唯広東に付て申上げますば、広東市はたった五十万の人口でありましたが、其の中に八百五十二登録された阿片窟があり、登録されてないものが三百もありました。是は広東病院の『トンプソン(Thompson)』博士の調査した所に依りますと、占領地域を通じての政府の店、或は鑑札を持って居る店で阿片が公然と売られ、『ヘロイン』はドシドシと売られて居ったのであります。場合に依っては阿片に付て非常に魅力を感ぜしめるやうな広告を掲げ、場合に依っては日本の兵士は淫売窟に其の賃金として阿片を払ひ、或は日本軍の兵站地で働いて居った労働者に対する賃金として阿片を払ったのであります。販売者及び官吏の一般的な証言に依りますと、此の阿片の大部分は大連から来て居ったのであります。但し『イラン』から来たのもあったさうです。
〔宮本モニター 大部分でなくて、総ては大連から来て居ったのであります〕
『ヘロイン』供給者は、彼等の供給は天津から主に、そして之に次いでは大連から来たのであると申しました。占領地域内を通じて此の阿片の販売を弾圧しようとする努力は全然見られなかったのであります。唯正式でない取引を正式化して、斯くの如くして政府の収入を殖やす努力だけはされて居りました。一九四〇年度の一般報告は、一九三八年から一九三九年度の中国『キリスト』教年鑑に載って居ります。そして是は上海で発行されてゐる『チャイニーズ・レコーダー』と云ふ月刊(誌)にも転載されました。

※ なお、ベイツ教授は、その宣誓口供書で、日中戦争がはじまってから公認された南京その他、日本軍占領地における麻薬使用の状況と、それに対する課税が傀儡政権の主たる財源となり、また日本の特務機関と憲兵隊が中間にあって利益の分け前にあずかっていた事情について、広域調査にもとづき、つぎのような具体的数字を示している。これについて、ベイツ教授は、『次に掲げる材料は、日本国官憲に提示し、日本国支配下にあった地域で世に問ふために上海で発行した一九三八年・一九三九年及一九四〇年の報告から移したものである』と前書きしている。

『一九三八年に南京公署組織観樫は二〇〇の小倉庫・吸引窟を定めた。前者は毎一四半期に二弗八四〇割で、後者は夫々『ランプ』の数に於て三個の場合は五〇弗、六個の場合は一〇〇弗、九個の場合は一五〇弗を課税せられた。家庭に於ける一個の『ランプ』は月三弗の最低の税金で登録せられることになって居た。一『オンス』の十分の一の阿片の日々の使用許可証が薬其物の価の外に二弗二〇の手数料で発行せられた。『ホテル』や淫売屋に対しては特別の許可を与へることが出来た。次三又、婚礼や葬式や社界的行事等には、七日間の非公式許可が与へられることが出来た。
 一九三八年十一月には日々の阿片の売捌きは六、〇〇〇オンスに制限されて居るものと(一般には)知られて居たが、周囲の田舎の買手からの注文のために是以上のものが放出せられた。卸値一一弗で六、〇〇〇『オンス』だと一ヶ月二、〇〇〇、〇〇〇弗に相当する。少量の供給は大連から来た。『ヘロイン』の運搬は秘密裡に進歩した。それは日本軍の特務機関の保護の下によく組織立ってヰた。この組織の中で長年営業を続けてヰる或る代理機関は、特務機関は南京地方の毎月の売上は三、〇〇〇、〇〇〇弗を超えてヰると報じて居るが之は標準を示すものである。警察の報告は遥かにこれより多いが、私は南京市に於ける『ヘロイン』の使用者は五〇、〇〇〇人で、其の人口の八分の一と内輪に見積って居た。
 一九三九年には南京市は三〇の公倉庫と一七五の許可せられた吸引窟を有して居た。十四の『ホテル』が許可せられて居たと言はれ、官憲達が、自分達の勢力下に置かうと暗に働きかけてヰた非常に大きな番外の合法的な商ひが其外に有った。三〇の倉庫を通じて日々行はれる売上は平均三、〇〇〇オンス、小売で六六、〇〇〇弗であった。三、〇〇〇オンスは少くも六〇、〇〇〇人の沈溺者あることを示し、事実は遥に之の数字を超えてヰゐると信ぜられてヰた。
 改組せられた政府の行政院(当時の東中央支部の傀儡政府)は毎月一、〇〇〇、〇〇〇『オンス』の阿片に対しー『オンス』に付三弗の割の税金を得て居た。官憲は消費者に配給せられて居た阿片の実際の量はこれよりずっと多いと苦情を言って居た。政府の払下組織は改組政府によって其の行政区域全般に亙っ拡げられて居り、南京より遥かに小さい一都市で三〇〇を超ゆる許可せられた店があると報ぜられてヰた。一九三九年の報告の中で私で言った様に、『阿片から得る三、〇〇〇、〇〇〇弗の収入は改組政府の主なる財源である。而して又日本と支部の官憲は、現在の統治と実情の下り於けるこの地域の如何なる政府を経営するのにも(之は)必要欠くべからざるものである。』其の年の七月に、日本の外務省の阿片専門家である芳賀氏は丁度、支那への視察旅行から戻って、東京の役所で、将軍達は戦争が終るまでは少しの改善の望めない、と云ふ訳は『臨時政府にとっては他に適当な収入の財源が発見せられないら。』と話った、と私に語りました。改組政府の一官吏は、卸売価格の一九弗は、大連からの阿片に関し八弗、運搬に対し日本人の他の利益のために二弗、所謂『課税』として三弗から九弗までの利鞘を包含してヰるのであって、この『課税』から憲兵隊や特務機関は分け前に与るのである、と私に言明致しました。『ヘロイン』の売捌は約二、四〇〇名の(人員)と日本人により供給され、保護され、半ば秘密組織により引継ぎ行はれて居りました。
 一九四〇年に、中央支部に於ける臨時政府の後継者である汪兆銘の傀儡政府の中央金庫は、揚子江下流平野地域だけで分配される阿片の所謂『課税』から毎月五、六百万弗を得てヰた。北京には六〇〇の阿片商社があった。『ヘロイン』は、漢口でもさうだったやうに、阿片よりも一層一般に用ヰられて居ると云ふことであった。漢口には阿片を公に使用する三四〇の阿片窟と一二〇の『ホテル』がありました。此の阿片は五〇〇、〇〇〇の人口に対し日々四、〇〇〇オンスの割で供給されて居りました。許可を受なてヰる吸引者は五、〇〇〇名で、許可を受けてヰない吸引者は五〇、〇〇〇名と謂はれて居りました。戦前の厳重に抑圧せられて居った時の状況と対照してみると悲しむぺき(ものが)ある。
 山西及山東の占領地域の小都市では、売捌きも沈溺使用も、而して又、公署の奨励と保護による罌粟の地方的栽培も激増した。開封には一七〇の阿片倉庫があり、二五〇、〇〇〇の人口中四〇、〇〇〇の明かな吸引者が居ったのに対し二〇〇以上の吸引窟がございました。(登録してある吸引者は只七〇〇名だけでありました。)一九四〇年の私の調査に依りますと、開封では朝鮮人が『外国の商社』と区別せられて約二〇〇の店舗で、政府の許可を受けて『ヘロイン』の商社を経営して居りました。又、阿片は北河南から河北にかけて沢山に出来ました。人口一五〇、〇〇〇も有るかないかと云ふ都市蕪湖には、三〇の公認阿片商社、六〇〇近い公認・非公認吸引窟と、而して約一〇〇の『ヘロイン』を売る場所がありました。

『日中戦争史資料8』 P59〜65